まずは、わたしの話からはじめよう。
1.
血の匂い。錆びて、少し甘い。熟れ過ぎた果実に、鉄粉をまぶしたような。
最初にここを訪れた者は皆、だから少しだけ顔を顰める。鼻を刺す違和感の奥に、言い知れぬ不吉さを嗅ぎ取って。だがその正体を知る頃、既にここに逃げ場はない。
血……。
そういえばホールの内装も、それを連想させるようなものばかりだった。
例えばそれは、床一面に敷き詰められている、暗赤色の絨毯。
何の繊維か、妙な湿り気を帯びていて、踏みつけるたび沼のように沈み込む。そのくせ足を上げれば直ちに戻り、後ろには跡一つ残らない。
例えばそれは、天井一面に刻まれた模様。絡み合った蔦のように見える意匠は、その実、血管を模している。それはうねり、捩りあわされ、時に脈打ちながら、天井の辺縁から中心に向かって伸びていた。
そして擬似血管が結節する場所――すなわち中心部には、巨大な心臓のオブジェが張り付いている。脈動する不気味な肉塊。熊襲現代美術館のトレードマークであり、館内の統御機構でもある、文字通りの心臓部。
玄関ホールは二重の円筒になっていて、外縁部は三階までが吹き抜けになっている。天井は高いにも関わらず、常に蓋をされたような閉塞感が付きまとうのは、この心臓がどこに居ても頭上を圧するからだろう。
『品評会』は、内側の円筒――メインホールで行われる。
わたしは歩き、簡素なカウンターに辿り着いた。
そこには、いつもの受付嬢が鎮座している。
机の前の張り紙には、わざわざ手書きで墨文字が書かれてあった。
『第六回 現代綜合藝術品評会 受付』
「あっはぁ、どうも」
間延びした声。
受付嬢が、こちらに視線を送っていた。地味なスーツに身を包んだ女。目鼻立ちこそ整っているが、目は微妙に焦点をはずし、顔には呆けたような笑み。
「また来てくれたのねぇ、リヒカちゃん。あっは、嬉しいわぁ」
「どうも」
「あっは、冷たいわねぇ……。昔はあんなに可愛かったのに。悲しいわ。あっは」
声の調子がいやらしく粘つく。わたしは返事をせず、名簿を手に取った。
その手首に、彼女の手が素早く重ねられた。わずかに汗ばんだ掌。
「あっは。貴女は、それ、必要ないでしょ?」
そのまま、手首を裏返される。
「これで、充分」
そして彼女の指が、肌をなぞる。頚動脈の近く。四角くて赤い、傷痕の上。
「きれいな肌なのに、もったいないわ……」
吐息交じりの呟きと、妖しく艶を帯びる瞳……。
「やめていただけますか」
わたしは無理やり、手を振りほどいた。
「あっは」
悪びれる様子はない。
「ごめんなさいねぇ。貴女を見てると、ついついイタズラしたくなってぇ。あっは」
彼女はいつも句読点のように、独特な笑い声を会話に挟む。ただ息を吐いただけの、意味のない音。
言われるがまま、手続きを済ませる。提示された小型のスキャナ端末に手首をかざすと、青色のランプが点灯し、モニターにわたしの名前が表示された。
「
「はい」
「あっは。今回は多いでしょ? クマソさん、張り切ってるみたいでねえ。あっは。今来てるだけでも、半年前の倍よ。凄いわよねえ。あっは」
わたしは彼女を無視し、奥へと進む。耳に障る笑い声が追いすがるように響き、そして消えた。
メインホールの扉は、唐草模様を刻んだ、時代じみたデザインをしている。その模様は絶えず色の濃度を変え、表面を触ると柔らかく凹み、ほんのりと暖かい。
少し手で押すと、扉は勝手に奥へ開いていく。
視界一面を刺す赤。
大部屋の中は、絨毯だけでなく、壁紙や調度品までもが、毒々しい赤で統一されていた。血のにおいが一際、濃くなったような錯覚に襲われる。
相対する壁には、上半身裸の、めいめいに手に林檎を持った、三姉妹の彫刻。
カリス。
ギリシア神話の、美の女神。
しかし、彼女たちはここでは逆さに吊るされ、首から上を切断されている。断面からは血を模した液体が流れ、その下の噴水池に流れ込んでいた。
メインホールは、既に多くの人で満たされている。
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