都市2 ―疑惑―
ここのところ早起きだったから、油断した。
久しぶりに始業ぎりぎりに教室に飛び込むと、イプシロンを立ち上げる。
なかなか起動しない。
ユウキがここに座ることを見越してか、隣の席についていたシュウが、いらいらと画面を睨むユウキに話しかけてきた。
「おい、また一人新しいのが来たぞ。やっぱりおまえの席はそこに固定だ、喜べ」
「新しいの……?」
顔を上げると、シュウは教室の右後方を顎で示す。
黒い髪の男子生徒が、落ち着かなげな様子で座っていた。
彼はトオルと名乗った。
(トオル……?)
引っ掛かるものがあった。どこかで聞いた名前だろうか。
「ぼくは二〇四八年生まれなんだ」新しい転入生は、そう言って不適に笑った。「六三年に、十五歳で眠った。だからあの時代では、エリよりひとつ年上ってわけだね」
「へええ」
周囲の生徒たちは、トオルのどうでもいい自慢みたいな口ぶりにさえ感嘆の声をあげる。
エリも優しげに目を細めた。
「ぼくはヒノというところに住んでいた。エリがいたコクブンジとはそう離れていないから、どこかで会っていたかもしれないね。あのころは交通も便利だったし、都市の間を自由に行き来できたから、いろんな街に遊びに行ったよ。エリ、きみもそうだろ? ぼくの街には来たことない?」
同時代者の共通点を、ここぞとばかりに見せつける。
「さあ、どうだったかしら」
エリは困ったように、小さく首を傾げた。
「ぼくはコクブンジには何度も行ったよ。きみの家はどの辺りにあったのかな」
トオルは薄い唇に笑みを載せてエリを見やると、いくつかの知らない地名を挙げ出した。エリの反応はあいまいだったが、特段気に留める様子もなく、クラス中に聞こえる声で続ける。
「このシンジュクなんて、ものすごく大きな都市だったんだよ。昼は何十万人という人たちが、ここの街で働いていたんだ。夜だって、眠ることなんかない街だった。明かりがね、一晩中ずっと抑えることなく点いているんだ。昼間よりも明るいくらいさ。ここにあるみたいなタダの明かりじゃない。いろんな色の、華やかな明かりさ。ねえ、エリ?」
ほかの生徒たちに、「きみたちとは違うんだよ」といわんばかりに。今度の転入生は、なんだか鼻につく。人類が一番栄えていた時代からやってきたという優越感が、言葉のそこここに、にじみ出ているのだ。
「昼も『外』を出歩くことができたんでしょ? 夜まで出かけるの?」
女子生徒の質問に、トオルはさらに気を良くしたように答えた。
「昼だって、夜だって、出かけたくなればいつでも好きな時間に外を歩くことができたよ」
「ええ! それじゃあ、いつ眠るの?」
「だから、眠らないんだよ。あのころの人間は、眠らなくても平気だったんだ」
「へえー!」
「人間の能力が高かったんだ。健康も安全も。常に個人のサポートシステムがコントロールしてくれるから、自分じゃ気にせずにどんなこともできる。万一ちょっと病気になったって、あのころの医療技術は素晴らしいものだったからね。たちまち元通りだよ」
(……じゃあ、おまえはなんで眠ったんだよ)
ユウキは、十数人の生徒たちの円の中心で得意げに話すトオルに、はっきりとした疑惑を抱いていた。
エリに感じた違和感の正体も同じだ。
二人目が来て、はっきり分かった。
どうしてこの時代に、眠っていた者たちが続々と目を覚ますのだ?
――医療技術の発達した未来に希望を残して――
そうして彼らは眠りについたのではないのだろうか。
そんなに素晴らしい文明を誇っていた時代に治らなかった病気が、この都市の医療技術で治せるのか?
当時では治療不可能で、今なら晴れて治せる病気?
それはいったい、なんなのだろう。
それとも、何か別の理由で眠りについたのだろうか。
そして……。
(どうしてみんな、そんなことも疑問に思わないんだ)
それがユウキには不思議でならなかった。
エリやトオルの話を鵜呑みにして素直に目を輝かせているクラスメイトたちこそが、いまユウキにとって一番納得の行かないものだった。
こいつは、いや、この二人は怪しい。
みんなもおかしい。
ざわざわと、嫌な音を立てて胸が騒いだ。
そして事件は、翌日すぐに起こった。
大きな音を立てて、椅子が床に転がった。
はっとして目を上げる。
教室中の生徒が、音のしたほうに注目していた。
怒りに顔を高潮させ、握り締めた拳を震わせているトオル。
その視線の先に、小柄な男子生徒がいる。
「なんだと? もういっぺん言ってみろ!」
教室中に響く声で、トオルがヒステリックに怒鳴る。
「ち、違うよ……そんなつもりじゃなくて、ただ……」
男子生徒は恐れおののいて、小さな声でぼそぼそと弁解した。
「だったら、なんだって言うんだよ」激昂したトオルは、さらに大声で怒鳴りつけた。
生徒たちはみな、息をつめて成り行きを見守っている。
「おい……」例によってイプシロンをいじっていて、それまで周囲の出来事を気にしていなかったユウキは、隣に座っていたシュウと顔を見合わせた。「何が起こったんだ?」
「よく分からん。さっきまで楽しそうに話していたのを見たんだが」
シュウも首を傾げる。
「ぼくの話を疑ってるのか? ぼくやエリがきみたちより優れた世界から来たことを、僻んでいるんじゃないのか?」
震えている目の前の男子生徒に、トオルは捲し立てる。
ユウキは苦いものを感じた。
「違うよ、疑ってなんかいないよ。ただ、どうしてかなって思って……。だって、きみたちのいた時代のほうが、医療技術だってずっと進んでいたんだろ。どうして、……今、目覚めたんだろうって、ただ、そう思って……」
可哀そうな男子生徒は、消えんばかりの声でしどろもどろに訴えた。
ユウキと同じことを考えている人間がいたのだ。
そう思う間もなく、乾いた音が教室に響いて。
小柄な男子生徒が、頬を押さえて床に転がっていた。
「そういう疑問を持つのが生意気だって言うんだよ! 自分たちの都市に、ぼくたちの世界より優れたものがあるって言いたいんだろ!」
立ち上がれずにいる相手の胸倉を、トオルが乱暴に掴み上げる。
「きゃあっ」と、そばにいた何人かの女子が悲鳴を上げた。
それまでは何が起こるのかと期待の目で見ていた周りの生徒たちも、事が大きくなりすぎると判断したのか慌てて席を立つ。
一人二人が、駆け足で部屋を出て行った。
事務センターへと、大人を呼びに行くのかもしれない。
「まずいな」ユウキは直感的にそう思い、椅子を引いた。
「おい、ユウキ?」
呼び止めるシュウを無視して立ち上がり、今にも二発目を繰り出しそうなトオルと、掴みかかられて色をなくしている男子生徒の間に割って入る。
「まあまあ、落ち着けよ」できるだけ穏やかに、明るい調子を心がけたつもりだった。「まずはその手を離してさ。彼が怖がって話ができないだろ?」
男子生徒の胸倉を掴んでいるトオルの手を、ぽんぽんと軽く叩いて、
「なんか誤解があったみたいだし。とりあえず話を聞こうよ」
「なんだよ、おまえは」
なんだよじゃねえよ。と喧嘩を買いたい気持ちをなんとか宥めて、
「いや、きみの話を聞いてたんだよ。きみらの時代の話。えーっと、なんだっけ、海で釣りをして、魚を獲って食べた? あの話には驚いたな。この世界じゃ考えられないよ。海は汚染されてるって話だし、おれなんか海、見たこともないよ? 見てみたいなぁ。なあ?」
ギャラリーを振り返って同意を求めると、二、三人がぱらぱらと頷いた。
正直トオルが言っていたのか、エリに聞いたのかトキタだったか忘れてしまったが、この際どうでもいい。
すると、トオルは毒気を抜かれたように男子生徒を放した。
話題に乗って自分の生まれた時代を自慢したい気持ちと、収まりがつかない気持ちとで、葛藤しているようだった。
「それどころか、生きて頭も尻尾も足もついてる魚さえ見たことないぜ? おれたちの所に来るときはいきなり缶詰だもんな。あんなもん、どうやって釣るんだ? 自分でも釣ったことあるんだろ? 魚って大きいんだろ。釣るときやっぱ重いのか? 臭くないのか? 釣ってすぐに食べるのって、美味いのか?」
愛想笑いを顔に貼り付けたまま無理やりに質問を重ねると、しばらく何か言いたそうにしていたトオルだったが、突然「ふん」と面白くなさそうに鼻を鳴らして教室を出て行った。
トオルが魚を釣った自慢話を始めなかったことを、少々意外に思ったが、ひとまず場を収める目的は果たしたわけだ。
この後戻ってきたトオルが、クラスの生徒たちにどんな顔で迎えられるかは、それこそ知ったことではない。
緊張が解けて、男子生徒はへなへなとその場に崩れた。
喧嘩はおろか、怒鳴り合ったり、人と険悪な雰囲気にすらなったことなどないだろう。
教室にいる生徒たちは、みなそうだ。
場が収まりほっとした気持ちが半分、事件が起こらずがっかりした気持ちが半分で、教室は一気に弛緩した雰囲気になった。
「大丈夫か?」ユウキは男子生徒に言葉を掛けた。ええと、……名前が思い出せない。
「おいリン、無事か?」
声を掛けながら、シュウが寄ってきた。
ああそうだ。リンだ。
「大丈夫。びっくりしたけど。ありがとう、ユウキ」
リンは、弱々しく感謝の意を述べた。
「ほんと、びっくりしたよなあ」
シュウは緊張感のない声で、トオルの去っていったほうに目をやる。
「まったくだ」
同意すると、シュウはユウキに視線を向けた。
「おれは、おまえにもびっくりしたよ、ユウキ。……魚には足はないぜ?」
「は? そうだったか? じゃあどうやって歩くんだよ」
「泳ぐんだよ」
……最初から缶詰に入っていると思っていなかっただけ、誉めて欲しい。そんなユウキにシュウは軽蔑のまなざしを送ると、またリンに向かってフォローするように言った。
「にしても、なんだろなアレは。やっぱアレかなあ。いきなり別の時代に来て、情緒不安定かな」
「そうか。そうだよな、心細いよな。変なこと聞いて、悪いことしちゃったよね」
健気にもそんなことを言ってため息をつくリンの唇は、切れていて血が滲んでいる。
「そんなこと、気にすんなよ」
もどかしさを感じて、ユウキは思わず声を荒げそうになる。が、抑えて。
「今のは絶対に向こうが悪い。あれで止まらなきゃ、おれが一発殴ってた」
人を殴ったことなんかないけれど。
リンは申し訳なさそうに、小さく笑顔を作った。
なんとなくいらいらする。どうしてそんな、諦めたような顔をするんだ。
「ともかくその血を拭け」と、ポケットを探ったが、ハンカチなどは出てこなかった。当然だ。入れた記憶がない。
すると、横からすっとハンカチを差し出す手があった。
エリだ。
白いハンカチをリンの目の前に差し出して、気遣うような心配そうな笑顔を見せる。
ごめんなさい。とでも言い出しそうな表情に見えた。
そんなことをエリが言ったら、ユウキはぶち切れてしまいそうだ。
が、幸いエリは余計なことは言わず、ユウキの心は若干の波を残しながらも水平に保たれた。
翌日、リンが教室に姿を現さず、彼の部屋に行ったクラスメイトが、部屋に荷物が残されていなかったことをクラス中に告げるまでは。
「どう思う? あったま来んだろ」
極力ずっと抑えていた怒りを――抑えきれず少々滲み出ていた感はあるが――、トキタの部屋に来てユウキはやっと吐き出した。
「絶対昨日のことで、呼び出されて消えたんだ。あの噂は本当だったんだ」
「あの噂?」
老人が興味深げにユウキを促す。
「規則違反をした生徒は、学校から消えるってやつ。都市から抹消されるとか、砂漠に送られるとか、いろんな説があるけど、なんにしても、ただの転校じゃないって話だよ。だったら一言くらいなんか言ってってもいいもんな」
言いながら、ユウキは老人の表情が微かに強張っていくのに気づいた。
「どうした? じいさん」
「ん? いや? ……なんでもないが、どうかしたかね?」
「ううん……ともかく、あの喧嘩があったから、リンは罰を受けたんだ。それもリンだけだぜ。トオルのほうが絶っっ対悪いってのにさぁ。一方的だったもん」
冷静に考えればそれは、ほとんど被害妄想と言ったほうがいいくらい根拠のない想像だったが、絶対そうだと確信していた。少なくとも、クラスの生徒たちは。
「それで、そのトオルくんというのは、どんな生徒なんだい? どういう話をしているのかな?」
そうか、じいさんは歴史学者だもんな。興味あるよな。
そう思いつつも、トオルのことを考えただけで、胸がむかついてくる。
「なんか、偉そうに、いつも自慢してるよ。自分たちの時代がどんなに素晴らしかったかって話だな。聞きたくもないけど」
トキタ博士は、黙ってコーヒーをすすった。
どこか心ここにあらずといった感じで、ユウキの怒りに同調してくれないのが不満だ。
「そういえば、今日も変なこと言ってたな」
「変なこと?」
「二〇六〇年代は、髪の黒い人間が一番高貴で偉かったとかなんとか言っちゃって。バッカじゃねえの? 金持ちでみんなから尊敬されていたんだってさ」
髪の色くらいで人の貴賎が決まってたまるか。なに言ってるんだよ。
トオルのそんな突拍子もない話は、クラス中とは言わないまでも、決して少なくはない数の生徒たちの失笑を買った。
それでなくても彼とクラスの間には、リンの一件以来、小さな溝ができていた。取り巻きの数が、目に見えて減っていた。
過去から来た転入生にみんな興味は示しても、それは害のないうちだ。
クラスメイトの一人に害が及んだとなれば、同時代者として生徒たちは戦々恐々とし始める。
もしかしたらこの転入生は、自分たちの身に悪いことをもたらす危険人物なのではないか、と。
自分が平和に過ごせることが、一番大事な連中なのだ。
そう思うと、ユウキはあの時の苦い不快感がよみがえってくるのを感じた。
義憤ではない。あの場をまるく収めようとしてしまった自分に腹が立った。これではほかの生徒たちと同じ、なんとか波風立てずに自分の身ばかり守ろうとする、普通の都市の子供だ。自分は違うと思っていたのに!
自身だけではなく、リンのためを思って事を大きくせずに済ませようと思ったのだ。そう考えたかった。しかし、たぶんそれは言い訳だ。いずれこんなことになるのなら、リンに加勢してやればよかったじゃないか。意図したにしろしなかったにしろ、彼はユウキの疑惑を、果敢にも本人にはっきり聞き質したのだから。
さらに腹の立つことには。
そんなトオルの話を、この期に及んでまだ信じる生徒がいたのだ。
トオルの話を真に受けて、
『へえー、そうなんだー。すごいね、それじゃトオルは、みんなから尊敬されてたんだな』
彼の言葉に信服し、盲従する生徒が、いまだに一定数はいた。
それは本当に素直な感動だったのかもしれないし、昨日の事件を受けて、直感的にトオルを権力者と見做しての、保身のための媚だったのかもしれない。
しかし、そのへつらうような生徒たちの言葉を聞いて、トオルはさらに機嫌を良くしたように言った。
『まあね。そうだ、きみたち、今度ぼくのところに遊びにおいでよ』
今度はタイムスリップでもして、二〇六五年に連れていくつもりかよ――横目で見ながらそう思ったユウキだが、トオルの追従者たちは嬉々とした声を上げる。
『ほんとう? いいの?』
『うん。ぼくは目覚めたばかりだから、まだ研究棟で暮らしているんだけどね、そこの責任者から、クラスメイトを遊びに連れてきていいって言われているんだ。エリ、きみもハシバさんのところに行くだろう?』
『ええ……』
『それじゃ、決まりだ。ハシバさんも喜ぶし、きみたちもきっと楽しいと思うよ。ハシバさんのところには、あの時代の面白いものがたくさんあってね……』
リンの一件でクラスとの溝ができたことを察し、トオルは手近な連中から懐柔することにしたのかもしれない。取り巻きの機嫌を取ろうとする魂胆が見え見えだ。それとも、自分に敵対する者が現れないように、クラスの人間に「大人との繋がり」を見せびらかして権力を誇示しようとでもいうのか?
どちらにしてもユウキの思うところはひとつだ。
「気に食わない!」
きっぱりと言うと、トキタは我に返ったように顔を上げた。
「あいつ、おれたちが何も知らないと思って、言いたいこと言って。絶対そのうち、化けの皮を剥がしてやる」
「それは、……いや、やめておいたほうがいい」
いつになく低く抑えた口調で言うトキタに、ユウキは目を丸くした。
「なんで?」
まさか止められるとは思っていなかった。訝しく思ってトキタを見る。
その顔は、孫の怒りを宥めようとする温厚な老人の表情を作ろうとして、失敗していた。
目はユウキを見ていない。手に持ったコーヒーカップの、微かに震える水面を凝視していた。この老人の、そんな顔を見るのは初めてだった。
一瞬怒りがどこかに追いやられて、冷たい疑念だけが心に残るのを感じた。
なんだよじいさん、そんな顔すんなよ。
……疑わせるなよ。
「ともかく、彼に逆らうことは――いや、他人と揉めるようなことはしないほうがいい。きみは目をつけられているんだ。次も上手く行くかどうか」
「……? なんだよ、それ……」
冷たい疑惑は音を立てて心に広がっていった。
「いや、すまない、なんでもないんだ」
トキタは、上の空の様子でテーブルの隅に置いてあったパイプに手を伸ばした。
(おれがいる間は、吸わないって言ってたじゃないか……)
責める間もなく、またそんな意思もわかず、ユウキは部屋の中を甘い香りの紫煙が満たすのを、割り切れない思いで眺めていた。
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