砂漠2 ―宴―

 火を囲む人々の光景は、この間の夜とまったく同じ。

 その中に一人だけ、そのときとは違う自分がいた。


 ルウは何度も誘ってくれたのに、誘いに乗って夜の広場に出てきたのは今夜が初めてだった。

 でも、今夜が初めてで良かった。マリアはそう思う。

 だって、今はこの村の人たちが好きだ。




 ルウに連れられてやってきたマリアを、人々は温かく迎えてくれた。


「ルウ、こんばんは。マリアも」

「ようマリア、いい夜だな」

「こっちに来て、飲みなよ」


 声を掛けられながらこの間と同じ場所に腰を下ろすと、そこかしこから人が集まってきて、たちまち十数人の輪ができる。


「マリア、体の調子は良くなったのかい?」

 体格がいい、というよりは、ころころした感じの五十代くらいの女が、気遣わしげに声を掛けてきた。なかなか人前に出てこないマリアを、体調が悪いと思ったのだろう。あるいは誰かがそう言っておいてくれたのかもしれない。


「おかげさまで」そう言うと、輪の一同が嬉しそうな声を上げた。なんだか照れくさい。


「それじゃあ楽しく飲もうか」

 顔いっぱいにひげを生やした男が大声で言うと、もう一度歓声が上がった。


「おい、誰か、楽器楽器」

「おれが歌うよ」

「よしな、せっかくのお客さんに気の毒だ」

 誰かがそう言って、みんなが笑う。


 マリアは無色の液体の入った、小さなグラスを渡された。

「マリア、これはサボテンの酒」

 ざわめきの中で、ルウが顔を寄せて。

「お酒……」

「ダメ?」

「飲んだことはないけど……」

「じゃあ、なめてなよ。あとでお茶をもらってきてやる」


 一同がグラスを上げるのを見て、マリアもまねをする。全員がそのままグラスの中の酒を飲み干したのは、まねできなかったけれど。

 こんなのは、初めてだった。

 酒に口をつける。一口なめて。


「からいっ」

 思わず声を上げたら、ルウやほかのみんなが笑った。




 打楽器と弦の音が緩やかに聞こえる。

 部屋でルウと一緒に聞いた楽器の音色を思い出していた。今日は聞こえてこない。

 そういえば、あれを弾けるのはハルだけだと、ルウは言っていた。

 宴の間中、ハルは姿を見せなかった。どこにいるのだろう。


「マリア、お茶をもらってきたよ」

 後ろから、ルウが声を掛ける。


「ありがとう」

「それからこれ。今朝のバニラで香りをつけたパンだよ」


 強烈なにおいを思い出して、一瞬身構えたが、ルウが差し出したのは、ごく普通にいい香りのする、ごつごつした形の硬いパンだった。ためしにちぎって口に入れてみるが、むせ返るようなにおいは感じない。むしろ口の中に甘く香ばしいにおいが広がって、知らず知らずのうちに笑顔になっていたらしい。ルウが嬉しそうに、「おいしいだろう」と言った。


 周りに集まっていた人の輪は自然に解けて、広場はいつの間にか人もまばらになっていた。


 三、四人の子供たちが駆け寄ってきて、「ルウ、『羊と毒虫ごっこ』をして遊ぼうよ」と言ったが、ルウは「また今度な。子供は早く帰って寝な」とすげなく言って手を振った。子供たちはつまらなそうに軽く文句を言いながら建物の影に消えていった。


 宴の間、村人たちはマリアに向かって実にいろいろなことを口々に尋ねてきた。

 どんなところに住んでいたのか。どうしてここにやってきたのか。砂漠を一人で歩くのは、怖くなかったか。毒虫やカラスに襲われなかったか。どんな家に住んでいたのか。何をして暮らしていたのか。水はどうやって確保していたのか。食べ物はうまかったか。


 一度にたくさんの質問を受けすぎて、答えきれなかったものも多いし、答えづらい質問はルウがごまかしてくれたから、実際にはマリアはそれほど口を開いていないだろう。

 それでも村人たちは、愉快そうに笑いながらマリアを囲んでいた。

 日没から始まった宴は、思いのほか早めに切りあがった。

 渡されたサボテンの酒を、マリアは半分も飲んでいなかった。それでも顔が火照っている。




「みんな朝が早いからね」

 早い解散の理由を、ルウはひとことそう言った。

 一日村を歩き回って見てきた、人々の働く姿が脳裏に浮かぶ。そういえば、夜が明けるころからみんな仕事を始めていた。


「大変なのね」

 マリアがそう率直に感想を漏らすと、

「今はね」とルウは答えた。


「もうすぐ冬が来るからな。その前にやっておかなければならないことが、たくさんあるんだ」

「私に手伝えること、あるかな」

 特に考えもせずそう口にすると、ルウは驚いたようにマリアの顔を見た。


「手伝ってくれるのか?」

「そんなに怠け者に見える?」

「ううん。……そうか」


 ルウは嬉しそうに言って、笑顔のまましばらく停止した。考えるような間があった後で、

「それじゃ、あたしもようやく仕事に戻れるな」と、棒読みに言った。

 つき合わせてしまっていたのだろうか。悪いことをした。


「でもさ。何で急に?」

「だって、こんなによくしてもらってるんだもの」


 歓迎されて、食べ物も飲み物も服も与えられて、貴重な労力まで貸してもらって、何もしないでいられるほど図太くもない。村の人たちが親切にしてくれればくれるほど、心苦しさを感じる。なんの役にも立たないのに……と。

 マリアがどこから来たのか、どうしてここへ来たのか。そんな当然で根本的な質問にさえ、まともに答えていないのだ。どうしようもないこととはいえ、村のみんなを欺いているような気さえしていた。


 しかしルウは、「そんなこと、当たり前だよ」と、こともなげに言う。

「砂漠を通る危険を冒してやってくる人間は、みんな大事な『客』だ」きっぱりと言い切った後で、付け加える。「武器を持った人間以外はね」


「いい人たちね」

 マリアは素直にそう思った。


「みんな浮かれてるんだ。久しぶりの、商売抜きの『客』だから。前は、ハルだったんだけどね」

「ハルが?」


 そういえばハルは、ここの村の人間ではないと言っていた。


「うん。砂漠で拾ったんだ。あたしが。あれは……けっこう前だな。あれから雨季が……三回くらいはあったかな。マリアはそのとき以来の客だ」

「拾った……って?」

「砂漠の廃墟で倒れていたんだ。賊に襲われたんだって、ケガをしていてね。ハルはね、ほかの国から来たんだよ、きっと」

「ほかの国?」


 でもここがニッポンなら、陸続きにほかの国はないはずだ。海を渡ってきたというのか? それとも、国という概念からして違うのだろうか。


「うん。だって、最初は話せなかったんだ。言葉が分からなくって。すぐに普通に話せるようになったけどね。あいつは耳がいい」

「そうなの」

 それでは、マリアと同じ境遇だったわけではないのだ。

 期待と落胆が混じったような、複雑な気持ちになった。

 そのまま言葉が途切れた。


「マリア、ハルに会いたい?」

 しばらく間があって、ルウはいたずらっぽく笑った。


「どこにいるの?」

「この時間ここにいなきゃ、たぶんあそこだ」

「あそこって?」

「マリアが最初にハルと会った場所」


 ルウは唐突に立ち上がって、駆け出した。

 慌ててマリアも後を追う。

 今日は一日、ルウに振り回されている。




 半分になってもまだ大きな月が、紺色の空の低いところで、砂でできた稜線を浮かび上がらせている。

 月明かりの中に、ぽっかりと浮かぶ小さな塔を見たとき、なんとなく懐かしい気持ちになっている自分にマリアは気づいた。たった数日前のことなのに。


 リュウの背に、ルウと一緒に乗って――というより乗せてもらって――村を出てからは、ほんのわずかな距離だったが、すでに村は砂の丘の向こうに見えなくなっていた。

 あっさりと目的地に着いてしまって走り足りない様子のリュウを、ルウは少し運動させてくると言う。夜の砂漠を一人で走るなんて、マリアには考えられない。塔の上にハルがいなかったら一人でルウを待つのかと思うと、マリアは不安な声を上げたが、「大丈夫だ」と自信満々に言ってルウは砂の丘の向こうに去っていってしまった。


 慎重に足を下ろして中に入り、鉄の階段を上って上階に体を出すと、ハルが数日前と同じ格好で体を床に投げ出していた。

 暗闇の中、しんとした夜の空気に心持ち緊張し、恐る恐る声を掛ける。


「ハル……」

「マリア……?」

 どこか眠たげな声で、ゆっくりと体を起こしながらハルが答えた。


「寝てたの? ごめんなさい、じゃました?」


 ハルは答える代わりに、笑い掛ける。空気が一気に和らいで、緊張が解れるのを感じた。


「上がっていい?」

「どうぞ。狭苦しいところですが」


 くすりと笑ってハルと同じ床に上がると、ハルは壁際に後退してマリアのための場所を作った。


「ここで何をしているの?」

「んー。……天体観測、かな」

「天体観測?」

「星を見てると、なんか落ち着く」

「そう?」


 夜の空は深くて広すぎて、なんだか落ち着かない気がするけれど。


「それよりマリア、日に焼けたんじゃないのか?」

「え? 分かるの?」


 かろうじて顔が識別できる程度の暗闇の中である。


「夜目が利くんだ」

 本当とも冗談ともつかない口調でハルが言う。


「ルウに一日振り回されて、大変だっただろ」

「知ってたの?」

「何度か見かけた。そうだ、肌はちゃんと覆ったほうがいいよ。それと極力、日陰を歩くようにね。用事のない時は、あんまり外に出ることもしないほうがいい。紫外線が強すぎるんだ――たぶん、……きみが前にいた場所と比べてね」


 紫外線、という言葉が、なんとなくファンタジーの世界にでも入り込んでしまったような気分を「現実」に引き戻す。そう、これは夢ではない――マリアの心は、やっとそのことを認め始めていた。

 村の人々は陽気で気さくで人がよくて、楽しそうに仕事をしている。水も食べ物もあるし、家族も友達もいる。砂漠の生活は楽ではないんだろうけれど、それでも悲壮な雰囲気は感じないし、彼らに自分の境遇を恨んだり嘆いたりしているような様子はまったくなく――そう、それよりはむしろ、幸せそうに見えた。

 そんな様子が、おとぎ話の世界のようにマリアの目に映る一方で、彼らの言葉は、挙動は、しっかりとした現実的な重みを持っていた。


「ルウには常々言ってるんだけど、あいつは覆いを鬱陶しがってね。きっと後から大変だろうな。そうだ、きみが率先して実行して、あいつを洗脳してくれないか?」

 ハルはまたかすかに笑ったようだった。

「ルウは本当に、きみのことが大好きみたいだし」

「そうかな……」


「うん。きみが来て嬉しくてしょうがないみたいだな。畑を案内するんだとか、宴に招待するんだとか、自慢の料理を食べさせるんだとか。ここのところ、仕事もそっちのけで張り切ってたよ」


 くすぐったいような気分なる。


「ずっと同じ年頃の友達がいなかったからな、あいつは」


 やっぱり、村には同世代の若者がいないのだ。


「一番歳の近いミラだって、もうすぐ三児の母だもんな。彼女が母親になってからは、遊び相手がいなくなっちゃったみたいだよ」

「……どうしてこの村には、同じ年頃の人がいないの? 子供はいるのに」

「うん――」


 暗闇の中で、ハル笑顔が少しだけ曇ったように見えた。


「村のみんなは、――シンジュクから人が来て、連れ去ったって言ってる。ずっと前の話だよ。ルウが小さいころ。子供たちをみんな連れて行ってしまったって。ルウだけは、どうにか難を逃れたらしいけど」

「本当に?」


 驚いて目を見張る。世代の空白は、村にとっては大変な問題ではないか。社会問題などよく知らないマリアにも、それは容易に想像できる。


「ここの人たちは、むかしのことをはっきり記録していないし、あまり詳しく過去を語らないからね。実際にどういうことがあったのかはよく分からない。ただ、本当は本当だな。周りにほかにもそういう村がいくつもあるし」

「それであんなにシンジュクを怖がっているの?」

「だろうね。近づこうともしない。よっぽどひどい目にあったのかな」

「ハルは、行ったことがあるんでしょう?」


「何度もね。あそこには、ここにないものがたくさんあって、ここには向こうにないものがある。いい取引になるよ」ハルは苦笑するように続けた。「でも村の人たちは行きたがらないから、なんだかおれの仕事になってる」


「ハルは怖くないの?」

「怖くはないよ。不気味だと思う気持ちは分かるけど。たしかに、何重もの高い壁に囲まれて、屋根に覆われていて、人が出てきたり入って行ったりもしない。へんなとこだからな」


「やっぱり、私の知っているシンジュクとは違うんだ」

 口に出してみたら思いがけず傷ついたような口調になってしまって、それでさらに落ち込みそうになる。


「私がいた世界が過去だっていうのは、もう決まりなのかな。私が帰るところは、もうないのかな」

 ハルの視線を感じた。きっと、笑っていない。

「どうしてこうなったんだろう。みんな、どうなったんだろう」


 そう言ったら、涙が出そうになった。

 ルウの前では泣かないと決めたけど、ハルだったらいいだろうか。

 慰めて、力づけてくれるだろうか。

 知らない世界に一人でやってきて、わけも分からずに途方にくれている自分を。

 ハルは少しの間、黙って考えているようだった。どう慰めたらいいのか分からなくて、困っているのかもしれない。

 しかし――。


「マリア、本当のことを知りたい?」

 ハルの言葉は、予想していなかったものだった。反射的に、マリアは顔を上げていた。真剣な色を浮かべるハルの瞳が、まっすぐにマリアを見ていた。


「知っているの?」

「分からない」ハルは静かに首を横に振る。「でも、調べる方法はあるかもしれない」


 ハルは笑っていなかった。

「おれは数日中に、シンジュクに行く」


 それが何を意味しているのか、マリアは漠然とまとまらない頭で考えた。コクブンジのときのように、変わり果てた世界を見て納得しろというのか? 違う。分かっている。

 シンジュクには都市がある。人が住んでいる。情報がある。


「行きたい」


 答えを予想していたように、ハルは小さく息をつく。しかしその表情には、さらに切実な色がにじんでいた。


「本当のことを知るのは、怖くない?」

「何も分からないよりいい。どうしてこうなったのか、みんながどうなったのか、知りたいの」


 泣きたい気持ちは消えていた。答えを知りたい。本当のことを。傷つくとしても。その意思を、ハルに訴えなければならなかった。コクブンジに連れていってもらったときのように、傷ついて打ちひしがれて八つ当たりしたりしない。ちゃんと前を向くために、受け止めるために、知らなければならないことだった。


「連れて行って」

 できる限りの強いまなざしで、ハルの目を見た。


「いいよ、分かった」

 ハルが口もとだけで笑った。


「あたしも行く!」

 唐突に、階段の下から鋭く、高い声がした。驚いて振り返ると、鉄の階段を大きく踏み鳴らしてルウが姿を現す。必死な顔で、きっぱりと。

「絶対行く! ダメだって言っても行く! 荷物だってあるんだぞ、ハル一人じゃ大変だ。絶対あたしが行った方がいい!」

 断られるのを予想してか、先手を打つように早口に決意を表明する。


「お前はダメ」

 やっぱり。ハルは言下にルウの申し出を棄却する。

「都市は恐ろしいところだぞ。怖い生き物が住んでいるんだろ? 取って食われるぞ」


「怖くないって言ったじゃないか」

「それでもダメ」

「なんで!」

「言うこと聞かないから。おれが大変だから」

「ちゃんと聞く! わがまま言わないでおとなしくついてく」


 下手に出たルウから、ハルは信用しないというように顔を背けた。

 するとルウは、つかつかとハルの前に進み、ずっかりと座り込んだ。

「連れてくって言うまで、ここから動かない」

「お前な……」

「籠城してやる。連れて行くから帰ってくださいって言うまで立てこもってやる」


「……そうすれば?」

 ハルは冷たく言い放って、立ち上がった。

「じゃあ帰ろう、マリア」


 ハルが、ルウに見えないように笑って目配せするので、マリアも苦笑しながら立ち上がった。


「じゃあな、ルウ、おやすみ。寒いから風邪引くなよ。それから、毒虫には気をつけてな」

「ちょっと待て!」


 ルウが大声を上げる。

 立てこもると宣言したルウは、マリアとハルが階段を下り出すととあっさり立ち上がり、駆け足で二人を追ってきた。ざくざくと砂の上を歩いていく二人の後を、リュウを引っ張ってついてくる。


 ルウは翌日から、片時も離れずマリアに付きまとった。

 シンジュクへ行く朝、マリアにしか言っていなかったはずの待ち合わせの場所に現れたルウを見て、ハルは閉口した。

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