7.

 清掃と審査員らの健康チェックのため、一旦小休止となった。せっかくなので見物しておきたいものがあるので、外に出る。ハミナも後をついてきた。


「素晴らしい見世物でしたねえ……」


 背後の声を無視して、足早に進む。

 廊下には、爪を噛む神経質そうな男や、興奮し、触腕をうごめかせて仲間とまくし立てる女性たち、能面のような表情で歩く老年の男性などでごった返していた。そこかしこから、緊張と恐れが針のように皮膚を刺してくる。今回は人が多いだけに感情の密度が濃い。いささか耳障りではある。


「おい、君、君」


 廊下を歩いていると、一人の男に呼び止められた。


「さっきの騒ぎを聞いていたが、君はこの会の常連だな。なんなんだね、あれは。説明しなさい」


 ササキと名乗るその四つ足の男は、自分は関西藝術協会の支部長だと名乗った後、大声でまくしたてた。


「ヒガキは私の教え子だ。一体どうなっている? 人権問題、いや大犯罪だぞ!」


 全身から恐怖と混乱を発散しながら、男は身にまとった自尊心のヴェールをしっかりと握りしめていた。内心で震えながら、なおも尊大さを保とうとしている。


「何を黙っとるんだね、君。何とか言え。私が誰だか分からんのか? 君のような木っ端な若造とは違うんだぞ」


 怒鳴り声に、背後のハミナが噛み付きそうな気配を見せる。これ以上、余計な揉め事を増やしたくはない。


「何って、見ての通りですよ。ササキさん。彼は主催者に危害を加えようとした。だから制裁を受けた。ただ、それだけです」


「そんな……そんなことが許されるとでも思っとるのか?」


「貴方の方こそ、企業国家という存在をご存じないとみえる。ここに外の法を持ち込んだところで、意味があるとでも?」


 ハミナが同調するようにせせら笑うと、ササキは唇を噛んだ。


「思い上がった成金どもめ……」


「ここでそれを言っても始まらないでしょう。それに……彼が死んだままとは限りませんよ」


「どういうことだ?」


「それを確認するために、わたしは階下に向かっているのです。貴方と違って、わたしは彼に大きな思い入れはありませんが、これもまた、なものでね。よければ一緒にいらっしゃいますか?」


 彼はなおも何かを言おうとしたが、わたしが歩を進めると、黙って後ろからついてきた。


「なんだ、なんでついてくるんだ、こいつ。偉そうに、偉そうに偉そうに偉そうに……」


 ブツブツ言うハミナの声が聞こえたが、無視する。

 脈動する皮膚の壁が自動で開くと、受付ホールのバルコニーに出る。白いカルシウムの螺旋階段を下り、メインホールのドアの前に立つ。向かって左側――控え室がある方とは反対側の廊下に入ると、ドアから出てくる人影に出会った。


「あらぁ、スナドリさん、どうも」


 受付嬢がわたしに微笑む。ササキが息を呑むのが分かった。彼女がまだ、片手に刃物を持ったままだったからだ。


「いつもの見学かしらあ?」


 もう一方の手には、殺された男の衣服が握られている。


「……そんなところです。ところで、こちらの御仁も一緒に入っていいですか? さっきの男の知り合いだそうで」


「あっは、そうなんですかあ。本当はダメなんだけど、まあ、スナドリさんが言うなら。彼は中で、再生の準備中ですよぉ。あっは」


 そう言って彼女は、今出てきたドアを指差して笑う。そのとき、彼女とハミナの目が合った。受付嬢は少し驚いたように目を開き、「あら……」と声をあげる。

 だが、続く言葉はホールからの怒号にかき消された。おそらく、怖気づいた奴らが建物のドアを破って出て行こうとしているのだろう。


「あっは。ごめんねえ、ちょっと用事が出来たみたい。また後で。あっは」


 そう言うと、受付嬢はニコニコと笑いながら、廊下を足早で歩いていった。

 ササキが大きく息を吐く。視線が合うと慌てて居ずまいを正し、軽く咳払いをした。ハミナが軽蔑したような眼で、それを見ていた。


「再生とは、何だね。彼は生き返るのかな?」


「まあ、生き返ると言えばそうなのかな……。とりあえず中に入れば分かりますよ」




 目の前に広がる赤一面。

 メインホールと同じだが、しかし、この色彩を作っているのは絨毯や壁ではない。

 十メートル四方ほどの部屋の中に、密閉された巨大な水槽がある。その中が、赤黒い粥のようなものが満たされていた。

 水槽の前には、直径二メートル、高さ三メートルほどの、円筒形のシリンダーが配置されていた。水槽とシリンダーの間は、パイプによって接続されている。

 そして、部屋一面に広がる、血と脂肪の匂い。

 熟れ過ぎた果実のような、牛乳のような、錆のような、発酵した肉のような。

 微かに甘くて胸の詰まるそれは、館内に足を踏み入れた時の匂いと同じものだ。

 断続的な細かな震動が、床を舐めていた。


「なんなんだ、これは」


 水槽を見たササキが、呻くように言う。聞きながらうっすら答えが分かってしまったのか、その声色には絶望の色が滲んでいた。


「見ての通りですよ、ササキさん」


 と、わたしは言う。彼の咽頭が、唾を飲み込む音と共に、大きく上下した。



「これが、貴方の教え子です」



「すごい、すごいすごいすごい。ああ、これがあの装置ですか。話は聞いていたけど、見るのは始めてですよ。すごい。すごいすごいすごいすごい」


 ハミナが興奮した様子で話し、しきりに手をすり合わせている。


「待て……。いや、そんな馬鹿な」

 

 うわ言を呟きながら水槽に近づこうとするササキを、わたしは肩を掴んで制した。


「おい、何をする。話せ!」


 喚く彼を制し、黙って前方の床を指差す。鼠色の床を横切る、赤いライン。注意書きなどは何もないが、その現す意味は明確だ。


「ここを踏み越えると……ほら」


 床に向けた指を頭上に向ける。天井付近。そこにいる、編隊を組んだ十機のドローン。音もなく浮かぶその胴体からは、小型レーザーの銃口がこちらを伺っている。


「……これが、この粥が、私の教え子だっていうのか? ふざけるな!」


「少し違いますね」


 とわたしは言う。


「この液体の容積はざっと百人ぶんほどはあるでしょうから……むしろ、貴方の教え子はこの中にといった方が正確でしょうか」


「こんな……よくも、こんなおぞましい真似を……倫理的に許されるとでも……」


「ヒヒ! ヒヒヒ!」


 ヒステリックに、ハミナが笑った。


「あんた、あんたあんたあんた……。ここ、ここが、ここががどこだと思ってるの? クマソコンツェルンの敷地で、あんたらの倫理が通用すると思ってんの? ヒヒヒヒヒ!」


「この狂人どもめ!」


「ヒヒヒ! そうだよ。そうそうそう……僕たちは狂人さ。この会が何を目指しているのかご存じないんですか? どいつもこいつも中途半端で嫌になっちゃうね。一人死んだくらいで、大げさにさああ? ヒヒヒ! ヒヒ!」


「貴様ァ!」


 ハミナに殴りかかろうとしたササキの後ろ足を、わたしは払う。彼はバランスを失い、どうと尻もちをついた。


「ぐっ」


「お静かに」


「くそっ、お前も狂人か。何が再生だ。人の死体をドロドロに溶かして水槽に詰めただけじゃないか。おい、人が一人死んだんだぞ。分かっているのか? 貴様らに良心の呵責はないのか!」


 わたしはため息をつく。


「良心があるかないかと言ったら、ありませんが……そもそも貴方は勘違いしておられる。再生処置は、


「なに?」


 その時、部屋が一際激しく震動を始めた。

 水槽に背を向けていたササキ氏が振り返り、そして呆然と、それを見た。

 震動に合わせ、赤黒い液体が、激しく沸き立ち始める。

 牛乳に水滴を落したように、粘性の液体のそこかしこで、細かい水柱が立つ。それらはうねり、かき混ぜられ、徐々に大きくなっていく。

 一際大きな柱が、粘ついた飛沫と共に立ち上がった。


「うっ」


 ササキ氏が呻く。




 それは手だった。



 それは足だった。



 それは巨大な性器であり、裸の頭だった。



 粥の中から、バラバラの人体が湧き上がっては、また次々と埋没していく。

 目玉が飛沫のように飛んだ。

 爪や大臼歯がガラスに触れ、さらさらかちかちとけたたましい音を立てた。

 たわし状の舌が、乳房がぶどうのように実った胴体が、枝分かれした数百本の指が、毛穴にいくつもの目が埋まった巨大な顔が、うねる赤黒い渦の中に現われては消えていく。


「すごい! すごいすごいすごい……こんなの初めてだ!」


 わたしは感覚の膜を広げ、液体の中身に触れる。

 生まれては消える、ごちゃ混ぜになった曖昧な肉の意識。

 それに自身の感情を同調させた。



『悲しい痛い何で嬉しい気持ち良いいこんな面白いことはじめてなあ僕は今何をしているの何も見えないここはどこおぎゃあおぎゃあ愛してるそういえばあのときは僕はころされた何が起きたのか分からない逆らったばかりにママはどこお腹すいた仕事いつおわるの今日こんな天気だっけ昨日あのくそ上司が僕はだれだ』


 切れ切れの感情がわたしの中を走りぬける。明滅する、思考未満の感情と意識。途切れなく続く産声と断末魔。

 それは賛美歌だ。生と死が織り成す賛美歌。その旋律に身をひたすと、震えるほどの悦びが身を貫いた。足が奮え、わたしは膝を折って床に蹲る。



『あいつ殺してやる何をするつもりなのえっこんなお金をもらえるんですか出世したいセックスしよう猫かっていたのにわたしはどこさむいからエアコンつけて買い物いかなきゃ今日は鼠肉がやすいのよあら空気がわるいわねえ僕サッカーしたいネットにはつなげるの明日はやすみかないつ帰ってくるの』



 四足を折りたたんでうずくまり、嘔吐を堪えているササキと、よだれを垂らして水槽を見ているハミナを、ぐにゃぐにゃでコマ落ちした視界の端にとらえ、わたしはふふふと笑みを漏らした。その声がまた意識にとけ、わたしの精神を際限なく拡大させていった。


 ふ。


 ふふ。


 ふふふ。


『ぎゃあわあうへえうわんうわんおほほひひひうふふへへへぎいいおおおあががああるるるるひいひいうんうんはっははああああわひひひいあはああ意があああわげひょおおうえんんんああああああああねえええええええいひいいようおうおようおうおうおがあげうるぐあうるんふふふふふふ』


 奔流は徐々に整合性を失い、そして消えていく。その動きに合わせるようにして、感覚の膜をじょじょに引いていった。視界の明滅が収まり、世界が形を取り戻す。ササキは絶望的な顔でえずき、ハミナは笑いながら失禁していた。


 ごぼり、という音。


 パイプが軋み、水槽の中から、粥の塊がシリンダーの中に吐き出された。


 それはしばらくうごめき……やがてゆっくりと立ち上がる。

 色白の肌……それから半獣半人を思わせる四本の足。


「ヒガキ……」


 ササキが立ち上がって、呆然と呟いた。

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