10.ヴォルフとヘルデンズ人
「ヴォルフ!」
ブランカが辿り着くよりも先に、ヴォルフは岸に上がっていた。
彼は裸足になってシャツやパンツの水を絞っている。あんなにとっぷりと浸かったのだ、そんなすぐに乾くはずもない。
だが、不思議なことに、彼は全く息切れしていなかった。彼が飛び込んだとき、ブローチはかなり流されていたはずだ。それでいて、流れのある川を速いスピードで泳いでいたというのに、息切れしているのはむしろ、柵の内側で見ていたブランカの方だ。
そんなブランカを、彼はからかうように笑った。
「何だよ、そんなに泣きそうな顔をして。さっきまでは先陣切って町中走り回っていたくせに」
相変わらず下手くそなフラウジュペイ語で言われた言葉に、ブランカは一瞬何のことかと目を丸くするが、それがさっきのスリ騒動のことだとすぐに分かった。
ブランカはみるみる顔を赤くする。
「み……見ていたの?」
「あぁ、さっきみんなで町に来たときに、ちょうどその場面に出くわしたんだ。まさかこんなことになっていたとは思わなかったが」
「それは……っ」
言いかけて、言葉が続かない。どうしてこの人の前ではみっともない姿ばかり見せてしまうのだろう。
すると彼は、ブランカに右手を差し出した。
「ほら。これ、大事な形見だろ? もうなくすなよ」
言いながら彼は手のひらを開ける。そこには、焦げた痕の残るゴールドのブローチが乗っていた。
ブランカはそれを呆然と眺める。
「おい、
「風邪引くなよ!」
さっき一緒になってスリの子供を追いかけていた大人たちが、川原の上から声を掛けてくる。大変なことをしたというのに、ヴォルフは暢気に彼らに手を振って「ありがとよ」なんて言っている。
「身体、冷えるので。早く拭いてください!」
半ば怒り気味にタオルを差し出せば、ヴォルフは目を丸くしながらも、「お前も早く受け取れ」と、ブランカの手にゴールドのブローチをねじ込んだ。
がしがしと乱暴に濡れた服や髪を拭う横で、ブランカは彼とブローチを何とも言えない気持ちで交互に眺めていた。
「ヴォルフ、ブランカ。僕たちは先に戻っているね。身体も冷えるだろうし、早めに帰ってくるんだよ」
大人たちに続いて、ロマンが川原の上から二人に声を掛ける。一緒にいた子供たちが不服そうにブランカに白い目を向けるが、ロマンだけはやっぱりどこか楽しげだ。そもそも友人が濡れ鼠になっているというのに、先に帰って行くとはロマンにしては薄情だ。
ブランカは小さくため息を吐いた。
「あなたは、やっぱりどうかしているわ。こんなもの、無くなったって良かったのに……」
消えゆきそうな声で、どことなく卑屈気味に手の中のブローチに視線を落とす。隣で彼が息を呑むのが分かった。
こんなこと、今ここで言うべきことではなかっただろう。こんな冷たい水の中を、わざわざ柵を跳び越えてまで取りに行ってくれた彼に言うものではない。
しかし、少なくともこれについては、ヴォルフが身体を張る必要などなかったのだ。
だって彼は――。
「<ふん、いつどこにいてもアジェンダ人は目障りなことをしたがるらしい>」
さっきの怒鳴り散らしていたオプシルナーヤ人が、川原の上から唾を吐いてその場を過ぎ去っていく。その後ろを彼の部下らしき三人が呆れた様子で付いていくが、こちらに向けた視線は、蔑みの色が濃く現れていた。
彼らの背中を、ヴォルフはタオルの隙間から鋭い視線で睨み付けている。それが彼らの言うことを理解してのことなのかどうかは分からない。
だけどブランカは、自分の中の疑問をこのまま留めてはおけないと、理由もなく思ってしまった。
「あなたは、アジェンダ人なの?」
ゴールドのブローチを手のひらに載せたままヴォルフをまっすぐに見据えて、ブランカは彼に疑問をぶつけた。
ヴォルフはゆっくりと首を上げ、ブランカと視線を合わせた。彼の薄鳶色の瞳は、驚きに見開かれるわけでもなく、不愉快そうに細めるわけでもない。ただ、ブランカの真意を確かめるかのように、射抜くような視線で、まっすぐにブランカを捉えていた。
一生にも思えるほどの数十秒の後、彼はフラウジュペイ語からブラッドロー語に切り替えて、口を動かした。
「敢えてそれを聞くのは、単なる興味なのか、もしくは差別主義者だからなのか。それとも――」
ヴォルフは一旦言葉を切ってから、その疑問を放った。
「お前が、ヘルデンズ人だからか?」
瞬間、心臓が一気に凍り付く。
――今、彼は何と言ったのか。
考えようとするが、真っ白になった頭では、まともな考えが浮かばない。早く言葉を返さなくてはいけないのに、乾いた口は何も言葉を紡げそうになかった。
何より、まっすぐに向けられた彼の薄鳶色の瞳が、一片の誤魔化しも許さないだろう。
動揺を隠せないままに見開いたままの瞳で彼を見つめれば、ヴォルフはその緊張状態をほぐすように、深く息を吐いた。
「昨日の朝、お前がそれと一緒に捨てようとした手紙があっただろう。あのとき封筒に書かれた文字が見えたんだ。『
やはり彼には見られていたのだ。
ブランカは手紙の入っている方のポケットを上から掴みながら、ヴォルフから一歩距離を取る。
震える身体で後ずさる彼女を捕まえるわけでもなくただまっすぐに見据えながら、ヴォルフはそのまま続けた。
「それから昔、上官が言っていた。『フィンベリー大陸の中でもヘルデンズ人はブラッドロー語が綺麗な方だが、本人たちが気付かない発音の癖がある』ってな」
頭が急速に冷えていく。
ヴォルフはずっとブランカを試していたのだ。
昨日の朝の時点で、少なくともブランカがヘルデンズ人であることを見抜いていた。知っていて、ブランカがブラッドロー語を使ったのを皮切りに、敢えてブラッドロー語を使い、ブランカをずっと観察していたのだ。そして確信を与えてしまっていた。
嫌な汗が、背中を流れる。心臓が嫌に大きく音を立て、いつの間にか視界に入っていた足下が、がくがくと震えていた。
「ま、ブラッドロー語に関しては、俺が言われたことなんだけどな」
するとヴォルフは、この場にそぐわないような明るい口調で言った。
咄嗟に彼の言うことが理解できなくて、ブランカはそろりと顔を上げる。
彼は口調と同じく、怒るわけでもなく、むしろ、ブランカを安心させるような穏やかな笑みを浮かべている。
でも、どうしてそんな顔を浮かべられるのか。だって、彼の言うことをそのまま解釈すれば――。
「あなたは、ヘルデンズ人だったの?」
昨日の彼の言動が、漠然とではあるが、繋がっていく。
彼は昔ヘルデンズに住んでいた。それがいつまでなのか分からないが、ブランカが生まれる前から既にアジェンダ人の摘発が始まっていたから、きっと自由に外を出歩けなかったに違いない。
ブランカは彼の言葉を静かに待った。
「確かに俺は、アジェンダ人だ。親二人は敬虔な古神教信者だったし、見た目もアジェンダ人特有の顔つきだろ? どうやらうちはその血が濃いみたいなんだ」
ヴォルフはブランカの質問に答えずに、穏やかな口調で話し始める。
そうしながら彼は川の方へ目を向け、その場に腰を下ろし、乱暴に足を投げ出した。話の途中で彼が自分の隣をぱんぱんと叩くので、ブランカは若干距離を取りつつ、黙って彼の隣に腰を落ち着けた。
「もちろんかなりひどい目に遭ったよ。まだ摘発が本格化する前は、街中行けば物ぶつけられたりした。摘発が過激化した頃には一生日の目は見られないと思っていたけど、生憎捕まっちまって、嫌と言うほど太陽の下歩かされたよ。俺、これでも五年前までは収容所にいたんだぜ」
彼は天気のことを話すかのような軽さで、さらりと言った。
それでも彼はやはり、『人種の美化活動』の犠牲者なのだ。
予想はしていたが、本人の口からこうも改めて言われると、心臓を鷲掴みされたみたいに、強い衝撃が走る。それなのに、彼は穏やかに言う。それが余計にブランカを悲しくさせた。
「ごめんなさい……」
そんな言葉だけでは足りないのは分かっている。でも、それ以外に掛けるべき言葉が見つからなかった。そもそも『人種の美化活動』の犠牲者と面と向かって、一体自分が何を言えたものか。
募る罪悪感に、ヴォルフと目を合わすのが辛くて、いつもみたいに下を向く。
「何でお前が謝るんだ」
「だって私は――……」
あなたを苦しめた人の孫だから――。
空を切った声は、音にならないまま、震えていた。
本当は自白するべきなのだろう。でも、言ってしまったらどうなる? 想像すればするほどに恐ろしく、またそう思う自分が情けない。
自分の愚かさと無力さとその存在に、全身の震えが止まらない。膝に乗せていた手も、いつの間にかブローチを固く握りしめ、大きく震えていた。
すると、かなり間近でヴォルフがはぁと深く息を吐くのが聞こえてきた。
「別に、ヘルデンズ人であることに責任を感じる必要なんかない。大体俺だって、ヘルデンズ生まれのヘルデンズ育ち。今じゃあおおっぴらに言えないが、俺は今でも自分をヘルデンズ人だと思ってるんだぜ」
取っていたはずの距離がいつの間に縮められ、頭に手が乗せられる。彼はブランカの言わんとしていたことを別の意味に捉えたらしい。
しかし、それにしても、どうしてそんな風に穏やかでいられるのかが分からない。
非アジェンダのヘルデンズ人が、戦前からアジェンダ人に冷たくしていたのをよく覚えている。兵隊が街中でアジェンダ人を暴行を加えるのを、みんな我が物顔で煽っていた。『人種の美化活動』が本格始動したとき、非アジェンダの人たちはアジェンダ人を見放し、ダール政権に差し出した。
例えヴォルフがヘルデンズ人としての意識が高くとも、彼は間違いなくアジェンダ人の一人としてヘルデンズで虐げられたのだ。
それなのに、どうしてそんなことを言えるのかが分からない。
彼はブランカの心中を知ってか知らずか、話を続けた。
「確かにヘルデンズ人にはかなり裏切られて、当時は俺もガキだったからかなりむかついたけど、あの時は国に逆らうなんて命取りだった。仕方なかったんだよ。それに、最終的にヘルデンズはブラッドローとオプシルナーヤの連合軍に壊滅させられた。ヘルデンズ人だってかなり犠牲になっている。今更責めようという気なんて起こらないさ」
ヴォルフは穏やかに言ったが、どこか彼の言葉には無常観が漂っていた。
きっと彼は、こんな風に言えるまでに、かなりの時間を費やしのだろう。
彼の置かれていた立場は到底納得できるものではない。ヘルデンズ人の裏切りを憎むことだってあったのかもしれない。
「それに、ヘルデンズ自体は嫌いじゃない。生まれ故郷だしな。それなりに信頼できる人もかなりいたし、彼らにはかなり救われた。今でも連絡取っているヤツもいるんだぜ」
「でも……亡くなった人もいるんでしょう?」
「まぁ、何人かはな。だが、そのことにお前が責任を感じる理由なんてどこにもないし、そんな顔をする必要なんかない」
ヴォルフはブランカの右頬に手を当て、彼女の顔を上げさせた。柔らかく細められた鳶色の瞳とまっすぐに目が合う。
彼は数秒間そうしていると、ふっと口元を和らげた。
「ブランカ、お前、今いくつだ?」
飛んできた質問に、ブランカは瞬きをする。
質問の意図がよく分からないが、ブランカはすぐに答えた。
「十六、よ」
「そうだ、十六だ」
彼は満足そうに頷いた。
頬を触っていない方の手が、わしゃわしゃと頭を撫でる。
「少なくとも戦中は、十になるかならないかくらいの子供だったんだろ。そんな子供が、どうして大人の引き起こした戦争や恐怖政治の罪を償える。何の罪もなければ、むしろ犠牲者だ。そんなお前が感じなきゃいけない責任なんか、どこにもないだろう?」
優しく諭すように紡がれたその瞬間、一筋の涙がブランカの頬を伝った。
彼の言葉が、一つ一つ、心に浸透する。胸が、奥底から熱くなる。
ひとたび流れ出た涙は、次から次へと溢れ出してきた。
ヴォルフは困ったように笑うと、ブランカの肩を引き寄せ、彼女の頭を胸に押し当てた。それからはもう、ブランカは身体を震わせて思い切り泣いた。
――ずっと、その言葉を求めていたのかもしれない。
誰にも本当の事なんて言えなかった。ヘルデンズ人であることさえもひた隠しにしてきた。その心細さの中で、ただ罪悪感ばかりが強くなっていた。
自分の存在に、罪を感じていた。
だけど、本当はその罪悪感に疑問を抱いていた。同時に、誰かに自分の存在を許してもらいたかった。
それを、同じヘルデンズ人の、アジェンダ人の彼に言われるなんて――。
「お願いです……私がヘルデンズ人であることは、誰にも言わないで下さい……ロマンも知らないの」
「そうか。じゃあ二人だけの秘密な」
悪戯っぽく言うヴォルフに素直に頷きながら、ものすごく彼に惹かれている自分に気が付いた。
当たり前にブランカに触れて接してくれる人。ブランカの火傷を『生きてきた証』と言い、ブランカの白い髪を褒めてくれた。少々強引だが強い力でブランカの感情を引っ張り出し、不安を取り除いてくれる。
ヘルデンズ人であることすら許し、求めていた言葉をかけてくれた。
全身が、熱くなる。
惹かれずにはいられなかった。
「――それよりお前、もう二度とこれを捨てようとするなよ。これをくれた人とどんな思い出があるか知らないが、こんな遠いところまで来て残してきたんだ。ちゃんと大事にしろよ」
ヴォルフはブランカの肩を抱いたまま、彼女の右手に手を添えた。ブランカは薄く手のひらを開ける。
彼の言葉は不思議だ。さっきまで憎らしく感じていたゴールドのブローチを、今は穏やかな気持ちで眺められる。
――言いたい。
心の奥底で、そんな気持ちが湧き起こる。
いつか、彼には本当のことを打ち明けたい。
誠実に向き合ってくれる彼に、誤魔化しも隠し事も一切したくない。
例えブランカの正体を知っても、きっと彼なら、さっきと同じ言葉をブランカに与えてくれる気がする。その強さで受け止めてくれる。
根拠も何もないが、ブランカは心の中でそう確信していた。
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