4.ヴォルフ・ノール
それから数時間。施設の門の前に黒塗りのタクシーが停まった。
後部座席から、一人の青年が現れる。
すらりと伸びた手足に、トレンチコートの上からでも分かる鍛え抜かれた身体。目深に被ったハットからは、鳶色の髪が見え隠れしている。
一目で誰なのかすぐに分かったロマンは、すぐさま施設を飛び出した。
「ヴォルフ、待っていたよ!」
いつもより弾んだ声でロマンが呼びかければ、ヴォルフと呼ばれたその青年は、トランクから取り出した荷物を地面に置き、薄鳶色の瞳をニヤリと笑わせ片手を上げた。二人は久しぶりの再会に、抱擁を交わす。
「よお、ロマン。久しぶり。今出てきて大丈夫なのか?」
「あぁ平気さ。さっき授業を終えたばかりだからね。君こそよく来たね。ブラッドローでの生活はどうだい? 見た感じ、だいぶ様になってきているようだけれど」
ロマンは悪戯げに笑って旧友の胸を叩く。防弾チョッキを着ているわけでもないのに、手に返ってきた硬い感触に、ロマンは少しだけ目を瞠る。その様子にヴォルフは得意げに口角を持ち上げ、ロマンの肩に腕を回した。
「そりゃあな、そういう職だからな。毎日訓練していれば当然――ってお前、何がおかしいんだよ?」
話している途中でいきなり腕が震えたと思ったら、ロマンが口元を抑えて苦笑していた。ヴォルフとしては面白くない。
ロマンは尚も笑い続けながら、ヴォルフの方を指差した。
「いや、ごめん。さっき聞いたときは違和感なかったんだけど、やっぱり君はフラウジュペイ語が苦手なんだと思ってね」
嫌味というわけでもなく、ただ純粋に思ったままを告げているロマンの発言に、ヴォルフはばつが悪くなってむっとする。
「うるせえな。普段使わないから仕方ないだろ? ブラッドロー語だったらもうペラペラだぜ」
「それは毎日使っているからだよ。やっぱり語学っていうのは、毎日話してこそものになるからね」
「ふん、それらしいこと言いやがって。そういうお前は、すっかりフラウジュペイ人だよな」
ヴォルフはあまり深く考えずに言った。先ほどからロマンに言い負かされているような気がして、なんとなく面白くなかったのだ。
しかし、それが良くない発言だったことに、言ってから気がつく。
「……もう五年も住んでいるからね」
ぽつりと返したロマンの声には、先ほどまでの活気がまるでなくなっていた。横を見れば、ロマンは寂しげな瞳を施設の方へ向けている。おそらくその目が見ているのは、目の前にあるダムブルク児童施設ではないだろう。どこか、もっと遠くの地を見ているはずだ。
ヴォルフは息を飲み、心の中で思う。
――こいつも、まだ……。
しかし、ヴォルフの思考を遮るかのように、ロマンが「さて」と両手を叩いた。
「長旅で疲れただろう。中に案内するから、上がってくれ」
ロマンは先ほどの寂しげな様子を完全に笑顔の裏に隠し、ヴォルフの荷物を持って先に歩き出す。まるで、今の一瞬がなかったかのような素振りだ。だが、一見は隠しきれているように見えても、その背中はどこか弱々しい。
ヴォルフは自分の軽率な発言にため息を吐く。
すると、施設から一斉に子供たちが飛び出し、ロマンの周りに集まった。
「先生、見て見て! 貯金箱作ったの。一番に出来上がったんだよ!」
「僕は恐竜作ったんだ! かっこいいでしょ?」
「レオナお姉ちゃんが良くできたって褒めてくれたんだよ。先生はどう思う?」
「うん、みんな良くできているよ。えらいえらい」
紙粘土で作られた子供たちの作品を一つ一つ手に取り、子供たちを褒めながら、ロマンは優しくアドバイスを加える。一瞬にして先生の顔になって子供たちと同じ目線で話す友の姿に、ヴォルフはどこか穏やかな気持ちになり、施設の外観を見渡した。
「児童施設、か」
それ自体に特別何かがあるわけでもなく、ヴォルフは無意識にそう呟いていた。
その時、視界の端で、何か白いものが動いたような気がした。ヴォルフは咄嗟にそちらの方へ顔を向ける。
向いた先にあるのは、施設の庭。ここからではほとんどが死角になっているから、見えているのは端っこだけだろう。その端の部分には、竿に干された白いシーツが、確かにちらちらと見えている。
自分が見たのは、シーツだったのだろうか。
先ほど感じた違和感に首を傾げていると、ヴォルフはふと別の方から視線を感じ取った。視線の主は、ロマンの足下にいる子供たちだった。みんな、不思議そうな目でヴォルフを見ている。
その様子に、ロマンがくすりと笑った。
「いいかい、みんな。彼は僕の友達で、ブラッドローからはるばるやって来たんだ。挨拶しなさい」
ロマンの紹介に、ヴォルフは状況を察し、ハットを持ち上げる。
「ヴォルフ・ノールだ。明後日までいる予定だから、よろしくな」
ヴォルフは今度こそ聞き取りやすいようなはっきりとした発音で挨拶をする。さっきはロマンに笑われてしまったが、この発音なら違和感はないだろう。
そう思っていたのに、何故か子供たちはぽかんとヴォルフを見上げている。まさか、やはり聞き取りにくかったのだろうか。
ヴォルフがもう一度挨拶をしようとしている一方で、挨拶を返さない子供たちにロマンが注意しようとすると、子供たちの目がらんらんと輝き始めた。
「お兄さん、ブラッドローから来たの? 本当に、本当に?」
突然身を乗り出し聞いてくる子供たちに、ヴォルフは目を丸くする。
「ん? ああ、そうだぜ。ロゼまで飛行機で来て、そこから鉄道でやって来たんだ」
「うそ、飛行機! すごいすごい!」
「あれってブラッドローじゃ普通に乗れるの?」
「僕もいつか乗ってみたい!」
先ほどまでロマンを囲んでいたはずの子供たちは、瞬く間にヴォルフの周りに集まった。滅多に会うことのない海の向こうの国の人に、みんな興味津々なのだ。
ロマンは穏やかに微笑むと、両手をぱんと叩く。
「みんな、聞きたいことは沢山あるだろうけど、彼は今まだ来たばかりだ。後で時間を取るから、とりあえず中で休ませてあげてやって」
すると、子供たちはどこか不満そうな顔をする。いつもは素直にロマンの言うことを聞く彼らは、非難する目でロマンを見ている。それほどまでにブラッドローの話を聞きたかったのだろう。
ロマンが困ったようにヴォルフに視線を配れば、ヴォルフはなんだか頼もしそうな笑みを浮かべていた。
「ロマン、この施設に映写機ってあるか?」
「映写機? 少し古いのがあるけど、どうして?」
ヴォルフはにやりと不敵な笑みを浮かべ、ロマンの手元にある彼の鞄を指差した。
「みんな、今日はブラッドローからいいもの持ってきたから、後でゆっくり見るといいぞ」
ヴォルフの言葉に、ロマンも子供たちも目を丸くする。
ロマンからしてみれば、この鞄に何が入っているのか察しが付いているだろうが、まさかそんな高い物を、と驚きを隠せないでいる。一方の子供たちは、中に何が入っているのか興味津々といった様子で、すっかり施設の中に戻りたくてうずうずしている。
ヴォルフはしたり顔をロマンに向けた。
「よし、じゃあ中に入ろうぜ」
「はぁ、本当に君って人は……」
ロマンは困ったように笑うと、ヴォルフの荷物を持ったまま子供たちを引き連れ、施設の中へと案内する。ヴォルフはその後ろに続いて、施設の中に入ろうとした。
するとその時、またもや白い何かを、視界の端で捕らえた。ヴォルフはもう一度そちらの方へ向く。見えたのはやはり、シーツの端の部分だった。
ヴォルフはひとりでに首を傾げる。
ただのシーツに気を取られるなど普段はあまりないのだが、それほど移動で疲れたということだろうか。そもそも疲れ自体あまり感じていなかったから、そう結論づけるのも釈然としない。
「ヴォルフ? どうかした?」
ロマンに呼びかけられ、ハッとする。見れば、ロマンも子供たちも、不思議そうな顔でヴォルフを見ている。もしかして、難しい顔でもしていたのだろうか。
「いや。何でもない」
やはり、疲れていたのだろう。
ヴォルフは自分にため息を吐きながら、頭の中に引っかかっていた違和感を掻き消した。
しかし、その違和感の正体を、施設の中に入ってすぐに理解した。
庭に面した談話室から、外で洗濯作業を行っている女たちの様子がよく見えた。みんな、和気藹々としながら手回し洗濯機を回したり、洗濯槽の下に入れる薪を割ったりしている。
だがヴォルフが気になったのは、その女たちではない。
彼女たちの端でせっせと手絞り脱水機を回している真っ白なおかっぱ頭の少女――。
――あれは、さっきの……。
「ノールさん、はるばるこんなところまで来て下さったというのに、こんなに沢山頂いて本当にありがとうございます」
自分を呼ぶ声にハッと視線を巡らせれば、レオナや手の空いた食堂婦、この施設で講師をしている男性が数人、テーブルを囲みながら頭を下げていた。その真ん中には沢山の菓子が並べられている。全てヴォルフがブラッドローから持ってきた土産だ。
「それに子供たちにあんなに素敵なものまで用意してくれて、本当に何と言ったらいいことか」
ちらりと子供部屋を覗いてきたロマンが、本当に驚いた様子で言葉を重ねる。
先程ヴォルフが言っていたいいもの、それはブラッドローで今人気のアニメ映画のフィルムだ。ちょうど談話室に通される前に映写機に装填して動かしてきたところだ。
アニメ映画は戦前ブラッドローにて登場したのだが、それからすぐに戦争になってしまったため、フィンベリー大陸ではとても珍しい代物だ。
「よせよせ、ロマン。あれはブラッドローじゃ簡単に手に入るんだよ。フラウジュペイ語じゃなくて悪いがな」
「いや、十分すぎるよ。子供たちもすっかり夢中だ」
何でもないようにヴォルフが下手なフラウジュペイ語で言ってのけるが、それが彼の照れ隠しだということは、ロマンはよく理解していた。
「それにしても、このご時世にフィンベリーなんかに来て大丈夫なのかい? フラウジュペイは安全かもしれないが、最近ブラッドローはその、色々あるんだろう? ラジオでよく聞くよ」
この施設の館長が、心配そうにヴォルフに尋ねる。それだけで彼が何を言いたいのか、ヴォルフはすぐに理解した。
今やブラッドローは世界の人気者ではあるが、当然良く思わない国も存在する。フィンベリー大陸東側の強国オプシルナーヤだ。
かつてはヘルデンズを共に討ち取ったほどに仲が良かった両国は、戦後急激に悪化した。それはブラッドローの更なる経済成長にオプシルナーヤが対抗心を抱くようになったこと、一方オプシルナーヤの不当な軍事強化と領土拡大をブラッドローが特に反対したことが、大きな原因になっている。
今では一触即発な状態だ。
「確かに色々あるみたいですが、一般人には関係ない話ですからね。警戒はしておいた方がいいらしいですが」
ヴォルフは少し考える素振りを見せてから、肩を竦めて館長の質問に答えた。それはまるで偉い人たちの話、とでも言っているような仕草だ。彼の様子に、報道で聞くほど現実はそんなに深刻ではないのかと、館長や男性講師は難しい表情を浮かべる。
「もう館長ったら。せっかくいらっしゃたんだから、お堅い話はなしよ!」
すると、それまでテーブルの上の菓子をつまんでいただけの若い食堂婦や施設で保護されている娘たちが、彼らを追いやるように話に割り込んできた。見れば彼女たちは興味深そうな視線をヴォルフに向けている。
「しかし、ロマンにブラッドロー人のお友達がいるなんて驚きね」
「しかもこんなに男前!」
「ねえ、恋人はいるの?」
食堂婦たちは身を乗り出しながらヴォルフに質問攻めをする。彼女たちのあまりの勢いに、ヴォルフは圧倒されるばかりだ。追いやられた男たちがやれやれとため息を吐くのがヴォルフにも伝わってくる。
「ねえちょっと、あんまりヴォルフを困らせないでやってくれよ」
「すまんな、ヴォルフ君。ここはロマンの他に若い男がいないから、みんな飢えているんだ」
「ちょっと先生! そういう余計なことは言わないで下さいよ」
ロマンや男性講師が助け船を出すが、すっかり頬を真っ赤に染めた女たちにすげなく言い返され、彼らは更に困った顔を浮かべる。どうやらここでは男よりも女の方が強いらしい。
そんな賑やかな様子に笑いながら、それにしても、とヴォルフは内心で思う。
ダムブルク児童施設の職員は、親しげにヴォルフと談笑を交わしてくれる。とても歓迎的だ。それはヴォルフがロマンの友人だからと言うのが大きいだろうが、同時に彼がブラッドロー人であることも関係しているだろう。
――しかし、どことなく違和感を覚えるのは気のせいではないだろう。
子供たちや若い娘たちには感じない視線を、男性職員や中高年の女たちから常に向けられている。それは嫌悪や不審というものではなく、ただ疑問に思っているような視線。
どうして彼がブラッドロー人なのだろうか――と。
何故ならヴォルフのような鳶色の髪と薄鳶色の瞳、彫りの深い独特の顔立ちを、フラウジュペイの大人達はみんなよく知っているからだ。
「それにしても、さっきも言っていたけれど、ノールさんて一般人なんでしょう? 一体どうやってロマンと知り合ったの?」
食堂婦たちと一緒になって盛り上がっていたレオナが、ふとヴォルフに尋ねた。それは他の大人達が特に気になっていたことであろうが、振り返ってみれば、ブラッドローから来たロマンの友達、としかヴォルフのことは紹介されていないため、その質問が飛んでくるのはごく自然な流れだった。
しかしヴォルフはすぐには答えず、それとなくロマンに視線を向けた。
ロマンはいつも通りの笑みを浮かべたまま、ヴォルフの代わりに答えた。
「幼い頃、一度だけブラッドローに行ったことがあってね。彼とはそのときに知り合ったんだ」
適当に抑揚を付けながら最後に「そうだよね」と無言で同意を求めるので、「そういえばそうだった」と、ヴォルフはロマンの言葉に合わせる。それだけで全員の興味はロマンのブラッドロー紀行に変わっていくのだが、なるほど上手いとヴォルフは内心感心する。
――一度もブラッドローに来たことすらないのにな。
「ねえねえ、ブラッドローって色んなジンシュの人がいっぱいいるって本当?」
すると突然、その場にはないはずの高い声が談話室に響く。ちょうど今、子供部屋で映画を観ていたはずの少年の一人が、いつの間にか談話室の入り口に立っていた。
「どうしたの? 向こうで映画を見ていたんじゃなかったの?」
いきなり現れた少年の姿に、ロマンは目を丸くする。他の男性講師や食堂婦たちも不思議そうにしているが、少年はつまらなそうに首を横に振った。
「見てたけど、僕は映画よりブラッドローの話をもっと聞きたいんだ」
それだけ聞けば、ただの好奇心旺盛な子供のように思える。それに、自分の住んでいる国についてこんなに興味を持ってくれるのは、悪いことではないのだろう。
しかし、先ほどこの少年が放った疑問に、ヴォルフは薄ら寒いものを感じていた。
「ねえそれで、ブラッドローって色んなジンシュの人がいるんだよね? ロマン先生は見た?」
少年は同じ質問をもう一度重ねる。無垢で純粋な好奇心の眼差しをロマンに向けて、彼の反応を無邪気な顔でまだかまだかと待ち受けている。
しかし、流石のロマンもヴォルフと同じものを感じたのか、彼の眉間に微かに皺が寄るのをヴォルフは見た。
「……さあ、僕は見ていないけど」
ロマンは無理矢理貼り付けたような笑顔で、歯切れ悪く答える。なんとなくはぐらかしているようにも聞こえるが、それが嘘でないのはヴォルフはよく知っている。
しかし、言葉の真偽はともかく、ロマンの反応は少年にとっては期待外れだったらしい。少年はロマンに向けた好奇心の眼差しを、今度はヴォルフに向けた。
「ねえ、ブラッドローって今でもドレイがいるって――」
その瞬間、パンと乾いた音が、部屋中に響いた。それが何の音なのか、ヴォルフも、おそらく他の職員達も瞬時には理解できなかった。
ロマンが、少年の頬を叩いたのだ。
それだけでもあり得ないことなのに、いつもは優しい笑顔を浮かべているあのロマンが、眉間に深く皺を寄せた怖い顔を、少年に向けている。
初めて見るロマンの恐ろしい顔に、純粋な好奇心で輝いていた少年の瞳に、みるみる涙が溜まっていく。
「ロ……ロマン、それはいくらなんでも……」
ヴォルフが恐る恐る声をかければ、ロマンはハッと我に返ったように、目を瞠った。彼の視線の先では、既に少年の涙が決壊していた。少年は大声を上げて近くにいた食堂婦に縋り付いた。
ロマンは今の行いを反省するかのように額に手をつき深くため息を吐くと、何も言わずに席を立ち、少年の頭を一撫でしてから談話室を出て行った。
その後ろ姿を、ヴォルフは他の職員達と一緒に何とも言えない気持ちで眺めていた。
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