都市5 ―感情―
暗い廊下を進みだしたところで、行く手から、三人の男が飛び出してきた。
ハルが迷わず拳銃を取り上げ、続けざまに数発撃つ。男たちは床に転がった。
呆然とした目で、ユウキはそれを見ていた。
「ハル……あの人たち……」
「ロボットだ」
短く、こともなげに答える。
「ロボット……?」
だって、容姿はおれたちと変わらないじゃないか。
そう聞きたいのが伝わったらしい。
「きみたちには、ロボットと人間の見分けもつかないのか……」
呆れたようにハルが言う。
何が違うのだろう。過ぎ去り際に、床に転がる男たちをこわごわと見た。たしかに血は出ていない。
「オートマン22。完成した当初は『中途半端に人間に似すぎてて気味が悪い』って、どっちかっていうと不評だったけどな。業務用はだいぶ一般的になってたけど、家事用なんかどんな奴が買うんだろうって言ってたんだ」
足を進めながら、半分独り言のような口ぶりでハルが言う。
「けど、その後で普及したのかな。それともシェルターのメンテナンス用に大量生産されたのかもしれないな。この都市は、ずっとあいつらが守っていたんだ」
ハルの言葉の意味を考えるが、うまく思考がまとまらない。
少し進んで、階段を下りる。居住棟の一フロア分くらいの長さしかなかったが、下り立ったフロアの通路に出て、ユウキは目を疑った。思わず鼻と口もとを手で覆う。
(なんだ、ここ……)
廃墟。そんな言葉が浮かぶ。さっきまでいたフロアと同じような通路。似たような造りに見えるが、何年も誰も立ち入っていないかのように荒れ、埃っぽく、なんだか嫌な臭いがした。
壁には無数の亀裂やくすみ、塗装の剥がれ。ドアが等間隔に並んではいるものの、蝶番が外れかけ辛うじて壁に留まっているもの、ガラスの割れているもの、室内に、完全に倒れてしまっているものさえある。
そして、廊下に無数に散らばる瓦礫。なんの破片とも判断の付かないそれらは、傍らに避けられ通路が確保されてはいるが、昨日や今日にこうなったものではないことは積もった埃から察せられた。
行く手で明かりが明滅している。
都市の中にこんな廃れた場所があるとは、思ってもみなかった。整備され、清潔で隙のない空間しかこれまで見たことがない。都市には、ユウキのいる地区はもちろん、全体にすき間もなく人がたくさん住んでいるのではなかったのか。
事務センターに呼び出されて以来、見るもの、聞くことのすべてがこれまでユウキがぼんやりと把握していた世界とはかけ離れていて、ユウキは完全に混乱していた。
(こんなとこ見ちまったら、たしかに普通に学校には戻れないよな)
今のいままで、自分がこの後どうなるのかなどということに確たる考えが及ばずにいたが、少なくとも以前の暮らしに戻ることは絶対にできないのだと、はっきり実感する。
どこへ行くんだろう。
唐突に、不安に襲われた。隣で肩を支えてくれているハルに、特段の不信感があるわけではない。トキタと会話をしていた様子からも、害意などは感じない。
ただ、他人について、連れられて、どこかへ導かれるままに進むしかない自分に、無性にもどかしさを覚え始めていた。
これから自分はどうなるのか。明日は、明後日は。一年後は。十年後は。大人になったら――。そんなことを真剣に考えたことなどなかったし、必要もなかったのだ。それがどれだけ不自然で不安定なことであったかを思い知り、愕然とする。自分の進む道について一切考えてこなかったということが、何か重大な過失であり恥ずべき汚点であるように思われた。
歩きながら、ハルの首に回されていた手を引く。
「ごめん、自分で歩けるよ」
ちらりとこちらを見たハルに、視線を合わせることもできずに、ただ、そう言っていた。
少し進んだところで、ふと、壁際に寄ってハルが足を止める。
「マリア」
小声で呼びかけて、ハルが壁に立てかけられただけの状態に見える扉をどけると、中に女の子が隠れていた。
出てきた少女がハルに飛びつく。
飛びつかれたハルは、少女を受け止め、銃を持った右手で頭を撫でた。
「ごめんな、マリア」
……マリア?
またどこかで聞いた名前が出てきたぞ。
そう思ったとき、前方から何人かの足音が聞こえた。
「まずいな……出口を封鎖するのか?」
眉を顰めてつぶやくと、「おいで、こっちだ!」小さく言って、ハルが駆け出した。
事務センターの受付のような、窓の空いた部屋。窓の下のカウンターの陰に二人を押し込むと、ハルは室内を軽く見渡して奥のほうに固められた瓦礫に寄った。
そうしているうちに、反対側でも数人が階段を上り下りするような足音がフロアに響く。
ハルは瓦礫の山を漁って、ユウキの腕の長さほどもある鉄の棒を取り出しユウキに渡す。
そうして自分もカウンターの陰にしゃがんで、拳銃に弾を込めながら、
「出口のほうのヤツらをやっつけてくる。万一ここに気づかれても、相手はロボットだからな。遠慮なく叩きのめしていいよ」
「……は?」
「顔面を殴るんだ。できたら目の辺りを狙って。思いっきり。それでヤツらはとりあえず動けなくなる」
ユウキは手に持たされた棒とハルの顔を見比べた。言われたことの意味を、遅れて悟る。
「む、無理だよ! こんなのやったこともない!」
「それじゃ、きみが銃にするか? 言っとくけど、初めてじゃ当てるのは難しいと思うよ。威嚇なんか効かないし、かすったくらいじゃヤツらは動きを止めない」
「そんな……」
弾を込めたばかりの拳銃を差し出され、言葉を失うユウキに、ハルはまた呆れたようにため息をついた。
「あのな。俺だって眠る前は、平和に暮らしている普通の高校生だったんだよ? 拳銃なんてほとんどフィクションの世界のものだって思ってたし、まさかロボットと戦うことになるなんて考えもしなかった。戦い慣れてるわけじゃないんだ。動けるなら少しは協力してくれ」
先ほどまで向かっていた方向で鳴っていた足音がわずかに大きくなってきた。ハルがさっとそちらを振り返る。
「ほら、もう来た。大丈夫だよ。ここにいるヤツらは武器を持っているわけじゃないし、そんなに性能のいいロボットでもない。なんの命令もなしに突然ヒトに攻撃してくるようなこともない。ハシバのところに連れ戻されたくなかったら、全力でやっつけるんだ。捕まったら腕力じゃ勝てないからな」
言いながら出口へ向かい、出口のところで一度ユウキの背後に呆然と立っているマリアに視線を送った。
「マリア、動かずにじっとしてろよ。すぐ戻るから」
それだけ言って出て行った直後、遠くはない場所で拳銃の音が聞こえた。隣でマリアがびくりと肩を震わす。目をやると、蒼白な顔をして彼女もユウキに目を向けた。脅えた表情の少女と視線を合わせてしまっては、出来ないなどと口にすることもできず。仕方なくユウキは、鉄の棒を握り締める手に力を入れる。
カウンターの窓から恐る恐るわずかに身を乗り出すと、ハルがこちらに背を向けているのが見えた。さらにその先、明かりの明滅しているあたりには、既に二、三体のロボット――らしきものが倒れている。また前方から足音。
思わず身を引っ込めたユウキだったが、反対側からもさらに足音が聞こえ、再度カウンターからうかがう。一体のロボットが、こちらに近づいてくる。
ユウキは咄嗟にカウンターを離れ、室内を見回す。壁に寄せてあったテーブルのような台を押すと、重いが動かせないほどではない。入り口まで床を引き摺って押しやり、音を立てないよう入り口のドアを開け放つと、テーブルの陰に隠れ息を殺して足音が近づいてくるのを待った。
遠くに聞こえていた足音は、複数のものだと思ったが、近づいてくる音はひとつだけ。耳を澄まし、目を閉じて足音に集中する。早足に、こちらに近づいてくる。
もう少し。
足音が、ドアのすぐ手前あたりまで近づいたとき。
ユウキは全体重をかけて、テーブルを通路へと勢いよく押しやった。体が悲鳴を上げたが、硬いもの同士がぶつかった音とテーブルから伝わる振動で作戦成功を知ると、痛みには構っている暇もなくテーブルの上へと身を乗り出す。
見える範囲にロボットは一体だけ。突然飛び出してきたテーブルに体勢を崩し、よろけながら後方にさがる。ハルは前方からやってくるロボットに銃を向けながら、こちらに顔だけ向ける。それだけ素早く確認し、テーブルに飛び乗ると、無我夢中で腕を思い切り振り下ろしてロボットに鉄の棒を叩き付けた。
頭の中がパニック状態で、どこをどう殴ったのかよく分からない。ただ棒を握っている手が、痺れるような感覚。
人間だって殴ったことなどないが、たしかに人間のものとは思えない硬さだ。それでも、ヒトの形をしたものを、いや、ついさっきまでヒトだと思っていたものを思い切り殴りつけた――人間なら、殺しているかもしれない――ことに、心臓が高鳴り、気づけば肩で息をしていた。
ロボットは床に尻もちをついた格好になっていた。どうにか棒を取り落とすことなく再度の攻撃の体勢に構え、息を呑んで見つめる。
チリチリとかすかな音を立てて、ロボットが立ち上がる。倒したと思っていたロボットのあっけない復活に、ユウキは愕然と立ち尽くしていた。
「顔だ! ユウキ、顔を狙え!」
背後でハルが叫んだ直後、また銃声が響く。
「そこに認識機能が集中しているんだ」
振り返る余裕もなく、立ち上がって再びこちらへと体を向けたロボットの顔面へと、先ほどよりも少しばかり冷静に、横からスイングして鉄棒を叩き込んだ。
吹っ飛び壁に叩きつけられるロボット。鼻の上が完全にへこんで、表皮が破れ中の機械のようなものが覗いている。壁に体を持たせる格好で、ロボットはしばらく宙を手で探るように動かしていたが、こちらに視線を向けるような気配はない。
背後でまた銃の音。続いて足音がし、ハルが戻ってきてユウキの倒したロボットにとどめを刺す。
「へえ。やるじゃないか」
薄く笑って、また新たにやってきたロボットに銃を向け、少しばかり引きつけて撃つ。
足音が止み静かになると、ハルは部屋に入ってしゃがみ込んでいたマリアを助け起こし、「行こう」と小さく声を掛けた。
ユウキは、すぐに動き出すことができずにいた。
マリアを連れ通路を進みかけたハルが、振り返る。
「どうした?」
「あの……どこへ? 出るのか? ここを」
ハルは不思議そうに眉を寄せる。
「当たり前だろ? この都市の中にいれば、どこにいたって見つかってハシバのところへ連れ戻されるよ」
「じいさんは?」
「出口で待ち合わせてる。だけど封鎖されたら全員出られなくなるからな。間に合わなければ先に出る。三日以内にはまた来るんだ。その時には会えるよ」
安心などできなかったが、気持ちを収め、ユウキはもうひとつの引っ掛かりを認識する。
「クラスメイトが、ここにいるんだ」
ぽつりと言った言葉に、ハルが不審げに首を傾げた。
「コールドスリープの覚醒者っつってさ、ハシバ、都市の生徒を洗脳して、二〇六五年の記憶を植えつけて。性格とか記憶とか、名前も、ニセモノのやつに入れ替えてさ――」
ハルの背後に庇われるように立っていたマリアが、こちらに向けて目を見開いた。ハルが気遣うように、わずかにマリアを振り返る。そんな様子を目に入れながら、ユウキは言葉を紡ぐのに必死になっていた。
「今――」やってきた方向を指差す。「その洗脳を受けてるヤツらがいるんだよ、あっちの部屋に。やめさせないと」
「時間がないんだ」ハルが苛立たしげに、かすかに声を荒げた。「早くしないと、またロボットが来て出口も固められる。彼らのことはまた戻ってきて助け出す。そういう『計画』なんだ。だけど、おれたちがここから出られなくなったら、計画は実行できなくなる」
「すぐって? 三日以内、なんだろ?」
「そうだよ」
「駄目だよ、早くやめさせないと、どんどん洗脳が進んじまうだろ! そうなったら、どうなるか分からないって、ハシバが」
「ハル、私もそこへ行きたい」
思いがけない援軍は、マリアだった。
呆然としていたような様子は消え、真摯な瞳をハルに向ける。
「確かめたいの」
マリアの言葉に、ハルは一瞬困ったような苦い表情を作ったが、すぐに大きなため息をついた。
「分かったよ」
通路を塞いでいたテーブルをずらし、マリアの腕を引いて来た道を戻り出す。ユウキは慌ててその後を追う。
「ただし、どうにもできないって分かったら、すぐに行くぞ。いろいろ考えている余裕はないからな」
ガラス張りの部屋の前へと戻ってきた。スタンバイ状態になっている液晶パネルに触れ、画面を表示させる。
同時に頭上のモニターにも明かりが点り、彼女の見ている「夢」を映し出した。
斜め後ろで、マリアがハッと息を呑んだのが分かった。
「お兄ちゃん……」
小さくつぶやいたマリアの言葉に反応しかけたユウキの横で、ハルがパネルに触れて次々と画面を変える。
「きみ、使い方を知ってるのか?」
ユウキはハルへと目を戻す。
「まさか。さっき初めて見たんだ」
「それでどうやって止めるつもりだよ」
「だって……とにかく、プログラムを停止させればいいんじゃないの?」
ハルはいくつかの操作をした後で、手を止めて腕を組んだ。
「強制終了なんかして大丈夫なのか? 催眠状態、なんだろ? 意識に変な影響はないのかな」
「え……」
止めなくては。それしか考えていなかった。そんなユウキに、ハルはまた腕組みのままため息をつく。
反論の言葉を探したユウキだったが、それを見つける前に、マリアが動いた。
扉を開け、室内に入る。
「マリア」
慌てて追ったハルに続いて、ユウキも室内に入った。
マリアはエリのシートの横に立ち、幸せな夢を見ているようなエリをじっと見下ろす。そして。
「私、知ってる」
「え?」
「機械の操作。『夢』……そう、『夢』からの覚め方」
言うが早いか、シートの肘掛に据えつけられた小さな操作パネルに手を伸ばした。
「なんでだろ。教えてもらった記憶はないのに。知ってるの。体が覚えているのかな」どこか浮ついた口調でつぶやきながら、液晶パネルのボタンを押して画面を変えていくマリア。「先にこっちを思い出していたら、『ニセモノ』なんだってことに気づいたかもしれないのにね」
かすかに沈痛そうな表情を浮かべ、黙ってしばらくその動きに目を向けていたハルが、唐突にユウキを振り返った。
「見てたか? 解除の仕方。覚えた?」
「え?」
「しょうがないな。こっちへ」
肩を押して隣のシートへとユウキを連れて行くと、
「ちゃんと見てろよ。手分けして解除する」
そう言って、マリアがやっていたように操作手順を見せる。
ユウキは見慣れない文字に戸惑い、操作の手つきはどうにも捗らなかったが、マリアとハルが次々と生徒たちのプログラムを解除していく。最後の一人を終えると、室内は静かになった。生徒たちの寝息だけが、かすかに聞こえる。
「たぶん、自然に目が覚めると思う」
マリアがそう言い、ユウキはホッと息をつき、ハルが、
「のんびりしてないで、行くよ」
そう言った、その時だった。
轟くような音がし、室内が揺れた。
飛び上がりそうになった。
マリアも体を震わせる。
その後すぐに訪れる、時が止まったかのような完全な静寂。
ぱらぱらと、埃が部屋に舞った。
ハルが引き締めた表情で、愕然と、何事か呟く。
ユウキは壁に手をついていた。
重苦しい不安がのどの奥にせり上がってきて、吐きそうになるのをこらえながら。
ハルが横でユウキに呼びかけている。
何も聞こえない。耳がおかしくなっているんだ。
聴覚器官のすべてに、何かものを詰め込まれでもしたかのような圧迫感。耳鳴りにも似た、静寂。
マリアを支え入り口のほうへと歩き出したハルに続いて、部屋を出る。
廊下も埃でいっぱいだった。
何が起こったのだ――
まさか、まさか、まさか――
なんの根拠もない、漠然とした嫌な予感に急かされて、背中を押されるように部屋を後にし歩き出していた。
煙が立ち込めていた。
広い室内に足を踏み入れて、むせ返りそうになる。
先を歩いていたハルは、部屋の入り口でマリアを止めた。
無言でユウキを促す。
ここは初めにハシバと会った場所ではないだろうか。広さから推して、ユウキは冷静にそう考える。もともと冷たい様子だった無機質なコンクリートの部屋は、今は見る影もなく、今新たに瓦礫になったもので、床を覆われていた。その瓦礫をざくりと足で踏みしだき、中央まで進み出る。後ろで銃声がした。いつの間にか、聴覚が戻っていることに気づいた。
がさり、と、足元で何かが動いたような気がして、思わず飛びのく。
「……じいさん」
呼んでみた。
返事はなかった。
当たり前だ。じいさんがこんな場所にいるわけない。どこか別の場所で、「はて今の音はなんだろうな……」なんてのんきな顔してるよ。だって、もしここにいたら――。まさか。
何でこんな場所に来ちゃったんだろうな。ユウキは苦笑する。
ハル、じいさんとの待ち合わせ場所に、早く行こうよ。振り返ってそう言おうとしたところに、
がさり
また足元の、大きなコンクリートのかたまりが動いた。
ユウキはそこにしゃがみ込み、夢中で瓦礫を掘り起こし始めていた。
破片か何かで手を切った。血が噴出す。
ハルが手伝う。
やがて。
ハルが力いっぱいに、コンクリートのかたまりを動かすと。
じいさんが、不自然な格好で胸から上を現した。
「トキタさん!」
ハルが呼びかけながら、血に染まった体を瓦礫から引き上げようとする。
動かない。
老人は、ゆっくり首を振って、ハルの手の上に自分の手を重ねた。
「ここを出なさい。……崩れるかも、しれない」
かろうじて聞き取れる声で、トキタは訴えた。
「じいさん、一緒に行こうよ」
そう言うと、かたく閉じられていた目が力なく薄っすらと開いた。
「ユウキ。すまない」
「なんだよじいさん」
不覚にも、声に涙が混ざってしまった。
それじゃあお別れみたいじゃないか。
「謝るなよ。もう、謝ったりすんなよ」
何を申し訳なく思っているのか、どうせ理解できないんだ。
もっと別のことを言ってくれよ。
しかしトキタは、すまない、と、口の動きだけでもう一度繰り返した。
「トキタさん……なんで、あんたは……そうやって」
ハルは苦しそうな声で。
「あんた、ほんと……ずるいよ」
「ハル……すまなかったね。きみがいてくれて、よかった。きみには……感謝も謝罪もしきれないが……ありがとうな」
「トキタさん……」
「ユウキを頼むよ」
「……分かった」
ハルはトキタの肩を抱いたまま、しっかりと言った。
「ユウキ、会えてよかったよ。元気で――」
言いながら、ユウキに向かって手を伸べる。
その手を取ると、トキタは笑ったようだった。
「……呼んでやれよ」
ハルが苦しげに言う。声が震えている。
「父さんって、呼んでやれよ!」
それは叫びに近かった。
……父さん、だって……?
「分かっただろ? おまえの父親だよ」
呆然と、老人の顔を見る。
父さんだって?
この人が……
「父さん……?」
そう言うと、老人の目が驚いたように一瞬大きく見開かれ。
彼はまた、少しだけ笑ったようだった。
かくんと、老人の手から力が抜ける。
「……父さん?」
呼びかけても、目は開かない。体を揺すってみても。かつてトキタだったものは、動かない。
これが死というものなのだろうか。
どこか現実感がない。
生きているものと死んでいるものの違いを、ユウキは知っている。
しかし、生から死への連続は、どうしても理解の範疇を超えていた。
これが、死というものなのだろうか。
もう動かない。笑わない。ユウキ、と呼んでくれない。大きな手で、肩を抱きしめてくれない。それが死ぬということなのか? 生から死への変化というのは、こんなにあっさりと訪れるものなのか?
実感がわかない。理解できない。
ゆるゆると、首を振る。分からない。
混乱で、頭が壊れそうだ。自分がどうにかなりそうだ。誰か助けてくれ。
「泣けよ!」
ユウキを崩壊から救ったのは。ハルの悲痛な、叫びに近い怒鳴り声だった。
「悲しめよ! 怒れよ! 父親が死んだんだぞ。分かっているのか!」
声は震えていた。
「もっと悲しめよ! 涙を流せよ! どうしてこんなことになったんだって、怒れよ!」
ハルはユウキの顔を見ずに――顔を上げずに、力をこめて弾劾する。
「どうしておまえたち都市の人間は、いつもそう無感情なんだよ。よく分からないふりをしてやり過ごそうとするんだよ! 感じないわけじゃないだろう? 悲しみも怒りも。感情があるだろう? なんで……気づかないふりをするんだよ!」
初めて目の前に見る、激しい怒りだった。
今まで触れたことのない、感情の発露だった。
それは、それまでユウキが無視してきたものだった。
嬉しかったことも、温かい気持ちになったことも、不快感を感じたときも。
(ああ、おれは……)
かつて感じたことのない、絶望的な後悔に襲われていた。
(もっとできることがあったはずだ)
トキタとの十五日間で感じたもののすべて。自分のものではないはずだと、黙殺してしまった感情。
トキタの笑顔は、いつも、はっきりと自分に向けられていたのに。
喜びが、温もりが、笑顔が、愛情が、独占欲が、不信感が、焦燥が。
意識の上層に浮かび上がってくる前に、殺してしまったすべての感情が。
奔流となって押し寄せてきた。
背中で支えきれなくなり、ユウキは動かないトキタの胸に顔をうずめていた。嗚咽がこみ上げてきて、理解や判断や現実感は意識のどこか片隅に追いやられた。
泣くこと以外に今できることはなかった。
考えることも。
時間が経つのも分からなくなっていた。
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