5.ロマンの友人
「ロマンったら、一体どうしたというのかしら」
談話室の扉を眺めながら、レオナがしみじみと言った。
ロマンが出て行った後の談話室は、変な空気が流れていた。食堂婦の何人かは泣いた少年を慰めているが、他の者たちは彼がどうしてあんな事をしたのかと話している。
そんなこと、考えたところで分かるはずもないのに。
頭ではそう思いつつ、レオナもつい口に出してしまっていた。
「……まぁ、あの子が聞こうとしていた内容は、かなりデリケートなことだったから」
レオナの隣で、ヴォルフが静かに言う。特に誰かに答えを求めていたわけではなかったのだが、彼の言うこともまた、一理ある。
――人種に奴隷。
どちらもブラッドローで深刻化している有名な問題だ。
ブラッドローと言えば、二世紀前まではフラウジュペイの隣国マグナストウ帝国の植民地だった。そのためもともと住み着いていた黄色人やフィンベリー大陸から移住した白人、南の大陸から連れてきた黒人と、沢山の人種がそこには存在し、それは同時に人種差別を引き起こしていた。特に黄色人や黒人は奴隷にされていた時代が百年以上ある。今では奴隷制度が廃止され、自由平等運動が活発化しているが、植民地時代の奴隷制の名残はかなり根深くこびりついているようだ。
それにしても――だ。
「確かに良くないことだけれど、物の善し悪しを知らない子供が純粋な興味で尋ねただけじゃない。絶対いつものロマンなら、よく知っているねって褒めていたはずよ」
自分で口にしながら、レオナはひとりでに頷く。
そもそもロマンは感情的になることがほとんどない。少なくとも、レオナと彼女の母がダムブルク児童施設に来てからは片手で数える程度しか見ていないし、ましてや子供に手を挙げるなんて事は一度もなかった。
だから尚更さっきのロマンには驚いた。一体どうしたというのだろうか。彼のことだからきっと、単に他国の歴史問題や社会問題を聞かれただけで怒るなんてことはあるまい。
レオナはちらりと隣に視線を向ける。
ロマンの友人の、鳶色の髪に薄鳶色の瞳の青年。
そういえば、彼のような髪色と瞳の色を随分久しぶりに見た気がする。戦争が終わってから少なくともダムブルクではほとんど見かけなくなったが、戦前はフラウジュペイでもよく見かけた容姿だった。
もしかしてこの人――。
すると、レオナの思考を遮るかのように廊下から話し声が響き、談話室の扉が開かれる。
「はぁー疲れたわ。レオナ、お茶入れてちょうだい」
言いながら入ってきたのは、ついさっきまで庭で洗濯作業を行っていた娘たち。みんな施設で保護している子たちだ。今日の作業が相当きつかったのか、全員談話室の椅子に着くなり、ぐったりしている。
「もうだらしないわね、あんたたち。あたしより若いくせに、体力ないのよ」
「そういうレオナ姉は体力ありすぎなのよ」
「だから十九になっても恋人の一人もできないんじゃない?」
窘めていたはずなのに、開き直るばかりか余計なことまで言い出す娘たちに、レオナは呆れて言葉も出てこない。
そんな彼女にお構いなしに娘たちはけらけら笑い合うが、そのうちの一人が、ふとレオナの隣に座る人物に気が付いた。
「あら、あなたがロマンのお友達?」
「まあ男前じゃない。ロマンったらどうして早く紹介してくれなかったのかしら」
「そういうところ、ロマンは気が利かないのよね」
娘たちはヴォルフを見ると、それまでの疲れが吹き飛んだかのようにきゃっきゃとはしゃぎ出した。その勢いに圧倒されながらもヴォルフが今日何度目になるか分からない自己紹介をするが、彼の拙いフラウジュペイ語は娘たちの話し声に掻き消されてしまう。
まったく、この子たちと来たら本当に現金なこと。すっかり上機嫌になった娘たちに、レオナは内心呆れ返る。
一方でヴォルフはかなり困った様子だ。そろそろ助け船を出してやらないと。
レオナがそう思ったとき、微かなノック音が、かろうじてレオナの耳に届いた。音と同じく、談話室の扉が控えめに開かれる。
扉の隙間から見えたのは、白いおかっぱ頭。
「ブランカ、どうしたの?」
入ってきた彼女に声をかけると、ブランカはレオナのところに来ようとした。
しかし二、三歩歩いたところで、ブランカはその場に留まった。
いつもは伏し目がちな彼女の深緑色の瞳が見開かれ、何故かレオナの隣に向けられている。
一体どうしたことかとヴォルフの方を見ると、彼も同じような顔をしてブランカを見ていた。
「やっぱり君は今朝の――」
呆然とした様子でヴォルフが言うが、周りのみんなはこの雰囲気についていけていない。さっきまではしゃいでいた娘たちなど、何が何だかといった様子で困っている。
そもそも肝心のブランカがずっと黙ったままなのがいけない。
「えっと、二人は知り合いなの?」
とりあえずレオナは、誰もが思っているようなことを聞くことにした。
すると、それまでヴォルフの方を見たまま固まっていたブランカは、はっと我に返ったかのようにレオナに視線を戻し、首を横に振った。
「いいえ。ただ今朝川沿いを散歩していたら会っただけよ。それよりおばさんに買い出し頼まれていたんだけれど、どこに行ったか知らない?」
さっきまで驚いた様子だったくせに、ブランカは大したことないようにしれっと答えた上に、この話を終わらせるかのようにして話題を切り替える。流石にこれはヴォルフに失礼ではないかとレオナは話を戻そうとするが、同じタイミングで談話室に戻ってきたレオナの母に遮られてしまった。
「ああ、ブランカ。そうそう、あんたに買い出しお願いしていたのよね。はいこれ。メモとお金ね」
「……今日はすごく豪勢なんですね」
ヴォルフのことをそっちのけにしながら、ブランカは受け取ったメモを見て呟く。それまでの状況を知らないレオナの母は、ブランカの呟きに自慢げな笑みを浮かべた。
「そうだよ。今日はお客様がいるからねえ。明日明後日はいつも通りの質素な食事で我慢してもらうけど、今日くらいはご馳走にしようと思ってね」
言いながら、レオナの母はヴォルフにウインクする。ちゃんとそれを受け取ったヴォルフは、慌てて礼だか遠慮だかをしようとするが、それよりも早く、高い声が割り込んだ。
「せっかくのご馳走なのにブランカが買いに行くんじゃあ、みんなビョーキになっちゃうね」
声の主は、先ほどまで泣きじゃくっていた少年。わけも分からずロマンに叩かれたその子は、すっかり拗ねた様子で斜に構えている。
「こら! あんたって子は!」
レオナはすかさずその少年のもとに行き、その子の頭を容赦ない力で叩いた。少年は「いってー!」と叩かれたところを抑えながら、レオナに向かって舌を突き出し談話室から走り去っていった。
レオナは拳を作りながらその子を追いかけようとするが、その一方で、若い娘たちが口元を隠しながらクスクス笑っているのに気が付く。
視界の端で、ブランカが力なく笑うのが見えた。
「じゃあ私、行ってきますね」
それだけ言うと、ブランカは逃げるようにして談話室を後にした。
閉まった扉を眺めながら、レオナはため息を吐く。
こういうことは今に始まったことではないが、当たり前にしてはいけない。そう思うのに、子供たちやブランカと同年代の娘たちの間から、簡単にそれが消えそうにもない。
ましてやこんな客人の前でなんて。
「それで、さっき何のお話ししていたかしら?」
レオナがやるせない気持ちになっている横で、まるで何もなかったかのように娘たちがヴォルフとの会話を再開する。
しかし、ヴォルフは彼女たちの質問に答えず、ガタンと音を立てて椅子から立ち上がった。
「買い出しってかなり量が多いのではありませんか? 俺、手伝ってきます」
尋ねている割に誰からの答えも聞かず、ヴォルフは半ば走るようにしてブランカの後を追っていった。
彼の行動には驚いたが、むしろその方がいいのかもしれない。レオナは先ほどよりも大きなため息を吐き、腰に両手を当てた。
「もうあんたたち、いい加減にしなさいよね。みっともないわよ」
「ちょっと待ってよ。あたしたち何も言っていないじゃない。言ったのはあの子だけよ」
「うるさい、あんたたちも一緒よ」
レオナは娘たちに向かって言うが、娘たちはどうして自分が怒られるのかと口を尖らせるばかりで、反省している様子はない。
「ていうか彼、ブランカの方に行くなんてありえない」
「よっぽどの物好きなんだわ」
「つまんないからあたしたちも部屋に戻りましょ」
娘たちは本音を丸出しにしながら揃って談話室から出て行った。
まったく、そういうところが来たばかりの客人に忌避されるのではないか。
レオナは何度目になるか分からないため息を吐く。
「まぁ、あの子はよく分からないところがあるからねえ」
「よく働いてくれるからかなり助かるけれど」
残った食堂婦たちが、しみじみと言った。それはまるで少年や娘たちを庇っているようにも聞こえるが、確かに彼女たちの言うことにも一理ある。
ブランカがここに保護されたときから五年間ずっと、レオナは彼女のことを見てきたが、ブランカのことをよく理解しているかと問われれば、それは違うと言わざるを得ない。
何せブランカは自分のことを話さない。
こういう時勢だから仕方ないが、それにしても彼女はあまりに謎めいている。口数も少ないから、レオナやロマン以外の人は更にブランカのことが不思議で仕方ないに違いない。
「それにしても彼。あの髪に、あの瞳の色……」
ふと、館長が庭の外を眺めながら言った。その先で、ヴォルフが施設の門から出て行くのが見える。先に歩いているブランカを追いかけているところなのだろう。
それを見ながら、館長は続けるように言った。
「ブラッドロー人なんて言うけど、彼はやっぱり――」
「――それは昔のことですよ」
落ち着いた声と共に、談話室の扉が開かれる。
現れたのは、先ほど出ていったはずのロマン。珍しく取り乱していたロマンは、声色と同じく、すっかりいつものような落ち着きを取り戻していた。
「さっきは驚かせてしまって済みません。あの子にも、後できちんと謝らなくてはいけませんね」
ロマンは胸に手を当て瞼を閉じる。
いきなり少年の頬を平手打ちしたときは本当に驚いたが、あの少年の反省のなさを考えれば、ロマンに叩かれて当然だったのかもしれない。真面目な彼のことだから、きっとひどく悔やんだことだろうが、そんなロマンの胸中は、少なくともここにいる人たちにはきちんと伝わっていた。
「もう、ロマンったら真面目だね。誰にでもカッとなることくらいあるさ」
「そうよ。まぁ、ロマンにしては意外だったけれどね」
食堂婦たちが明るく笑いながらロマンを励まそうとするが、どことなく彼の表情が晴れない気がするのは、レオナの考えすぎだろうか。席に着いた彼に茶を淹れるが、ロマンはやはり心ここにあらずといった様子だ。
その様子に館長も違和感を覚えたのか、穏やかな声でロマンに尋ねた。
「さっき君の頭に血が上ったのは、彼が原因なのかい? その、彼が――」
館長が紡いだ言葉に、その場の全員が息を呑む。みんな表立って本人に聞けなかったが、ずっと心の底で思っていたのだろう。
ロマンはカップの中の紅茶を眺めながら、ふっと力なく笑みを浮かべた。
「さっきの僕の反応を見たら、分かりますよね。でも彼はそんなこと、微塵も気にしていません。さっきはただ僕が少し――」
言いかけて、ロマンは途中で留まった。なんともはっきりしない様子だ。
思えば今日の彼はどこかがおかしい。突然手を挙げたり弱々しい姿を見せたり、おおよそ施設のお兄さんたる姿はどこにも見えない。
それもこれも、ヴォルフが来てからだ。
ロマンももともと自分のことを語らない人だから、彼にどんなことがあったのかは知らないが、ヴォルフの何かが、彼の琴線に触れるのだろう。
一体ヴォルフの何が……?
レオナは条件反射的に窓の外に目を向けた。視線の先では、ちょうどヴォルフがブランカに追いついたところだった。二人は少しだけ言い合いをしてから、買い物に出かけていく。
それぼんやり見ながら、ロマンは誰とも無しに深く頷く。
「差別や奴隷なんて概念は、消えるべきものなんだ」
思い詰めたようにそう言う彼の拳がテーブルの下で硬く握られていくのを、レオナはしっかりと見てしまった。
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