14.五年前
重たい沈黙が、部屋の中を満たす。聞こえてくるのは物音だけだ。
ブランカは打ち身のある箇所に氷を宛がい、ヴォルフは薄萌葱色の手紙をもう一度じっくり読み返す。二人の間に隔たりはないが、ブランカに向けたままのヴォルフの背中が、その間の溝を物語っていた。
――もうあの優しい眼差しを向けられることはない。
始めから分かり切っていたことだ。それだけの罪が自分にはあるし、そもそも彼に憎まれているのだから、当然だ。そう思うのに、それが現実になるのはとても苦しい。胸が引き裂かれそうだ。
ブランカがぎゅっと襟元を握ったとき、部屋の扉が叩かれた。
ヴォルフはすぐに扉の方へ向かい、覗き窓を覗き込んだ。
「完全に忘れてた……」
低く抑えた声で言うが、逆にそれは、彼の怒りが収まっていないことの証拠だろう。
ヴォルフは深くため息を吐くと、扉を開けた。
「わざわざ呼び出して悪いな」
「君こそ平気かい? こんな時間に押しかけて」
「そんなこと言って、気が気じゃないのはロマンの方でしょ?」
「いいから二人とも、さっさと入れ」
よく知る声が聞こえたと思ったら、ヴォルフはすぐに二人を室内に引き入れた。
ロマンとレオナ。ダムブルク児童施設でブランカに親切にしてくれる二人。三週間前、ブランカが施設を飛び出したきりだった。
張り詰めた表情をしていたロマンと不安そうだったレオナは、ソファで腕を冷やすブランカを見ると、一気に安堵した顔になり、ブランカの傍へ駆け寄った。
「あぁ本当に見つかったんだね! 良かった、無事で良かった!」
「ええ、まったくよ! ブランカ、あんたってば一体どこに行っていたの? って、どうしたの、この怪我。全然無事じゃないじゃない!」
「でも見た感じすぐに治りそうな傷で良かった。もっとひどい目に遭っていると思っていたからね」
ブランカを囲むようにソファの前にしゃがみ込んだ二人の顔が、ずいっと近づいた。
レオナは姉が妹を叱りつけるかのように、眉をつり上げブランカを睨み付けている。それでいて、わざわざブランカの怪我を心配するところが、彼女の面倒見のいいところだ。
ロマンは心底ほっとしたような柔らかい微笑みを、ブランカに見せている。だが彼は以前より不健康そうに見えた。ダムブルクで見たときよりも顔はやせ細り、目の下に大きなくまができている。ロマンがずっとブランカを探していたのはヴォルフから聞いているが、今の彼の姿が、それを端的に証明していた。
優しく温かい、世話焼きな二人。わざわざブランカを探すためにロゼにまで来ていたという。
――そんなことをしてもらう必要なんかないのに……!
唇をキュッと引き結び震わせる彼女の様子に、ロマンがハッと眉をひそめた。
「ごめん、ブランカ。君が見つかって安心してしまったけれど、ひどく思い詰めた顔をしているね。何かあったの?」
ほぐし溶かすような柔らかい口調で、ロマンはブランカの顔を覗き込んだ。しかし、ロマンの空色の瞳を見ることが、ブランカには出来なかった。ブランカは自分の顔を隠すようにぎゅっと俯く。
ロマンは状況を把握しようと、ヴォルフの方へ視線を送った。レオナも訝しみながら、ヴォルフを見る。二人は気が付いたのだろう。ヴォルフとブランカの間に流れる、不穏な空気を。
ブランカはちらりとヴォルフの方を見た。未だに怒りが燻る薄鳶色の瞳と視線が絡み合う。ヴォルフは目頭をきつく細めると、小さく息を吐いてから、ロマンに向き直った。
「ロマン。悪いがそいつをダムブルクに帰すわけにはいかなくなった」
低い声で、ヴォルフは厳かに告げた。
唐突なその言葉に、ロマンもレオナも眉をひそめた。
「どういうこと?」
尋ねたのはレオナだ。ロマンは僅かに目を見開きヴォルフをじっと見つめている。
ヴォルフはブランカを睨み付けて、その一言を放った。
「そいつが、クラウディア・ダールベルクだからだ」
瞬間、二人は目を瞠った。
レオナはぱっとブランカを振り返り、彼女の顔をじっと覗き込んだ。ロマンは息を飲み、眉根を寄せてヴォルフとブランカを交互に見た。
ヴォルフは荒々しく息を吐きながら二人の元へ寄ると、手に持ったままの薄萌葱色の手紙を二人に差し出した。
「そいつは正真正銘、マクシミリアン・ダールベルクの孫、クラウディア・ダールベルクだ。これを見ろ」
「これって、ブランカが大事にしている手紙……」
未だ状況を把握できていないレオナが、その手紙を受け取った。五枚の便箋に書かれた内容を読んでいく。戸惑っていただけの彼女の表情が、次第に驚きに見開かれていった。
「嘘……まさか本当に……?」
驚愕に満ちたレオナの瞳に、不穏なものが混じっていく。手紙を持つ彼女の手が、震え出す。
一通り読み終わる頃にはレオナの眉は吊り上がり、怒りで瞳が満たされていた。
「あたしたち、ずっと騙されていたのね……!」
レオナは顔を上げると、思いっきり息を吸って手を勢いよく振り上げた。
「レオナ!」
ロマンが手を伸ばして止めようとするが、それよりも早く、レオナの手がブランカの頬を強く打った。その勢いに圧されて倒れ込むブランカの身体を、ロマンが咄嗟に支える。
レオナは両手に拳を握って一気にまくし立てた。
「信っじられない! よくも今まで平然としていられたわね! みんなを苦しめた人殺しの孫のくせに!!」
ブランカを睨み付けるレオナの瞳。そこには先程までの温かさはもうなくなっていて、代わりにヴォルフが見せたような憎しみの色に変わっていた。
ずっと感じていた罪悪感。まっすぐにそれを突いたレオナの言葉に、打たれた頬がひどく痛む。
「あぁ、思い出してきたわ。クラウディア・ダールベルクといったら、マクシミリアン・ダールベルクがよく演説で話してた愛孫のことでしょ? 孫のために世界を統一する、だのなんだのってよくラジオで言っていたわ」
「あぁ、そうだ。孫のために世界をキレイにする必要がある、孫のために理想国家を作る。孫のため、孫のため。少なくとも俺が捕まる直前までそう言っていたはずだ」
「あたしはフラウジュペイが解放される直前まで聞いたわ!」
レオナとヴォルフが言うことは、その通りだった。生前、祖父は口癖のようにそれを繰り返し唱えていた。
お前のために輝かしい王国を。お前の王国に劣等民族はいらない。お前のために戦っているのだ。お前のため、お前のため。
――私のための、戦争。
最初こそ当然と思っていたそれは、途中から違和感を覚え始め、終戦後には聞きたくもない言葉になっていた。勝手に祖父が言い出したことに過ぎない。そう無関係を装おうとしたところで、祖父の言葉には影響力が有りすぎた。
祖父は、孫の首を絞めていったのだ。
「そうよ、そうだわ。あたしと母さんがヘルデンズの空襲で焼け出されたのも、父さんと兄さんが戦死したのも、あいつの孫のためだった」
「俺がアジェンダ狩りで捕まったのもそうだ。孫のため――お前のためだった。お前のために、俺は全ての権利を奪われた。人間であることすら許されなかった。お前は俺から全てを奪ったんだ……!」
レオナは自分の考えを確かめるように燻っていた恨みを吐き出し、ヴォルフは無理矢理抑えていた怒りに再び火を付けたかのように声を荒げていく。
「そうよ! あんたがクラウディア・ダールベルクだっていうなら、あれを書いたのだってあんたなんでしょう!? ヘルデンズが一番偉いだとか悪い人を退治しなくちゃいけないだとかって作文! この前ラジオで流れてたやつ!!」
「そうだった。お前はあれも書いたんだったな。思い出すだけで腹が立つ。あんなものを書くほどに、お前はアジェンダの絶滅を望んでいたのか」
「アジェンダ人だけじゃないわ! ヘルデンズ以外みんな滅べとでも思ってたんじゃないの!? 本当に信じられない! ねえ、あんた。ダムブルクのあの児童施設がどういうところだか分かっているの? みんな家族を失った。あたしだってそう。あんな作文を書いたあんたのために、みんな戦争で奪われたのよ!!」
親切にしてくれた人にぶつけられる激しい怒りに、ブランカは耳を塞ぎたくなった。
しかし、塞ぐわけにはいかなかった。
どれもこれも愚かな自分の過ち。自分の存在がもたらした災い。そのくせ、当たり前に彼らに紛れ込んで、五年間も騙し続けてきた。
自分が招いた当然の現実。返す言葉もなかった。
二人の怒りは次第に大きく膨れ上がっていく。
「黙っていないで何とか言ったらどうなんだ?」
「本当よ! ねぇ、一体どういうつもりで今まで
「そんなことは……」
「――ブランカを施設に置いたのは僕だ。彼女は悪くない」
レオナとヴォルフの怒りが今にも破裂するかという瞬間、ロマンが声を上げた。二人は息を飲み、ロマンを見る。彼に支えられたままだったブランカも、ソファに座り直してロマンに視線を向けた。
ロマンは苦しげに細めた瞳をブランカに向けた。
「二人の気持ちは分かるけど、今更責めたところで彼女にはどうしようもない。そもそも戦中は彼女はほんの子供だったんだし、それに彼女だって戦争孤児。あの戦争の犠牲者だ」
静かに落ち着いた様子でロマンは言うが、膝に乗ったブランカの手をきゅっと握る様は、どこか彼が苦いものを抱えているかのように思わせる。
そもそもロマンがこんな風にブランカを庇うのが不思議だった。それは彼の従来の優しさ故なのかもしれないが、彼だって祖父やブランカの存在に苦しめられた一人には違いない。
同じことを思ったのか、ヴォルフが不審な視線をロマンに送った。
「お前、何でそんなことが言えるんだ? いつかもそうだったな。情でも湧いたか? 分かっているのか? お前は騙されて――」
言いかけて、ヴォルフはハッとした。
彼は一瞬だけ大きく目を見開くと、確信したようにロマンを睨み付けた。
「ロマン。お前、知っててそいつを匿っていたのか?」
瞬間、ブランカとレオナは驚きに目を見開く。三人の視線を向けられて、ロマンはゆっくり頷いた。
ロマンに削がれたヴォルフの怒りが、再び湧き起こり始める。
「どういうことだ、ロマン。お前はこいつのために帰る国を失ったんだぞ! 俺らは、こいつのために地獄を見たんだぞ! お前は忘れたのか、あの収容所の日々を!!」
ヴォルフが放った言葉に、ブランカは疑問を抱いた。
――帰る国? 収容所の日々?
「それって一体どういうこと……?」
同じ疑問を感じたらしいレオナが、戸惑った様子で割り込んだ。
ヴォルフはちらりとロマンに目配せをしてから説明した。
「六年前、俺とロマンはフラウジュペイの南にある収容所で知り合った。俺はアジェンダ狩りで、ロマンは反逆罪で捕まっていた。六年前に起きたメルジェーク反乱を知っているか? こいつはそれに参加していたんだ」
初めて聞くロマンの過去に、ブランカは息を飲んだ。
メルジェーク反乱。それは祖父が話していたから知っている。フィンベリー大陸戦争後半で起きた市民蜂起だ。
かつてヘルデンズの東隣にあったメルジェーク王国。そこはヘルデンズ軍の度重なる侵攻を受け国としての機能を失い、更にはフィンベリー大陸の他のどの国に対してよりもひどく弾圧されていた。
ヘルデンズ兵のひどい横暴に不満を募らせた市民はやがて、反乱を引き起こした。それがメルジェーク反乱。人々はヘルデンズの支配から逃れようと蜂起した。
しかし、それはヘルデンズ軍の手酷い返り討ちにより失敗に終わり、参加した者の多くは拘束もしくは処刑され、国は再起不能なまでに仕打ちを受けたという。
――それじゃあロマンは……。
「メルジェーク人だったの……?」
驚きに目を見開きながらも、どこか納得したような口調でレオナが尋ねた。
しかし、ブランカにしてみれば、驚きの事実だった。まるで地元の人のようにフラウジュペイ語を使いこなし、出会ったときからずっとダムブルクにいた彼を、フラウジュペイ人と思って疑わなかった。
「ロマン、何でなんだ。収容所で俺らは奴隷のように扱われたんだぞ。その中でもお前は一番虐げられていた。その上、帰るところまで奪われたんだぞ! そのお前が、何でそいつを匿ったんだ!?」
ヴォルフの言うとおりだった。
ロマンの
だが、メルジェークがオプシルナーヤに吸収されるまで、少なくとも終戦から二年はあった。住むのは難しくとも、帰れなかったわけではない。
それなのに、ロマンはこの五年間ずっと、故郷から遠く離れたフラウジュペイの片田舎を離れようとしなかった。それどころか、故郷を奪い、自由を奪い、何もかもを奪ったマクシミリアン・ダールベルクの孫の自分を匿い続け、ずっと面倒を見てくれた。
正体を知っていたはずなのに、彼はずっとブランカに親切にしてくれたのだ。
「……収容所での日々は、この世の終わりだった。毎日毎日何人もの仲間が失われていく。ヘルデンズ兵に殴られている人を助けたくても叶わない。今でも思い出すだけで身震いするよ」
ロマンは伏し目がちにゆっくりと落ち着いた口調で、しかしどこか抑えた様子で話し始めた。ブランカの手を握る彼の手が、僅かに震え出す。
「メルジェークのことだって忘れたわけじゃない。一方的に踏みにじっておいて反逆扱いだ。ヘルデンズやマクシミリアン・ダールベルクを恨んでいないと言ったら、嘘になる」
「ならお前……っ」
「だから五年前、その孫を見つけたときは、復讐してやろうと思ったよ」
普段の彼とはおおよそ結びつかないひと言に、その場にいる全員が絶句する。
冷静だった声はいつの間にか震え、ロマンの息は荒くなっていた。
いつも親切にしてくれただけに、ブランカは鋭い刃物を突きつけられたような気持ちだった。
ロマンは苦しげに顔を歪めながらも、先を続けた。
「五年前、本当にもう終戦間際。収容所から解放された後、僕は出来たばかりの児童施設に一時的に滞在し、メルジェークに戻ろうとした。その途中で、彼女を見つけた。持ち物を漁って誰なのか分かったときは、戦慄したよ。この子のために全てを失ったんだと、怒りで頭がどうにかなりそうだった。正直殺してやろうとまで考えたくらいだった。だけど――」
ロマンの空色の瞳が再度ブランカに向けられた。
その目はとても優しくて、悲しそうだった。
「だけど、そのとき僕の目の前にいたのは、体中焼き焦げて今にも死にそうになっている、たった十一歳の小さな女の子だった。復讐どころか、見捨てることすら僕には出来なかったよ」
ロマンはそこで言葉を止めたが、彼がどんな心境でこの五年間を過ごしてきたのか、痛いほどに伝わった。
誰にも言えず、本人にも素知らぬフリをしながら隠し続けたブランカの正体。それが発覚したら施設の人にも世間的にもどんな扱いを受けるか分かっていたはずだろうに、彼は密かにずっとブランカを守り続けてくれた。
自分だって苦い気持ちを抱えているというのに、そんな素振りを一切見せず、いつでも優しく接してくれた。
一体どれほどの葛藤が彼の中にあったことだろうか。
「ごめんなさい、ロマン。ごめんなさい、本当に……」
ブランカはずっと彼の優しさに生かされ続けてきたのだ。その事実に心を強く締め付けられ、とてつもない温かさが、胸の中に広がった。
何度も何度も心の中で謝り、何度も何度も感謝する。
「くそっ」
腑に落ちなさそうな渋面を浮かべるレオナの横で、ヴォルフが大きく舌打ちした。
ロマンに反論する言葉を失いながら、ヴォルフも納得したくなさそうに顔を顰め、投げやりに窓の外に視線を向けていた。
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