砂漠1 ―バニラ―

 甘い香りが立ち込めている。

 チョコレートよりもやわらかい。フルーツよりも重くてしっとりしている。けれども大声で何かを主張しているような、強い甘さだ。

 建物に入ったときからほんのりと漂っていたが、暗い廊下を進むにつれてだんだんにおいが濃くなってきて、この香りの元が目的地なのだろうとマリアは察した。


「なんの香りなの?」 前を歩くルウに聞くと。


「まあ見てみなって」

 戸の取り付けられていない戸口の前で立ち止まり、ここだ、と目で合図をする。

 ルウに続いて入って行くと、テーブルを囲んで座って手を動かしていた四人の女性が、いっせいに視線を向けた。


「あら、ルウ。おはよう」

 中のひとりが口を開く。リサと同年代か、少し上くらいだろう。やはり恰幅のよい体格で、土色のワンピースに白いエプロンをかけている。


「おはようルウ。それから、そちらはこの間言っていたお客さん?」

 背の高い細身の女性が、手に持っていた大皿をテーブルの上に置きながらマリアを見た。


「そうだよ。マリア。村の中を案内してるんだ。マリア、アンとモトとニーナとミラ」

 ルウはにこやかに女性たちを指差しながら、一気に言う。

 申し訳ないと思うが、名前は右から左に抜けてしまった。


――村を案内するからついて来い。


 まだ空に朝焼けが残っている時間にルウに叩き起こされてから、聞いた名前はすでに両手でも足りない数になっている。


「マリア、おはよう」

 奥の、ガラスの入っていない窓際の椅子に座った女性が、低めのゆったりとした声で言う。老人と言ってもいい歳だろう。銀色の豊かな髪と、顔に刻まれた深いしわが、声とあいまって優しい雰囲気を漂わせていた。


「おはようございます」


 四人に注目されて、気恥ずかしさを感じながら答える。たった一言発しただけなのに、四人の顔は一斉に、嬉し気に綻んだ。

 四人の中で一番若く見える、手前の椅子に座っている女性が、背もたれに手をかけてこちらに体を向け、

「村にはもう慣れた?」そう聞いた。


「慣れたよ」

 先に答えたのはルウだった。あんたに聞いてるんじゃないよ。そう言いながら笑う女性の腹に、マリアの目は釘付けになっていた。


「ミラはもうすぐ子供が生まれるんだ」

 またもやルウが説明する。


「あとちょっとだよ。次の雨季が来る前にはね」

 そう言って、ミラは膨らんだ腹をいとおしげに撫でた。

 快活な話し方。からりとした笑い声。この人が、子供を生む。

 妊娠している女性を見るのは初めてだった。人の体の中に、別の命が入っているのを目の前に見るのは。


「どうした? お腹の膨らんだ女が珍しいのかい?」

 ミラの横に立つ大柄な女性に聞かれて、マリアは無遠慮にじろじろ見ていたことに気づいた。


「ごめんなさい。私、初めてで」

 慌てて言うと、ミラが可笑しそうに笑った。


「そりゃすごいね。あたしなんか自分だけでもう三回目だよ」

「甘いね、そんなんで感心しちゃだめだよマリア。モトなんか、六人も生んだんだから」

「多けりゃあいいってもんじゃあないよお」


 年長者の言葉に、ルウを含む五人が笑い声を立てた。

 つられてマリアも頬を緩める。


「おいで。触ってみなよ」

 呼ばれて一瞬戸惑ったマリアの背をルウが押す。

 マリアはミラに近づき、冷たい床に膝をついて、恐る恐る彼女の腹部に手を触れた。

 薄い服を通して、人の肌の温もりが伝わる。この中に、まだ光を浴びたことのない新しい命が入っている。息をつめたら鼓動が聞こえるかもしれないと思ったが、母親の呼吸に合わせてかすかに動いただけだった。

 ここに、自分やルウや、この女性たちと同じ命が眠っているとは、信じられない。


「この中に、子供がいるの?」

 不思議そうに見上げるマリアに、ミラは優しく微笑んだ。


「そうだよ。それからあんたもあたしも、ここにいたんだ」


 マリアはそっと手を離した。

 自分がお腹の中にいたときも、母親はこんな風に温かく目を細めてお腹を撫でたのだろうか。

 暗い胎内で、自分は母親の手の温もりを感じただろうか。


「ずいぶんたくさんできたんだねぇ」

 いつの間にか隣に立って、ルウが言った。目はテーブルの上に向けられている。

 立ち上がって見ると、テーブルの上に並べられた皿の上に、小さな黒い粒の小山ができていた。皿と皿の間に、黒くて細長いものが山のように盛られている。女たちはその細長いものをひとつひとつ取り上げて、丁寧に検分し、細かい作業を繰り返していた。


 ルウがひとつ摘み上げて、マリアの鼻の前にかざした。

 甘い香りが臭覚を突き破って喉にまでに刺さり、むせそうになって思わず顔をそらす。

 さっきから建物内に立ち込めていたのは、この香りだ。

「なに、これ」

 かすかに眉をしかめながら、ルウに尋ねる。

 遠くから香ってきたときは甘くいいにおいだと思ったが、この距離で嗅ぐと強烈だ。

 ルウはそれをマリアの前から引っ込め、頭の横でひらひらさせながら得意そうに言った。


「バニラの実だよ」

「バニラ?」


 マリアがきょとんとしていると、ルウはますます満足そうな顔になる。知らないだろう、当然だ、という顔だ。


「うちの村の、自慢だよ」

 ルウはバニラの実をテーブルに放り、両手を腰に当てた。「乱暴に扱うんじゃないよ」と苦情を言う女性たちをよそに、マリアに向かって威張る。


「この辺りのほかの村じゃ作ってないんだ。草を育てるのは難しくはないけど、加工するにはすごく手が掛かるんだよ」

「バニラって、あの、お菓子の味の?」


 そう聞き返すと、ルウは目を丸くした。

「なんだ、知ってるのか」


 がっかりしたように言う。よほど貴重で珍しい、自慢の特産物らしい。


「アイスクリームとかの?」

「なんだ、それは。アイス……?」


 逆に、不可解な文言でも聞いたかのように問い返された。この世界にはないものなのだろうか。


 しかし……バニラというのはこんな香りだっただろうか。

 そうでなければどんな香りだっただろう。思い出せない。

 考え込んだ様子のマリアに、ルウは怪訝な顔をする。


「マリア? そんなに嫌なにおいだった?」

「ううん、そうじゃなくて。えっと、私の知っているバニラとはちょっと違うみたい。こんな香りは初めてだわ」


 すると、ルウの顔がぱっと輝く。

「やっぱり。そうだと思った。今日はこれを料理に使って、マリアに食べさせてやる」


 先ほどの強烈な刺激臭を思い出して、不安を隠せない。

「食べるの? これを?」


「言ったな? よし、アン、今夜の宴には、これでとびきりのヤツを作ってやって」

 名前を呼ばれた細身の女が、仕方なさそう肩を竦め、全員が苦笑した。


 と、そこへ、

「どんな感じ?」

 聞き覚えのある声がした。

 振り返ると、戸口に立ってこちらを窺うハルと、目が合った。


「やあ、来てたのか。おはよう」

「おはよう……」


 ハルはマリアに笑いかけると、隣の少女にも目をやる。

「ルウ、じゃまするなよ」


 じゃまじゃないよ! と不満の声を上げるルウを無視して、ハルはテーブルに歩み寄った。


「おはよう、ハル」女たちはにこやかに彼を迎え入れる。


「へえ、たくさんできたね」感心したようにテーブルのバニラの山を見下ろすハルに、大柄な女性が答えた。


「明日までに、三十袋分はできるよ。そのくらいでいいかい?」

「十分十分。悪いね、急がせて。手伝おうか?」

「いいよ。手は足りてる」


 ひらひらと手を振る女性に体を向けたまま、ハルは首から上だけでマリアとルウを振り返る。

「ああ、アレね」

「違うよ!」即座にルウが叫ぶ。「あたしたちは朝の散歩の途中なんだ。そうだ、村を案内してるんだった。行こ、マリア」


 早口に言って、マリアの手を引っ張る。

「う、うん」

 残りたい気持ちがあったが、ルウの力に逆らえず、仕方なく「じゃあ」と一同に別れを告げる。去り際にハルが、


「仲直りしたな?」そう、小さく声を掛けた。

 振り返ると、ハルがやわらかな笑みを浮かべていた。




「アレやるとさ、次の日まで指のにおいが取れないんだ」


 経験があるらしい。思い出したのか、熱い砂の上を歩きながら、げんなりとした調子でルウが言う。


「いいにおいなんだけどなあ。ナマで近くで嗅がなきゃな。まあいいよ。二、三日中にできればいいって言ってたし、なんとかなるだろ。あたしらが増えたところで、モトたちが楽できるほど作業は進まないって」


 言い訳めいた口調から察するに、逃げるように出てきてしまったことに、多少は後ろめたさを感じているらしい。


「香料にするんでしょ? お菓子を作るの?」

 マリアが聞くと、ルウは先ほどと同じ得意そうな笑顔を作った。


「それもあるけど。売るんだ。ほかの村と物々交換したり。香料は高級品だからね。いい商売になるよ。さっきのは都市にも持っていくって言ってた」

「都市って、シンジュク?」

 その名前を口に出した瞬間、胸にちくりと刺さるものがあった。が、からりとした口調で話を続けるルウの言葉に、小さな痛みはかき消される。


「うん。あそこでは特に高く売れるんだって。菓子やタバコの香り付け用にね。マリアの知ってるバニラは、何に使うの?」

「たぶん同じだわ」

「ふうん。でも、香りが違うの? 同じ名前なのに? どんな香り?」

「うん……それが、よく思い出せなくて」


 よく行くコーヒーショップの、ケーキやアイスクリームを思い出していた。バニラの香りがしたと思う。だが、もう一度記憶を辿ってみても、やはり思い出せない。それどころか、ケーキやアイスクリームの味の記憶も、現実的な感触を持たない。

 なぜだろう。食べたことがなかっただろうか。


「もしかして、マリアは嫌いなの?」

 悲しそうな色を滲ませて、ルウが聞いた。


「え? ううん、そんなことはないと思う」


 するとまた、安心したように明るい口調に戻る。

「よかった。今夜ご馳走するからさ。食べたら思い出すかもしれないよ」




 日が高くなってきて、砂の上を歩く二人の足元に濃い影を作った。

 風が頬を撫で、道の脇に立つ木々の葉を小さく揺らす。緑の葉を両手に広げた大きな木は、シュロという名だと、ルウに教えてもらった。マリアの寝起きしているベッドの下に敷いてあるものは、この木の皮だという。

 てくてくと前に進んでいくルウに、砂に慣れていないマリアはつい後れを取りそうになる。三、四歩も距離が開くと、ルウは立ち止まってマリアを待った。


 ルウは村の人気者のようだった。道行く人が皆、ルウに声を掛ける。


 やあルウ、今日も元気そうだね。

 ルウ、どこへ行くんだい?

 今日も暑くなるよ。帽子を被りな。


 ルウはそれに答え、マリアを紹介すると、一人ひとりの名前をマリアに教えた。名前の数は三十を超えただろう。

 五人ほどの子供の集団に行き会ったときはひどかった。角を曲がって走ってきた子供たちが追いかけっこでもするように二人の前を通りすぎるのを見送りながら、ルウは立て続けに五人分くらいの名前を言った。


「サンルミイオリサエハヤト」


 呪文かと思った。あまりに早すぎてどこからどこまでが一人分かさえ分からなかった。


 いったいこの村には、何人の人間がいるのだろう。

 それにしても――とマリアは思う。


 最初の日から漠然と不思議に思っていたことを、今日やはり再認識する。

 この村には、ルウとハルを除いて、マリアと同世代の人間がいない。

 大人はたくさんいる。多くはないようだが、子供もいる。

 しかし、ルウとハル以外の十代と見える若者に、ここまで来る途中まったく会っていなかった。


 聞いていいことなのかどうか、考えあぐねて、結局やめた。

 いずれ分かるかもしれないときを待とう。

 そこまで考えて。マリアは自分の決定を、意外に思う。

 いずれ分かるかもしれないとき……そんな、いつ来るかも知れない未来まで、自分はここにいるのだろうか。それにいつの間に、この村やここの人たちにこれだけ関心を持つようになったのだろう。




 建物の間の道を、前を行く少女に半歩後れてついていくと、突然視界が開けた。

 この間の夜、人々が火を囲んでいた広場とは違う。

 高台になっていた。

 見下ろすと、そこは砂色がかった緑の畑だった。


「うわあ」

 砂漠で初めて見る緑の海に、思わずマリアは声を上げた。

 またもやどこか得意げなルウに促されて、石の階段を下りる。近寄ってみると、マリアやルウの背丈ほどもある緑色の植物が、砂の丘を背景に、風に葉をなびかせていた。

 果てしなく、とまではいかないが、向こう側まで歩くのは大変だという程度の面積はあるだろう。

 なんという植物なのか、と聞くと、ルウは「マリアは本当に何も知らないんだな」と笑って、風に揺れる畑を指し示した。


「あっちはトウモロコシ。こっちはサトウ。少し葉っぱが違うだろ」


 さらに少し歩かされて、いくらか背丈の低い植物の前に連れてこられた。

 赤い実がなっている。


「トマト!」

 マリアが声を上げると、ルウは嬉しそうな顔をした。そして、ためらうことなく真っ赤なその実をひとつもいで、マリアに手渡す。


「食べろ」

「このまま?」

 躊躇しながら赤い実に歯を立てると、甘酸っぱい汁が口の中に広がって、頬がつんと痛くなった。


「おいしい」

「そうだろ。自慢のトマトだ」

「ルウは自慢がいっぱいだね」

「うん。それも自慢だ」


 堂々とした調子で言い切ると、自分でも実を取ってかじる。

 二人並んで階段の中ほどに座り、もぎたてのトマトで昼食にした。

 照り付ける強い日差しも、不快な暑さではない。


「ここは砂漠なのに、こんなに植物が育つのね」マリアは素直な感想を漏らす。


「そりゃそうだ。でなきゃ暮らせないだろう?」

 ルウは呆れたように言って、三つ目のトマトにかじりついた。


「まだあるよ。あとで連れてく。日差しに弱いやつや、気温の変化に繊細なやつとか……、あと、根っこが頑丈でないやつなんかは、室内で育ててるんだ。そういうののほうが、多い」

「だって、砂漠は植物が育たないから砂漠なんだって思ってたわ。本物を見たのは初めてだけど、私が知ってる砂漠は、雨が降らなくて水がないの。聞いた話だけどね」


 そういえば、喉の渇きは何度も感じたが、そのたびに水を差し出された。ここは少なくとも、住んでいる人間が渇きに苦しむほどは、水に苦労していない。


「ほかはどうか知らないけど、ここは雨が降らないわけじゃないよ。溜める場所や、ちょっと距離はあるけど生きている泉もある。地下水もある。ヤマトの村は元々は別の場所にあって、水がなくなったから場所を求めて移動してきたんだって。あたしが生まれるよりも、もっとずっと前だよ。良い場所を見つけたんだ」

 これもまた得意げに説明したルウだったが、そこまで言って、少しだけ真面目な顔になり砂に目を落とす。 


「ただ、砂は水を溜めないんだ。雨が降ってもすぐに乾いちまうから、砂が生き返ることはない。生活のための水には困らないけど……そうだな、土は欲しいな。土があれば、もっと簡単にたくさんの食べものを作ることができる」

 片手で食べかけのトマトをもてあそびながら、もう一方の手でルウは砂をすくった。

「砂で草や木を育てるのは大変なんだ」

 その砂を、さらさらと地面に落とす。またすくっては、落とす。


「多少は土の残っている村もあって、ここで作ったものを持っていって交換するんだ。でもね、そこらももう土は少ないんだって。知ってた? この砂、むかしは土だったんだよ」

「そうなの?」

「うん。むかし、お日様よりも強い光を浴びて。それから時間が経って、砂になっちゃったんだって。一度砂になったら、もう土に戻ることはないんだ」


 ルウはいつの間にか、真剣な顔で自慢の畑を見つめていた。

「もう一度これ全部、土に戻せたらいいのにな」


 マリアはトマトを一口かじろうとして、やめる。


「マリアのいた場所は、本当に木や草がたくさんあったの?」

「うん」


 ルウはトマトの最後のひとかけらを口に放り込むと、唐突に体を後ろに倒した。段差は緩いが、階段なので、斜めになる。腕を頭の後ろにやって、まぶしそうに空を見る。それから、独り言のように、ぽつりと言った。

「いいなあ、見てみたいなあ」


 マリアも空を見上げた。雲ひとつない、濃い青色。ルウは緑の世界を見たことがないというが、自分だって、こんなに青い空を見たことがあっただろうか。

 そのまましばらく時間が過ぎた。

 頭の上にあった太陽がもう少し横にずれたころ、農具を持った逞しい体つきの男に「通行の迷惑だ」という顔をされて、ルウはやっと起き上がった。起き上がる反動で勢いよく立ち上がると、


「よし、行こう」

 マリアを見下ろして元気に言った。


「どこへ?」

「言っただろ、室内の畑を見せてやる。この時間ならもう手伝わされないだろう」


 時間をつぶしていたのか……。

 半分苦笑いをしながら立ち上がると、ルウは上目遣いにマリアを見て言った。


「ねえマリア、今日は夜の宴に出てよ」

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