3.
浮遊する感覚だけがあった。視界は闇。
意識があるのかもないのかも判然としない。
だが、そういう状態だったからこそ、自覚できた。
体を苛んだ激痛から、開放されたことに。
「お疲れさん。聞こえてるか?」
ガビマルの声が聞こえる。
「明日から時間を倍にしていくから、よろしくな。同時にこの機器の制動も少しずつ弱めていくから、一週間もすれば痛みが分からなくなる程度には精神がぶっ壊れると思うぜ。それまで頑張んな」
飄々とした口調。そして足音が去って行く。
四肢はベッドに固定されたままだ。頭には例の機器が取り付けられている。
全身が激しく震え始める。だが、恐怖はすぐ、潮が引くように消えていった。恐らくこの機器の「正気を保つ」機能だけはまだ生きていて、危険なほどの感情を強制的に抑え込んでいるのだろう。
体はスナドリに誘導され、情動はガビマルに制御されている。
……僕は、いったい誰なんだ?
泣き笑いをしようとしたが、それすらも許されない。
これではあの受付嬢と変わらない。<プール>で再構成された生き人形……。
ふと、おぞましい考えが脳裏をよぎる。僕は本当に
記憶ごと再構成し直され、スナドリが埋め込んだ機器と同じものを埋め込まれたコピーなのではないだろうか。
一瞬、強い感情が僕を捉え……すぐに引いていく。冷静な頭で、先ほどの考えをすぐさま自分で否定した。
自分自身が再現可能なら、こんな回りくどい手段を取る必要はない。再構成された海馬の記憶を読み取れば、それで済む話だ。それをしないのは、恐らく僕の記憶が脳内の
(これから君は少しの間、苦しい思いをすることになるだろう。だがそれが終わった時、苦悩を抱えた男は生贄によって導かれる。語り手は同期し、叙事詩は紡がれ、藝術は意味を取り戻す。そして作品は完成し、祝福が訪れる。カリスの祝福……)
彼女があの時僕に告げた言葉が、脳裏に浮かぶ。額面通りに受け取れば、僕は再び彼女の下に『導かれる』はずだ。だが、彼女の言う『少しの間』とはどのくらいなのか? 『祝福が訪れる』とはどういうことなのか? 何も分からなかった。そもそも彼女の言葉には、僕が無事かどうかという点には言及していない。死体、あるいは廃人となった僕が彼女の下に運ばれるという意味かもしれないのだ。「生贄」、「苦悩」という言葉が不吉に響いた。
だが今の僕には、その予言に縋るしか、できることがない。
『助けてくれ』
だから僕は、虚空に
『スナドリ。助けてくれ。こんなのは耐えられない。分かるだろう?』
届いているのかどうか分からない。それでも僕はメッセージを送り続ける。
『お願いだ。僕は明日にでも気が狂ってしまう。助けてくれ、スナドリ』
まるで神に祈るように。
『ここから出られたら、何だってする。頼む。助けてくれ。ここから出してくれ!』
返事は無かった。
次の日も無かった。
つギの非もなかっタ。
ツギのひモナカッタ。
あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
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』
苦痛と苦痛の間。
白い光が脳内に閃き、再び息を吹き返すその狭間、彼は途切れ途切れの夢を見る。
「藝術は、意味を失っている」
そう彼女に言われたのは、いつのことだっただろうか。そう彼は自問する。あれは遠い大学時代か。それとも何度目かの『品評会』で、彼女に話しかけた時だったか。屋上で気絶した時か。それとも……今この瞬間だろうか?
「なぜ?」
その時の彼は確か、そう聞き返したはずだった。
「ずっとずっと昔から、意味をなくしているんだ」
そして彼女は、そう返したはずだった。
「藝術は元々、自然――あるいは神と呼ばれる人知を超えた何かに捧げるものだった。それは許しを乞うための祈りであったり、権威を示すための道具であったり、定められた運命を確認する布告であったりした。音楽も美術も文藝も――そこには区別なんてなかった。すべては等しく捧げられていたんだ。近代までは」
わかるだろう? 消失点の向こうにいる神のまなざし。神聖画で、縦に引き伸ばされ、現実よりも美しくデフォルメされた天使たち。“美”を追及することは、すなわち神聖なるものを証明するための手続きだったのだ。
「……話が見えないな」
僕の困惑に、彼女は聞きなれた一節で答えた。
「“神は死んだ”」
「……ニーチェ?」
「そうだ。あの言葉が、全ての始まりさ。あの言葉一つが、神によって支えられていた身分制度を破壊し、あの言葉一つが、数々の奇跡を科学で塗り潰し、あの言葉一つが、神への捧げものだった全ての藝術を破壊した。それは欧州だけの出来事だったが……産業革命と科学の発達により、他の国々へと伝播した。神なるものを権力から引きずり落とすミーム……。神に捧げられた全ては引き裂かれ、あらゆるものが等価に貶められた」
それは彼女の言葉……だっただろうか。
「どういうこと?」
「神からの承認は失われた。であれば、美とはなんのためにある? ……それこそが、近代以降の藝術の出発点だ。“神聖なるものへの賛美”というお題目を失って、絵画は絵画としての在り方を、音楽は音楽としての在り方を、文藝は文藝としての在り方を……神に頼らず、それぞれ突き詰めなければならなくなった。わかるかい? 藝術は自らの曖昧な輪郭を定めるだけの、ただの作業になったんだ。しかもそれは、絶望的な作業さ。自己定義に、終わりなんてない。解釈はいくらでも現れ、そしてその全てがどこかに矛盾を含んでいる……永遠に続く騙し絵のように。誰もが薄々感づいている。この自己言及に意味なんてあるのか、ってね。藝術は、見せるべき相手を失った。こんな滑稽な悲劇が他にある? そしていま、我々はそれにすら行き詰まってしまった……
それは彼女の言葉ではなく、もしかしたら、彼の独白なのかもしれなかった。意識と記憶の世界ではその境界に既に意味はなく、彼か彼女か、あるいはどこかにいる誰かが、ただ言葉を紡いでゆく。
科学がヒトを超え、機械知性が人間の感性すら上回った今、わたしたちには、自己言及の手段すらなくなった。『何を作るか』より、『誰が作るか』が大事? ……笑わせる。機械がコンセプトから全てをデザインした作品に、サインだけ入れたことが、創作と言えるのか。検索すれば類似品が――ともすればより洗練され、その意図を突き詰めた作品が、制作済みとして登録されているこの時代に、ヒトが何を作れるというのか。オリジナリティ? 作家性? 馬鹿馬鹿しい。全てが交換可能な代物でしかない。
君は見たはずだ。一人の人間が、死後も『再構成』された姿を。今や、『誰が』の部分さえ、倫理に逆らえば克服可能なんだ。今や作家自身ですら、寸分違わぬコピーが作れてしまうのだから。
文体、筆致、癖、作風、個性、作家性……あらゆる創作者の揺らぎが観測可能になり、大量生産できるようになってしまった時代。
「そんな世界で、わたしたちに何が作れると思う?」
不意に彼女の声で立ち現れた問いかけに、彼は答えられない。
そして全ては再び、苦痛の中に溶けていく。
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