第三章
都市1 ―ピアノ―
「これっ、この音楽!」
眼下でユウキの知らない文字の書物を読みながらハーブティーをすするトキタ博士が、いったい何事かと目を上げる。
「なに? この音楽?」
見下ろして聞く。引越しかと思うような本棚の大整理をしていた手は、完全に停止している。
「何と言われても。……曲の名を言うなら、ベートーベンのピアノ・ソナタ八番第二楽章……」
「ピアノ? 今ピアノっつった?」
「あ、ああ……」
思わず身を乗り出す「孫」役の少年に、「おじいさん」はストップの形に両手を上げた。
「い、いいから、降りてきなさい。そこで飛び跳ねると危ないよ」
「跳ねてないよ」
脚立の上に腰掛け本棚に寄りかかるようにして、スピーカーから聞こえてくる音色に耳を澄ます。
「へえぇ。これがピアノかー」
ガラにもなくうっとりした口調の「孫」に、「おじいさん」は目を細めつつも意外そうな声を上げた。
「なんだ、都市の子供たちはピアノも知らないのか」
「知らない」
「音楽教育が未熟だな」
「音楽って、教育するもん? 歴史とか数学とかなら授業で嫌ってほどやるけど。音楽も勉強するもんなの? どうやって?」
老人は困ったように目線を斜め上にやった。「この話は長くなるぞ」の合図だ。
「まぁいいや」
合図を鋭く読み取って、「孫」は再びピアノの音色に聞き入る。老人の薀蓄で音楽の時間が中断されてはたまらない。
水の音みたいだな、とユウキは思った。滴が水面に落ちて、波紋を作る。そんな感触で、音が体の中に入ってくる。心臓の鼓動のリズムで。流れる血の温度で。
テレビや機械から流れてくる「音楽」は、もっと薄っぺらくて、冷たくて、それでいてそれ以上どうにもならない安定感がある。電気が旋律をなぞっているだけのそれらは、むしろ、ブザーやチャイムの仲間だ。
だが、いま聞こえてくるこの音楽は、それらとはまったく別のものだった。触れたら消えてしまうであろうはかなさと、一瞬先には形を変えてしまいそうな危うさを持っていた。
「でもこれ、録音なんだよな」
「当たり前だ」
「ホンモノ聞いてみたいな」
「うーむ、それはなかなか難しい注文だな」トキタは顎に手を当てて考えるように言う。「……弾き手には心当たりがあるんだが、肝心な楽器がなあ……この都市なら、片っ端から探せば十台や二十台は見つかりそうだが、はて、どこにあるものやら……あるとすれば上のほうの階層か……」
「そっかー。いい音だよな」
「気に入ったかね?」
「うん。変かな、ただの音楽に」
「そんなことはないよ」
老人は脚立の上の少年に相好を崩す。
「音楽は万人に安らぎと感動を与えるものだ」
「へえ」
「躍動も与える」
「ふうん」
「緊張も与える」
「え……」
「不安も恐怖も与える」
「……」
上から見下ろす訝しげな目に、老人は声を立てて笑った。
「はっはっは、面白いなあ、ユウキは」
「なんだよじいさん、からかうなよ」
脚立の上で反転して、ユウキは再び作業に取り掛かった。老人は椅子を回して背後の機械を操作し、「アンコールにお答えして」と呟きながらもう一度同じ曲を流す。
「じいさん、別の曲はないの?」
「『お』をつけなさい、『お』を」
「おじいさん」にしろというのだ。
しかし、呼ぶユウキからしてみると、「おじいさん」のほうがなんだか気恥ずかしい。「じいさん」と気軽に呼べば、まだ粗雑さの陰に照れを隠すことができた。
「なんだよ、改まった話し方しなくていいって言ったじゃん」
「呼び方は別だ」
「んだよー。『お』をつけると、なんかいいことあんの?」
「私が気分がいいだろう」
「なんだそれー! じいさんなんかじいさんで十分だ」
それでも、じゃれあうような会話も堂に入ってきた。
トキタ博士の部屋に通うようになって、八日が過ぎていた。
初めのころこそ緊張し、目が合っては照れ笑い、口を開いてはぎこちない会話で一心に役を演じようとしていたが、時間とともに慣れてくると、たまには二人の間に沈黙もいいもんだね、という雰囲気になって、昨日、ユウキはかねてより計画していた部屋の大掃除プロジェクトに着手したのだった。
(……て、それじゃまるでこの間テレビで見た映画の、結婚一年目の夫婦じゃん)
じいさん相手になにやってんだか、おれは……脚立の上で、近い天井を見上げてユウキはため息をついた。
降りて一息つかないか、と声が掛かるころまでに、同じ曲を五回ほど聞いて、ユウキはすっかり口ずさめるまでになっていた。歌を歌ったことなんて、これまでにあっただろうか。ふと考えたが、記憶の範囲の中では見つからない。
ピアノのことも、この音を聞いたことがあるような気はするのだが、どこで聞いたのか思い出せない。「楽器」なのだというが、どんな形の楽器でどのようにして音を出しているのか分からない。映画の中ででも掛かっていたのだろうか。
映画や学校の授業を通して、失われた前時代の文化についてまったく知識がないわけではないが、実感を持って知らないことはあまりにも多かった。
五回分の演奏の間に、トキタ博士は箱や引き出しをあさって別の曲を探していたが、なぜだかピアノ曲は見つからなかったらしい。
「おかしいなぁ」しきりに呟きながら、ここでもない、そこでもないと探し続ける老人を見ていると、ユウキは気の毒な気分になってきた。軽口はたたけても、わがままを言っておじいさんを振り回す孫にまでは、まだなれない。
「いいよ今度で」
「ううむ……整理すれば出てくるはずなんだが」
「だから今やってる」
「そうか、そうだなあ。まあ捜しておくよ」
ユウキよりも、トキタ博士のほうが落胆している様子だ。彼自身も聞きたかったのかもしれない。
「ここで聞かせてよ。貸してもらっても、ハードがないからね」
少しは催促してやろうと、そう言うと、驚いたような声が返ってきた。
「なんだい、パソコン端末もないのかい?」
「学校では教室にあるのを使うけど。自分専用のは持ってないよ」
「都市の子供たちは一人一台持っていると聞いていたが」
「それは何年か前の話だよ」
ユウキも今日、シュウに聞いたばかりの話だった。何年か前にクラッキング事件があったせいで、個人が自分の端末を持つことが禁止されたばかりか、学校の端末の用途にも大きな制約がつけられた、というものだ。伝説のクラッカーのことは噂に聞いたことがあったが、自分の生活にまで影響しているとは思っていなかった。
「それで、今は使えるのは学校の端末だけ。学内でしか繋がってないし、つまんないよなあ。でもおかげで宿題も少ないよ。部屋でもパソコンが使えたころは、たくさんあったんだろ」
それだけは事件のもたらした良い結果だと断言できる。それにしても。
「大胆なやつがいるよな。あんまり見かけないタイプだよな」
都市の子供たちは従順でおとなしく、規則違反さえほとんどしない。そんな大それた犯罪行為に手を出す人間がいるなら、純粋に、会ってみたい。
話を黙って聞いていたトキタ博士は、一瞬沈黙した後で、
「そうか、なるほどな」
と、とってつけたような返事をした。
(……あれ?)
不自然だ。直感的にユウキはそう思った。
短い期間でも、毎日顔を突き合わせて数時間も話していれば、わずかな違和感に気づくものだ。
「じいさん、そのクラッカー、知ってんの?」
「知らんよ」
間髪入れずに答える。これも怪しい。しかし、ユウキがテーブルに頬杖をついて、思い切り疑いのまなざしを作って博士の顔を凝視しているうちに、博士はいつもの調子に戻っていた。
「誰だかは知らんが、いったいどんな情報に侵入しようと思ったんだろうな。どんなに手を広げたところで、都市のパソコンは都市内でしか繋がってないよ。高校生が見て面白い情報などないだろうに」
それ以上その話を続ける気はない、と言うように、トキタ博士は席を立ってミニキッチンに湯を沸かしに行った。
まあ、たいした地位もない――と自分で言っている――歴史学者だし。事件とは関係のあるはずもないか。
そう結論付けながらも、心に小さなわだかまりが残るのを、ユウキは感じていた。
イプシロン改良計画に大きな進展があったのは、今朝のことだ。
例によって端末とにらめっこして、ユウキは最初の画面が表示されるのを待った。先日から、端末を立ち上げては、いろんなキーを押したりファンクションキーやコントロールキーを使ってみたりと、試行錯誤を繰り返していた。が、ついに何度目かの挑戦で今朝、緑と橙で画面を止めることに成功したのだ。
「やった!」
思わず小さく声をあげてしまった。
見たことない、と思っていた文字は、静止したスクリーンでじっくり見ると、トキタの部屋に並んでいる本に書かれているものと似ているように見えた。その中の、2385の数字があるのだけ読み取ることができた。
なんの数字だろう。
ともかく。マウスポインターを緑の方に移動させ、クリックする。
パスワードがいるかと思ったが、意外にもあっさりと次の画面が現れた。
予想はしていたが、読めない文字の羅列だった。
後はこの中の情報を削ってしまえば、ボロ端末もいくらか軽くなるに違いない。
教室で授業に使うだけの端末に、そのほかの重要な情報があるなどとは思っていなかったが、いちおう確認をと思い、適当なフォルダを開いてみる。いくつか手当たり次第にファイルを開いては閉じ、あれこれ見ていたが、何が記録されているのかはまったく分からなかった。
そのうちふと、数字以外の知っている文字に出会った。アルファベットで書かれた短い単語。
NANA :10・13 71‐8 9・21 61-10
ERI :10・15 83‐10 ―
SHIO :10・16 65‐8 9・30 87-6
TAKA :10・16 81‐5 ―
MARIA : MISSING 9・28 84-7
SAYA : 10・18 61-1 ―
TORU : STANDBY
NOBORU : STANDBY
RUI : TUNING
……
さらにいくつかの文字と数字が続く。
(なんだ、コレ。名前……?)
中の三文字に、ふと目を留めた。
ERI……。
(エリ……?)
エリといえば、転入生。
今日も生徒たちの雑談の中心になっている少女に目をやる。
関係ないだろうが。でも、彼女が来たのも十月十五日だったような。そしてここは八三地区、第十教室。
(……?)
何だこりゃ。
それぞれの文字のかたまりに、それぞれリンクが設定されている。押してみようか。首を傾げているところに、シュウがやってきた。
なにやら難しい顔をしている。
「よお。おはよ」
「おはよう。今日もイプシロンか?」
「ああ。見ろよこれ。なんだと思う?」
画面をシュウに見せると、彼はいっそう顔を険しくした。
「なんだコレ?」
「もうひとつのユーザー画面に入ってみたんだ。でいろいろやってたら、こんなページにアクセスした」
シュウは眉をひそめて画面から離れると、ユウキの顔を正面から見た。
「お前さあ、イプシロン使わなくてもよくなったかも」
「は? 何それ」
「シンっていただろ。いつも教室の一番前の席に座ってたヤツ。ほら、髪の黒い、小柄で物静かな感じの」
「ああ。それが?」
「何日か前から、見かけなくなったろ」
「そういえば、そうだったかな」
はっきり言って、クラスメイトの一人ひとりを覚えているわけではない。クラスの移動でクラスメイトが変わることもあるし、顔は見知っていても、限られた人間としか付き合わないのが都市の生徒たちの性質だ。ユウキもそうだし、ほかの生徒にしてみればユウキのほうが「よく知らないが、いちおうクラスメイト」ということになるだろう。
シンの顔はなんとなく覚えているが、どんな生徒だったのかはよく分からない。都市ではあまり見かけない、真っ黒な髪の生徒がたしかにクラスにいたような。と、わずかに印象に残る程度だった。
シュウだって、大して仲良くなかったと思うのだが、どうしてその名前が出てくるのだろう。
不審に思っているユウキに、声をひそめるようにしてシュウが言った。
「あいつさ、いなくなったんだ?」
「いなくなった?」
ユウキも顔を曇らせる。すぐに頭に浮かんだのは、例の噂だ。
「まさか……」
「そのまさかだろうな、たぶん。先週あいつ、マーケットで万引きをしたっていうんだ。それで事務センターに呼び出されて、次の日から来ていない。仲の良かったサキが部屋に行ってみたが、何もなかった……とさ」
噂は本当だったのだろうか。ついにこのクラスにも、それが起こったというのか。
「お前、だからさ、その端末使わなくても、ほかのが一台空いてる。そっち使えよ」
「それとこれとは関係ないよ。おれはこれが使いたいの」
「だったら、変なことするのやめとけよ」
「なんだよ、変なことって」
「だから。その端末に関しては、その辺にしとけ」
何を言いたいのか分からず不満な顔をするユウキに、友人は伝説のクラッカーの話をして聞かせたのだった。
正体不明。目的も不明。どんな情報を盗み出したのかも不明。
分かっているのは、学生の領分を越えて都市の中枢の情報にアクセスし、処分されたということ。それも、ユウキに与えられたような軽い罰ではない。掃除や雑用などの一般的なものでもない。本当に、存在を抹消されたのだという。そしてそれ以後、端末の個人所有や時間外使用が禁止され、学内のシステムも厳しいものになったそうだ。
「そんなミステリーがあるかー!」
怒りのあまり、ユウキは椅子を投げそうになった。
「お前そんな話、本当に信じてるわけ?」
「信じるも信じないも、本当だろう」
「だって、具体的なところひとつもないじゃんか。自分の端末持てないって言うところが事実と一致してるだけで、信憑性ゼロだろ」
「分からん。コンピュータにまつわる不正はやっちゃいけんぞ、という寓話かもしれん」
「お前なぁ……」脱力してしまう。「別に、クラッキングしようってんじゃないんだぞ。そんな大層なことする目的もないし、第一技術もない。おれはただ、イプシロンをまともな機械にしたいわけ。修理だよ。どこが不正だよ」
「それでもだ。やばい情報見ちまって、勝手に秘密のページにアクセスしたのがばれたら厄介だろう」
「お前、意外とロマンチストだな」
ユウキは笑った。
何があるというのだろう。むしろ、面白そうな話じゃないか。
地下都市の秘密。それは、眠っている冒険心を掻き立てる。わくわくすることは、この街では起こらない。そういうものは、テレビや映画や、どこか別の世界にあることで。心が躍るような楽しいことや、飛び上がるほど嬉しいことや、心の底から打ちひしがれるような絶望も、この生活の中では起こらないと思っていた。
「いいじゃん、秘密。ボロ端末からなんか出てきたらラッキーだ。何にもないとは思うけどさ」
「噂は本当だったかもしれないんだぞ。規則違反したらここからいなくなって、どうなるか分からないんだぞ」
「シンがどうなったかなんて、それこそ分からないだろ。何か事情があって、学校変わっただけかもしれないじゃないか。おれの処分だって、結局たいしたことなかったし。なんでみんなそんな噂を信じるんだよ……」
「たまたまかもしれないだろ。ともかくお前はただでさえ前科一犯なんだ。大人しくしとけ」
心躍る冒険よりは、噂や伝説とやらを信じて、大人しくしているほうが好き。
典型的な都市の人間だ。文句はない。
だが、この友人は違うのではないかと、どこかで期待していた。一人で勝手に。シュウは悪くない。当たり前のことなのだ。ユウキが失望する筋の話ではない。
そんなわけで、この話はここで終わったのだが、いったん芽生えた冒険心はユウキの中では収まることなくくすぶり続けていた。
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