2.ロマンの違和感

 その週末、ダムブルクでは朝からずっと雨が降っていた。

 灰色の雲が空を厚く覆っているため、真っ昼間なのに外はとても暗い。昨日まで続いていた気持ちのいい天気がまるで嘘かのようだ。

 天候の悪さは人に感染するのか、道行く人たちはみな陰鬱な表情をしている。それはおそらくレオナも同じだったのだろう。

「十一時の列車、前の駅で運転見合わせ中だそうです」

 ダムブルク駅の待合室で座っている彼女に、駅員が言いにくそうに告げた。レオナは灰褐色の瞳を大きく見開いた。

「ええ、またですか?」

「はい、申し訳ないことに……」

 駅員がレオナに向かって頭を下げる。レオナは駅員に聞こえないように小さくため息を吐いた。

 駅員は悪くない。列車が遅れるなどよくあることだ。特に今日はフラウジュペイ南部はどこもひどい雨だという。思うように進まなくても仕方がない。

 しかし、この状況で敢えて誰かに責任を求めるとするならば、悪いのはブランカだ。

 先週の朝に忽然と姿を消した内気な妹分は、この駅員によれば、どうやら見知らぬ男性とこの駅からどこかに行ってしまったらしい。慌てて駅から戻ってきたロマンの報告に、児童施設の職員たちはみんな騒然とした。しかし、流石に翌日には帰ってくるだろうと、少なくとも職員の半数がそう思っていた。

 だが、翌日になっても翌々日になってもブランカは戻ってこなかった。

 職員たちは最初こそは他の町の知り合いに電話で聞いて回っていたが、これはもしかして生き別れになっていたブランカの父親か親戚が彼女を連れて行ったのではと考え出すようになった。次第にその考えが多数になり、警察に捜索届けも出したことだしと、それぞれ通常業務に戻っていった。

 しかし、その中でもロマンだけは違った。先週、彼は施設に報告に来るとすぐに荷物を詰めて、ダムブルク駅からブランカを探しに行った。

 駅員から知らされたのは、ロゼ行きの列車に乗ったということだけらしいが、それは決して直通ではなく、どこで降りたのかも分からない。ロマンは毎日ダムブルクとロゼとの間にある駅を巡っては、ブランカを探し続けた。その間施設の業務はほったらかしだし、毎晩施設にかけてくる電話では「ここにもいない」という報告をするのみだった。

 そんな日が一週間も続けば流石に持ち金も尽きてくる。とりあえずロマンは一旦ダムブルクに戻ることを決意し、今日の十一時にダムブルクに到着する列車に乗るという電話を寄越してきた。

 そうしてレオナはロマンを迎えに十一時にダムブルク駅にやって来たのだが、既にその時その列車は途中の駅で人身事故があったとかで、到着が一時間遅れる事になっていた。これは仕方ないと一時間待っていたのに、今度は運転見合わせとは。

「あ、汽笛が聞こえてきましたね」

 それから三十分ほどして駅員が首を伸ばして線路の先へ視線を向けた。まだ米粒ほどにしか見えない汽笛が、次第に近づいてくるのがレオナにも分かった。

 ほどなくして列車が駅に到着した。

 レオナはホームに出迎えに行く。降りてくる人に紛れて、なじみ深い顔がきょろきょろと顔を動かしているのがよく見える。

「ロマン、こっちよ!」

 レオナが手を挙げてその場で飛び跳ねれば、ロマンはすぐにこちらに顔を向けて、被っていたハットを取った。

「レオナ、迎えに来てくれてありがとう。到着が遅れたからだいぶ待っただろう? 済まないね」

「この雨だもの、仕方がないわ。それよりも――」

 レオナはそこで言葉を切った。

 一週間ぶりに見たロマンの顔が、随分痩せた気がする。目の下も、かなり黒くなっている。それだけで彼がどれだけ必死で探していたのかが伝わってくる。

「とにかくすぐに帰りましょう。あなたは今日はゆっくり休んだ方がいいわ」

「実はそんなに疲れていないんだけどね」

 旅行鞄を持とうとするレオナをそれとなくかわしながら、ロマンはおどけて言った。

 レオナははぁと深くため息を吐いてから、思いっきりロマンの背中を叩いた。

「うわっ! ひどいな、いきなり叩くことはないじゃないか」

「当然よ。ロマンったら、自分がどんなにひどい顔しているか分かっているの? これ以上無理したら、本当に死ぬわよ」

「そんなに簡単には死なないよ。割と僕は丈夫に出来ているからね。ヴォルフほど男らしくはないかもしれないけど」

 レオナは大きく息を吸った。

 こうもまともに受け答えしてくれないのも珍しいが、そこにわざわざ皮肉を付け加えるのは今までのロマンではあり得なかった。

 信じられない、とでも言うように眉間に皺を寄せて目を見開けば、ロマンは目を瞑って小さく息を吐いた。

「ごめん。やっぱり君の言うように、僕は休んだ方がいいのかもしれない。気持ちが逸って八つ当たりしてしまった」

「そうね。気持ちは分かるけれど、これでロマンが倒れたら元も子もないんだから、今日はゆっくり休んで。あ、安心してよ。一応警察には捜索届けを出してあるから」

 ロマンの肩を叩きながら、そういえばこれを彼に伝えていなかったと、レオナは急に思い出した。きっとこれで彼も一息吐けるだろう、そう確信していた。

 しかしロマンは、反射的に目を見開き、硬い顔をこちらに向けてきた。

「捜索届けを、出したの?」

 少し青ざめた表情は、まるでそれを望んでいなかったかのようだ。

 この反応に、レオナは瞬きするしかなかった。

「え……その方がいいでしょう? 自分たちで探すよりも確実に早く見つかるわ」

「何を聞かれた?」

「えっと、ごめんなさい。届けを出しに行ったのはあたしじゃないの。だけど写真を見せたって言っていたわ」

「写真……!」

 ロマンは息を呑んだ。彼は眉をひそめ、難しい顔をしている。やはり、捜索届けを出したのは彼の本意ではなかったのだろう。

 しかし、分からない。

 彼が望む望まないにかかわらず、家出人が出たら警察に届け出るのはごく当たり前のことだ。この場合はもしかすると誘拐の可能性だってあるのだから、尚更当然だ。何もおかしくはない。

 でも、ロマンにしては珍しくそれに納得していない。

 何かまずいことでもあるのだろうか。

「おい、大通りの肉屋、ダールの元幹部を匿ってたって本当か?」

 突然大きな話し声が、駅のホームに響いた。

 ロマンが乗ってきた列車から降りた中年の男が、一緒に降りてきた男性と話していた。

「あぁ、そうらしいぜ。匿ったダールのヤツは警察に連れてかれたらしいけど、残った亭主の方は大通りの商業組合から除名されたんだとか。でもそいつらもヘルデンズ人働かせてたって言うから、町の連中はもう大怒りさ」

 レオナたちの前を通っていく小父さん二人の会話に、レオナは今週町で起きていたことを思い出す。

 一週間前、ロゼで最初の『反ダールデモ』が起こったと新聞で知らされたが、その活動は瞬く間に全国に広がった。ロゼほど過激ではないものの、どこでも町の中心で『ダール反対』を掲げ、ダール政権時代のヘルデンズ軍元幹部と一般ヘルデンズ人を混同しながら、彼らを見つけ出し、排除していた。

 当然ダムブルクも例外ではない。

「……とにかく施設に戻ろう」

「え? ええ……」

 言葉に硬いものを含ませたまま、ロマンはレオナの肩を押し、駅を出た。

 その時のロマンの横顔は、やはり青ざめていた。



 しかし、施設に戻ってもロマンは休めなかった。

 ロマンに来客が来ていたのである。

「ロマン・クリシュトフ! 待っていたよ!」

 談話室の扉を開けるとすぐにそんな声が飛んできた。レオナはロマンの肩から首を伸ばしてその人物を見る。

 談話室の椅子に座っているその男性は、見た感じ、ロマンやヴォルフと同年代のように思える。しかし、無造作に伸ばした黒髪を耳に掛け、くすんだグレーのジャケットを羽織った姿は、かなりみすぼらしい印象を与える。理知的な光を放つヘーゼルグリーン色の瞳がなければ、ここへは上げてもらえなかっただろう。

「ああ、お前、かなり探したよ! 元気にしてたんだな、良かった!」

 彼は嬉しそうな顔をして立ち上がると、ロマンの方へ近づき、ロマンを抱擁する。眉根を寄せ瞼をぎゅっと閉じ、口角をいっぱいに持ち上げたその表情は、ひと言では言い表せない喜びと、並々ならぬ深い想いが秘められているのが、側にいたレオナにはひしひしと伝わってきた。

 しかし、その人の反応とは裏腹に、ロマンは嬉しそうな雰囲気を出さず、ただ眉間に皺を寄せ、空色の瞳を大きく見開くばかりだった。

 ロマンとの温度差を、その人もすぐに気が付いたようだ。

「おい、まさか俺が分からないわけじゃないだろう? このヤーツェク・ルトスワフスキを忘れたとは言わせないぜ」

 ヤーツェクと名乗った人は、ロマンから身体を離し、彼の背中を強く叩いた。ヤーツェクの楽しそうな様子に、まるで時間が止まったかのように固まっていたロマンは、「あ、ああ」と驚いた表情のまま頷いた。

「覚えているとも、忘れるわけがない……。しかし君、どうしてこんなところに……?」

 ようやく状況に頭が追いついてきたのか、ロマンは目を見開きながらも、曖昧に微笑んだ。ヤーツェクはニッと笑みを深めた。

「ああ、よく聞いてくれた! 俺はお前に会いに来たんだ! そしてお前を連れ戻しに!」

 彼の口から発せられた言葉に、レオナは目を見開き、談話室にいた中年の食堂婦と互いに目を見合わせた。肝心のロマンも同じような表情をしている。

 ロマンはちらりとレオナと中年の食堂婦に目を配ると、一瞬だけ目を瞑り、息を吐いた。

「とりあえず僕の部屋に行こう。話はそこで聞くよ」

 ロマンは短くそう言うと、彼にしては強引にヤーツェクを談話室から出し、自分の部屋へと向かっていった。

 残されたレオナと中年の食堂婦は再びお互いに顔を見合わせた。

「あの人は一体何なの?」

「さぁ。一時間くらい前に突然現れて、ロマンの高校時代の友人だとか言ってたけど」

「高校時代の友人……」

 意味もなく繰り返したが、レオナは何となくそれが納得できなかった。

 ヤーツェクの方はとても嬉しそうだった。とても親しげで、この上ない喜びを感じているようだった。もしかすると戦後初めての再会なのかもしれない。周りにそう思わせるような雰囲気だった。

 しかし、ロマンの反応はそれとはだいぶ違っていた。彼はただ単に状況を飲み込めなかっただけなのかもしれないが、驚き戸惑うばかりで、嬉しそうな様子が見られなかった。

 そして何よりヤーツェクの言った「連れ戻す」の意味が気になる。また、それを隠すようにして自室に向かっていたロマンにも納得がいかない。レオナたちに聞かれてまずいことでもあると、自ら言っているようなものだ。

「……あたし前から薄々思ってたんだけどさ、ロマンってフラウジュペイ人じゃないのかもね」

 ふと、中年の食堂婦がテーブルに頬杖を付きながら言った。これにはレオナは首を傾げるしかない。

「何でそう思うの?」

「あんたもさっきの男見ただろう? あの人、東フィンベリー系だよ。それに『ヤーツェク・ルトスワフスキ』っていかにもあっちの名前じゃないか。高校が一緒ってことは、つまりそういうことだろう」

 言われてみれば、ヤーツェクはフィンベリー大陸東側によく見られるやや面長な輪郭とやや薄い顔立ちをしていた。西フィンベリー系とはっきりした違いがあるわけではないが、確かにフラウジュペイでは見られない顔立ちだ。名前も中年の食堂婦の言うとおりである。

「ちょっとレオナ、お茶持って行くついでに聞いてきてよ」

「え、でも秘密の話をしてるんじゃないの?」

「尚更だよ。良くない話してるかもしれないだろう。例えばほら、あの二人が実はオプシルナーヤ出身とかさ」

 それを聞いてレオナは顔色を変えた。

 今までロマンをフラウジュペイ人だと信じて疑わなかったが、そう言えばロマンは自分のことをあまり話したことがない。彼はこの児童施設が出来たときからいたし、あまりにフラウジュペイ語が堪能だったから、疑う余地がなかったのだろう。

 でもフラウジュペイ語で言えば、さっきのヤーツェクだって同じだ。彼も流暢なフラウジュペイ語を話していた。しかし彼は見た目も名前も東フィンベリー系。

――まさか、本当に?

 レオナはすぐにお茶を持ってロマンの部屋に向かった。



 扉の前に行くと、ヤーツェクの話し声が聞こえてきた。

「なあ、分かるだろう。もう俺たちは耐えられない。今にも立ち上がらんと着々と準備を進めているところだ。人手も掻き集めている最中だ。その中でもロマン、特にお前は必要なんだよ」

 ヤーツェクはフラウジュペイ語のまま話していた。だが、さっきの嬉しそうな様子とは一転して、かなり緊迫した雰囲気を醸し出している。同時にとても切実な様子だ。

 レオナはお盆のお茶を手に載せたまま、扉の前で静かに二人の会話に聞き耳を立てる。

「ヤーツェク、君たちが非常に辛く厳しい状況にあることはよく理解したよ。噂では聞いていたけど、僕が想像するよりもずっと悲惨なんだろうね。しかし、君の望みに答えるとしたら、僕は軍人ではないし、大学にも行っていないから何の身分もない。それに比べるとずっとふさわしい人物がいるはずだ。少なくとも僕は君の期待に応えられるものは何もない」

「そんなのは関係ない。だってお前はあのクリシュトフ少将の息子じゃないか。お前のことを知らなくても、それだけでみんな納得するさ」

 レオナは思わずお盆を落としそうになった。

 初めて知るロマンの父の存在。それが誰なのかは知らないが、少なくとも大変な人には違いない。

「それに六年前、俺たちがヘルデンズと戦ったとき、お前は十九という若さで一軍隊をまとめ上げた。当時を知る者ならみんなついてくるに決まってる」

「しかし、あの時は最終的にひどい返り討ちにあった。父はそれで亡くなったし、仲間を救えないままに僕は――」

 ロマンは途中で言い淀んだ。今の口調から、彼が苦渋の表情を浮かべているのが、容易に想像できた。

 しかし、ヤーツェクは更に食い下がった。

「あまり気に病むなよ。全員死んだわけじゃないし、あれだってお前のせいじゃない。条件が悪かっただけだ。なぁ、頼むよ。俺たちでアメルハウザーをねじ伏せ、オプシルナーヤを追い出すんだ、故国のために! 俺らの生まれ育った故国のために!」

 切実なヤーツェクの願いに、しかしロマンは何も言わなかった。僅かに息を飲むのが聞こえてきたくらいである。

 レオナは段々自分が聞いてはいけないことを聞いているような気がして、そっとその場を離れた。

「――で、どうだった?」

 談話室に戻ると、さっきの中年の食堂婦がレオナに顔を向けた。

「……よく分からなかったけど、少なくともあの人、オプシルナーヤ人ではないみたい」

 レオナは言いながらロマン達に持って行ったカップを台所へ戻しに行った。中年の食堂婦には上手く誤魔化したが、レオナは心の内ではひどく衝撃を受けていた。

 中年の食堂婦に言ったように、ロマンはオプシルナーヤ人ではない。ヤーツェクの発言がそれを証明していた。しかし、さっきの会話から明らかにフラウジュペイ人でもないし、ともするとヘルデンズ人でもない。

 そのとき、レオナの頭にはとある国が浮かんだ。ヘルデンズの東隣にあった亡国で、今ではオプシルナーヤの支配下に置かれている。彼らがそこの出身だとしたら、さっきの会話も納得がいく。

 しかし、もしそうだとしたら、同時にロマンはとんでもない人になる。そんな人が、こんな遠い国の、しかもこんな田舎の児童施設にどうしているのだろうか。

 それにさっきの会話。もしロマンが了承したら、彼は一体どうなるのだろうか。

 嫌な予感にレオナは身震いした。

 ちょうどそのとき、ヤーツェクの声が廊下に聞こえてきた。

「――とりあえず俺は一端帰るよ。別のところにも行かないといけないしな」

「期待通りの答えじゃなくて申し訳ない。でも、他に出来ることがあったら連絡してくれ。とにかく僕は君たちが無事であることを祈るよ」

 どうやら話は済んだようだ。同時に、ロマンはヤーツェクの頼みを断ったらしい。彼らには申し訳ないが、レオナはほっと胸を撫で下ろした。

 レオナは見送りのために廊下に出る。

 すると、ヤーツェクが談話室の入り口に掛かった新聞に視線をやったのが見えた。

「『反ダールデモ』か。あんなヤツらを匿う人間がいること自体があり得ないよな」

 彼は嫌悪を含ませて言った。

「そうだね……僕もそう思うよ」

 ロマンは弱々しく即答していた。

 ちらりと見えた彼の横顔は、やはり青ざめていた。

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