13.正体
焦げた痕の残る薄萌葱色の封筒。
表に『
封筒と同じく焼き焦げの残るその手紙を、ヴォルフは食い入るように読み始めた。
ブランカにはもう、絶望しかなかった。
そもそもヴォルフは部屋に戻ってきたときから様子がおかしかった。さっきまで優しく手当てしてくれた彼の瞳は硬く鋭いものへと変わり、穏やかだった彼の雰囲気は一気に張り詰めていた。
嫌な予感が走ったときには、もう遅かった。
彼の手はまっすぐにブランカのスカートのポケットに伸び、あっという間にそれを引き抜いた。咄嗟に手を伸ばすが、既にそれは彼に届かない。ヴォルフは無言のまま、封筒の中身を取り出した。
一枚一枚と読み進めるにつれて、手紙を握る彼の手が大きく震え始める。眉間の皺の数は数秒ごとに増えていき、左から右へと動かす薄鳶色の瞳は次第に大きく見開かれていく。
何もかもが終わったと、ブランカは思った。
手紙には、読めば誰がこれを書いたのか一目で分かる内容ばかりが書かれている。孫への祝いの言葉、願望、世の中への不満と自分勝手な妄想、数々の無念。所々に書かれた『クラウディア』と、最後の『M・D』。
もう疑う余地もないだろう。
「これを書いたのは……マクシミリアン・ダールベルクか?」
ヴォルフは手紙に視線を落としたまま、尋ねてきた。硬く低い声は、心なしか震えて聞こえる。
ブランカは彼の方を向くことが出来ず、ソファの前に突っ立ったまま俯き、両手を腹の前で握りしめていた。身体を大きく震わせながらも、唇をキュッと引き結ぶ。
――頷いてしまえば、あなたはどうなるの?
覚悟を決めていたのに、すんなり認めるのが非常に恐ろしい。
そんな思いが、ブランカを思わず躊躇させた。
「お前は……クラウディア・ダールベルク、なんだな」
彼は先ほどよりも低く、初めて聞くようなドスの利いた声で、再度尋ねた。
手紙に向けられていた彼の薄鳶色の瞳が、ブランカに向けられる。射抜くような視線が、まっすぐに身体に突き刺さった。
ブランカは泣きたくなった。
もとより言うつもりだった。彼には全てを打ち明けるつもりでいた。それなのにこんな形になってしまうとは。
――タイミングすら与えられなかった……。
元にはもう引き返せない別れ道。
だが、遅かれ早かれこうなっていたのだ。
ブランカは瞳を閉じ、小さく頭を縦に振った。
ヴォルフが大きく息を吸った。
「まさか……お前だったとはな!!」
瞬間、肩に強い力が掛けられ、ブランカの身体は反転した。
ブランカは勢いよくソファに倒れ込む。身を起こそうとする間もなく、ヴォルフが上に覆い被さった。
「よくも今まで素知らぬ顔が出来たものだ! こっちはてめえのジジイに何もかも滅茶苦茶にされたって言うのによ!!」
ヴォルフはブランカの着ているシャツの襟を掴み上げ、激しい怒声を上げた。必然的に彼の顔が間近に迫る。
はち切れんばかりの眉間の皺、感情任せの歯ぎしり、目頭に力を入れ細められた薄鳶色の瞳には、ただひたすらに憎悪が浮かんでいる。いつもブランカを労り心強い笑顔を向けてくれる彼は、そこにはなかった。
当然と言えば当然。これが現実だった。
「あぁ、思い返すほどに腹が立つ。もし生きてどこかで見つけたなら、あの地獄を味わわせてやろうって思っていたのに、まさかそいつを励ましていたとはな。賤しいアジェンダの戯れ言は滑稽だったか?」
「そんなこと……」
「それとも屈辱だったか? 世界が
ブランカの胸ぐらを乱暴に放すと、ヴォルフはブランカの顔の横に勢いよく拳を打ち付けた。間近に伝わる衝撃にびくりと身体を揺らすが、身を捩る間もなくヴォルフに両腕を掴まれる。見上げれば、彼の瞳にある怒りの炎が、更に濃くなっていた。
彼に恨まれていることは知っていた。だが彼の口ぶりは、まるでどこかで会ったことのあるかのようだ。しかし、ブランカには何のことだか分からない。
意味が分からず疑問符を浮かべる彼女に気が付いたのか、ヴォルフは歯ぎしりをしながら言った。
「六年前、ちょうどヘルデンズが降伏する一年前だ。俺はアジェンダ狩りで捕まった。窒息するほどに人が乗った貨物列車に押し込まれ、降りたら何マイルも先の収容所まで歩かされた。否を言うことも出来ない。分かるか、その地獄を」
言われてブランカの頭の中に、灰色の世界が広がった。灰色の空、灰色の雲、何もない灰色の平原の中に止まっている、木製のくすんだ色の列車。灰色の煙を上げているそこから出てきた無数の人々。凍えそうな寒さの中を薄着でぞろぞろ歩く人たちは、みんな虚ろな目をしていた。
『人種の美化活動』でブランカが目にした光景だ。
祖父に連れられてたった一度だけ見学したそれは、あまりにも衝撃的だった。
「力のない年寄りと子供は列車の中からあの世行きだ。力あるやつも疲れて途中で立ち止まれば、その場で銃殺刑。そんな地獄の中を俺と親父は歩いていた。そこに、クラウディア・ダールベルク、お前は現れた」
ブランカは目を見開いた。
――まさかあのときにヴォルフがいたの?
怒りに燃える薄鳶色の瞳に、ブランカは突然既視感を覚えた。
「親父は、速度を落とすこともなく、よろけることもせず、懸命に歩いていた。その親父を、お前は兵士に殺させた。マクシミリアン・ダールベルクの隣でわざわざ指差して、親父を撃たせたんだ!」
腕を掴むヴォルフの手に、強い力が込められる。ただでさえ打ち身と擦り傷の残るそこを強く握られ、ブランカは痛みに顔を顰める。
――そんなことを、私はしたの?
少なくとも彼が言っているのはあの日に起こったことには違いない。ブランカは、曖昧にぼやけた記憶を必死にたぐり寄せる。
目の前を無気力に歩く無数の人たち。あちこちから聞こえていた銃声。次々と死んでいくのに必死に歩く人たちがあまりに恐ろしく、あまりに痛々しかった。そんな光景に耐えられなくなって、クラウディアは隣に立っていた祖父の服をぎゅっと掴んだ。
『あの人たち、どうして撃たれるの? 全然悪そうには見えない。他の人も可哀想。あんなに歩かされて、とても辛そうよ』
適当に目の前を通る男の人を指差し、クラウディアは責めるようにして言った。
しかし次の瞬間、指の先にいた男の人の頭から、血が吹き飛んだ。
――あ……あのとき……。
ぼやけていた記憶が、はっきりとした映像へと変わっていく。
頭の中で、祖父の言葉がリフレインした。
『いいか、クラウディア。あれはこの世にはびこる劣等民族、ああやって歩いているだけでもマシなのだよ。だが本来は生きる価値もないから、駆除してやっているんだ』
祖父はクラウディアを引き連れ、わざわざ撃たれた男の人の傍まで行き、唾を吐きかけた。後ろに付いてきた兵士の銃口から煙が吹いていて、その銃口を倒れた男の人の周りにいたアジェンダ人に向けては、彼らを無理矢理歩かせていた。
その場を離れようとしたとき、突き刺すような瞳と目が合った。倒れた男の人を抱え、後ろから兵士に脅されているその人は、ごうごうと燃える赤い炎を、薄茶色の瞳に宿していた。
その薄茶色が、今目の前にある薄鳶色と重なり合う。
――まさか、あそこいた人が……!
「ごめんなさい……」
口からこぼれた言葉は、ひどく掠れていた。喉が震えてまともな声にならなかった。
しかし、言わずにはいられなかった。
ヴォルフは薄鳶色の瞳を少しだけ大きく見開くと、一層苛立たしげに瞳を細め、奥歯を噛みしめた。
「思い出したのか? 心当たりあるような顔だな」
思い出した。あの瞬間は、とても衝撃的だった。
ブランカ自身もショックだったのだ。まさか、ただ指を差しただけで人が一人亡くなるなんて思わなかった。たったあれだけの行為で、自分は人を死なせてしまったのだ。
しかも、まさかあそこにいたのが、ヴォルフの父親だったとは。
「親父は死に逝きながら『行け』と言った。その場に残って俺も殺されるか、親父を残して生きるか。迷う時間は与えられていなかった。結局俺は先に進むしかなかった。別れを惜しむ時間すら与えられないままにな」
ヴォルフはブランカの腕を留める手に更に力を込めた。ズキズキと痛むのは心か身体か、突き刺すような痛みに全身が悲鳴を上げる。
「だから俺はあのとき強く心に誓った。もし生きて収容所を出られたならば、マクシミリアン・ダールベルクに必ず復讐してやると。そして、クラウディア・ダールベルク。親父を死なせたお前に、俺らを蔑み絶滅を願ったお前にも! 俺が経験した地獄を味わわせてやるとな!」
彼はブランカの片腕を放すと、彼女の白い髪を一房掴んだ。その力はやはり強く、ブランカを見下ろす彼の瞳は、恐ろしく獰猛に光っている。
「ジジイに守られてばかりの苦労を知らないお姫様。見つけたらその白い肌を剥いでやりたかった。あの忌々しいブロンドを、毟り取ってやろうかとも思った。それなのに――……っ」
その瞬間、ひたすらに憎悪に燃えていた彼の瞳が、苦しげに細められた。奥歯で歯ぎしりして言いにくそうにしながらも、彼は勢いのままにその一言を放った。
「それなのに、どうしてお前がクラウディア・ダールベルクなんだ……!」
それまでよりも一層低く苦痛に満ちた声。ヴォルフはブランカの髪を乱暴に放した勢いで、彼女の顔の横に再び拳を打ち付けた。
しかし先程のような勢いはなくなっていた。
彼のその言葉に、ひどく心が締め付けられた。
「ごめんなさい……本当にごめんなさい……っ」
泣く資格など自分にはないと分かっている。しかし、込み上げてくる涙を堪えることは出来なかった。
ヴォルフにとって、自分は憎むべき仇。どんな仕打ちも受けるつもりだった。例え耳を塞ぎたくなるようなひどい言葉で罵倒されても、当然だと思っていた。いっそ、気の済むまで殴ってくれた方が、ありがたかったかもしれない。
しかし、彼の最後の一言は、ブランカの心に深く突き刺さった。
滲む視界の中でヴォルフは悔しげに舌打ちをすると、ブランカの腕を掴んでいた手の力を弱め、そっと放した。そして上体を起こすと、氷の入った容器をブランカの方に引き寄せた。
「怪我、しているのに乱暴して悪かったな。とりあえず冷やせ」
ヴォルフはまだ残っている氷を布にくるむと、それを乱暴にブランカに押し付けた。彼はそのままソファから立ち上がる。
ブランカは氷を両手に包みながら、上体を起こした。こちらに向けられた彼の背中に、涙が止まらない。
正体を知った途端のヴォルフは恐ろしかった。怒りと憎しみの込められた声は全身を震えさせ、両腕を握っていた彼の手はとても痛かった。
それなのに、彼は根本的なところで優しさを切り離せない。ブランカの両手に乗る氷がそれを証明している。さっきの一言だってそうだ。
その優しさに、ひどく抉られる。
――ごめんなさい……!
床に落ちたままの手紙を拾うヴォルフの背中に向かって、ブランカは何度も謝った。
頑なに向けられた彼の背中。身体の横で握られた拳が、悔しそうに震えていた。
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