4.西地区ワーズ街
そもそもブランカがフィルマンについてロゼにやって来たのには、確固たる理由があった。
一週間前にダムブルクで出会ったときにフィルマンが持っていた新聞。『ジルヴィア・ダールベルク、ロゼに潜伏か』と走る見出し。
――お母さん、生きていたんだ……!
母は五年前に死んだはずだった。
ブランカが森に逃げ込む前、母は首を絞められていた。もう息が止まりそうになったとき、母がブランカの方を向いて「逃げて」と口を動かしたのを見て、ブランカは逃げ出した。それが、ブランカが母を見た最後だった。
それなのに母は生きていた。否、本当に母かどうか分からないが、母に似た人がロゼで目撃されている。
本当に母なのか? 確認したいと思うのは、血の繋がった子供として当然の心境だ。話せなくても良い、一目でもその姿を見ることが出来るなら。
そんな気持ちが、ブランカをここまで連れてきた。
しかし、この一週間、ブランカの強い願いは叶えられずにいた。
「おや、ブランカ。休憩中だというのに熱心ですね」
翌日、午前の授業が終わり、フィルマンの屋敷のリビングで新聞を広げていると、カミーユがティーセットを持って入ってきた。言葉に抑揚を付けるのは、この人の癖らしい。
「何か気になるニュースでもありましたか?」
「あ、えっと……」
カミーユがカップに紅茶を注ぎながらブランカが見ているページを覗こうとするので、ブランカは咄嗟にそこを手で隠そうとした。何か理由があったわけではないが、何となくばつが悪かったのだ。
しかし、ブランカが隠すよりも先に、カミーユはブランカが何を読んでいたのかすぐに察したらしい。
「『反ダールデモ』ですか。なかなか収まりませんね」
他人事のように言うカミーユに、ブランカは曖昧に頷いた。
少しでも母に関する情報が載っていないかと、ブランカはロゼに来てから時間のあるときは毎日新聞を広げては、『反ダールデモ』の記事を読んでいた。
市民が吊し上げた人は、日に日に増えている。昨日もたった一日の間に十人もの人が、デモ隊に捕まった。そのほとんどが、一般のヘルデンズ人だ。デモ隊は、ヘルデンズ人であることが罪かのように彼らを拘束し、フラウジュペイから排除しようとしていた。まるでそれは、『人種の美化活動』を間近で見ているようだった。
しかし、どれほど『反ダールデモ』が活発化しようとも、母の目撃情報が更新されることはなかった。
西地区ワーズ街銀杏通り、というところまでは分かってはいるのだが――。
「本当にいい迷惑ですよ。あまりにマスコミが煽るものですから、あっちの方は道路までデモ隊が広がっていて、お陰で毎日帰るだけでも一苦労です」
カミーユがうんざりした様子で言うのを聞いて、ブランカはそういえばと思い出す。昨日のフィルマンとカミーユの会話から察するに、カミーユは西地区に住んでいるようだ。今の彼の発言からも、それは伺えた。
「カミーユさんの家も、ワーズ街にあるんですか?」
少しだけ逡巡してからブランカは尋ねた。
カミーユは片眉を上げると、すぐに愛想の良い笑みを浮かべて頭を横に振った。
「いいえ、私の住まいはヴァラッド街にあります。ですが、ワーズ街のすぐ隣なので、帰り道はいつも通行止めに遭ってしまいます」
「そう、なんですね……その辺りは住宅街なんですか?」
「はい、ワーズ街もヴァラッド街も、本来は閑静な住宅地です。落ち着いていて良いところだったのですがね」
カミーユは眉根を寄せて首を横に振った。ブランカは再び新聞に目を落とした。
――気になる。
それがブランカの率直な気持ちだった。仮にそこへ行ったとしても、母を見られるわけではない。ただ単純に、そこがどんなところなのか知りたいのだ。
ブランカは頭を巡らして口実になるものを探した。
「そ、そういえば、カミーユさんはお家でペット飼ってらっしゃるんでしたっけ?」
声が裏返りそうになるのを必死に抑えながら、ブランカは切り出した。カミーユは確か、昨日の車の中でうちの犬がどうとか言っていた。なんとかそれを切り口に出来ないかとブランカは思い切ってそちらに話題を振ったが、あんまりこういう打算的なことをしたことがないので、ひどく心臓が早鐘を打った。
ちらりとカミーユの方を見れば、彼は一瞬だけ目を丸くして、そして瞳を細めて口元を隠した。
「ええ、犬を一匹」
何故か、カミーユは肩を震わせながら答えた。何かおかしなところでもあったのだろうか。
不安になりつつも、ブランカは更に質問を重ねた。
「どんな犬なんですか?」
「そうですね、少し変わった毛色ですが、立ち姿が凛としていてとても美しいのです。数年前から飼っているんですが、血統書付きで由緒正しい犬なのです。オーベルと言って大人しいし言うこともきちんと聞く利口な子ですよ」
そこでカミーユは一呼吸置いてくすりと笑った。
「見たいですか?」
ブランカは思わず身体を揺らした。そこまで話を持っていくことは考えていたが、まさかカミーユの方から尋ねられるとは思わなかった。
ブランカは不自然にならないよう、首を縦に振った。
カミーユはくすくす声を上げて笑った。
「フィルマンからもブランカに息抜きをさせなさいと言われていたところでした。ちょうどいいので、行きましょうか」
言うが早いか、カミーユはリビングの電話を取って会社に出向中のフィルマンに出かける旨を伝えると、テーブルに広げた茶器をかき集めて片付けに行った。
ブランカは新聞紙を広げたままの状態で、しばし呆然とする。
まさかこんなにもすんなりいくとは思わなかった。以前にフィルマンにロゼ市内を案内されたときは、西地区の方を見てみたいと言ってみても断られたのに、今回はかなりあっさり承諾された。ブランカは内心ほっと胸を撫で下ろす。
さて、自分も出かける用意をするかと、ブランカが新聞紙を畳んでリビングを後にしようとしたとき、一本の電話が鳴った。
ブランカはどうするべきか悩むが、おそらくカミーユは今洗い物で手が離せないだろう。すぐに戻ってくるだろうと思って、受話器を取ってみた。
「はい、ランベールです」
しかし、相手はしばらく黙ったままだった。何かまずいことでもあっただろうかとブランカは不安に陥るが、ほどなく答えた。
「あ、えっと、カミーユは今いないんですか?」
聞こえてきたのは男の声だった。声のハリから、フィルマンやカミーユ達よりは若い人であることが予測された。
その人はたったそれだけ尋ねてきたが、どことなく切羽詰まっている様子だった。
「カミーユさんは今少し離れているので、すぐにお呼びします。このままお待ちいただけますか?」
「はい、急ぎめでお願いします。ニコラから、と言っていただければ分かるので」
言葉の端々から少しだけ苛立った様子が伺えた。とにかく急いだ方がいいだろう。ブランカは受話器を電話台に置いてカミーユの方へ行こうとした。
しかし、カミーユのところに行くまでもなく、彼はリビングに戻ってきていた。
「ご対応ありがとうございます。こちらは大丈夫ですので、出かける用意をしてきて下さい」
カミーユはにっこり笑顔を浮かべて言ったが、それは暗に電話の会話をあまり聞かれたくないと言っているような感じだった。
ブランカは受話器を彼に渡すと、すぐにリビングを後にした。
十数分続いたカミーユの電話が終わると、二人はカミーユの車に乗って西地区へ向かった。
ロゼの南地区にあるフィルマンの屋敷から西地区までは、車で十分もかからない。あくまでそれは西地区の端の話ではあるが、それでもワーズ街やヴァラッド街に行くのにも二十分もかからない距離であるのは、カミーユにとっては都合がいいことだろう。おまけに、ショッピング街やオフィス街はロゼの中央地区の方へ集まっているので、車が混雑することもない。
そういうわけで、二人はすぐに西地区に入った。
ここまでの道のりは比較的穏やかだ。中心街で何度も見た『反ダールデモ』の喧騒も人の混雑も一切無く、ただ静かな住宅や店が並ぶだけだった。このようなところでデモが繰り広げられているとは信じがたかった。
すると、カミーユが徐に言った。
「そうそう、言い忘れていました。私の自宅はヴァラッド街にありますが、今日は愛犬を実家に預けています。なので、そちらに向かうことになりますが、よろしいですか?」
「ご実家、ですか。どちらなんですか?」
「ワーズ街の銀杏通りです」
カミーユは苦笑混じりに答えて、助手席に座るブランカに視線を流した。ブランカは息を飲んだ。
――ワーズ街の銀杏通り。
それはまさしく母が目撃されたところだった。
そこがどんなところか気になって仕方がなかったが、まさか母の目撃地に近いところにカミーユの実家があるとは。
「お察しの通り、あそこは今問題のあるところなのでデモ隊の人がかなり詰め寄っていますが、私の実家は同じ銀杏通りでも該当箇所からかなり離れているので、デモ隊の人もそんなにいないので安全です。ただ、車で通ったり犬の散歩するには困りますが」
「どうしますか?」と再びブランカに視線を流した。
「是非、お願いします」
少々食い気味でブランカが答えれば、カミーユはふふっと笑った。
「あなたがそんなに犬好きだとは思いませんでしたよ」
そうしてしばらくすると、人の喧騒が聞こえ始めた。車道に出る人の数も増えてきて、交通規制されている道がいくつかあった。
ここがワーズ街なのだろう。
カミーユは人が沢山いるところへは近寄らず、迂回して実家へと車を進ませた。
そして、一軒の家の前で、彼の車は停止した。
「ここが実家です。驚きでしょう? 同じ銀杏通りなのに」
カミーユは車の前方を指差した。
米粒ほどに見えるずっと先に、人だまりが出来ていた。何かを掲げているところ見る限り、デモ隊に違いなかった。おそらくそこで母が目撃されたのだろう。
「……彼らはあそこで何をしてるのですか? あそこで張っていても意味がないように思えるのですが……」
「おそらく一軒一軒見て回っているのでしょう。ここは沢山の住宅がありますからね」
カミーユはさらりと答えた。
――こんな何もないようなところに、お母さんが……。
その姿は見えなくとも、ここを母が通っていたと思うと、なんだか感慨深く感じられた。
そうしていると、カミーユがいつの間にか運転席を降りていた。彼がすぐに助手席の扉を開けるので、ブランカは頭に巻いたストールできゅっと顔を目立たないようにすると、車を降りた。
カミーユが玄関のベルを鳴らすと、老年の女の人が出てきた。彼女はとても驚いた顔をしていた。
「あら、カミーユ。どうしたのいきなり来て」
「あぁ、すみませんお母さん。少しオーベルの様子が気になったもので」
「そういうことだったら電話の一本でも寄越してくれたらよかったのに」
女の人が呆れる横で、カミーユは彼女の足元にいる犬を撫で回す。
どうやらこの犬がカミーユの愛犬のようだ。彼の言うとおり、さらさらと風になびくゴールドとシルバーの混ざった毛並みはとても艶やかで美しい。それでいて四肢が長く、姿勢の良さをより際立たせている。
そして目の前のこの女性が、カミーユの母なのだろう。どことなく雰囲気がカミーユと、また彼女の甥であろうフィルマンとも似ていた。
「その子は?」
カミーユの母はブランカを見ると、眉を顰めた。明らかにブランカの白い髪と右頬の火傷に不審を抱いているようだった。
「あぁ、フィルマンのところで預かっている子ですよ」
「ブランカ、と言います」
「彼女、とても優秀な子なんです。今日はオーベルが見たいと言ったので、連れてきました」
カミーユが言い聞かせるようにして言えば、彼の母は「まぁ」と眉を和らげた。
「そう、フィルマンが。あの子は優しいからね。それであなた、その髪と顔はどうしたの?」
彼の母は思案げにブランカの髪に手を伸ばそうとするが、それよりも早くカミーユが母の手を止めた。
「お母さん、その質問は野暮というものですよ。むしろ気になるのでしたら、この火傷と髪が目立たぬようなお化粧を、彼女に施してやってくれませんか?」
「あら、それはいいわね! 息子ばかりだったから、そういうのしてみたかったのよ!」
彼の母は嬉しそうに手を叩くが、ブランカは状況をよく飲み込めていなかった。一体どうしてそんな話になっているのだろうか。当の本人を差し置いて、二人は話を進めていた。
すると、カミーユがブランカの方へ向き直った。
「ブランカ。すみませんが、私は一端自宅に仕事道具を取りに行かねばなりません。そんなにかからないとは思いますが、その間こちらで待っていただけますか?」
「あ……えっと……」
「大丈夫よ! ここなら退屈させないわ。さぁブランカさん、いらっしゃい」
ブランカが答えるよりも先に彼の母が彼女の手を引っ張り入れるので、ブランカはそれに従うしかなかった。カミーユは二人がリビングに消えていくのを見ると、再び車を動かして自宅へと向かった。
初対面のときの様子はどこへいったのか、カミーユの母は化粧道具をリビングのテーブルに広げては、とても嬉しそうにブランカに化粧をした。オーベルを見るという口実で来たのに、一体どうしてこうなったのか、ブランカは慣れない状況に終始そわそわしていた。
その途中で、カミーユの母が言った。
「でも不思議ね。あなたとどこかで会っているような気がするの」
しかし、そのことについていくら追求しようとしても、「覚えていないの」とはぐらかされるばかりだった。
暗く、じめっとした部屋の中。
明かりは天井から吊される淡いオレンジ色の蛍光灯のみ。
そこに、『オーベル』はいた。
鎖で首を繋がれ、与えられた寝床に座り込んでいるその犬は、名前にふさわしくゴールドの毛と美しい瞳を持っていた。
しかし、その美しい瞳は、同時に虚ろでもあった。
犬は、口を半開きにして、ただ餌が来るのを待っていた。
飼い主はその犬に唾を吐きかけた。
「ここまで来ると流石に興醒めだ。見るのも耐え難い」
「ええ、同感です。従順通り越して、完全にいかれています。そろそろ潮時でしょう」
部屋にいたもう一人の人物がそれに答えた。犬を眺める二人の視線は、とても冷ややかだ。
すると、更に別の人物が時計を確認しながら言った。
「しかしまた逃げ出すといけない。知り合いを呼んだので、早いところ処分してしまいましょう」
「ああ、そうしよう。これ以上ここを汚されても敵わんしな」
飼い主が頷けば、他の二人はその部屋から出て別の用事をしに行った。飼い主も同様に部屋を退室しようとするが、後ろに引っ張られる力に止められる。犬が飼い主の服の裾を掴んでいたのだ。
飼い主はしゃがんで犬の頭を撫でながら、低い声でその耳に囁いた。
「お前には楽しませてもらったが――もう用済みだ」
甘く、そして冷たく吐き捨てると、飼い主は勢いよくその犬を床に突き飛ばした。
犬は何が起こったのか分かっていない様子で、虚ろな瞳のまま、去りゆく飼い主の背中を眺めていた。
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