7.廃墟の街

 翌朝。

 ヴォルフは『女神の泉ファインテ・デ・ラ・ディオーサ』の前で固まっていた。彼の薄鳶色の瞳が自分の姿をまじまじと見ているのだと思うと、ブランカは恥ずかしくて堪らない。だけど逃げようにも後ろから肩を掴まれているせいで、それも叶わない。

 あまりに居たたまれなくなって、ブランカは両手で顔を隠す。しかしそれもまた、出来なくなってしまった。

 後ろのゼルマが、ブランカの両手を掴んで手を広げさせたからだ。

「ほらぁ! せっかく綺麗にしたのを台無しにする気ぃ?」

「す……みません……」

「ねぇヴォルフ、どーお? あたしの腕はぁ」

 ゼルマは自慢げに鼻を鳴らした。遮るものが一切なくなったブランカは、一層逃げたくなった。

 今の自分がどういう姿をしているのか、ゼルマに散々鏡で見せられたから知っている。

 白地にピンクのバラを散らしたレースのワンピースと、そこにアクセントを加える真っ赤な腰のリボン。そして真っ赤な靴。ただでさえブランカが絶対に選ばない雰囲気のそれらだというのに、膝が完全に出てしまうほどにスカートの丈が短く、非常に心許ない。胸元がそれほど空いていなくて七分袖なのがせめてもの救いだ。

 服装がそういう状況なら、首から上も同じだ。ブランカの真っ黒なおかっぱ頭はパーマをかけたように綺麗にウェーブし、前髪も大きく巻いている。そうして露わになった顔は、右頬の赤い火傷を誤魔化す程度の化粧しか施されていないが、唇にはきっちりと真っ赤な紅が引かれていた。

 鏡で自分の姿を見たときは、確かに別人のようだと思った。だけどこんな格好をしたことがないから、とにかく落ち着かない。

「あの……やっぱり、変、ですか……?」

 ブランカは黙ったまま自分を眺めるヴォルフを、そっと見上げる。

 すると彼はふわふわカールしているブランカの髪に手を伸ばし、ニッと頬を綻ばした。

「いや、良いと思う。よく似合ってる」

 そう言って柔らかく細めるヴォルフの瞳には、いつもの彼らしい優しさとは別の種類の何かが含まれているように感じて、なんだか余計に身体中が熱くなった。

――こんな、浮かれている場合ではないのに……。

「あぁもう、朝っぱらからむかつくわねぇ。出掛けるならさっさと行ったらどぉ?」

 店の前ではにかむ二人にげんなりするゼルマが、鬱陶しそうにしっしと手を払いのける。ヴォルフは「悪いな」とゼルマには挑発的に笑い、彼女からスクーターの鍵を受け取った。

「じゃあゼルマ、今日一日使わせてもらうな」

「はいはい。ごゆっくりぃ」

「あの、ゼルマさん。朝からありがとうございました」

「もう分かったから、さっさと行きなさいってばぁ!」

 そうして二人は『女神の泉ファインテ・デ・ラ・ディオーサ』を出発した。

 スクーターは当たり前のように朝の市街地を走る。

 しかしブランカは正直この状況を不思議に思えてならなかった。ヴォルフと一緒に出掛けるのは夕べのうちに聞いていたし、その話の流れでこんな格好をすることになったが、そもそもどうしてこうなったのかが分からない。

 しかも、仕方がないとは言え、こんなヴォルフの背中にしがみつく形で――。

「今日一応行こうと思っている場所はあるんだが、どこか行きたいところあったら言ってくれ――つっても、俺もヘルネーはよく知らないから迷うかもしれないが」

「あの……っ! こんな遊びに出かけるようなことしていて、いいんですか……?」

 こんな状態で尋ねるのも気が引けるが、流石にこんな場合ではないと思うのだ。

 ブランカは爆弾のことを考えなければならないし、ブローチのことも自分の気持ちに決着を付けなくてはいけない。アロイスから与えられた猶予は三日だ。なのに昨日は『女神の泉ファインテ・デ・ラ・ディオーサ』に逃げてしまい、時折悩む瞬間はほとんどゼルマに中断させられてしまった。

 つまりは昨日一日を無駄にしたわけだ。

 それなのに今日もこんなことをしていていいわけがない。

「嫌か?」

「え……?」

「俺と遊びに出かけるの、嫌か?」

 ヴォルフは二度も聞いてきた。

 どうしてそういう話になるのだろう。そういう意図で聞いたのではないと絶対ヴォルフなら分かっているはずなのに、若干背中を丸めて無機質に言う口調が、ブランカを困らせる。

「そうじゃなくて……でも……」

「でも嫌?」

 ヴォルフは三度目を聞いてきた。今度は声の端々に苦笑が混ざっていた。大きく息を飲むブランカへ、彼はニッと流し目を寄越す。

「もう! そうやってまたからかって!」

「悪い悪い、冗談が過ぎたな――まぁ、冗談じゃなくてもいいけど」

 言いながら彼は「しっかり捕まってろ」と、自分の腰に巻くブランカの腕を更に前に引っ張った。よりヴォルフに密着した状態になって顔を赤くするブランカへ、彼は続けていった。

「あんまり家に籠もって悩んでたって、後ろ向きになるばかりだろ?」

「そう……ですけど」

「だったらそういうときはいっそ開き直って気分転換した方がいい。それで見える物もあるしな」

「でも、そうは言ったって……」

「ほら、楽しもうぜ。せっかくいつもと違う格好してきたくらいなんだしさ」

「な……っそれはゼルマさんが――」

「――良いと思う」

 ブランカの言葉を遮って、ヴォルフは真っ直ぐなトーンで言った。

「欲を言えば、白い髪の時でその格好を見てみたい」

 つまりは、ブランカの本来の姿でということだ。

 ブランカは何も言えなくなる。

――本当にこの人は……。

 こういうことを当たり前に真っ直ぐ言ってくれる。出会ったときからそうだった。元の白い髪も右頬の赤い火傷も、ヴォルフのお陰でブランカは肯定的に捉えることができた。本当に彼には敵わない。

 こんな浮かれた状況にいるべきではないと分かっているのに、気恥ずかしさと同時に嬉しさが込み上げてくる。

「こういうの、本当にダムブルク以来だな」

 ヴォルフは苦笑を漏らしつつ、しみじみと言った。そっと彼の横顔を伺うが、ヴォルフがどういう顔を浮かべているかまでは分からない。だけど今の言い方に、ブランカはダムブルクで初めて彼と出会った日に聞いた言葉を急に思い出した。

『まさかこんな風にフィンベリーを歩ける日が来るなんてな』

 あのときの彼は、目の前のダムブルクの街並みを感慨深そうに眺めながら、その薄鳶色の瞳はずっと遠く――生まれ故郷のヘルデンズを見つめていた。そのヘルデンズに、二人は今いるのだ。

 ブランカはヴォルフに捕まる腕を、無意識に強くする。

 あの日、初めて出会った日から再会するまで、彼はどんな日々を過ごしてきたのだろう。ブランカの方は、あの日から色んなことがありすぎた。

 生まれて初めて恋をした。

 けれどもすぐにブランカは施設にいられなくなった。

 目の前で母を亡くした。

 そうしてヴォルフと再会し正体を暴かれたと思ったら、父に連れていかれ、列車から命からがら逃げてきて、気が付いたらヘルデンズで数週間を過ごしている。

 今思えば、この瞬間が本当に奇跡だ。

 ダムブルクで過ごしたときのように穏やかとはとても言いづらい。しかし、あのとき思いを馳せたヘルデンズに――もう二度と足を踏み入れることも出来ないと思っていた故郷の地に、ヴォルフとこうして一緒にいる。

 とても奇妙で、ブランカにしてみれば、とても罪深いことだ。

――それでもこの時間がずっと続けばいいのに。

 身の程知らずにもブランカはそう思ってしまう。

 どんな状況にあっても、ヴォルフといる時間は心が安らげる。とても――幸せだ。だけど叶うなら、自分の立場も過去も、祖父が残したらしいホフマンの爆弾のことも、全てリセットして忘れてしまえればと思ってしまう。 

 なんて身勝手な願いなのだろう。

――そんなこと、絶対に叶わないのに。

 ぼんやりとそう思うブランカを責めるかのように、残酷な現実が視界に入ってくる。

 表通りの綺麗なビルの後ろに見える真っ暗な世界。そこに建ち並ぶ建物は、多くが天井から抉られていて、残っている壁にはあちこち穴が空いている。中には『ヘルデンズは地獄へ堕ちろ』と書かれた壁もある。そんな建物が、真っ黒焦げのまま、足場のない瓦礫の山の上に沢山残されていた。

 息が詰まりそうな光景だった。

「……辛かったら、目を瞑ってるといい」

 ブランカの緊張が伝わったのか、ヴォルフは落ち着いた口調で言ってくれた。正直、こんな終戦直後に巻き戻ったかのような光景を、ブランカは見ていたくなかった。

 もはや廃墟としか言いようのない街の裏側。勿論そういう建物を今まで見なかったわけではない。町工場とアロイスの家の間にだってそういうのはいくつかあった。それに倒壊したビルが東ヘルデンズで多く残されていることは、フラウジュペイでも度々噂で聞いていた。

 しかし、実際に見るそれらは、ブランカの想像を遥かに超えていた。その原因は誰なのか。それを考え始めれば、祖父への言いようのない怒りと、深い罪悪感が込み上げてくる。

「ごめんなさい……少しだけ……」

 ブランカはヴォルフの背中に顔を押し付けて目を瞑った。甘えだと分かっているが、彼の体温で、どうかこの罪悪感を薄めたかった。

 しかし、込み上げてきた罪悪感は、簡単には去っていかなかった。

――いずれお前に最高の楽園をプレゼントするよ。

――わたしのおじいちゃんはヘルデンズ帝国の一番えらい人で――。

――お前のために俺は全てを奪われた。

――あんたのために父さんと兄さんは死んだ。

――今も昔もマクシミリアン・ダールベルクとその孫のせい。

――あんなガキのために……っ。

 幾度となく浴びせられた無数の怒りの声が、耳の中でハウリングする。それに混じって思い出される作文の内容と祖父の言葉が、より一層ブランカを責め立てた。

 普段ならここまで頭の中で反響することはないのに、先程身勝手なことを考えてしまったからだろうか。まるで目の前の廃墟が、ブランカに逃げることを許さないとでも言っているかのようだ。

――自分がその立場で罪悪感と責任を感じてきたなら、とるべき行動があるはずや。

 ふとアロイスの言葉が頭の中で再生される。

 ブランカはぎゅっと瞑っていた目を開いた。恐る恐る廃墟の街へ視線を戻す。

 どれだけ走っても、凄惨な光景は変わらない。むしろ、郊外に向かうにつれて、その規模は広がっていく。込み上げる罪悪感は、むしろ膨らむばかりだ。

――だけどこれが今のヘルデンズ……。

 ブランカの生まれ育った国。

 ヴォルフが思い焦がれた故郷の今の姿。

――私は目に焼き付けなければならない……。

 何故だか分からないが、ブランカは急にそう思った。

「ブランカ、無理するな」

 ヴォルフはちらりとブランカの方を伺いそう言った。じっと視界に入ってくるものを大きな深緑色の瞳で受け止めながら身体を震わす彼女の様子が、ヴォルフを余計に心配させてしまったのだろう。

 しかしブランカは今度は首を横に振った。

「ありがとう。でも大丈夫」

「大丈夫ってお前……」

「この景色をちゃんと覚えておきたいの」

 彼女にしては珍しくはっきりとした口調に、ヴォルフは息を飲む。ブランカにしても、どうして自分が急にそう思ったのか分からない。けれどもヘルデンズの今の本当の姿から、目を背けてはいけないと思ってしまったのだ。

 終戦からもう五年が経った。世界は既に復興に向けて動き出している。それなのにこの街は、五年前で時が止まったまま、ずっとフィンベリー大陸戦争の傷と罪を突き付けられてきた。

だからだろうか。

目を瞑りたくなる光景なのに、目が離せないのは。

 走れど走れど広がる廃墟の景色。

 その壊れた建物の中で、今も生活している人がちらほら見えた。

 一応今では仮設住宅への移住が推奨されている。それでもそこに住まう人たちは――もしかすると別の事情があるのかもしれないが――何故かブランカの目には自分達の家を守っているように見えた。

 屋根もなく壁もない吹き晒しのそこで、彼らは一体何を思っているのだろう。

 ブランカはぎゅっとヴォルフにしがみつき、ポケットの中の固い感触を強く確かめた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る