2.




 





 意識が浮上する感覚があった。

 目を開ける。

 白い天井が見えた。


 身を起こして、あたりを見回す。


 そこは病室のようだった。眩しいほどに白い壁が、僕を威圧するように取り囲んでいる。腕に違和感。パッチ式の点滴が貼られていた。長く伸びたコードは、ベッドサイドの医療ユニットへと伸びている。

 夢の残滓は倦怠感に変わっていた。ぼんやりと、気絶する前の記憶を辿る。そうだ、僕はガビマルに協力して彼らの突入を手引きしたんだった。それから、あの会場は大騒ぎになって、ガビマルは屋上にいるクマソとスナドリを連れて行こうとして……それから……それから……。


 頭の中にある粘ついた感触が消え、寝ぼけた頭が覚醒した。

 僕は今、どこにいるんだ?

 その問いをきっかけに、いくつもの疑問が頭に溢れ出す。あれからどのくらい時間が経ったのだろう? あの時、いったい何が起きたんだ? 彼女は……。

 そうだ、スナドリは。

 急き立てられるようにして、ベッドから身を起こした。点滴が自然に外れ、縮んでいくコードはそのまま医療ユニットに吸い込まれていく。体に痛みはなかった。治療を受けたらしい。立ち上がり、眩暈にふらつきながらドアに向かう。

 ドアはのっぺりとした一枚の金属板だった。取手もなにもない。手を当ててみても、押してみても反応がはったくない。開けるためのスイッチがどこかにあるのか? ドア付近の壁を目で追っていると、それは唐突に横滑りに開いた。


「よお、起きたか」


「……ガビマル」


 その先には、スーツに身を包んだ、見覚えのある顔が立っている。

 ガビマルはニヤリと笑い、禿頭をつるりと撫で上げた。その頭頂部には黒い突起――外注アウトソースユニットが鎮座している。

 彼が本人オリジナルであることが分かって、僕は少しだけ、安堵した。

 それからすぐに、後悔した。


(この、バカが!)


 あの時……僕が彼の銃口に飛びついた瞬間、『彼』が発した怒声が、脳裏に蘇る。罪悪感と警戒心と不安がない交ぜになって、じわりと胸を締め付ける。

 そんな僕の考えを読んだかのように、ガビマルは言った。


「“あっち”の俺が、世話になったな」


「……彼はどうなったんだ?」


「死んだよ」


 まるで家電でも壊れたかのような口調で、彼は肯定する。そのあまりの軽さに、むしろ僕の方が狼狽してしまうくらいに。


「しっかし、別の自分が死ぬって言う感覚、慣れないもんだなぁ。喪失感があるような、ないような……。案外、自分が死ぬ時の感覚ってのも、こんなもんなのかもな」


「でも、どうして?」


 言った後で、これではまるで、探りを入れているようだと気付く。


「それを聞きたくてお前を保護したんだがな。その様子じゃ期待できそうにねえや」


 だが幸いにも、彼はただ苦笑しただけだった。


 <プール>では、外注アウトソースユニットや脳話セレフォン機構を構成することはできない。あの装置が再構成するのはあくまで生体部分。外部ユニットの材料となるセラミックやケイ素、金属類や絶縁体の類を組み上げる機構はない。その証拠に、『再構成』された彼の頭には、あの黒い機器はついていなかった。

 だからきっと、屋上で何が起きたのか、本人には伝わっていない。僕はそう予想する。

 だが……。妙に引っかかった。

 何か、重大なことを忘れているような。


「ま、ちょうどその話をしようと思ってたとこだ。ちょっとメシでも食おうや」


 そう言って出て行く彼の後ろを追う。

 ふと脳裏に、僕の頭蓋を内側から覗く眼球のイメージが浮かんだ。




 視界が何度も白濁し、全身の骨を万力で握りつぶされるような痛みが全身を襲った。それは不規則なタイミングで、断続的にやってくる。ある時は十秒ほど地獄の苦しみが続き、かと思えば一分ほど何の感覚もなく、一息ついた次の瞬間にはゼロコンマ数秒ごとのインターバルを挟みながら、苦痛の断崖に叩き落され続ける……。


「止めてくれ! 頼む! もう止めてくれ!」


 叫ぶ声は嗄れ、舌が引き攣れた。それからまた、唐突な空白。


「いや、俺もこういう原始的な手法は嫌いなんだけどよ」


 心底申し訳なさそうな顔で、ガビマルが呟く。

 その間も、痛みは去ることはない。喋ろうと開いた口は、そのまま絶叫の出口に変わる。

 突然の出来事だった。食堂だと言って通された部屋は真っ暗で、困惑する間に両側から拘束され、意識を奪われたのだ。

 視界が何度も白く染まり、意識が途切れる。だが次の瞬間、唐突な空白によって、あるいは新たな痛みによって、無理やりに意識を覚醒させられた。


「こうするしかねぇんだよなぁ。すまねぇ。俺も上にかけあったんだけどな」


 僕の苦悶に対し、軽すぎる口調で彼は言う。

 食堂で気絶させられ、目覚めた時にはこの部屋で両手足を拘束され、頭にはヘルメット型の装置を被せられていて、唐突にこの拷問が始まり……そして終わらない。 


「でもよぉ、俺らにも時間がねえんだわ。許してくれや、な?」


 彼は教えてくれた。

 そもそもあの突入は、クマソコンツェルン亜細亜本部――つまり熊襲出彦の出向元と事前に合意を取った上で、行われたものであったと。


「俺にも細かいことは知らされてねぇっけどよ。どうもクマソの本部側も、出彦のあの酔狂な趣味――『品評会』とやらを潰したかったらしいんだよなあ」


 ――要するに、トカゲの尻尾切りってヤツだ。俺らは<プール>による偽装殺人を暴き、都市住民の安全を守る。コンツェルン側も、職権を濫用してわけわかんねえことやってる一族のミソッカスを、大義名分の下処理できる。ウィン・ウィンの関係ってやつだな。

 地獄のような苦痛の中で、彼の繰言は続く。僕はその全てをはっきりと聞き、そして理解することができた。頭に被せられた装置は、非侵襲的に脳波を読み取り、僕の精神をどこまでも正気に保ったまま、適切な苦痛を与え続ける仕組みになっている――ガビマルにそう説明されたのは、果たしていつのことだったか。


「だから、事情はお前が思ってるより重大なんだよ。だから早く話せ。な?」


「言った……だから言ったじゃないか!」


 涙と鼻水を垂れ流しにしながら、僕は訴える。


「何を?」


「僕は『彼』の銃口からスナドリを守った。裏切ったんだ。君たちがクマソを確保できなかったのは僕のせい――」


「だから違うって。俺が知りたいのは、そこじゃねえ」


 再びの苦痛。僕の意思とは無関係に発せられる叫び声。


「んなこたぁ、お前に飲ませたマーカーを見れば分かるこった」


 彼は苦笑する。ノコノコとガビマルの後を付いていった自分を殴りたい気分だった。なんて馬鹿なんだろう、僕は。

 潜入前、バーで彼に渡された、あのカプセル。


(一種の記録装置だ。お前の身体変化を記録し、二十四時間後にまとめて出力する)


 確かに彼自身がそう説明したじゃないか。あそこで何をしたのかなんて、彼には最初から筒抜けだったのだ。

 だが、だからこそ不可解だ。全てが筒抜けなら、こんな拷問は無意味なはずだ。彼は何かを――僕が知っている以上のことを聞き出したがっている。


「俺が聞きたいのはな、キジマ。今スナドリがどこにいるのか、だ」


 しかしその質問に、僕は答える術を持たない。持っているはずがない。


「そんなの、僕が知りたい――」


 言い終わらないうちに、最大限の痛みが僕を襲った。手足の爪を五ミリずつ引き剥がされる。全身の皮膚を無数の剃刀で隈なく削ぎ取られる。毛穴の全てに灼熱した針を押し込まれる。死ぬ――そう思った瞬間に訪れる空白。この拷問の根幹はこの空白時間だということを、もう嫌でも理解させられていた。次の苦痛がいつ来るのか。僕はそれを怯えながら待つ。

 激痛の予感に彩られた、宙ぶらりんな状態。その不安定な心を握りつぶすように、彼の冷静な言葉が僕を捉える。


「知らねえじゃ通らないんだよ、キジマ。あのカプセルは、お前の身体情報を走査すると言ったろ? おめぇはあの館内にいる間、ずっと脳話セレフォンを使っていた」


「知らない。僕は――」


 僕が自分から脳話セレフォンを使ったのは、クマソを出し抜いたあの一瞬――アンドロイドに命令したその時だけだ。だが、舌が痙攣し、僕の訴えは言葉にならない。


「中継局を介さなくても、同じ建物内ぐらいの距離なら脳話セレフォン通信は可能だ。


「そんな」


「違うってのか? じゃあどうやって、アイツは突入を知った? 俺らが糧食に生体機械群バイオマシンを仕込んだって知った? あのごく短期間のシステムダウンに乗じて脳話セレフォンを敷地外に飛ばし、私用のヘリを呼び寄せるなんて真似を、どうやってやるってんだ?」


 畳みかけるガビマルの言葉に僕の心は冷えていく。拷問の苦しみの中でも……いや、拷問の中で弱っているからこそ、彼が突き付ける事実が、容赦なく僕に突き刺さった。


「お前はずっと前から、スナドリの協力者だった。そう考えなきゃ、筋が通らねえだろ?」


「違う……」


「だろうな」


 ガビマルはあっさりと首肯し――それ以上の絶望を突きつける。


「お前はあいつに利用されただけだ。スナドリはお前にも、生体機械群バイオマシンを仕込んでいた。クマソと同じようにな」


「……嘘だろ?」


「本当さ。お前が気絶する直前にも、入力の履歴があった――お前の海馬を探ろうとすると、脳ごと自壊する命令がな。中継局を介してねぇから、発信元も辿りようがねえ。クマソの本社にも問い合わせてみたが、知らぬ存ぜぬの一点張りだ。まったく用意周到で恐れ入るぜ」


「だけど、いったい、どうやって……」


「知らねえよ! だから言っただろう、キジマ。『あいつは信用できねえ』ってな。忠告を無視した報いさ……まあ、それはもう、どうでもいい。足取りは掴めねえ、その上お前もただ利用されてただけ、垂れ流してる脳話セレフォンにも嘘はねえ。となりゃ、俺らもやり方を変えるしかねえな。……キジマ。実に残念だよ」


 彼は嘆息し……僕に顔を近づけると、噛んで含めるような口調で話し始める。


「今、キジマが垂れ流してる脳話セレフォンは、俺らの権限で各地の中継局に巡らせてる。その気になりゃ、傍受するのは簡単だろうな。さて。いいか? 俺たちは今日からゆっくりと時間をかけて、キジマを壊していく」


 すぐに気付いた。彼は既に、僕に向けて話しかけてはいない。僕の脳話セレフォンを傍受しているであろう彼女――スナドリに、話しかけているのだ。


「うちの検索網にひっかからねえってことは、まだクマソの庇護下にいるのか? お前は一体何者だ、スナドリ。記録を見る限り、どうやらお前はコイツを使ってまだ何かするつもりらしいな。だが生憎、こっちはてめぇのままごとに付き合うつもりは金輪際ねえ。さっさとクマソを渡さねぇと、大事な人形は壊れちまうぞ?」


 その時、自分でも理解できないことが起きた。


「人形? それは君たちの方だろう。機械知性に使役される人形。奴隷であることに気付かぬ奴隷」


 その言葉が、自分の口が発したものだと、すぐには気付かなかった。



 だがそれは紛れもなく、僕自身の声だった。信じられない……僕が、スナドリの口調で何かを喋っている。


 僕の驚愕をよそに、彼は冷静だった。


「ふむ……外部からの入力は無えな。とすると、特定の言葉がトリガーになったのか。なるほど、『人形』か?」


「人形? それは君たちの方だろう。機械知性に使役される人形。奴隷であることに気付かぬ奴隷。だからこそ、わたしは君たちが愛おしい」


 口が、僕の意思を置き去りにして動く。そのおぞましさに震えた。違う。今のは僕の意思じゃない。そう叫ぼうとしたが、そっちの方は言葉にならない。ガビマルはそれを見ながら、愉快そうに笑う。


「ようやく分かっただろうが? 自分の立場が」


 再び僕を襲う苦痛の嵐。

 違う。


「人間をなんだと思ってるんだかねえ? 酷い女だぜ、まったく」


 違う。


「優しい恋人が、人形が壊れる前に自白する機能を持たせてくれてるといいな、キジマ?」


「人形? それは君たちの方……」


 やめろ!

 必死に口を閉じようとするが、その努力も空しく、舌は回り続ける。


「奴隷であることに気付かぬ奴隷」


「はっは! 面白いな。何とも皮肉めいたメッセージじゃねえか。その調子で他の言葉も思い出してくれよ」


 涙が頬をつたうのが分かった。意味のない涙が。


「さて、処置を初めてちょうど一時間だ。後がつかえてるから、今日は……そうだな、あと五時間くらいで勘弁してやるよ」


 彼は全く親しげに――まるで「これが終わったら飲みに行こうぜ」とでも続けそうな口調で、そう告げる。

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