11.八歳の作文

 夜の静寂が、ダムブルクを包み込む。

 施設では既に消灯時間が過ぎ、奥の居室では子供は勿論、大人達もほとんど寝静まっている。

 その中で、唯一談話室だけが、薄い明かりを灯していた。

 ラジオから流れるのは、ゆったりとしたフラウジュペイ歌謡曲。スローテンポのジャズピアノに合わせたそれは、聴くものを心地良くさせる。

 カラン――歌のリズムに合わせて、ヴォルフはグラスの中の氷を転がした。

「二日間、あっという間だったね。どうだった?」

 向かいで、ロマンが自分のグラスに氷とブランデーを注ぐ。

 つい先ほどまで職員がいたときは一口もアルコールを含まなかったのに、この男は優男風な見掛けに反してなかなかこういうところがある。

 ヴォルフは内心で薄く笑いながら、テーブルに散らばったままの燻製肉に手を伸ばした。

「楽しかったぜ。子供らがあんなに喜んでくれるとは思わなかったし、職員もまぁいい人ばかりだな」

「みんな子供好きだからね。子供好きな人に悪い人はいないよ」

「ははっ何だそれ。極論だが、まぁ確かにそうだな」

 ヴォルフの言葉に頷きながら、ロマンはブランデーを口に運ぶ。

「でも、それだけじゃないだろう?」

 ロマンはグラスに口を付けたまま、柔らかく細めた空色の瞳をヴォルフへ流した。彼の口角が薄く吊り上げられているのが、グラス越しに分かる。

 ロマンが何を意味しているのかはすぐに分かったが、ヴォルフは素知らぬふりをして肩を竦めた。

「正直かなり驚いたよ。まさか川に飛び込むとは思っていなかった。あの子も、声も出ないくらいにびっくりしていたよ」

 ロマンの言うことを聞き流しながら、ヴォルフは昼間泣きついてきた白いおかっぱ頭の少女を脳裏に思い浮かべる。

 昨日の朝、初めて会ったときの彼女の顔が、強く印象に残っている。形見を捨てようとした手を止めたときの姿が、逆毛立てた猫のように思い詰めた様子だった。原因は分からないが、ちらりと見えたヘルデンズ語に、親近感が湧いた。その彼女が施設で保護されている子だと知ったら、何か力になりたいと思うのは、同胞として当然だ。

「あの子があんなにも感情を出しているところ、初めて見たよ。君のお陰だ」

「ふん、大袈裟だな」

 照れ臭さを隠すようにブランデーで誤魔化すが、実際その通りかもしれない。

 昨日の昼に談話室で見たときの彼女は、まるで人形のようだった。容姿を子供に揶揄されても、眉一つ動かさなかった。ロマンの手紙にあったように、どこかに感情を落としてきたみたいだった。朝とは打って変わった様子に気になって、すかさず追いかけた。そのときの彼女はひどく心を閉ざしていた。

 何が彼女を卑屈にさせるのか。思い当たる要因がありすぎるが、何とかしてそれをこじ開けてやろうという気が、ヴォルフの中で強く起こったのだ。

 そしてそれはヴォルフにしか出来なかっただろう。彼女が本当に抱えていた闇は、ヴォルフだけが知り得たものだったのだから。

「ブランカのこと、気になる?」

 再びロマンが意味ありげな視線を寄越してきた。

 そんな質問が飛んでくるとは思っていなかったヴォルフは、口にしていたブランデーを思い切り吹いた。全くの不意打ちだ。

 まさか同じ質問を昼間ブランカにしていたとはつゆ知らず、ヴォルフは盛大にため息を吐いた。

「馬鹿言え。まだ十六の子供だろ?」

「あぁそうさ。十六の、年頃の、女の子だよ」

「お前、本気かよ……」

 ヴォルフは手元に置いてあった水を飲んだ。下手に噎せ返ると変に酔いかねないからいけない。

 ヴォルフが気を落ち着けている間、ロマンは終始にこやかだった。

「君にならきっとあの子は心を許すと思うし、君も、あの子を深く理解してやれると思うんだ。大人しいけどよく働く子だよ。君に――合っていると思うよ」

 昼間、ブランカに言ったことによく似たことを、ロマンはヴォルフに言った。そんなことはヴォルフはもちろん知らないが、ロマンの言葉尻に、どこか感慨深いものを感じた。

 これは、ロマンの願いなのだろうか。ヴォルフは静かにブランデーを煽るロマンを観察するが、柔和な仮面に隠された彼の真意を推し量ることはまず不可能そうだ。

 ブランカのことが気になるのは確かなことだ。

 それは、このダムブルク滞在の二日間で共に過ごした時間が一番長いからなのか。同じヘルデンズ人であるという親近感からか。理由はよく分からないが、自分には遠慮のない姿をさらけ出してくれていることは事実だ。そんな彼女を笑わせてみたいと思う自分がいる。

 その一方で、実はヴォルフはブランカに得体の知れない既視感を覚えていた。その正体が何なのか分からないが、それが故にブランカを気にしてしまうのもあるだろう。

 あながちロマンの言うことを完全には否定できない。

「まぁいずれにしても、任務が終わらない限りは、そんなことを考えている余裕もないだろうがな」

 この話はここで終わりとばかりに、ヴォルフは空いた手を顔の前で振った。

 ロマンは残念そうに眉尻を下げる。

「任務……ね。しばらくロゼにいるんだろう?」

「あぁ、当分はな。状況によってはノイマールに飛ばされるかもしれないが」

 ヴォルフのあまりに軽い様子に、ロマンは瞳を細めて厳しい顔つきになった。いちいち大げさな彼を、ヴォルフは軽くあしらった。

「万が一ってことだよ。そんな顔をするほどのことでもないだろう?」

「するさ。ノイマールに行くってことがどういうことか、君は僕よりも理解しているはずだ。そうでなくとも、君の仕事は危険と隣り合わせだ。ロゼでの仕事だって、完全に安全というわけでもないんだろう?」

 ロマンは厳しい顔のまま、ヴォルフに詰め寄った。ヴォルフは小さくため息を吐く。

 確かにロマンの言うとおりだ。

 昼間、ダムブルクの街中で見たオプシルナーヤ人。あれはただの一般旅行者ではないだろう。もしヴォルフの予想が当たっているとすれば、今回の仕事は一筋縄ではいかないかもしれない。それこそノイマールに行くことも十分にあり得る。

 しかし、それをそのままロマンに言うわけにもいかない。

「こういう仕事でもなければ、ノイマールに入ることも出来ないだろう?」

 若干言い訳めいてはいるが、それはヴォルフの本心だ。

 少し前から怪しい動きのあったオプシルナーヤ。大きな力に飲み込まれようとしているヘルデンズは、既に先日、首都ノイマールを封鎖された。

 一般人は入ることが決して許されなくなったその土地で、古い知り合いが今どうしているか。ヘルデンズで生まれ育ったヴォルフが気にならないわけがない。

 そのことに、ロマンは何も言わなかった。彼が何も言えないのは、当然だ。

 ロマンも、ヴォルフと似た境遇だからだ。いや、もしかすると彼の場合、ヴォルフよりも状況はひどいのかもしれない。

 ヴォルフは小さく息を吐いて、ブランデーを口に含んだ。

 沈黙が二人の間に落ちる。

 ラジオから流れるバラードが、やけに大きく談話室に響く。

 ロマンは静かにブランデーを口に含み、ヴォルフはグラスを揺らして氷を転がす。

 すると、フラウジュペイ歌謡曲を流していた番組が終わり、ニュースが流れ始める。

『――先日、ヘルデンズのアルテハウスタット郊外にあるダールベルク元総統の別荘が新たに発見された件において、オプシルナーヤ調査委員会は別荘内の物品を数点、公開しました』

 早速提起されたトピックに、ヴォルフは盛大にため息を吐いた。そんな情報、明日の朝刊で読んでも遅くないはずだ。わざわざ場の空気をぶち壊すかのようなラジオ放送に、ヴォルフは立ち上がり、局を変えようとした。

 しかし、ニュースが告げた次の一言に、それは止められた。

『オプシルナーヤ調査委員会が公開した物品の中には、ダールベルク元総統の孫、クラウディア・ダールベルクが八歳の時に書いたと思われる作文がありました。その内容を、一部始終ご紹介いたします』

 ラジオの向こう側のアナウンサーは、淡々と原稿を読み上げる。

『わたしのおじいちゃんはヘルデンズ帝国の一番えらい人で、世界を今よりももっとよくするために、毎日一生けんめいはたらいています』

 最初の一文に、虫唾が走る。嫌な悪寒が背中を駆け抜けた。

 しかし、まだこれは、始まりに過ぎない。

『おじいちゃんがいつも言っていることがあります。それは、わたしたちヘルデンズ人が、世界で一番とうとい民族だということです。めずらしい発明品を作るのも、新しい発見をするのも、いつもヘルデンズ人です。だから、世界のリーダーになるべきなのは、このヘルデンズ国です。おじいちゃんはそれを世界中に認めさせるのが夢だそうです』

 戦争が始まる前、世界をリードしていたのはヘルデンズだった。ヘルデンズの並外れた技術革命は、世界に明るい希望をもたらしていたのは確かだ。

 いつしかそれを驕った政治家たちは、「ヘルデンズは英雄なのだ」と至るところで街頭演説を行っていた。

 裏では残酷な計画を起こしながら――。

『でも、それを証明するためには、世界をきれいにする必要があるそうです。世界には存在してはいけない民族が沢山住んでいて、そういう人たちがいつもヘルデンズ国を悪く言うみたいです。それどころか、その人たちがいるせいで、世界では戦争がなくならないのだと、おじいちゃんはいつも言っています。

 だから、そういう人たちを一人のこらずたいじし、世界を平和にして、ヘルデンズ国のすばらしさを世界中の人々に教えるために――プツッ』

 気が付いたら、ラジオの電源を切っていた。肩が大きく上下し、握りしめた拳が、震えている。

 これが自宅のラジオだったら叩き壊していたかもしれない。

 それほどの怒りに、ヴォルフはラジオを睨み付けていた。

「……八歳の作文だ」

 椅子に座ったまま、ロマンが静かに言う。

 ヴォルフは反射的に彼を振り返った。

「あぁそうだよ。例え八歳でも、これがあのマクシミリアン・ダールベルクの孫の作文、血は争えないってわけだ!」

 ヴォルフはテーブルを怒りのままに勢いよくバンと叩く。

「よくこんな内容書けたものだぜ。てめぇのジジィが全ての元凶だってのによ! 何が世界の平和だ。一体誰のために人が死んでいったことか!」

「ものの分別もつかない子供の作文だ。洗脳されていたっておかしくない」

「洗脳? いや違うな。自分のためにジジィが国をキレイにしていると思ってんだよ! とんだお姫サマ気取だ!」

「落ち着けよ、もう亡くなっているかもしれない相手に」

「あぁそうだ! もしどこかで見つけたら、あの地獄を必ず味わわせてやる!」

 怒りのままにヴォルフは目の前のブランデーを瓶ごと一気に煽り、音を立ててテーブルに戻した。一応力加減は配慮されていたが、これが自宅だったら間違いなく瓶を割っていただろう。

 すっかり頭に血が上ってしまっているヴォルフに、ロマンは水を差し出した。

「よせよ。何も知らずに書いた子供に怒っても、どうしようもない」

「だが、こいつは実際にアジェンダ狩りを見ている。こいつのせいで、俺の親父は殺された。こいつのせいで、俺の仲間はみんな殺されたんだ!」

 忘れもしない、あの日のことを。

 収容所まで歩かされていた途中に、あの独裁者が現れた。奴は、まっすぐ歩いていたはずの父を銃で撃ち、唾を吐いた。

 忘れもしない、あの日々を。

 ろくな食事ももらえず、炎天下の中、極寒の下、一日中働かされたことを。明日の望みもなく、理由もないのに鞭打たれる理不尽さ。仲間が殺されるのを、黙って見守ることしか出来なかった。

 全てはあの少女のために――。

「……もし今も生きているなら、これを書いたことをひどく後悔していると僕は思う」

「何だ、さっきからえらく庇うじゃないか。大体お前はどうしてそんなに落ち着いていられるんだ! お前だって俺と同じだろう!?」

 ヴォルフはロマンをぎりりと睨み付ける。

 ロマンは小さくため息を吐き、目を閉じる。

 僅かに刻まれた眉間の皺は、当時の光景を嘆いているに違いない。ヴォルフは一方的にそう思う。

 ロマンは薄く瞳を開くと、抑えた声で言った。

「過ぎたことを怒っても仕方のない話だよ。死人は蘇らないのだから」

 この話は仕舞とばかりにロマンはジャズのレコードを流す。敢えて求めていた言葉を避けたロマンに、ヴォルフは悪態吐きながら水を煽った。

 興奮のあまり、ヴォルフは気が付かなかった。

 ロマンの手が、僅かに震えていたことに。



 漆黒の闇の中を、全速力で走る。

――なんて、私は愚かだったんだ!

 談話室から聞こえてきたラジオ。

 静かに嘆くロマン。

 悲痛な叫びを上げたヴォルフ。

 寝付きが悪くてたまたま通りかかっただけだった。

――許されるわけがない。

 ただヘルデンズ人として生まれたわけではない。ただ孫として生まれたわけでもない。

 自分は立派に『孫』だったのだ。

 『英雄』の孫として生まれたことを誇っていた。祖父の所業を『正義』と信じていた。

 そんな自分が、どうして許される?

 どうして自分には罪がないと、驕ってしまったのか。

 行き止まった川に向かって、思い切り右手を振り上げる。手の中にあるのは、薄萌葱色の手紙と、ゴールドのブローチ。

――二度とこれを捨てようとするなよ。

 ヴォルフの言葉が、耳の中に蘇る。

 初めて会ったときにこの手を止めてくれた彼。

 昼間、川に飛び込んでまでブローチを取り戻してくれた彼。

 振り上げた手が、震えたまま下ろされる。

 その場に崩れ落ちた。

「どうして私は孫に生まれたの……」

 ただのヘルデンズ人だったなら許された。

 戦争の犠牲になってしまった罪もない子供でいられた。

「どうして私は……っあんなものを書いたの……!」

 幼き自分が書いた作文。現実を知らずに綴った内容は、恥ずかしく愚かなものだった。

 あんなものを書かなければ、まだマシだったのかもしれない。

 しかし、いくら悔やんでも、それは残ってしまっている。電波に乗って、フラウジュペイ中に流れてしまった。

 ヴォルフの耳にもしっかりと入ってしまったのだ。

 この二日間のことが、走馬燈のように脳裏に浮かぶ。

――綺麗なその髪にぴったりの名前だ。

 右半身の火傷にも白い髪にも、彼は当たり前に触れてくれて、肯定してくれた。

 楽しくて嬉しい気持ちを、久しぶりに思い出させてくれた。

 ヘルデンズ人であることさえ許してくれた。

 それなのに――。

「言えるわけがない……」

 本当のことを言ってしまえばどうなるか、もう目に見えている。

 初めて心が熱くなった。

 初めて心から惹かれた人。

 その彼は、マクシミリアン・ダールベルクの犠牲者で、孫の自分をひどく憎んでいた。

 悔しくて悲しい気持ちに、手紙に顔を押し付けながら、ブランカは咽び泣いた。

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