8.電話の声

 それからの日々を、ブランカはあまり覚えていない。

 暦の上ではあの日から一週間が経っていたが、それほどの日々を過ごした感覚が、まるでなかった。

 彼女はずっと虚ろな状態で、ただひたすら機械的に日々を過ごしていた。

 これまで通りフィルマンの屋敷で寝起きし、昼間はカミーユに勉強を教えてもらい、暇さえあればフィルマン達と街でお茶をし、食事する。ロゼに来てからの日常とほとんど変わりない。

 むしろ、変わったことといえば、カミーユの実家には行かなくなったことだろうか。

 西地区ワーズ街に行く本来の目的も無くなってしまったし、敢えて行くこともない。それはあくまでブランカが心の内で思っていただけのことであるが、どういうわけかフィルマン達も彼女をそちらへ連れ出すのをぱたりと止めた。最初こそそれを不思議に思ったが、逆にカミーユの母とオーベルがフィルマンの屋敷に来るようになり、カミーユの実家でやっていたことと同じことをこちらでもしていたので、ブランカはすぐに深く考えるのを止めた。

 また、ダムブルクに帰りたい気持ちが以前より弱くなった。というよりは、それをフィルマンに交渉する気力が低下したのだ。

 頭ではいつまでもロゼにいてはいけないと思ってはいる。西地区ワーズ街と同様に、ロゼにいる理由も無くなった。まだダムブルクでも『反ダールデモ』が活発しているとしても、ロゼにいるのとではやはり変わらない。そう思ってあの日以来一度だけフィルマンに交渉してみたが、彼が言うのはこれまで通りで、ブランカは結局ロゼに止められた。それ以降はブランカも無理にダムブルクに帰ろうとは思わなくなった。

 彼女はあの日以来、ずっと無気力で、そして虚ろだった。

 あの日――アルトロワ広場で起こったあの惨劇。

 ブランカの虚ろな心は、ずっと母を想っていた。

――あんなにすぐ目の前にいた。どれほど辱められても放心状態だったのに、母は私の声で目を覚まし、微笑んでくれた。

 五年の年月で変わり果てた自分を、きちんと認識してくれた。音にはならなくとも、母は娘の名を口にした。

 ちゃんと、生きていてくれていたのだ――あの瞬間までは。

 突然響いた銃声。母の胸から噴き出た血潮。頭から飛び出た何かの欠片。

 あの瞬間の光景が、何度も瞼の裏に蘇る。

 流石にフィルマン達が前にいるときは何とか抑えるが、一人の時にあの光景が蘇ってくると、ブランカは堪らず嘔吐し、溢れ出る涙を止められなかった。

 何も出来なかった。あんなに近くにいたのに、ただ見ることしか出来なかったのだ。

 かと言えば、一体自分には他に何が出来ただろう。

 あの場に名乗り出て母の身代わりになることだろうか。実際それをしたところでブランカが撃たれていたことには間違いないが、おそらく母を守ることも出来なかっただろう。デモ隊はマクシミリアン・ダールベルクの娘を恨んでいたのだから。それとも自分はあの場で一緒に死ぬべきだったのだろうか。

 その他には何が出来た? 何も考えが浮かばない。

 結局彼女はただ見ること以外出来なかった。見殺しにするしか、出来なかったのだ――五年経った今でも。

 考えるほどに心が引き裂かれるほどに痛み、やるせなさばかりが次から次へと込み上げてくる。

 こんなにも苦しくて頭がどうにかなりそうなほどの痛みを、フラウジュペイの人たちは、フィンベリー大陸の人たちは六年間も味わい続けてきたのだろうか。フィンベリー大陸戦争では、大陸のあちこちで惨いことが繰り広げられた。先週のような処刑ショーも、きっと昔のヘルデンズ兵が行っていたものなのだろう。

 だとすれば、この痛みは与えられるべくして与えられたものなのだろうか。母の死も、当然の報いだったのだろうか。

 マクシミリアン・ダールベルクの血が流れていること自体が罪ならば、ブランカも母のように処刑されるべきなのだろうか――。

 あの時の光景を再び思い出して、ブランカは身震いした。

 彼女の身体は、アルトロワ広場のあの惨劇に、ひどく震えている。あんな大衆の目の前で嬲られて見せ物にされるだけでも耐えられるものではないのに、更に銃で撃たれるなどあまりに恐ろし過ぎる。母を見殺しにするしか出来なかったこの自分は、死ぬことに恐れを感じてしまっているのだ。

 しかし、自分はこの先どうなるのだろう。

 やはり正体を隠したまま生き続けるのか。生き続けたところで何がある。そもそもどうしてここまで生きてきたのか分からなくなってきた。

 五年前は、母が言った『逃げて』の言葉と、祖父の手紙にあった『ヘルデンズの運命はお前の手に』という文章に突き動かされて必死に逃げ延びた。結局すぐに一人になって施設に引き取られ、どうすればいいのか分からないまま今まで生きてきてしまった。

 そして母は再び言った。『逃げて』と――。

 だが、どこに行ったってブランカは大陸中の悪者でしかなく、正体を隠したとしても一生後ろめたさが付きまとう。逃げたところでこの先に希望などないし、明るい未来を望むことすら許されないだろう。

 それならばと思うのに、やはり死ぬことは恐ろしい。

 結局のところ、ブランカは生きる覚悟も死ぬ覚悟も出来ていないのだ。そうして込み上げてくる悲愴感と激しい自己嫌悪に心と頭を殴られては、最終的にブランカはひどく無気力になっていた。

 ブランカの頭の中はずっとそんなことばかりが駆け巡っていた。

 身体は機械的に日常を過ごし、頭の中は常に母を想う。

 まさに心と身体がちぐはぐの状態で、まるでステージに現れたばかりのジルヴィアが見せた放心状態が感染ったかのように、ブランカは虚ろだった。フィルマン達は何も言わないが、おそらく端から見ても心ここにあらずの状態に見えただろう。それでもブランカは気にしなかった。

 そんなブランカの心を現実に呼び戻したのは、フィルマンの屋敷にかかってきた一本の電話だった。



 アルトロワ広場の発砲事件から十日が経ったある日の午後。カミーユの母がオーベルと一緒にフィルマンの屋敷にやってきた。

「やあ、叔母さん。毎日毎日悪いね」

 フィルマンが玄関先でカミーユの母を迎える。ブランカも一緒になってフィルマンの隣に並ぶと、カミーユの母はにっこり嬉しそうに笑って手を横に振った。

「いいのよ、私も家で一人で暇だったから。それにこっちの方が、居心地がいいのよね」

「フィルマンの家はうちより広いですからね。色々物も揃っていますし、私もこちらに泊まり込もうかと思うことがかなりあります」

「よしてくれよ、カミーユ。そんなことを許してしまえば、四六時中君と過ごさなくてはいけなくなるじゃないか」

 フィルマンはおどけたように肩を竦めた。

「さて、僕とカミーユはこれから商談があって出かけなくてはいけないんだ。ブランカ、叔母さんのこと頼んでいいかな?」

「はい、大丈夫です」

 ブランカは機械的に答えた。

 すると、カミーユの母がブランカに飛びついてきた。

「それならあなたたちが帰ってくる前にこの子をとびきり可愛くしておくわ! 夕飯も作っておくから、ゆっくりしてらっしゃい!」

「まったく、君は本当に叔母さんのお気に入りだね」

 それだけ言うと、彼はカミーユと一緒に出かけていった。

「さぁ、早くおめかしして買い物にでも行きましょう」

「そう、ですね」

 そうして二人はフィルマンの屋敷のリビングに向かった。

 大抵カミーユの母が来るときは、西地区にいたときと同じようにオーベルの散歩をしたり、彼女が持ってきたレコードや映画を楽しんだりしている。

 この日もすぐにリビングのテーブルに化粧道具が広げられ、ブランカの変身タイムが始まった。

「今日はね、とびきりいいものを持ってきたのよー!」

 カミーユの母の嬉しそうな様子に、ブランカは口元を和らげた。

 ブランカは表面上にこやかに接してはいるが、やはりどこか上の空で、耳に入ってくるものも、視界に入ってくるものも、半分くらいしかきちんと認識していなかった。

「こっちに来てもう三週間になるのかしらね? どう、こっちの生活は」

「だいぶ慣れました」

「そう、それはいいことね。ダムブルクでの生活はひどいんでしょう? 火傷の子を放っておくくらいだものね」

「それは、その私がそれで気にしなかったので……」

「あら、ダメよ気にしなくっちゃ! 年頃の娘さんなんだから」

「はぁ……」

 ブランカが適当に相鎚を打っているのに気が付いているのかいないのか、カミーユの母は楽しそうに手を動かしながら話を続けた。

「まぁ、あなたのように可愛らしくて気の利く子なら、余所に行くよりフィルマンにこのままもらってもらう方が断然いいわね」

「え……?」

「フィルマンてば、いい子でしょ? 仕事は出来るし話し上手だし、見た目も悪くないでしょう? それなのに四十近くなっても結婚していないって、どうかと思うのよね」

「そう、ですね……」

「ねぇあなた、どうかしら?」

「どうって?」

「フィルマンと結婚してみない?」

「えっと……」

 適当に相鎚を打っていたとは言え、流石にこの質問には困った。どう返そうかと、ブランカは虚ろな頭で無難な答えを探し出す。

 すると――。

――リリリリリリリリリン。

 リビングに備え付けられてある電話が、突然鳴り響く。カミーユの母は「間が悪いわね」と文句を垂れるが、ブランカは正直助かったと思い、電話のところへ向かった。

「はい、ランベールです」

 ブランカは、迷わず受話器を取った。フィルマン達が不在の時はいつも彼女が代わりに電話に出ていたから、このときも特に何も考えずにそうしていた。

 しかし、向こうから聞こえてきた声に、ブランカの思考が凍り付いた。

「……何だ、フィルマンは漸く女でも作ったのか?」

 数秒の間のあと聞こえてきた声は、とても低い男の声。愉しげに笑いを含ませて喋る口調の中に、独特の凄みと尊大さが潜んでいる。

 虚ろだった心が、一気に地上へと引き戻される。くぐもっていた聴覚は瞬時に研ぎ澄まされ、靄のかかっていた視界はあっという間にはっきりする。

 ブランカの深緑色の瞳は、大きく見開かれていた。

――嘘……この声って、まさか、まさか……!

「それで、フィルマンは今いないのか?」

 次に発された声に、ブランカの懸念は更に膨れあがった。

 ただ声が似ているだけなのかもしれない。むしろ、そうであってくれればいい。

 だが、考えれば考えるほどに、ブランカの疑問は確信へと繋がっていく。

 そもそもこの声を忘れるはずがない。

 聞き間違えるはずもない。

――もう二度と聞くこともないと思っていたのに……!!

 受話器を持つ手が大きく震え出し、歯ががたがたと打ち付け合う。頭のてっぺんから足の先まで身体が急速に冷えてゆき、喉が枯れていく。息をするのも辛くなってきた。

 ブランカが何も言わないのを訝しんでか、男は再度尋ねてきた。

「フィルマンはいないのか?」

「い……いません……」

 ブランカは、震え上がる声を何とか絞り出した。無理矢理声も変えてみたが、相手に気付かれてはいないだろうか?

 男は「そうか」と呟く。

「それなら帰ってきたら電話をかけ直すよう伝えておいてくれ。あぁ、私の名前を伝え忘れていた。私は――」

 その瞬間、ブランカは受話器を電話機に戻した。

 両手が、受話器を強く握りすぎて白くなりかけている。肩は大きく上下して、荒い息が口から漏れた。

 大量の冷や汗が、全身から噴き出していた。

「ブランカ? どうしたの? 今の電話は?」

 あまりに不自然なブランカの様子に、カミーユの母が心配そうに声をかけてきた。

 ブランカはハッとして口元に無理矢理笑みを浮かべた。

「あ……えっと、勧誘の電話……みたいです」

「そう、それは迷惑ね」

――迷惑。

 迷惑は迷惑だ。

 結局さっきの電話の人が誰なのかブランカは分からなかったが、きっとブランカの予想通りだろう。

 もう一生関わることもないと思っていた。もう二度と関わりたくもなかった。思い出したくもなかったのに、どうして今更になってその存在を知らしめてくるのか。

 そもそも、どうしてこの家にあの人からの電話がかかってきたのか。

 全くの偶然か、ただの人違いか。

 それとも別の何かか――。

「さぁ、ブランカ、早くこっちに来て。まだ仕上がっていないんだから」

 カミーユの母に声をかけられて、そちらを向くと、ちょうどリビングに掛けられた鏡に自分の姿が映っていた。

 真っ白な肌、火傷を誤魔化した赤い頬。深緑色の瞳は変わらない。

 しかし、彼女の頭には、背中まで真っ直ぐ伸びるハニーブロンドのウィッグが被せられていた。

――嘘でしょ……?

 顔の雰囲気も瞳の色も、昔の自分とも母とも違う。だからなのか、栗色のウィッグをかぶったときは何も感じなかった。

 それなのに、ブロンドの色だって微妙に違うのに、今の自分は昔の自分の面影と、母の面影を色濃く残していた。

 嫌な汗が、背中を流れる。

 悲観的に暮らしていたこの十日、知らぬ間に自分はこんな姿で街中を歩いていたのではないだろうか。そんなところを、あの人に見られてしまったのではないだろうか。

「ちょっと! どうして外すの!? 可愛らしいのに!!」

「すみません、少し内側がチクチクしていたので……」

 ブランカが勢いよくウィッグを取ると、カミーユの母はすかさず彼女を非難する。ブランカは力なく笑ってそれを宥めた。

 同時に妙な胸騒ぎが、彼女を襲った。

――どうして、あの人がここに電話を掛けてきたの?

 フィルマンとあの人の間にどういう関係があるのか、まるで分からない。

 とにかく今分かることは一つだけ。

 ここは危険だ。

 よく分からないが、あの人がフィルマンと繋がっているのなら、ここにいてはいけない。

――今夜フィルマンさんが帰ってきたら、ダムブルクに帰ることをちゃんと交渉しよう。じゃないと、またあの人に――……!

「ブランカ、何をしているの? 早くいらっしゃい――あら? どうしたの? 顔がとても青いわよ?」

「小母さん……いえ、何でもないです……」

 近づいてきたカミーユの母に、ブランカは何とか作り笑いを見せるが、彼女の言うとおりブランカはひどく震えていた。全身が冷たくなっているのが自分でも分かる。

――怖い……!

 怖いのだ。

 死ぬことよりも、誰かに恨まれ続けることよりも。

 ただあの人に見つかることが恐ろしいのだ。

 ブランカは、震え上がる身体を叱咤しつつ、ダムブルクに帰ることを固く決意した。

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