7.芽生え

  施設から歩くこと三十分。人通りの多いダムブルクの中心街に到着した。

 道の片隅で大道芸をする人にアクセサリーを売り歩く人、広場で開催されている野菜市場に大通りにずらりと並んだ食べ物の露店。

 小さな田舎町なのに、週末になるとここはいつも人で賑わい活気づいていた。

「へえ、昼になるとこんなに店が出るもんなんだな。今朝来たときはガラッガラだったぜ」

 大通りを歩く人の波に乗りながら、ヴォルフはブラッドロー語のまましみじみと感心する。

 彼の一歩後ろから、ブランカが同様にブラッドロー語で控えめに返した。

「今朝?」

「あぁ、あの後な。調子づいて朝一の列車で来たはいいが、予想以上に早く着きすぎて、そこのカフェで時間潰していたんだ」

 ヴォルフが指差した店は、大通りでも一、二を争うほどの人気のカフェテリアだ。いつも外に人が並ぶほど満席状態を欠かさないお店のはずだが、確かにヴォルフと出会ったあんな早朝では人の出入りも少ないのかもしれない。むしろ、あんな早朝からあの店がやっていたことに驚きだ。

「しかし、これは腹が空く。いい時間だし、何か食おうぜ」

 言いながらヴォルフは大通りの露店の方へ寄って行こうとするが、ブランカはそれを慌てて引き留める。

「待ってください! 私たちは買い物に来ただけなんですよ?」

「それって今日の晩飯のだろ。昼飯食って帰ったところで、時間は余裕だって」

 確かに彼の言うとおりだ。

 昼前に施設を出てきてちょうど時計は昼の十二時を指している。いくらお使いと言っても、こんな時間から晩餐の準備をするわけでもない。

 それでもブランカは渋り続ける。

「でっでも、お金だってお使いの分しかないですし……っ」

「心配するな。ちゃんと金は両替してあるからな」

「そういう問題じゃ……」

「いいじゃないか。俺のダムブルク観光ついでってことでさ。ほら、はぐれんなよ」

 ヴォルフはブランカの腕を取ると、先へ先へと歩いていく。 

――本当にこの人は当たり前にこういうことをする……。

 つい先程までこういう人がいるものかとヴォルフの行為に戸惑ってばかりいたが、それとは違う意味でブランカはそわそわし始めていた。

「あの……腕、はぐれないから大丈夫です」

 ブランカは努めて声量を出すようにして言った。下手に小声で言えば、きっとはぐらかすに違いない。これまでのやりとりで学習したのだ。

 するとヴォルフは顔だけこちらに向けた。どことなく彼の薄鳶色の瞳は、楽しんでいるように見える。

「突然どうした。さっきまでは俺の服掴んでいたくせに。急に恥ずかしくなったか?」

「な……っそっそんなんじゃないです! それにさっきのはあなたがあちらこちらへ行くからであって――」

「そうだな。俺がはぐれるから、ちゃんと導いてくれよ」

 ククッと喉の奥で笑いながら、ヴォルフはブランカの腕を掴んだまま一歩後ろへ下がり、隣に並ぶ。面白そうに細められた彼の瞳と目が合い、ブランカは咄嗟に逸らした。

 すると、道行く人たちの好奇の視線と目が合った。ブランカは思わず視線を泳がせる。実は大通りに入ったときからこの視線を感じて、気持ちが落ち着かなかったのだ。

 それ自体はさして珍しくはない。ブランカの奇妙な姿を意味ありげに眺められるのは、いつものことだからだ。

 だが、今日の視線は単にブランカだけに向けられているものではない。むしろ多くが隣を歩くヴォルフに向けられている。

――彼、男前ね。初めて見たわ。

――余所から来た人かしら。この辺ではあんまり見ない顔立ちだわ。

――隣にいるのは児童施設のブランカだよな。手繋いでいるぜ。

――へぇ、いっちょ前に彼氏連れてきてらぁ。

 そんな囁き声が、あちらこちらから聞こえてくる。ブランカは慣れない視線に困惑しながら、ちらりとヴォルフを見た。

 あんまりそういう観点で人を見たことはなかったが、確かにこの人は「男前」だ。この辺では見かけない彫りの深い精悍な顔立ちに意志の強い切れ長の瞳。背筋をぴんと伸ばし堂々と歩く様は、男らしさが滲み出ている。その隣に並ぶのが自分で申し訳なくなってくる。

 おまけに見知った土地でブラッドロー語を話していることにも違和感だ。もちろんそれは不慣れなフラウジュペイ語よりも都合がいいというヴォルフの希望だが、ブランカにしてみれば、馴染みのある町なのにまるで知らない土地のような感覚を与えて落ち着かない。

 そういう気後れと普段にはない冷やかしの視線が居たたまれなくて、彼との物理的距離を開けたいのに、その願いはすげなく流されてしまう。

 察しのいい彼のことだ。ブランカのそんな困惑には気付いていそうなものだが、そういうことには彼は素知らぬふりをするばかりだ。ただでさえ彼の行為にどうしたらいいのか分からないのに、慣れないことばかりされて頭が追いつかない。

「で、ダムブルクと言えば名物は?」

「め、名物? 確か、牛の内臓だったはずですが……」

「牛の内臓? それはなかなか気になるな。他には?」

「他? ええっと、川魚の擂り身だったかと」

「よし、まずはその二つだな」

 言うが早いか、ヴォルフは大通りに並ぶ食べ物の露店へとずんずん足を運んでいく。腕を掴まれたままのブランカは、そのまま彼についていく他ない。

 そうして彼はまず、目についた一軒の露店で牛の胃のフライとソーセージを、また別の店で川マスの擂り身を買い歩いた。更には主食が必要だと言って適当な店でバゲットを買うが、この時点で彼の両手は既に塞がっていた。それなのに、まだ飲み物が必要だと言い出すので、ブランカは流石に買いすぎだと、ヴォルフを何とか引き止めた。

「うん、流石は美食の国フラウジュペイ。こんな露店料理でも、ジャンキーなブラッドローとは格が違うな」

 広間のベンチに座り、買ってきた牛の胃ソーセージを一口囓ってヴォルフは満足そうに言う。彼は心底ダムブルク観光を楽しんでいるみたいだ。

 隣でブランカは不思議な気持ちになりながら、彼に買ってもらった川マスの擂り身を口にする。口の中に入れた途端に広がる仄かな塩味と柔らかい食感。実は今まで食べたことのなかったそれだが、確かに美味しい。

 だが、改めて考えてみれば、こんな風に食べ物をゆっくり味わうことも久しくなかったように思える。

 施設の食事は年々少しずつ質が上がってはきているし、レオナの母が作るクッキーも確かに美味しいのだが、子供たちや同年代の娘達と同じテーブルを囲むのが憚られて、ゆっくり食事することもほとんどなかった。ロマンに連れられて外食に来たこともあるが、正直それがどういう味だったかも覚えていない。

「――まさか、こんな風にフィンベリーを歩ける日が来るなんてな」

 ふと、ヴォルフがしみじみと言った。

 見れば、両手にバゲットと牛の胃フライを抱えながら、町のあちらこちらへと視線を巡らしている。感慨深げに細められた瞳は、単にダムブルクの街並みに感動しているというわけではなさそうだった。

 むしろ、彼の物言いにはもっと別の深い意味合いがある気がした。

 彼はそのまま続けた。

「ブラッドローでも田舎に行けばこういうマーケットみたいなのがあるんだけどさ、都市だと大型ショッピングモールなんかが出来たりして、便利だけど味気ないんだよな。俺としては、こういう光景はフィンベリーの古き良き文化で残すべきだと思うんだ」

 町を行き交う人、露店で物を売る人、その他にも目に映るすべてを、ヴォルフはとても穏やかな瞳で眺めている。それがブランカには懐かしんでいるように思えた。

「……あなたは、フィンベリーに住んだことがあるの?」

 気が付いたら、そんな質問をしていた。彼の物言いから、なんとなくそんな気がしたのだ。

 ヴォルフはブランカの方を向き僅かに目を大きくすると、再び町並みに視線を戻した。

「昔――俺が幼い頃に少しだけ、な」

 穏やかな口調でありながら、言葉の奥に隠された硬いもの。懐かしそうに作られた笑みには、悲哀の色が含まれているように感じられる。

 彼のこの様子に、ブランカは既視感を覚えた。

 あれは確か、今朝彼と初めて会ったときだった。

――世の中には、形見すらないヤツもいるんだからな。

 そう言って、祖父からの手紙とブローチを捨てようとしたブランカを止めてくれた。そのときと同じ表情を、彼は浮かべている。

 こんなことを感じるのは、ブランカの詮索が過ぎるからかもしれない。実際に彼は更に質問を重ねられても当たり前のような物言いをしているし、例え聞いたとしてもきちんと答えてくれるだろう。今日会ったばかりの相手だが、彼がそういう人だということはなんとなく理解してきた。

 しかし、それ以上の質問をするのはブランカには憚られた。遠くを見るような彼の瞳に、知ってはいけないものがある気がしたのだ。

 すると彼は、ニッと人好きのする笑顔で言った。

「フラウジュペイ、ではないけどな」

 ブランカは一瞬だけ目を大きくするが、すぐにつられて口元を綻ばせた。

「それは分かるわ」

「おい。それはどういう意味だ」

「だってあなたのフラウジュペイ語、下手だもの」

「言うようになってきたじゃないか」

 ヴォルフはふて腐れたように手の中の牛の胃フライにかぶりつく。

 だが、彼の瞳は至って楽しそうだ。控えめにくすくす笑うブランカを、彼は満足そうに眺めている。

 徐に、彼はブランカの右頬を触った。

「そういう顔、いつもしていればいいのに」

「え?」

 ヴォルフの言うことがいまいち分からず、ブランカは目を丸くして小首を傾げる。説明を求める視線を彼に送るが、彼は一旦ブランカの頬から手を放し、牛の胃フライを再び頬張る。ブランカの視線に構わず、彼は舌鼓を打ちながら満足そうに頷いている。

 彼が説明し始めたのは、手の中の食べ物がようやくなくなったときだった。

「普段からロマンと手紙のやりとりをするんだが、あいつの手紙の中身はほとんど施設のことばっかりでさ。その中によく登場するんだよ、『変わった容姿の内気な女の子』。どう変わっているのかは書かれていなかったが、内容を読む限りだと絶対それ、ブランカのことだぜ」

 ヴォルフはニヤリと片口角を上げてブランカに視線を送る。

 ブランカはただ瞬きをするばかりだ。

「どういうことが書かれていたの?」

「『頭が良くて飲み込みが早い。いつも職員の仕事を手伝ってくれる働き者。最近は少しずつ表情が出るようになったが、感情をどこかに置いてきたかのように怒りもしないし笑いもしない。』だが、実際は違うようだがな」

 ヴォルフは再びブランカの右頬に手を伸ばし、そこを軽くつねった。鈍い痛みに思わず眉間にしわを寄せてヴォルフを睨み付ければ、彼は意地の悪い笑みを浮かべる。

 だが、彼の薄鳶色の瞳は、いつでも真剣さを欠かさない。

「談話室にいたときも庭で洗濯作業していたときもさっきも、ずっと人形みたいな表情かおしているからどんなヤツかと思えば、ちゃんと怒れるみたいだし、ちゃんと笑えるみたいだ。むしろその方が生き生きしてるぜ」

 言われてブランカはあっと思った。

 知らずヴォルフの言うことに控えめながらもさっきは声を上げて笑ってしまっていた。それだけじゃない。彼の言動にいちいち腹を立てたり照れ臭くなったりさせられている。

 「感情をどこかに置いてきたかのように」とは、よく言ったものだ。随分久しぶりに思い出したかのように、今こんなにも色々な感情を揺れ動かされている。

「それに、こんなことも書いてあったかな。『大人しいのはいいが、聞き分けが良すぎて心配。一つのワガママも言ってくれない。』さっきは一人で買い物行くとワガママ言って聞かなかったのにな」

 からかいを混ぜて言ってくるヴォルフに、ブランカはまたもや顔を赤くする。

「それは遠慮していたのに、あなたが聞いてくれなかったからでしょう?」

「そうだったか? ま、余計な遠慮ってことだ」

「……あなた相手だと遠慮の一つも出来ないわ」

 自分で言ってから、はたと気が付く。

――いつの間にか無遠慮な言葉を吐くようになっている。

 彼に散々慣れぬ扱いをされて、強引に町観光に付き合わされて、今もこうしてベンチに並んで座って、その一つ一つに戸惑ってばかりいたものだから、気が付いたらいつも心の奥底にあった後ろめたさをすっかり忘れて、思ったことをそのまま言葉にしている。

「そういうのも、悪くないだろ?」

 春の淡い日差しに照らされる彼のしたり顔が、まっすぐにこちらに向けられる。

 その瞬間、ブランカの心の中に温かいものが一気に広がった。

 同時に顔が急に熱くなる。

「――早く、買い物に行かないと」

 ブランカは川マスの擂り身を急いで口に含むと、ヴォルフをベンチに残したまま野菜市場の方へ歩いていく。後ろからヴォルフが文句を言って追いかけてくるが、ブランカは素知らぬフリをして先に進んでいく。

 そういえば彼とは深く関わらないようにしなくてはいけないのだと、突然思い出してしまったのだ。それは他の人たちに対するものと同様の理由もあるが、それ以外にも彼と関わってはいけないと瞬間的に思ってしまった。

 距離を取ろうとすれば、簡単に詰められてしまう。押し殺していた気持ちも忘れていた感情も、彼の強い力で簡単に引っ張り出されてしまう。

 心の底に沈殿していた膿を、簡単に取っ払われてしまう。

――それがこんなに心地いいなんて。

 そんな風に感じさせるヴォルフの強さがとても危険な気がして、ブランカは必死に彼から逃げる。だがブランカのそんな抵抗は。ヴォルフが彼女の腕を引き留めたことによって簡単に阻止されてしまう。

 それにもう、手遅れなのかもしれない。

 ブランカの心の中では既に、ヴォルフの存在が大きくなり始めていた。

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