9.アジェンダ人

 アジェンダ人――それは古代神を信仰する人たちの通称だ。

 古くよりフィンベリー大陸では聖神教という宗教が重んじられてきた。国によってその宗派や形態は異なるが、これを信仰することが基本で、法律も政治もこれに則って進められてきた。

 一方、聖神教よりも古くから存在する古代神を崇拝する人も、フィンベリー大陸には少なくなかった。古代神と言っても過激なものから穏健なものまで様々だが、これら全て聖神教から逸脱した異端民族『アジェンダ人』として一括りにされ、聖神教信者から蔑まれてきた。もっとも、聖神教にしても古代神にしても、近年では敬虔な信者は少なくなりつつあるため、アジェンダ人という呼び名は悪しき風習の名残とも言える。

 だが、彼らを一括りに呼ぶには、独特の共通した外見的特徴があった。

 赤みがかった茶色から鳶色の髪、同色の瞳、彫りの深い顔立ち。また、それ以外の人たちより平均して身長が高い。一度見たことがある人なら、はっきりとすぐにアジェンダ人と分かる容貌は、一つの人種として見なす人もいるくらいだ。

 言われてみれば、ヴォルフはそれによく当てはまっている。言わば典型的なアジェンダ人だ。それなのに、そんな可能性を微塵も考えていなかった。

 ブランカは町の本屋を出ると、重い足取りで中心部の方へ向かう。

 そもそもブランカもよく分かっていなかった。アジェンダ人に顔の特徴があることなど知らなかったのだ。実際に見たことはあるがそれも幼い頃の話だし、戦争が終わってから一度もその人たちを見ることはなかった。

 何故ならフィンベリー大陸にいたアジェンダ人は、大半が戦時中に姿を消したからだ。

 歩きながら、ブランカはスカートの裾を強く握り込む。

 見知った町が、灰色へと塗り変わっていく。大通りを、虚ろな人たちで埋め尽くされる。みんな、一方向に歩いて、そこから逸れようとしても上手くいかない。

 すると、道路を挟んだ歩道の向こう側に、手を繋いで立っている老人と子供が見えた。二人は大通りを歩く人たちをぼんやりと眺めている。ふと、子供がどこかを指差し老人に何かを尋ねる。老人は緩やかに口を動かした。

――あれはね、この世にはびこる劣等民族なんだ。生きる価値もないから、駆除してやっているんだ。

 そこに潜む狂気の色に、ブランカは目を瞠る。その瞬間――。

「おい! いきなり立ち止まんじゃねーよ!」

 後ろから乱暴に聞こえてきた声に、ハッとする。

 気が付いたら、いつの間にか立ち止まっていたらしい。半ばぶつかりそうになった後ろの男は、悪態を吐きながらブランカを追い越していく。町の人たちはいつもと同じで、和気藹々としている。道路の向こう側の老人と子供も、とてもにこやかだ。おかしなことは何も無かった。

 ただ、灰色がかった世界は、変わらなかった。こんなことは幾度かあったが、特に今日は、あの時のようだ。

 たった一度だけ見学しに行った『人種の美化活動』――。

 祖父、マクシミリアン・ダールベルクは、アジェンダ人をひどく嫌っていた。理由はきちんと教えてくれなかったが、彼らを『害虫』とか『劣等民族』などと吐き捨てるくらい、祖父は彼らを憎んでいた。その行き過ぎた憎悪は、ダール体制の中で世にも残酷な計画を引き起こした。

 それが『人種の美化活動』。

 アジェンダ人を一つの人種と完全に見なしていた祖父は、アジェンダ人を駆逐し、彼らの絶滅を目論んだ。それはヘルデンズ国内だけでなく、ヘルデンズの支配領国全域で実施された。アジェンダの血が混ざる者なら老若男女一人残らず、非アジェンダ人でも匿おうとすれば一族郎党全てをかき集め、収容所へ送還した。そこで彼らは過酷な労働を課せられながら、最終的に生きる望みもなく殺されていった。

 実にフィンベリー大陸に住んでいたアジェンダ人の三分の一が、祖父の計画によって葬られたのだ。

 人の流れに乗りながら、ブランカは再びスカートの裾を握りしめる。ポケットの布越しに感じるブローチが、やけに手に食い込んで鈍い痛みを与える。

 ヴォルフは昨日、幼い頃にフィンベリー大陸に住んでいたと言っていた。あの話をしていたときの彼の感慨深げな瞳と、悲哀の笑み。

――まさか、こんな風にフィンベリーを歩ける日が来るなんてな。

 頭によぎる考えに、心がきりきりと痛む。

 彼はブラッドロー人なんて言うが、昨日のあの様子を見ると、祖父の引き起こした計画と何か関係しているように思える。そうでないとしても、彼はアジェンダ人の一人として祖父の所業を憎んでいるかもしれない。

 その孫がここに生きていると知ったら、彼はどうするだろうか――。

 考えるだけで、身体が震える。もっとも、自分が罪悪を感じなくてはいけないのは、アジェンダ人に限った話ではないが。

 そのとき――、大通りの一角から、大きな怒号が聞こえてきた。何が起こったのかと見に行く野次馬の波に流されて、ブランカもそちらの方へ向かう。

 人の隙間から見えたのは、アクセサリーの露店の前で地面に額を擦りつけている中年の男とその横で泣きわめく子供。そして二人の前でふんぞり返るスーツ姿の男。彼は後ろに三人、同じような格好の男を連れていた。

 スーツの男が、子供を指差して言う。

「おい、一体どういう教育をしたら人のものを盗むことになるんだ!」

 大きな声と尊大な態度で、彼は中年の男を怒鳴り散らす。外国の人なのか、片言なフラウジュペイ語ではあるが、そんなことを気に留める余裕など与えないくらいに、彼は恐ろしい雰囲気をまとっていた。

「本当にすみません! 息子には厳しく言って聞かせますから!」

「待ってよ! 僕じゃない! ただ命令されただけなんだ!」

「ええい、どちらにせよお前の手から私の財布が出て来たことには変わりない! まったく、フラウジュペイの田舎はとんだごろつきの巣窟だ!」

 わめく子供の言い分を聞こうともせず、彼はダムブルクの中心でそう言い放つ。一体彼がどういう人なのか、ぱっと見ただけでは分からないが、彼の着ているスーツといいピカピカに光る革靴といい、それなりの立場の人なのだろう。

 彼の後ろにいる三人が、引き気味な様子で話す。

「<あぁあぁ、こりゃあもう隊長、八つ当たりだぜ>」

「<無理もねぇよ。大佐位取られた上にそれまでの地位を剥奪されて、挙げ句の果てにこんな辺境の調査に飛ばされたからな>」

「<おい、そういうことを言うなって>」

 彼らは怒鳴り散らすスーツの男を止めるでもなく、ただただ呆れた様子でその場を見守っている。彼らは普通の声で話していたが、その内容をきちんと理解できた人は、この場にいる野次馬の中には少ないだろう。彼らはフラウジュペイ語じゃない言葉で話していた。

 今の言語は……オプシルナーヤ語?

 フラウジュペイの基礎教育課程では習うことのないその言語だが、幼い頃に少しだけ覚えた単語と発音に、ブランカは確信的にそう思う。

 しかし、妙だ。

 オプシルナーヤと言えば、今やフィンベリー大陸の覇権を狙ってブラッドローと無言の睨み合いをしている最中だ。当然、ブラッドローと仲の良いフラウジュペイとも軋轢が生じているはず。これが一般人ならまだしも、彼らはふんぞり返るスーツの男を『隊長』と呼び、会話の中で『大佐』という単語が出て来た。

 そんな人たちが、一体どうしてこんなところに?

 ブランカの思考を遮るように、スーツの男が声高に言い放つ。

「ならその命令したというヤツはどこにいる!」

「そ……それは……」

 子供は泣き腫らした目を、野次馬の方へ向ける。右へ左へ視線を彷徨わせて、当の人物を探しているようだった。

 そのときだった。

 足下の方で、微かな異変を感じた。

 偶然意識を向けなければ、気が付くこともなかっただろう。それくらい一瞬だった。

 スカートの重量感が無くなった気がして、ブランカはポケットの中に手を入れた。

――ない……!

 さっきまでそこにあったはずのブローチが、無くなっている。祖父からもらったゴールドのブローチが。

 ブランカは一気に青ざめ、その場を見渡した。

 すると野次馬の後列の方に、小さな背中が見えた。

 その子は他の人のポケットからもこっそり貴重品を抜き取るが、大人たちは誰も気が付いていない。咄嗟に知らせようとするが、こんなとき、どう声を上げればいいのか分からない。そうこうしているうちにその子は野次馬から抜け出そうとする。

 ブランカはなりふり構わず人混みをかき分けた。

「な……っ何だ、いきなり押してきて!」

 野次馬の一人が、怪訝そうにブランカを引き留める。そうしている時間も惜しいブランカは、逃げようとする子供を指差した。

「あの子が、あなたの財布を盗るのを見たんです!」

 言ってから、ブランカはしまったと思った。この町の人は、ブランカの姿を忌避するものばかりだ。ブランカの言うことを、果たしてまともに受け取ってくれるだろうか。

 ブランカは引き留めた人の手を振り払い、とにかく子供の後を追った。

 すると、野次馬の人たちの声が、後ろから近づいてくるのが分かった。

「おい! スリだ! あの坊主を捕まえろ!」

 さっきブランカを引き留めていた人が、声高にそう叫ぶ。この場はとりあえずブランカのことを信じてくれたのだろう。ブランカはほっと息を吐きながら、子供の後を追った。

 野次馬の人たちの叫び声に、道行く人たちがその子供を捕まえようとするが、その子はするすると人の間を抜けて、町中を走り回る。きっとこんな場面は何度もくぐり抜けてきたのだろう、子供は慣れた様子で大人たちを攪乱させた。


 そうして走り回ること十五分。子供の姿が完全に消えた。

「完全に隠れやがったな。お前らはあっちを探せ。俺たちはこっちを探すぞ」

 ブランカも一緒になって追っていたのに、こちらには何の指示もくれないで、大人たちは手分けして子供を探し始める。

 仕方がないので、ブランカは川の方へ探しに行くことにした。

 するとすぐに、その子供は見つかった。

「はっはー! あいつら滑稽だったぜ! すんげぇ必死になって追いかけて来やがらぁ!」

 子供は川の柵に寄りかかりながら、戦利品を一つ一つ確認する。財布と高級そうな時計がいくつか、他にも宝石の付いた指輪やブレスレットなどもあった。

 当然、ブランカのゴールドのブローチも。

 ブランカは子供ににじり寄った。子供はすぐにブランカの気配に気が付く。

「何だい。誰かと思ったら、児童施設のただれ女じゃねえか! こっち来んなよ、菌が感染る」

 いつも施設の子供たちに言われるようなことを、その子は仁王立ちになってブランカにぶつけてくる。そんなこと、いつも言われすぎて、もはや何とも思わないのだ。むしろそんなことを気にしている場合でもない。

「お願いよ、そのブローチ、返して……」

 息を切らしながらも、ブランカは右手を子供の方へ差し出した。まだだいぶ距離はあるというのに、子供は一歩ブランカから距離を取る。

「へっ何だ、こんなブローチが欲しいのかい? よく見るとこれ、すんげぇ焦げてらあ、盗りもん失敗したなぁ」

 子供はブランカのブローチをまじまじと見ながら、ブランカに渡すでもなく、独りごちる。ブランカは更に子供に近づいた。

「お願い、返して」

「ふんっこんな値打ちもなさそうな物は、こうだ!」

「ああ……っ!」

 言うが早いか、子供は川に向かってゴールドのブローチを投げ捨てた。ブランカは思わず柵に駆け寄る。

 川の流れは速くはないが、ゆっくりとゴールドのブローチが下流へと流れていく。そこそこ幅も深さもある川だ。もうどうしようもないだろう。

 ブランカが柵を掴んだまま項垂れている横で、子供はそろりとその場を立ち去ろうとする。

 しかし、すぐに大人たちに捕まってしまった。

「このくそ坊主! 俺の財布盗みやがって!」

「サツに付きだしてやる!」

 大人たちがすぐそこで子供に怒鳴り散らすが、ブランカはスリをした子供のことは、もうどうでもよかった。

――手紙と一緒に唯一残してきた祖父とのつながり。

 それが今、ゆっくりと目の前を流れていく。

 とてつもない喪失感が、ブランカを襲う。

――むしろ、これで良かったのかもしれない。

 流れゆくゴールドのブローチを呆然と眺めながら、ブランカはそう思う。

 あれがあるから、いけないのだ。あれが無ければ、祖父との縁も切れるだろう。

 祖父が犯した罪を気にせずに、ただのブランカとして――。

「おい、これを頼む!」

 突然そんな声と同時に、乱暴に何かを手渡される。一体何かと思って手元を見れば、男物のジャケットが、腕に乗せられていた。足元を見れば脱ぎっぱなしの男物の靴も置いてあった。

 どういうことかと視線を巡らせれば、ちょうどその人が、柵を越えて川に飛び込むところだった。

「ヴォルフ!?」

 咄嗟に手を伸ばして彼を止めようとするが、それよりも早く、大きな水音を立てて彼は川に入っていく。あまりに突拍子もない行動に、それを見ていた大人たちが一斉に柵に寄りかかり、驚きの声を上げる。ブランカはもはや絶句状態だ。

 ヴォルフは、川の流れよりも速く、下流へと泳いでいく。向かう先は、沈むことなく水面に浮かんだままのゴールドのブローチ。

 春になったとは言え、まだまだ水の温度は低い。それなのに、何の躊躇もなく飛び込んでは当たり前に泳いでいるヴォルフを、ブランカは信じられない気持ちで眺めていた。

「ヴォルフ兄ちゃんすげえ! もうあんな対岸まで行ってる!」

「ヴォルフは身体が頑丈だからね、君たちはくれぐれも真似してはいけないよ」

 いつの間にかブランカのすぐ側にロマンが子供たちを引き連れていた。その後ろには施設の男性職員たちもいる。みんなで町に遊びに来ていたのだろうか。

 ロマンが、子供たちを男性職員に任せ、ブランカのところへ寄ってくる。

「まったく、あいつは思いも寄らないことを急にしてのける。あんなヤツ、なかなかいないよ」

 友人がこの冷たい水の中を泳いでいるというのに、ロマンは至ってのんびりした様子だ。ブランカは思わずロマンに掴みかかった。

「そんな悠長なことを言っている場合ではないわ! 早くあの人をどうにかしないと……!」

「あ、ほら見て。ヴォルフが掴んだよ。あれだろう、君の大事なもの」

 言われてヴォルフの方へ視線をやれば、ロマンの言うとおり、ちょうどヴォルフがブランカのゴールドのブローチを掴んだところだった。彼は掴んだ手を水面から高々と上げて、こちらに笑顔を向けている。

 ロマンに掴みかかった手が、知らず震え出す。ロマンがその手を優しく包み込んだ。

 すると、ブランカたちの後ろから、「あの」と呼びかける声が聞こえてきた。振り向けば、町の女の人が立っていた。

「すみません、児童施設の方ですよね。どうぞ、あの人にこれを持っていってあげてください」

 彼女はそう言いながら、大小二つのタオルをブランカたちに差し出した。ブランカは目を丸くしてそれを眺める。

 女の人が恥ずかしそうに言った。

「その子のおかげで、うちの主人の財布を取り戻せましたから」

 そういえばと、スリの子供の方へ目を向ければ、その子はさっきのオプシルナーヤ人に勘当されていた。ようやく警察がやって来て、今にも連れて行かれるというところだろう。

「お気遣い、ありがとうございます。後日、必ずお返しに上がりますね」

 ロマンは女の人の手からタオルを受け取ると、ブランカに持たせた。

 彼はそのままブランカの背中を押す。ヴォルフを川岸で迎えろということなのだろう。

 ブランカは彼のジャケットと靴、そして女の人に渡されたタオルを両手で持って、彼の位置から近い川岸へと向かった。

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