6.生きてきた証

――どうして私は逃げてきたのだろうか。

 半ば小走りになりながら施設を飛び出した自分に、ブランカは疑問を抱く。

 あの少年や同年代の女の子たちに中傷されることなど、今日に始まったことじゃない。確かにあのままあそこにいれば談話室の空気が悪くなりかねないので早々に退散したが、別に逃げてくるほどのことでもなかった。むしろ、いつもならもっと冷静でいられたはずだ。

 それなのにさっきはどうしてあの場から一刻も早く立ち去りたいと思ってしまったのだろうか。

――あの人の前で病原菌扱いされたのが、そんなに嫌だったのだろうか。

 頭によぎった考えに、ブランカは首を横に振る。

 確かに、あの人がロマンの友人だったことには驚いた。

 今朝、施設を飛び出したときに出会った彼。祖父からの手紙とブローチを川に投げ捨てようとしたところを止められた。まさか再び会うとは思っていなかったが、あの時持っていた大きなトランクと彼の拙いフラウジュペイ語を考えれば、納得がいく。

 しかし、彼とはそれだけだ。それ以外、他の客人と何も変わらないし、客人の前であんな風に中傷されることもよくあることだ。

 それなのにどうしてこんなに恥ずかしい気持ちになっているのだろう。自分で自分が分からない。

 いずれにしても深く関わることのない相手だ。ロマンには悪いが、元来自分はこういう性質だし、彼もはるばるブラッドローから来てわざわざこんな気持ち悪い娘と話すこともない。今朝のあんな場面を見られてしまったのは少しばかりまずいが、彼のいる数日間をひっそりとやり過ごせば、そんな些細なこともきっとすぐに忘れるに違いないし、この妙な恥ずかしさも消えて無くなるだろう。

 無理矢理まとめた自分の考えにブランカは小さく数回頷くが、彼女の予想を裏切るかのような声が後ろから響いた。

「なあ、待ってくれ!」

 施設の門を出たところで聞こえたその声に振り向けば、ちょうど彼が館内から飛び出してくるのが見えた。わざわざ彼に呼び止められるような用などないはずだが、その場にはブランカしかいない。

 どうしていいか分からず、ブランカはそのまま素知らぬふりをして先を急ぐ。

 しかし、彼の足音は近づいてくる一方だ。

「おい待て。今確実に振り向いただろ。無視するなよ」

 そんなことを言われても困るのだ。たった今、彼と関わらないと決めたばかりなのに、付いて来ないで欲しい。それに、彼の方こそどうして追ってくるのかわけが分からない。

 ブランカは歩く速度を上げて更に先を進む。

 しかし、ほどなくしてそれは阻止されてしまった。

「まったく。家出するわ無視するわ、多感な年頃なのは分かるが、そういうのは良くないぞ」

 たどたどしくも真っ当な言葉が呆れ口調で紡がれる。今朝は別に家出をしていたわけではないが、今彼を無視してしまったのは事実だ。返す言葉もない。

 だが、そんなことよりも驚くべきことがあった。

 彼の止めた右腕――赤い火傷の痕が走るブランカの右腕を、彼は躊躇無く掴んでいた。

 ブランカは反射的にその腕を引っ込めた。

 その瞬間、彼の薄鳶色の瞳が驚きに見開かれるのが視界の端に映った。流石にこれは失礼すぎたとブランカは焦って謝罪の言葉を口にしようとするが、それよりも早く彼がハッとした様子で謝った。

「怪我に触ってしまったか、済まない。まだ痛むか?」

 彼は申し訳なさそうに細めた薄鳶色の瞳を、ブランカの右腕に向ける。

 どうやら彼は今のブランカの行動を違う意味に取ったらしい。確かに、こんなに赤い痕を見れば、誰だってそう思うだろう。それどころか、引っ込めた右腕に思わず左手を添える姿は、端から見れば痛めた右腕をさすっているようにも見える。

「いえ、元々もう痛まないので大丈夫です」

 彼の心配そうな眼差しに居たたまれなくなり、ブランカは咄嗟に首を横に振った。すると彼は少しだけ目を大きくし、そして眉を左右非対称に歪めて怪訝そうに瞳を細めた。

「それならいいが、じゃあ何だ。フラウジュペイ女性ダーメは無闇に触れてはいけないものだったりするのか?」

「え……っと」

 またもや困ってしまった。

 とにかく彼はどうしてブランカが急に腕を引っ込めたのかを知りたいらしいが、こればかりはどう説明したらいいのか分からない。そもそもブランカにしてみても、どうしてあんなことをしてしまったのかよく分かっていないのだ。

 言葉に窮していると、彼も困ったようにため息を吐く。

「無視されるわ露骨に拒絶されるわ、さっきも談話室で俺のことを避けようとしただろ。何か俺は嫌われるようなことでもしたのか?」

 彼は穏やかな口調で尋ねるが、どことなく項垂れているようにも見える。そんな様子を見せられては、ブランカは弱くなってしまう。

 確かに彼とは距離を置きたいと思っているが、それはブランカ自身の問題だ。彼に非はない。それに、さっき手を引っ込めてしまったのも、別に嫌だったわけではない。ただあんなにも自然にこの右腕を掴まれたことに、戸惑ってしまったのだ。

 そんな人は、施設の中でもロマンとレオナ、そしてレオナの母くらいのものだったから――。

 果たしてこれをどう説明したものか。口下手な自分にはどうにも上手く説明できる気がしない。

「そ、そういうあなたは私に何の用事だったのですか?」

 ブランカはなんとか話題を逸らすが、これは少しばかり苦しい気がした。案の定彼はやれやれと肩を竦める。

 だが、実際のところそれは素朴な疑問だった。

 嫌われているのかどうかなどと言うやりとりの前に、どうして彼がわざわざ自分を追いかけてきたのか、ブランカにはまるで分からない。

 そう思うのに、彼は当たり前のように言った。

「買い出し、今日は量が多いんだろ? 荷物持ちに手伝うよ」

 返ってきた答えに、ブランカは思わず瞬きする。言われてみれば非常に単純なことだが、やっぱりわけが分からない。

「……気を遣っていただかなくても大丈夫です。大した量じゃありませんので」

 ひどく愛想のない言葉と共に、ブランカは再び店までの道を歩き始める。別に買い出しの付き添いくらい了承してもいいとは思うが、彼と距離を取ることにブランカは半ば意固地になりかけていた。

 それを裏切るかのように、彼は横に並んで一緒に歩いてくる。

「おい、年長者の好意は素直に受け取るべきものだぞ。それともあれか、そんな露骨に避けるほどのことを、やっぱり俺はしたのか?」

 高い長身を少しだけ屈めて覗き込んでくる瞳と、ばっちり目が合う。彼の言うことには耳が痛くなるが、そんなことよりも、彼の射抜くような薄鳶色にブランカは戸惑ってしまう。

――火傷の痕が右頬に痛々しく残るひどく醜い顔。

 そんなものを大きく映しているというのに、彼は慣れないフラウジュペイ語でまるで当たり前のように接してくる。

 どうしていいか分からず、ブランカはつい俯いてしまう。

「そういうわけじゃ、ないですけど……ただ、せっかく遠くからいらっしゃったのに、私の手伝いをしてもつまらないだけです」

 語尾が尻すぼみになってしまったが、彼にはきちんと聞こえただろうか。

 ブランカはなんだかひどく卑屈な気持ちになる。

 だって彼はおかしいのだ。

 客人なら施設でゆっくりしていればいいし、もっと有意義な時間の過ごし方があるはずだ。それこそさっきまで談話室で女の子と楽しく話していたのだから、そのままあそこにいれば良かったのだ。

 何もこんな面白い話も出来ない、醜く気持ち悪い娘の手伝いなんか――。

「――そうか、じゃあ別に嫌われているわけじゃないんだな。良かった」

「え?」

 返ってきた言葉に、ブランカは耳を疑った。果たしてそういうことを自分は言っただろうか。

 ブランカは再び顔を上げる。

 すると、彼はブランカに向かって手を差し出してきた。

「じゃあ改めて。もう既に聞いているかも知れないが、俺はヴォルフだ。呼び捨てで構わないし、敬語もいらない。よろしくな、ブランカ」

 眼を細め、にっと両口角を上げたヴォルフの笑顔に、ブランカは目を瞠った。

 今日は何度この人に驚かされたらいいのだろうか。彼はブランカの予想にない反応ばかり示してくる。

 名前はきっと談話室での会話から察したのだろうが、よろしくとは一体どういうことなのか。差し出された手を、ブランカはまじまじと見つめる。

「あなたは……どうかしています」

 消え入るような声でブランカはぽつりと言った。

 ヴォルフは差し出した手をそのままに、片眉を上げた。

「何で?」

「何でって、だって……気持ち悪くないんですか? それにビョーキが、感染ります」

 言いながら、やはり視線が足下に下がっていく。気が付いたら両手が服の裾を握っていた。

 愚かしくも、自分の言葉にひどく心が痛む。こんなこと、いつも子供たちに言われて慣れていたはずなのだ。それなのに、今日の自分はやはりどこかがおかしい。

 それもこれも全て、この人――ヴォルフが悪いのだ。

 だって彼は普通ではない。

 初対面でブランカと仲良くなりたいだなんて人、普通ではありえない。大抵の人はこのお化けのような白い髪と右半身の火傷を忌避するし、敢えて触ろうとする人なんてまずいない。ひどいときは、火傷のない左腕ですら汚れ物のように扱われる。見知った人ですらそんな反応を示すし、だからと言って人手が必要な作業をすることになったとしても、二つ返事で引き受けるような人もいなかった。

 それなのに彼は、今までのブランカの常識を打ち破るようなことばかりして、彼女の調子を狂わせる。

 本当に、どうかしている。

 そう思うのに、横から聞こえてきたのはフッと息を吐く音だった。

「そうか。じゃあよろしくな」

「え――」

 またもや噛み合わない返事をされたと思ったら、彼はブランカの右手を服の裾から引き剥がし、しっかりとその手を握った。ヴォルフがブランカの右側に立っていたせいでおかしな姿勢になってしまったが、それはきちんと握手の手になった。

 すかさず手を振り払おうとするが、今度は彼の力が強くて上手くいかない。

 ブランカは眉をひそめてヴォルフを睨み上げる。

「えっと……だからどうしてそうなるんですか? ビョーキが感染るって今――」

「悪い。俺、難しいフラウジュペイ語は分からないんだ」

 彼はそれまでよりも一層滅茶苦茶な文法ででたらめに発音するが、ヴォルフは口角を上げたままどこか楽しげだ。大体、拙くともそれまで普通に会話が出来ていたというのに、こういう返しはずるい。それを指摘したところできっと彼はとぼけるに違いない。

 胸に湧き起こる苛立ちのままに、ブランカは同じことをブラッドロー語で言った。

「だから、怪我から感染るの! ビョーキが!」

「おお、すごいな! 俺、てんでフラウジュペイ語ダメなのに、ブランカはブラッドロー語がネイティブ並みだ。むしろそっちのがありがたいな」

「ちょっと、そういうことじゃ……っ」

 ダメだ、全く会話にならない。

 言いたいことはきちんと伝わっているはずなのだ。それなのに彼ははぐらかしてばかりで、本当にどうかしている。何もかもが思い通りに行かなくて、苛々するのだ。

 そう思って彼を睨み付けていると、ヴォルフは途端に真剣な顔になってその場に立ち止まり、ブランカと向き合った。

「もし本当に触っただけで感染るなら、この場合どうなる?」

 ヴォルフは握ったままのブランカの右手に、もう片方の手を乗せた。火傷の痕が残る汚い手が、少し日に焼けた彼の逞しい大きな手に完全に隠れてしまう。

 ブランカは目を丸くしたまま早く何か言わなくてはと思うが、返す言葉が見つからない。

 そうしていると、彼はブランカの右手に乗せた手をゆっくりと持ち上げる。

「この場合は?」

 行き着いた先は、ブランカの右頬。誰もが一目で嫌がるそこを、彼は手のひらで包み込んだ。

 そのまま顔を持ち上げられる。彼の薄鳶色の瞳がまっすぐに向けられて、ブランカの返事を待っている。

 分かっている、病気なんて口から出任せだ。ただ彼があまりに当たり前に接してくるから、素直に受け入れられなかったのだ。

 しかし、何と言えばいいだろうか。

 分からなくて目を逸らしたいのに逸らせない。腹立たしく泣きたい気持ちにブランカが下唇を噛んでただ彼を見上げていれば、ヴォルフは瞳を和らげた。

「例えばさっき気持ち悪いって言ったのがその火傷のことだとしたら、それは間違っているからな。何せそれは、今日まで生きてきた証なんだからな」

 彼の言葉に、ブランカは目を見開いた。

 ヴォルフは口元を和らげるとブランカから手を放し、くるりと背を向け再び歩き始める。彼はダムブルクの町のことなど知らないのだからブランカが先導しなくてはいけないのに、ブランカはただ黙って彼の後ろを付いていく。

 ヴォルフはそのまま話を続けた。

「全く、どこに行っても人間ってのは見慣れない姿の者を平気で差別するが、見た目なんてただの飾りでしかないんだぜ。いくら見てくれが良くても、人を敬えないヤツはそれだけの器って事だ。君がどんな人間なのかは知らないが、少なくとも君はそんな大きな怪我を負いながらも、今まで真面目に過ごしてきたんじゃないのか? だったら、恥ずかしがる必要なんかない。堂々と構えていろよ」

 穏やかな口調で言われたそれは、ブランカの心に突き刺さる。

 何も知らないくせに、あたかも簡単なことのように言ってのける。

 そう思うのに、周りからの非難を受け入れてきたことを叱られている気がして、恥ずかしくなる。

 誰にも言われたことのない言葉に、心の奥が熱くなる。

「それに俺、最初から君のことを気持ち悪いなんて思ってないぞ。むしろ、髪色にずっと感心していた」

 ブランカの気も知らず、ヴォルフは前を歩きながら言った。

 またもや何を言い出すのかと、ブランカは思わず棘を含んだため息を吐いた。

「……それはバカにしているのですか?」

「いや」

 ヴォルフはふと立ち止まり、再びブランカに向き直る。

 徐に手を伸ばしブランカの真っ白なおかっぱ頭に触れると、彼は満足そうに微笑んで続けた。

「フィンベリーの古代語で『ブランカ』ってどういう意味か知ってるか?」

「え?」

「白って意味らしいぞ。綺麗なその髪にぴったりの名前だ」

 照れ臭そうにしながらもまっすぐに紡がれたその言葉に、ブランカは全身が熱くなるのを感じた。

 そうだ、彼は最初からそうだった。

 今朝、川沿いで出会ったときから彼は当たり前にブランカに接してきた。躊躇一つなく当たり前に触れてきた。哀れみも嫌そうな顔もせず、当たり前にブランカをその瞳に映してきた。

 ずっと否定し続けてきた自分を、こんなにも当たり前に肯定してくれる。

――こんな人、初めてだ。

「さて、買い物だ。俺の勘だと、店はあっちだな」

 彼は再び下手くそなフラウジュペイ語を話しながら、でたらめに歩き始める。それがわざとであることは明白だ。

「案内するので付いてきて下さい」

 ブランカはヴォルフの服の裾を掴んで短くブラッドロー語で返す。

 照れ臭いなんて感情、いつ以来だろうか。

 他にも押し殺していた感情がぐちゃぐちゃになって引き出されるが、どう処理したらいいのか分からなくて、ただ瞳の奥が熱くなる。

 そんな顔を見られたくなくて彼の前を歩くが、彼には全てお見通なのか後ろから苦笑が漏れ聞こえる。

 それが余計に胸を熱くさせて、不思議と悪くない心地だった。

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