3.フィルマンとカミーユ
レオナがロマンの秘密に困惑し、ロマンが古い友を駅まで送り届けている頃、肝心のブランカは、ロゼの南地区にある広い屋敷の一室で――フラウジュペイの歴史を教わっていた。
「聖神教歴一〇三五年、アルトロワの事件。当時マグナストウによる百年統治を受けていたフラウジュペイでは、マグナストウの支配に対して民衆の反発心が膨れあがっていた。そこで、一部の有力商人たちがマグナストウに献上しなくてはいけない特産品の絹織物をアルトロワ川へ流し、銀を強奪した。それがその事件で、これを口実に後々始まったのがレティヤン五十年戦争です」
「その通り。そしてレティヤン五十年戦争では、ゴール家・バシュレ家を中心としたフラウジュペイ陣営とサンタサーラ帝国が同盟を結び、ナーテルニ峡谷にて、マグナストウとファエリエ公国の連合部隊を打ち破ったのです。いいでしょう、大雑把ですが、大体は理解できているようです」
教科書を伏せて覚えたての年号と出来事を口にすると、ついていた男性の家庭教師が大袈裟に手を叩きブランカを賞賛した。ブランカは曖昧に微笑み返す。それは彼があまりにわざとらしく見えるからでもあるが、本当にこんな事をしていていいのかという不安な気持ちからでもあった。
その不安に答えてくれる人は、今や一人しかいない。
「カミーユ、ブランカ、勉強中のところ悪いね。これから外にお茶しに行かないか?」
扉を叩いて入ってきたのはこの家の主、フィルマン・ランベール。仕立てのいい紺色のスーツ姿に、品良く切り揃えられたアプリコットの髪、目鼻立ちの整った顔立ちからは、今年で三十九になるとは思えない若さを醸し出している。
彼こそが、ブランカをロゼに連れてきた男性である。
「それはいい。ちょうどこちらもキリのいいところだったので、是非そうしましょう。ブランカ、行きますよ」
フィルマンの誘いに答えたのは、ブランカの家庭教師を務めるカミーユ・マルシャン。金髪と言うよりはオレンジに近い髪が特徴のこの男性は、フィルマンの一つ下の従弟で、本来は印刷会社を経営しているというフィルマンの補佐役を任されているらしい。
カミーユは開けていたフラウジュペイ史の教科書を閉じると、扉の方へ手を差し出してブランカが出かける支度をするよう促した。彼の意図通りにブランカが壁に掛けてあるストールを頭に巻き付ければ、フィルマンもカミーユも満足気に微笑んだ。
「ブランカ、ここでの暮らしは慣れたかな?」
街の中心部にあるデパートの喫茶店に入ると、フィルマンが尋ねてきた。既に三人の目の前には大粒のフルーツの乗ったタルトがそれぞれ並んでいる。それなりに値の張るこの類のケーキを食べるのは、何年ぶりだろうか。贅沢をしている自分への不安と罪悪感に、ブランカはフィルマンの質問に対して曖昧に微笑み返した。
ブランカがロゼにやって来たのは、かれこれ一週間前になる。
一週間前、フラウジュペイ放送が流した昔の作文を聞いて衝動的に施設を飛び出したブランカは、ダムブルクの外れでこのフィルマンに出会い、ロゼに一緒に来ないかと誘われた。渋々ではあったものの、あんなラジオを聞いた後ではヴォルフやロマンたちとまともに向き合えそうにもなかったので、しばしの間、彼に甘えさせてもらうことになった。
しかし、どこにいようと、ブランカにとっては同じことだった。
そもそもあの作文はアジェンダ人だけを揶揄したものではなかった。祖父に逆らうヘルデンズ人以外の全てを指していた。つまりブランカがヘルデンズ以外で暮らす以上、かつて自分が見下した人に庇護してもらう罪悪感は変わらないのだ――逆にヘルデンズで暮らすとしても、彼女に行き場がないのも同じことではあるが。
そういうわけで、ロゼに来て二日目には既にブランカはダムブルクに戻る決心をしていた。あんまり長居するのはフィルマンに迷惑だし、帰る日を後延ばしにすると、ロマンたちを心配させすぎて作文云々のこと無しに単に戻りづらくなるからだ。家出の帰宅は早い方がいい。
そう思ってフィルマンに持ちかけてみるのだが――。
「あの……そろそろ私、ダムブルクに帰った方がいいんじゃないでしょうか?」
ブランカは上目遣いで向かいに座るフィルマンを見ながら、小さく尋ねた。
フィルマンは破顔した。
「そんなことを気にしていたのかい? なに、構わないさ! むしろ、ずっといてくれてもいいとさえ私は思っているからね。女の子が家にいると華やかでいいよな、なあカミーユ!」
「ええ、仰るとおりだと思います」
二人の間に座るカミーユは、抑揚を付けてフィルマンに返した。そんなことを言いたいのではないのに、不慣れな言葉を掛けられて、ブランカは言葉に窮する。
すると、フィルマンが眉根を寄せて「それにね」と続けた。
「児童施設の方からもお願いされたって言っただろう? 今やダムブルクはすっかり危険だから、ほとぼりが冷めるまで是非私のところで預かっていて欲しい、ってね。まだ収拾が付いていなくて、とにかく危険らしいよ」
「そう……ですか」
フィルマンに心配そうな顔を向けられては、ブランカは納得するしかなかった。
実はこのやりとりはこれで三回目になる。
ブランカがロゼに来て二日目の午後に最初の打診をフィルマンにしてみたのだが、今回と同様に「ダムブルクが危険なので預かってもらった方がいい」との伝言をされ、ブランカはロゼに止められた。その二日後にまた尋ねてみたのだが、その日は駅が封鎖されてしまっているからやめた方がいいと押し止められた。
確かにロゼで始まった『反ダールデモ』の嵐はダムブルクでも起こっていると聞く。その危険度はロゼの例を参考にすれば相当のものだろう。
ロゼの活動家たちは、聞くに堪えない雄叫びを上げては、あちこちでヘルデンズ製のものを叩き壊している。この一週間でロゼはすっかり治安が悪くなったらしいが、これと同じことがダムブルクでも行われているのなら、あんなに小さな町はすぐにダメになるだろう。施設の職員達もその危険から子供たちを守るのに必死で、よその家に家出しているブランカに構っている余裕などないのかもしれない
しかし、この件に関しても、ブランカにとってはどこにいようと同じことだった。
『反ダールデモ』の対象の中に、間違いなく自分は含まれている。むしろ中心人物と言っていいくらいだろう。デモに恐れて生活するのに、ロゼもダムブルクも変わらない。それならせめて気の知れたロマンやレオナ達が近くにいる方が安心するというものだ。声を聞くだけでもいい。
そう思ってフィルマンにお願いして数回電話を掛けてみたが、ブランカが掛けた電話はいっこうに取られないままだった。そんなとき、決まってフィルマンは言った。
「児童施設っていうのは、案外薄情なところなんだね」
そうなのかもしれない。実際ロマンやレオナ、そしてレオナの母以外の人たちはブランカに対してはよそよそしかった。今だって体よく面倒くさい子を追い払えたと思っている人は何人かいるだろう。フィルマンの言うことももっともだ。
いや、もしかすると本当はロマンたちもブランカの扱いに困っていたのかもしれない。親しい人に会えない不安は、ブランカを更に後ろ向きにさせた。
「ダールを見つけたぞ!!」
突然乱暴に耳に飛び込んできた声に、ブランカは思わず身体を震わせた。恐る恐るデパートの窓の外に目を向ける。
大きな通りを挟んだ向こう側にあるアパートメントの中から、若い男が出てきた。その男は後ろに連れていた中年男性を乱暴に引きずり出し地面に放り出す。中年男性の周りを、表で待機していた若者達がすぐに囲い込む。彼らは全員鉄の棒を持っていて、ひどい雄叫びを上げながらそれを振り上げた。
ブランカは全身が急速に冷たくなるのを感じた。
隣から伸びたフィルマンの手が、テーブルに投げ出していたブランカの手を握りこむ。
「心配しなくていい、私のところならば安全なのだから」
何の根拠もなく真偽の区別も出来ないが、その言葉だけが、ブランカを安心させる唯一のものだった。
よく味も分からないままに出されたケーキと紅茶を終えると、カミーユが運転する車の後部座席にフィルマンと並んで座った。
デパートの向かいでは、未だに『反ダールデモ』の群衆がアパートから引きずり出した男を囲っては、集団で殴りかかっていた。警察が必死に押さえようとするが、ほとんどそれは何の意味もなさなかった。
そんなことが目と鼻の先で起きているにもかかわらず、フィルマンは普通の声でまったく関係のないことを尋ねてきた。
「そういえばブランカ、カミーユの教え方はどうだ?」
「とても、分かりやすいです」
ブランカは控えめな笑みを作って答えた。
ダムブルクが落ち着くまでブランカをフィルマンが預かるということになったわけだが、フィルマンが仕事の間彼女を退屈させないようにと、フィルマンはカミーユにブランカの家庭教師を任せた。
語学、文学、哲学、科学、社会学。カミーユに教わる分野は多岐に渡るが、ブランカはこの一週間で学んだことを全て正しく頭の中に飲み込んでいた。
「私の教え方と言うよりも、ブランカの物覚えがいいんですよ。朝教えたことを、昼には既に自分のものにしている。これで学校に行っていないのが不思議です」
「そうだよなあ。こんなに勉学の素養がある子が学校に行かせてもらえないって、おかしな話だよ。一体児童施設は子供をなんだと思っているのかね」
フィルマンは怪訝そうにしながら言った。
確かにブランカは学校に行っていない。それは施設に保護されている他の子たちも同様だし、むしろ全国の児童施設が抱える問題でもあった。
児童施設に保護される子供の数は、施設に割り当てられる運営資金を遙かに上回った。その資金の大半が衣食に消えてゆくため、子供を十分に学校に行かせられる余裕が無いところがほとんどだった。その代わりに講師を数人雇って最低限の教養を身につけさせてはいるが、ブランカくらいの年齢になると多くが施設の手伝いか町に出稼ぎに行くので、十五、六で教養がストップするのが当たり前になっていた。
「世の中、読み書き計算くらいじゃやっていけない。新しい科学技術、めまぐるしく変わる経済、政治、それらを見据える哲学的な思考。十代の子供が学ぶべきことは山ほどあるのに、それをさせないで手伝いばかりさせるなら、児童施設なんてものはむしろ無くした方がいい」
フィルマンは時々児童施設をひどく非難する。
彼の言うことにも一理はあるが、そういう経済状況なのだから仕方がない。それに、例え教養を身に付けられなくとも、食べさせてもらえるだけありがたいのだ。それ以上の贅沢を望もうとも思わない。
「……別にそれを不満に思ったことはないので……」
「いいや、それで満足してはいけない。むしろ君のような子はもっと学力を伸ばして出世せねばならない。せめて才ある子には援助してやったらいいのに、施設の大人はとんだ節穴だ」
「いや……でも……」
フィルマンの口ぶりは、たまにロマンやレオナの批判も含んでいるので、かなり居たたまれなくなる。それでも何も言い返せない自分が、情けなくなる。
フィルマンは一通り児童施設を悪く言うと、ブランカの頭に手を乗せ、彼女に笑顔を見せた。
「君さえ良ければ私が引き取るのになぁ」
向けられた瞳を、ブランカは見ることが出来なかった。
ロゼに来てから毎日のように掛けられるこの言葉。初めて言われたときは、冗談だと思って彼の瞳を見た。こちらを思いやるような瞳の奥に見えた真剣な色。彼は本気でブランカを引き取るつもりでいるのだ。
もしそんなことになったら、もうダムブルクには戻れないのだろうか。いや、戻ったとしてもどうせ歓迎されないし、ブランカもいい歳なので他に行くアテを探さないといけない。
果たしてどちらを選ぶのが最善なのか、ブランカは推し量りかねていた。
「しかし、西地区の方面はすごいねえ。デモのお陰で車が渋滞だ」
交差点の信号で止まったとき、フィルマンが窓の外に目を向けて言った。彼の言うとおり、西地区に繋がる道は青信号でも車が進んでいない。渋滞の先では、さっきのデパートの向かいと同じ光景が繰り広げられているのだろう。
ブランカはキュッと服の裾を掴んだ。
「カミーユ、君の家は西地区じゃなかったかな? 帰るときは大変だろう」
「ええ、まったく。いい迷惑です。お陰でうちの犬が毎日怯えて縮こまっていますよ」
カミーユはため息を吐いてうんざりしたような声色で話すが、どことなく苦笑が混じっていた。
カミーユが西地区住まいなのは初耳だ。
ブランカは咄嗟に西地区に寄ってほしいとお願いしようとした。しかし――。
「さぁ、帰ったフラウジュペイ語をやりましょうね、ブランカ」
ブランカがお願いするよりも早く信号が青に変わり、車が発車した。
飛び出し掛けたお願いは、口の中に引っ込んでいき、代わりにブランカは「はい」とカミーユの言葉に返した。
確固たる目的があったのにそれを果たせず、ダムブルクに戻るにも足止めをされ、ただ勉強を教わる。
ままならない現状に、ブランカは歯痒さを感じずにはいられなかった。
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