9.オーベルの記録
その電話の後、ブランカの気持ちは一向に落ち着かなかった。
ずっと誰かに見られている気がしてならないし、もしかすると自分の正体が知られているのではという考えが、彼女の頭の中を占めていた。
そのため、ブランカはカミーユの母にしてもらった化粧を全て落とした。
「今日、あなたおかしいわよ? 熱でもあるのかしら?」
隣で夕食の準備をするカミーユの母が、折角綺麗にしたのにと唇を尖らせる。ブランカは彼女の隣で手伝いをしながら、力なく笑って安心させた。明らかに不自然であるのは自覚していたが、ここでベッドに縫い止められるわけにはいかなかった。
――何としてでも明日の朝一に、いや、早ければ今日中にでもここを出なければ……!
あの人が一体どこから電話を掛けてきたのか分からないが、ここに迫ってきている気がしてならないのだ。ダムブルクでもどこでもいいから、少しでもあの人から遠ざかりたい。
しかし、果たしてこのことをどのようにしてフィルマンに説明したものか。
本当のことは話せない。電話の件も説明するわけにはいかないし、そうなるとブランカがダムブルクに帰りたがっているということで話を進めるしか思い浮かばない。
だが、フィルマンがこれにすんなり了承するとは思えない。元より彼は児童施設そのものに批判的だし、ダムブルクのこともあまり良く思っていない。そんな彼を納得させるには、果たしてどうするべきか。
頭の中をそんな考えが駆け巡っているとき、ふとカミーユの母がキッチンの戸棚を開けて「あ」と声を上げた。
「あらやだ。バゲットがないわ。買い忘れね」
困ったように呟く彼女の横から戸棚を覗いてみれば、確かにバゲットのストックが切れていた。その分を作ろうにも、小麦粉の量も足りていない。
カミーユの母は壁にかかっている時計を見上げながら、着けていたエプロンを外した。
「仕方ないわね。まだやっているパン屋さん近くにあったかしらね」
「え、今から行くんですか?」
「えぇ、あった方がいいでしょう? 急いで行ってくるわね」
「ま……っ待ってください!」
ブランカは咄嗟に彼女の腕を取った。
「わ、私も行きます……!」
ブランカはいつもよりも力んだ声で言った。カミーユの母の不思議そうな視線を感じつつ、ブランカは窓の外に視線を流した。先程、カミーユの母と買い物に行ったときより外はだいぶ暗くなっている。そんな中で一人でここに居たくなかった。
――留守のときにあの人がやってきたら……!
そんな不安に駆られるブランカを、しかしカミーユの母は断った。
「あなた、やっぱり顔色悪いわ。気を遣わなくても大丈夫だから、少し休んでいなさいな」
「いや、でも……っ」
「あぁ、何かしてないと落ち着かないなら、オーベルの様子見ていてもらえるかしら。それじゃあ行ってくるわね」
カミーユの母は、ブランカを無理矢理キッチンの椅子に座らせると、早足で出掛けていった。すぐにブランカは追い掛けようとするが、オーベルが足に絡み付いてきたせいで、それは叶わなかった。
――やだ……怖い……!
ブランカは廊下にうずくまった。
この屋敷で一人になることは幾度とあっただろうが、こんなにも恐ろしく思うことはなかった。
たった一本の電話。それがブランカをここまで怯えさせている。
キッチンの蛇口から落ちる雫の音。電球を鳴らす甲高い音。屋敷の前を通る車の音や隣の家から聞こえる足音。それら全てがあの人の訪れを知らせているかのようだ。
恐ろしさのあまり、ブランカは自身の体を掻き抱いた。そしてブランカは縋るようにスカートのポケットを掴んだ。
布越しに分かる硬い感触と紙の感触――肌身離さず持ち歩いている薄萌葱の手紙とゴールドのブローチ。それらを掴む手が、大きく震える。心臓が大きな音を鳴らしていた。
あのときも、こんな感じだった。
だいぶ状況は異なるが、この息が詰まりそうな感覚を、ブランカは覚えている。
迫り来る足音に怯え、必死に身を隠していたあのとき――……。
――キィ。
「ひぃっ」
突然鳴り響いた物音に、ブランカは大きく肩を揺らした。恐怖のあまりに心臓が止まりそうになる。
物音がした方を見れば、オーベルが廊下の奥の部屋に入ろうとしていた。さっきの物音はオーベルがそこの扉を開けた音なのだろう。
ブランカはホッと胸を撫で下ろすと、オーベルの方へ駆け寄った。
「オーベル、勝手に入ろうとしたらいけないわ」
「クウン?」
「そんな声を上げてもダメよ。ここはフィルマンさんの書斎なんだから――」
オーベルに言い聞かせながら、ブランカはハッとした。
――フィルマンさんの書斎。
そこに、もしかするとあの人との関係が分かるものがあるのかもしれない。
何もなくてもここが危険なことには変わりないが、この部屋に真相が潜んでいるのならば、知りたい。
いけないことだと思いつつ、ブランカはフィルマンの書斎に足を踏み入れた。
書斎に入るなり、ブランカは窓のブラインドと遮光カーテンを閉め、電気を付けた。ひとまず外から誰かに見られているという不安を拭い去りたかったからだ。
とにかくフィルマンとカミーユが帰ってくる前に調べなければ――。
ブランカは窓際に備え付けられているデスクに近づいた。
彼の性格故か、もしくはカミーユの几帳面さからか、デスクの上は綺麗に片付けられている。下手にいじるとブランカが嗅ぎ回ったことがばれそうだが、とりあえずそこから手を付けることにした。
企画書、報告書、申請書に会議の書類。めくってもめくっても、難しい仕事の書類ばかりでそれらしいものは一つもない。ブランカは小さくため息を吐きながらそれらを整え元に戻すと、デスクの引き出しに手を掛けた。
「ダメか……」
デスクにはサイドに引き出しが四つ備え付いているが、そのどれもに鍵が掛けられていた。残るはデスクの中央にある引き出しだが、そこには文房具が並べられているだけで、目的とする物は何もなかった。
となると、やはり鍵の掛けられている引き出しに何かが隠されているような気がするが、鍵がないのではどうしようもない。おそらくその鍵もフィルマンが携帯しているのだろうが、もしかするとこの部屋のどこかに隠されているなんてことはないだろうか。
ブランカは書斎の中を見渡した。
この部屋にあるのはデスクの他に、スタンドライトとコート掛け、ソファとローテーブルの応接セットと、後は本棚だ。その中で隠すとしたら、ソファの下か本棚の中か。デスクの鍵は日常的に使う物だし、ソファの下に隠すよりは本棚の中の方があり得そうだ。
ブランカは本棚に近寄った。
すると、一緒に入ったままのオーベルが、ブランカの足元にすり寄ってきた。オーベルは、彼女の腰の位置にある本に前肢を掛けてそこを覗き込もうとする。
「オーベル、ダメよ、そんなことしちゃ」
ブランカがオーベルを本棚から引き剥がそうとしたとき、一冊の本がオーベルの前肢の爪に引っかかり、床に落ちた。
ブランカはそれを拾い上げる。
『オーベルの記録 その1』
本と言うよりアルバムのような様相のそれは、表紙に手書きでそう書かれていた。ブランカはそれが落ちてきたところを確認する。そこには、同じようなタイトルのものが、その一からその五まであった。
「……あなたはこれが欲しかったのね」
ブランカは横でお座りするオーベルの頭を撫でつつ、内心とても不思議に思っていた。まさかフィルマンがそんなにもオーベルを可愛がっていたとは、かなり意外だ。普段の様子からでは全く想像も付かないが、従弟の愛犬の記録を五冊も残しているというのは、相当なものだろう。
こんなものを見ている場合ではないというのに、ブランカは少しばかり気になって中を覗いてみた。
そして、表紙を一枚めくって出て来たものに、ブランカは目を見開いた。
「女の人……?」
そこにあったのは、今足元にいるゴールドとシルバーの混じった毛並みの犬ではなく――ブロンドの髪の女性の写真だった。もっとも白黒写真であるから、正確な色はよく分からないが、とにかく二十代くらいのブロンドの髪の女性が、白いワンピースを着てソファに座っていた。
写真の下に、何かが書かれていた。
『XX74年8月12日、ルイーズ・マロール
大学時代の友人で内務大臣の娘のルイーズ。ヘルデンズ兵に見つからないよう、うちで匿うことになった。その間、彼女を
この女性は、フィルマンの昔の恋人なのだろうか。
書かれた日付は、今よりも十一年も前のもの――フィンベリー大陸戦争が始まった年だ。確かにこれくらいの時期には既にフラウジュペイを攻めていたから、この日記も頷ける。
ブランカは罪悪感に胸を痛めながらも、ページをめくった。
最初のページと同じく、ルイーズという人の写真が、その後も続く。どれも室内で撮られたものばかりだが、彼女がカメラに向ける顔はどれも優しく微笑んだものばかりだった。
しかし、その穏やかなページは、途中で全く別のものへと移り変わった。
「な……にこれ……」
ブランカが手を止めたページには、ルイーズという人が、涙目で半裸を晒している写真が貼られていた。
ブランカは、写真の下の文に目を移す。
『XX76年4月30日、ルイーズ・マロール
オーベルは最近反抗的だ。寝起きは悪いし、昼間は当たり散らす。夜は泣いてばかりいるし、こっちもうんざりだ。屋敷から出られないからストレスが溜まっているのは分かるが、流石に苛々してくる。いい加減にしないとヘルデンズ軍に売ってやると脅してやれば、彼女は泣いて縋り付いてきた。最初からそうすればいいのにな。』
最初のページからの変わり様に、ブランカは嫌な汗が背中を伝うのを感じた。
それでもブランカは先に進めた。
数枚めくった後に出て来たのは、ヘルデンズ兵に抱かれるルイーズだった。
『XX76年6月1日、ルイーズ・マロール
街を歩いていたら、とあるヘルデンズ将校が女を寄越す代わりに従軍免除の話を持ち掛けてきた。本当かどうか分からなかったが、いい加減オーベルの相手をするのも飽きてきたので差し出してみれば、翌日かなりの額の金と免除証が送られてきた。一体どこまで保つだろうか。分からないが、とりあえず試してみようと思う。』
――なんてこと……。
ブランカは信じられない気持ちで、ページをめくった。
次のページからは、ルイーズとは違うブロンドの髪の女性が続いていた。
『XX76年7月23日、アニエス・クレメンツ
記念すべきオーベル二号。舞台女優のアニエス。先日仕事で一緒になったのをきっかけに、何度か会うことになった。彼女は何もかもが完璧に見えるが、たまに高飛車なところが腹立たしいので、早々にヘルデンズ兵に受け渡した。最初こそ彼女は抵抗していたが、案外まんざらでもないらしい。』
その次のページにはまた別のブロンド髪の女性。
『XX76年9月10日、マルゴ・ルブラン
先日アジェンダ街で実行されたアジェンダ狩りで逃れてきた一人。彼女は見た目はおおよそアジェンダ人らしくはないが、どうやらフラウジュペイ人とアジェンダ人のハーフらしい。私のところでしばらく匿うことにしたが、非常につまらない女だったので通報したら、いつもより倍の金をもらった。一般フラウジュペイ女性よりアジェンダ人の方が割がいいらしい。』
そこからしばらくブロンド髪ではない典型的アジェンダ人女性の写真が続いて一冊目は終わった。
アルバムを持つ手が、震え出す。
――これを書いたのが、本当にあのフィルマンさんなの?
ブランカは一冊目を本棚に戻すと、二冊目に手を伸ばした。
中のページは一冊目と同様。髪色に限らず、非アジェンダのフラウジュペイ女性とアジェンダ人の女性が、時には恋人に見せるような朗らかな笑顔で、時には淫らな格好で恐怖に怯え、時にはヘルデンズ兵とツーショットで映る写真が、どのページにも漏れなく張られていた。書かれている内容もほぼ同様、ヘルデンズ兵に渡した、差し出した、献上した。
すると途中で、カミーユが入った写真を見つけた。
『XX77年3月6日、レベッカ・オフレ
カミーユにこの仕事を教えたら、早速一人女を連れてきた。懇意にしているヘルデンズ将校にカミーユのことを話したら、彼は快く承諾してくれた。これでうちの親戚は安泰だ。』
それから同じようなページが何枚も続く。アジェンダ人を含め、フラウジュペイ女性ばかりだったそのアルバムは、途中からフラウジュペイに逃れてきた他国の女性も混じるようになった。
フィルマンとカミーユは、フィンベリーの女性をオーベルと名付け一時的に匿い、それをヘルデンズに売り続けていた。他の多くのフラウジュペイ人が無理矢理従軍させられヘルデンズ軍に虐げられている間、彼らは実に三十人近く女性を餌に生きてきたのだ。
彼らこそ、『反ダールデモ』で摘発されるべき存在だったのだ。
むしろ、こんなことをずっと続けてきていたのに、彼らが今『反ダールデモ』の対象から外れているのはおかしい。
ブランカは三冊目に手を伸ばした。
そこに、ブランカの疑問に対する答えがあった。
『XX79年10月26日、ヘレーネ・ケルナー
ロゼに残っていたヘルデンズ女性が助けを求めてきたので、とりあえず匿ってみた。しかしフラウジュペイ軍がしつこく親ヘルデンズ派の疑いを掛けてくるので、彼女を差し出すついでに知り合いのヘルデンズ人の潜伏先を教えたら、すぐにその疑いを解いてくれたので良かった。』
そう、そこにあったのはブランカにとって馴染み深かったヘルデンズ女性の写真だった。その日付はちょうど、ブラッドロー・西フィンベリー連合軍が、ロゼをヘルデンズから奪還した後だった。そこから先は、女性に限らずヘルデンズ人が続く。
彼らは、フラウジュペイ軍が優勢になったと同じタイミングで、売り渡すものをヘルデンズ人へと変えたようだった。
――なんて卑怯なことを……。
「――クウン」
足元のオーベルの声に、ブランカはハッとする。
あまりに夢中になって『オーベルの記録』を読んでしまったが、ブランカはゆっくりこれを読んでいる場合ではなかった。時計を見れば、流石にそろそろフィルマンが帰ってくる時間だ。急いでここを退散しなければ。
ブランカは手に持っていた『オーベルの記録 その3』を本棚に戻しながら、しばし逡巡する。
――まさかこんなことをフィルマンさんがずっとしていたなんて……。
あまりに信じられないことだが、今読んだ三冊は端的にそれを表していた。陽気なビジネスマンでしかないと思っていたフィルマンが、ブランカの中で歪んでいく。彼にはもう後ろ暗いものしか感じられなかった。
そこにちらつくのは、あの人の存在――。
――もしかして私は、今のうちに逃げるべきなのではないか。
ブランカは『オーベルの記録』を三冊目までしか読んでいないが、彼の人身売買が今も続いているとしたら?
彼がブランカをダムブルクへ帰したがらない真の理由が、うっすらとブランカに見えてくる。そしてそれは、とても考えたくないほどに恐ろしいことだ。
悪寒が背中を掛ける。手が大きく震えるが、ブランカは恐る恐る五冊目に手を伸ばした。
そのとき、足元のオーベルが身を乗り出したので、ブランカは思わず片手に握ったままの『オーベルの記録 その3』を落としてしまった。
それは床に落ちた反動で、中のページが開いた。
ブランカはそれを、信じられない気持ちで眺めた。
開いたページにあったのは、淡いブロンドの髪に薄い瞳の色をした、若干やせ細った女性。少し疲弊した顔つきで、その人はカメラに向かって力なく微笑んでいる。
この顔を知らないはずがない――ブランカがよく知っている人だ。
しかもつい先日見たばかりだ。
『XX80年5月12日、ジルヴィア・ダールベルク
史上最大の侵略者の自殺に世界中が沸騰している中、とんでもない人物を拾ってしまった。マクシミリアン・ダールベルクの一人娘、ジルヴィア・ダールベルク。ロゼ郊外で生き倒れていたので、とりあえず連れて帰ってきた。』
――嘘……でしょ……。
そう、そこにあったのは、五年前別れたときの母そのものだった。
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