12.家出

 気が付いたら空が白んできていた。

 身体にまとわりつく朝露にぶるりと全身を震わせる。早朝の散歩をする人が、不思議そうな視線をちらちらこちらに送っていた。

 結局一晩中ブランカは闇の中を彷徨っていた。施設には帰れなかった。夕べのラジオを聞いてしまった後では、とても帰れる気がしなかった。ヴォルフやロマンと一体どんな顔をして向き合えばいいのか、分からなかった。

 ブランカの正体は誰にも知られていない。今まで通りにすればいいだけだ。

 心の端でそう思う一方で、別の声が囁きかける。

 あんなものを書いたお前は、これからも身を隠し素知らぬふりをし続けるのか。

 自分が嘲笑った人たちの親切に甘えて生きてゆくのだろうか――。

「――ねえ君」

 ふと、後ろからかかった声に、自分のことか分からないままブランカは振り返る。そこにいたのは、中年の男性。見た感じ質の高そうなチェック柄のスーツを着たその人は、目鼻立ちのはっきりした顔立ちをしていて、全身から洗練された雰囲気を醸し出している。

「君、綺麗な髪の色をしているね。これ、どうやって染めたんだい?」

 彼は人好きのする笑顔を浮かべて首を傾げた。あまりにさらりと褒められたことに、ブランカは戸惑ってしまう。

 そんなことを言うのは、後にも先にもヴォルフくらいだと思っていたのだが――。

 ぼんやりと脳裏に浮かんだ彼の顔に、心が締め付けられる。無意識に唇をキュッと引き結ぶが、目の前の男性はそれを別の意味に取ったらしい。

「……もしかして、それは君のコンプレックスなのかい? だとしたらかなり不躾なことを聞いてしまったようだ。しかし君が気にすることはない。むしろ、今ロゼでは髪を染めるのが若者の間で流行り始めているんだ。君のその髪を見たら、きっと羨ましがる子が沢山いると思うんだ」

 上品な見た目に反して、彼はとても話し好きらしい。こちらが何も言っていないのに、彼はブランカの白い髪に手を伸ばしながら、次から次へとまくし立てる。ブランカはその勢いに圧倒されながら、彼はロゼから来たのだろうかとぼんやりと考える。

 すると途中で彼は口を噤んで眉根を寄せた。

「あぁすまない。私ばかりが話しすぎてしまったようだ。君はこの辺の子かい? 少し明るくなってきたけれど、こんな時間に外を出歩いてはいけないよ」

 あまりに真っ当すぎる言葉に、ブランカは「そうですね」と、消え入る声で返した。考えなくてはいけない事柄を改めて突きつけられて、思わず出そうになったため息を飲み込みながらも、気が付いたらいつもみたいに視線が足下に下がっていた。

――そろそろ帰らないと。

――帰ったところで、合わす顔もないし、平静になんて出来ない。

 相反する気持ちが、ブランカを憂鬱にさせる。全ての原因は、自分の存在であるというのに――。

「……家に、帰れない事情でもあるのかい?」

 ブランカの様子を見たら、誰でもそう思うだろう。彼は思案げな口調で尋ねてきた。

 その通りではあるが、即答するには理由が理由だ。それに夕べのラジオを聞いたから施設に戻りたくないなんていうのは、かなり子供染みている感じもする。だが、否定するにはあまりに不自然すぎるため、ブランカは曖昧に頷いた。

 男性は困ったようにため息を吐く。

「何か事情があるんだろう。どうだい? 気が落ち着くまで私の家に来るって言うのは」

 思わぬ提案に、ブランカは弾けるように顔を上げた。男性は、先ほどと同じく人好きのする顔を浮かべたままだ。

「この辺……なんですか?」

 ブランカは慎重に尋ねる。

 男性はクスリと笑った。

「いいや。ここには昨日出張で来ただけで、私の家はロゼにある。少し離れてしまうが、まぁ家出するなら少しくらい遠くなった方が落ち着くだろう?」

 流石にこれは本気ではないだろう。困惑気味の頭が、ブランカにそう訴えかける。

 これがダムブルク市内だったらあり得たかもしれないが、ただの家出でここから汽車で三時間もかかるロゼに行くなど、全く現実的ではない。

 それに、そんなことをすれば、ロマンにもレオナにも――もしかするとヴォルフにも――心配をかける。施設に戻りたくないなんて我が儘を言ってはいけないのだ。

 そもそも、この人だって今会ったばかりの知らない人だというのに――。

「あぁ、家の人にはその旨をきちんと説明するから安心してくれたまえ」

 あからさまに困り果てた様子のブランカに、彼は両手を顔の横に挙げて安全だという素振りを見せた。

 そのとき――彼の左手に握られたままの新聞に、ブランカは目を奪われた。そこに走る見出しに、ブランカの冷静な思考は一瞬にして消え去った。

「あの……少しの間だけ、お願いしてもいいですか?」

 思いの外はっきりとした口調に、自分でも驚いた。

 男性は満足そうに微笑み頷いた。



「ヴォルフさん、また来てね!」

「今度ブラッドローに行くことがあったら案内してちょうだい」

「次来るときはヒコーキ持ってきてね!」

 施設の前には子供から職員まで、ほとんどの人たちがヴォルフの見送りに出ていた。この二日半で施設の人のほとんどと話はしたが、あまりゆっくり話せなかった人が多かったはずだ。それなのにこうして見送られるのは、なんだかこそばゆい感じがする。

 しかし、一番時間を共にしたはずの少女の姿が、そこにはなかった。

「ブランカったら本当にどこに行ったのかしら。全く帰ってこないわ」

 レオナがきょろきょろと首を動かす。他の職員たちも首を傾げるが、どうやら朝からいないようだ。困ったようにため息を吐く声が、ちらほら聞こえてきた。

「まったく、あの子ったら頭おかしいんじゃないの? 前からたまに夜中に抜け出していなくなるけど、正直迷惑よね」

 ブランカと同年代の娘が、嫌味っぽく言った。わざわざこの場で彼女を非難することもないのではとヴォルフは思うが、一方でブランカがたまに夜中に抜け出すということにも内心で納得してしまった。

 何せ最初の出会いがブランカの家出によるものだった。それに、何かと複雑な心境を抱える年頃の娘だ。施設を急に抜け出したくなるのも、彼女の性格上あり得る話だ。

 しかし、ヴォルフがロゼに戻る前に、きちんと挨拶をしたいところだ。そう思って今朝方ヴォルフは簡単に施設の付近を回ってみたが、どこにも彼女の姿は見当たらなかった。

 名残惜しさはあるが、もう帰らなくてはいけない。

「ヴォルフ、そろそろ時間じゃないかい?」

 ロマンが施設の車を回して門の前に付けた。ヴォルフは荷物を車のトランクに積み込むと、施設の人たちに向けてハットを軽く上げ、助手席に乗った。

間もなく施設を発車した。

「すまないね。出発直前に慌ただしくなってしまって」

 車を出してすぐに落ち着いた声でロマンはそう言うが、彼の目の下には大きなクマができていた。明け方にブランカがいなくなっていることに気が付いたレオナからの知らせを聞いて、ロマンは早朝からダムブルク中を探し回っていた。ヴォルフも一緒に探していたが、出立の準備のためヴォルフが捜索を中断している間もロマンは町の人に聞いて回っていたらしい。

 友人のこういうところを見ると、確かにさっきの娘の言うことも分からなくもない。

「……まぁ、多感な年頃だからな。あの子は大人しいから尚更何らかの衝動があるのかもしれない。しかし、流石に今日中には戻ってくるだろ?」

「そう、だといいけれど。ただ、昔はこういうことがよくあったけど、最近は本当に何もなかったから、久々で心配になっちゃってね」

 ハンドルを握りながら力なく笑うロマンを横目で見ながら、「久々、ね」とヴォルフは内心首を傾げる。彼女が一体どれくらいの頻度で施設を抜け出しているのかは知らないが、少なくともロマンの目を盗むことはお手の物なのだろう。その証拠にロマンは一昨日ブランカが抜け出していたことは知らないらしい。

 ヴォルフははぁとため息を吐いた。

「……仕事が終わったら、ブラッドローに帰る前にダムブルクにもう一度来るよ」

「ありがとう。そのときにはきちんと捕まえておくよ」

 ロマンはちらりとこちらに視線を送った。

 しばらくして車が駅に到着する。ダムブルクで一番大きな駅だ。

 二人はプラットホームまで一緒に行く。汽車の到着までまだ時間があるようだ。

「君も気をつけてね。くれぐれも無茶はしないと誓ってくれ」

「相変わらず心配性なヤツだな。俺のことはいいから、お前も早く恋人作るなり結婚するなりしろよ」

「それは余計なお世話だよ」

 二人は軽く笑い合いながら、お互いの肩を叩く。

 すると汽車が汽笛を鳴らしながらホームに滑り込んできた。到着を待っていた人たちが、次々と列車に乗り込んだ。

「じゃあ、俺も行くよ。元気でな」

 ヴォルフも後に続いて列車に乗り込んだ。

 間もなく汽車は駅を出発する。ロマンは少し寂しげな表情を浮かべながら、汽車を見送った。

 ようやく汽車が見えなくなると、回れ右をし、車に戻ろうとした。

 そのとき――。

「あれ、児童施設のクリシュトフ先生ですよね?」

 乗車券整理をしていた駅員が、ロマンに話しかけてきた。ロマンは愛想の良い笑顔を浮かべる。

「こんにちは。今日は結構乗る人多いんですね」

「ええ、ここ最近はめっきりそんな感じで……。いや、それより先生」

 駅員が思い詰めたような様子で声を小さくする。

 何かまずいことでもあるのだろうか。

 ロマンは駅員の様子に眉をひそめる。

「おたくの白い髪の子、今朝ここから列車に乗っていきましたけど、何かあったんですか」

「え……なんだって!」

 ロマンはかなり焦った様子で駅員に詰め寄った。



 同じ頃、ヴォルフは車内で購入した新聞を広げていた。

 そこに走る大きな見出しに、彼は目を見開く。

『ジルヴィア・ダールベルク、ロゼに潜伏か』

 それは紛れもなくマクシミリアン・ダールベルクの娘の名前――つまり、ブランカの実の母のことだった。

 見出しの下には、件の人物の目撃情報がつらつらと書き綴られていた。

 この衝撃的な報道を受けて、この日ロゼでは最初のダール狩りが始まった。

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