6.母

 『反ダールデモ』で拘束された人が、その後どうなっていたか。

 一般のヘルデンズ人はフラウジュペイから追い出され、ヘルデンズ関連の仕事をしていた一般のフラウジュペイ人は仕事を失い、ダール政権派だったフラウジュペイの政治家は活動を停止させられていた。

 一方、ダール体制時代のヘルデンズ軍元幹部のその後については謎だった。一部の人については、フラウジュペイ警察やブラッドロー・フラウジュペイ連合軍へ身柄を引き渡されたらしいが、ほとんどの人については新聞では一切触れられなかった。

 だから彼らがいきなりステージに並べられて、観客たちはみな戸惑い困惑するばかりで、殺意や憎悪を顕わにしている人はまだ半分くらいだった。

 しかし、彼女の登場によって、半分くらい残っていた困惑は、完全なる殺意や憎悪へと変わっていった。

――そんな! お母さん!!

 かつての自分と同じプラチナブロンドの髪。昔の自分のものよりも少し濃い萌葱色の瞳。白く透き通った肌は、最後に見たときよりも艶やかに見えるが、見間違うはずがない。

 紛れもなく、五年前別れたきりの母だった。

 その母が、こんな大衆の面前に、あられもない姿を晒している――!

「皆さま、ご存知! このアルトロワ広場はフラウジュペイを正しい道へと導いてきた歴史の大舞台! 大昔はここで他国を打ち負かし、二百年前はここで邪悪なの独裁者を裁き、今日に繋がるフラウジュペイが作られた! そして五年前! 我々はここでかの邪悪なる蛮族ヘルデンズ共から、聖なる我が祖国を取り戻した!」

 ステージの真ん中で、司会が大きく手を振り上げ語り始める。

 彼は、それまでの丁重な言葉遣いから、途端に尊大なものへと話し方を変えた。それこそまるで、革命の指導者であるかのようだ。

 司会は観客が自分に聞き入っているのを確認すると、「しかし!」と声を張り上げ後ろに並ぶ囚人たちを手で指した。

「聖なる我が大地に、この虫けら共はしぶとく寄生し続け、神聖なる大地を、空気を、水を、その汚物で汚してきたのである! その中でも特にこの女!」

 司会は囚人たちの真ん中に立つジルヴィアの髪を乱暴に掴み、ステージ前方へと投げ捨て、ジルヴィアは壇上で倒れ込んだ。

「この女は、我らが最大の仇、マクシミリアン・ダールベルクの実の娘! 本来ならばこの地を踏むことも許されず、太陽の下を歩くことも許されざるはずなのに、見て下さい! この艶やかな髪を!」

 司会はジルヴィアの豊かなプラチナブロンドの髪を観客に見えるように持ち上げると、懐から出したナイフでそれをざっくり切り落とした。

「見て下さい! この艶やかな肌を!」

 短くなったジルヴィアの髪を掴み上げ、その顔を観客に見えるように身体の向きを百八十度回すと、司会は思いっきり手を振り上げ、彼女の白い頬を勢いよく叩いた。

――なんてことを!

 張り倒されたジルヴィアは、再び壇上に尻を付き、赤くなった頬を手で覆った。そして上げた顔を、ブランカは信じられない気持ちで眺めた。

――やめて……お母さん……。

 例え、異議を唱えることの出来ない立場であったとしても、首を鎖でつながれ布はシュミーズしか着せてもらえず、髪を無惨に切られ頬を強く張られたら、流石に平然とはしていられないだろう。

 しかし、彼女は今、微笑んでいた。

 頬を仄かに赤く染め、口をだらしなく半開きにし、虚ろな瞳をうっとりと細めて観客に向けたその顔は、恍惚とした光を放っていた。

「なんということだ! この女、この状況で喜んでいる! これではまるで娼婦! 長年苦しめた悪魔の娘の正体がこれだ! なんと浅ましいことか!」

 無遠慮に響く司会の声に、ブランカは耳を塞ぎたくなった。

――まるで娼婦。

 不本意ながら、ブランカもそう思ってしまった。

 今の母の姿と表情は、まさしくそんな状態だった。あまりに淫らなその様に、本当にあの母なのかと一瞬だけ疑いたくなった。

 しかし、何度見てもそこにいるのは母に違いなかった。

 母は、完全に正気を失っていた――。

「この女が、この蛮族の輩共が! この五年間、いや、この十一年間、我らがフラウジュペイを汚し続けてきたのだ! そこで今日この日、このアルトロワ広場の真ん中で、この虫けら共に、我々が天の裁きを与えようではないか!!」

 司会が大きく両手を広げて高らかに言い放つと、それまで彼の言葉に聞き入っていた観客は、一斉に叫びだし、聞くに堪えない怒号や罵倒を壇上へと投げかけていた。

 そして次の瞬間――。

 司会の合図と共に、囚人たちに水が掛けられた。ダンサーたちがバケツの水を後ろから掛けたのだ。

「おかあ――むぐっ」

「あまり穏やかじゃないね、少し下がった方がいいかもしれない」

 思わず叫びそうになったブランカの口をフィルマンが塞ぎ、ステージに乗り出さんばかりのブランカの身を後ろに引いた。

 同じことを司会も考えていたのか、ステージ周りの人に下がるようジェスチャーした。

「前方の皆さま、色んな物が飛んでくるので、少しだけお下がり下さーい!」

 彼がそれを言い終える前に、観客の後方から白いものが壇上に向かって投げられた。それはジルヴィアの頭に当たって破裂し、彼女の頭に黄色と透明のものが垂れ落ちる。

 それが卵だとブランカが認識するよりも早く、次から次へと壇上に向かって物が投げられた。

 卵、トマト、泥団子、石、中には酒瓶を投げつける者もいた。

 最初こそはショーのスタッフが観客後方からそれらを投げていたのだが、次第に観客も投げる物を探し始め、一緒になって囚人たちに物をぶつけていた。囚人たちの数人は、既に頭から血を流していた。

――やめて!

 ブランカは何度も身を乗り出しかけたが、左右から抑え付けられていた。

「なかなか不愉快なステージですね。観客にも当たりかねない」

「あぁ、まったくだね。早々に退散した方が良さそうだ」

「待っ――……っ」

 フィルマンとカミーユは、ブランカの気持ちとは反対の方向に彼女を引っ張ろうとする。ブランカは必死にその場に踏ん張ろうとするが、男二人の力には敵わない。

 伸ばせば手が届くところに母がいるというのに――!

 その間もジルヴィアや囚人たちはペンキをぶちまけられ、観客たちのひどい罵倒を浴び、笑い物にされていた。囚人たちの多くは屈辱に顔をしかめるが、その中でもジルヴィアだけは、この状況にそぐわない笑みを浮かべていた。

――お母さん!!

 いよいよブランカが最前列から観客の波へと飲み込まれようとしていたときだった。

「そこまで! 全員やめなさい!」

 突然もの凄い圧力で前方へ押し出されると、観客の真ん中ゾーンに通路が作られ、次から次へと武装した人たちが現れた。

 水色を基調とした軍服と、グレーの生地にブルーのラインの入った軍服の二種類がそこにはあった。前者はフラウジュペイ軍、後者はブラッドロー軍の人たちだ。

 彼らはあっという間にステージの周りを取り囲んだ。観客は一気に静まりかえる。

 フラウジュペイ軍の中からリーダーらしき人が一歩前に出る。

「その者たちを見つけ出した君たちには、心より感謝をしている! しかし、その者たちは軍部で正統に戦犯裁判にかけねばならない。即刻その者たちをこちらに引き渡したまえ!」

 それは至極当然なことだった。囚人たちは、ダール体制時代のヘルデンズ軍の幹部だった。見つけ出したら直ちにフラウジュペイ軍やブラッドロー軍に引き渡されなければいけなかった。

 しかし、ステージ上の司会は、軍部の要求にはすぐに応えなかった。

「お待ち下さい、閣下どの。戦犯裁判で裁かれた人たちの顛末を我々民間人は新聞でしか知らされません。死刑囚はこっそり殺され、終身刑の戦犯は牢獄でぬくぬくと過ごしている。あぁ、別にあなた方の邪魔立てをしようって言うんじゃないですよ? ただ我々民間人は、こいつらが喘ぎ苦しんでいるのを見たいだけです、我々が長年そうしてきたように!」

 司会は媚を売るような声で語り出したかと思うと、再び観客の共感を煽るように高らかに叫んだ。彼の思惑通りか、観客は「そうだそうだ!」と一斉に声を上げた。

 司会は尚も怯むことなく、ステージ中央に転がっているジルヴィアの髪を掴み上げた。

「それに閣下どの、引き渡せと言うからにはこの女もきちんと裁いてくれるんでしょうね? この女はマクシミリアン・ダールベルクの娘! あの男が勝手に死んだせいで我々の恨みは晴らせないままでいます。ですから、代わりにこの女をA級戦犯として処刑すると約束して下さいませ! 軍部としても民間人としても、あの男の血は抹殺した方がよろしいでしょう?」

――なんと滅茶苦茶な!

 ブランカが知る限り、ジルヴィアは母として専業主婦として働くのみであり、ヘルデンズ軍のことについてはほとんど関わっていなかったはずだ。確かにたまに祖父の使いをしていたこともあったが、それもごく僅かだった。仮にそれが戦犯行為だとしても、A級戦犯にはなり得ないはずだ。それとも、侵略者の血が流れていること自体が、絶対の罪だというのだろうか。

 ブランカは身体を震わしながら、すぐ前に立つ軍部のリーダーの言葉を待った。

「ジルヴィア・ダールベルクの処遇についてもこちらで決めることだ。とにかく直ちに引き渡さなければ、こちらも手段は問わないぞ」

「なんと! あなた方は守るべき国民の要求を無視するだけでなく、その国民を傷つけようというのか! なんということでしょう! これも悪魔の采配でしょうか!?」

 司会はまだショータイム気分で大げさな手振りをし、そして掴み上げていたジルヴィアを乱暴にステージの床に向かって叩き付けた。

「やだっやめて!!」

 思わず叫んだ声は、騒然とする観客の声にかき消される。

 しかし――。

 その人にはしっかり届いたようだった。

 軍部と言い合いをする司会が観客の注目を浴びる横で、ジルヴィアはゆっくりと顔を上げた。それまで失われていた正気が戻ったかのように、ハッとした表情を浮かべ、それまで虚ろだった瞳は驚きに見開かれている。

 その瞳は、軍人の後ろで首を伸ばしていたブランカに向けられていた。

 ジルヴィアは、唇を動かした――『クラウディア』と。

 ブランカは泣きそうになった。

 最後に別れたときから、この姿は変わり果てた。今は変装しているから本来の姿ではないが、どちらにせよ髪色も違うし、顔だって化粧で火傷が見えなくなっても流石に昔のままではない。それにあれから五年も経っているのだから、自分の声は子供のそれとは明らかに違うはずだ。

 それなのに、母はブランカに気が付いた。成長した娘の声に反応し、真っ直ぐに娘の姿を見いだした。

 成長したブランカを、真っ直ぐにその瞳に焼き付けていた。

 そしてジルヴィアは、慈しみ深く微笑んだ。

 ブランカは、周りの状況も忘れて、母に駆け寄ろうとした。そのとき――。

――パンッ。

 何処かから聞こえてきた銃声と共に、ジルヴィアの胸から血が噴き出した。

「いやああああっ!」

 叫んだのは自分なのか、他の人なのか。

 辺りは水を打ったように一瞬だけ静まり返ると、すぐにあちこちから悲鳴や雄叫びが聞こえてきた。観客は一斉にステージの前から遠ざかろうと、四方八方へとごった返す。

 ブランカもフィルマンに引っ張られていた。

「これはいけない! 危険だ! 早く帰ろう!」

「でも待って! 待ってお母さんが!!」

 ブランカは完全に自分の立場を忘れて必死に母の元へ行こうとするが、男手に敵わず、逃げ回る人に押され、手の届くところにあったステージはかなり遠くなっていく。

 それでもブランカは必死に母の方を振り向く。

「な……おっ俺はこんなの知らない!」

「撃った者は前に出よ!」

 それまで余裕綽々だった司会は思わぬ事態に狼狽え、フラウジュペイ軍やブラッドロー軍は撃った人間を捕まえんとして半分が動き、残りの半分がステージに立たされていた囚人たちを確保しようと動いていた。

 しかし、彼らがそこに到達するよりも早く、新たな銃弾が、ジルヴィアの胸を貫いた。

「いやあああっお母さん! お母さん!!」

 ブランカは力の限り泣き叫ぶ。

 母は、胸を押さえてその場に崩れ落ちながら、なんとか顔だけを、もうほとんど見えないくらい小さくなった娘に向けていた。

『逃げて』

 唇がそう動いた次の瞬間、三発目の銃弾が、ジルヴィアの頭を砕いた。

 そして間もなく取り囲んだ軍人たちによって、ジルヴィアは完全に見えなくなった。



 そこから先のことは覚えていない。

 気が付いたらフィルマンの屋敷に帰っていて、彼に与えられた部屋のベッドに座っていた。

 外はいつの間にか暗くなっていて、沢山の星が夜空に煌めいていた。とても穏やかな夜だった。

 それなのに、身体は未だに震えていて、涙が次から次へと流れていた。

 ブランカは、ワンピースのポケットから薄萌葱色の手紙とゴールドのブローチを取り出した。ダムブルクから持ってきた、ブランカの唯一の私物品だ。

――本当にこれだけになってしまった。

 家族とのつながり。

「お母さん……お母さん……っ」

 ブランカは手紙に顔を埋めた。

 五年前に亡くなったと思っていた母。あの時も彼女は首を絞められながら、「逃げて」と言って娘を逃がした。娘は、瀕死の状態の母を、見殺しにしたのだ。

 しかし、母は生きていた。確かに生きていたのだ。

 それなのに、自分はそれを見ていることしか出来なかった。二度も見殺したのだ。

 頭に浮かぶのは、母の慈悲深い笑顔と、母の胸を貫いた銃弾。

 あんなに近くにいたのに――!

 押し寄せる悲しみと悔しさに、ブランカは思いっきり泣きじゃくった。

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