6.別の選択肢

 同じ頃、ブランカは流しに溜まったグラスを洗っていた。

 あれこれ注文を受けて動き回っている間はいいが、単調作業になるとどうしてもホフマンの爆弾のことを考えてしまう。

 確かにアロイスが言うように悩んでいる時間はないが、だからと言って簡単に暗号を明かしてしまって良いとはやはり思えない。アロイスは調べるだけでもと言っていたが、その瞬間、ホフマンの爆弾の運命を彼が握れることにもなってしまう。アロイス自身は信用できる人ではあるが、この件については別なのだ。

 だったら他にどうすればいいの? ブラッドローに渡してしまった方が妥当なのか?

――嫌……。

 本当は、知りたくない。ブローチだって本当は失いたくない。お願いだから祖父との――家族との唯一の繋がりを、取り上げないで。

 必死に押し込めている気持ちが、自分の中で地団駄を踏んで止まない。だけどこんなことで躊躇っている場合ではないし、三日後にはブランカはブローチの暗号を空かさなければならない。

 そうして不安が振り出しに戻る。

 同時にブランカの気持ちが向かうのは、祖父への絶望だ。何度もせめて何度も疑問を投げかけては、色んな感情に押しつぶされそうになって、息の仕方すら分からなくなる。

 頭がはち切れそうだ。

 しかし、いつもは一度嵌ったらなかなか抜けないこの思考は、今の皿洗いの時間に限ってはすぐに解除された。

 ゼルマがキッチンの入り口に立ってじっとブランカを見ていたからだ。

「あの……?」

 ブランカは膨れ上がりかけた自身の感情を押し込めて声を掛けるが、二日酔いでだるそうに壁により掛かっている彼女は、何も言わずにブランカを上から下まで眺める。それはまるでブランカを品定めしているかのようだ。

 ゼルマは何度か視線を上下に往復した後、盛大にため息を吐いた。

「あんたって本当に冴えないわねぇ。一体こんなののどこが良いのかしら」

「は、はぁ……」

 どうしてゼルマがブランカを見てしみじみ残念そうにしているのか全く分からない。というかむしろ、そんなこと改めて言うまでも無いことではないか。

 ブランカだってこんな自分は嫌いだ。

 本当はこんなところで働いている場合ではないのに、ホフマンの爆弾のことを考えたくなくて、現実逃避している。こうやってブランカはまた問題から逃げているのだ。アロイスが苛立つのも分かる。ヴォルフだって今はブランカの味方でいてくれるけれど、本当は呆れているのかも知れない。

 ひとたび走り出した悪い思考は、再び止まらなくなっていく。

 しかし、それもまたゼルマによって中断させられた。

「ああもう、やだぁ、陰気くさぁい。せめてもう少し明るくしたらどう?」

「そう、言われましても……」

 明るく振る舞うなんてこと、その仕方もとうの昔に忘れてしまった。ブランカには無理ある話だ。

 ゼルマはまたも残念そうにため息を吐いた。

「もう本当にイライラするわねぇ。こぉんなのが庇護欲ってのを掻き立てるのかしらぁ。全く理解できないけど、それにしたってあんたは暗すぎよぉ。今はそれで良くても、そんなんじゃあすぐに捨てられちゃうの。分かってるのぉ?」

 ブランカの一体何が彼女に火を付けたのか分からないが、ゼルマはぐいっとブランカを睨み付け、キッチンの奥へ追いやった。

 もしかしてゼルマは今日も飲んでいるのだろうか。その割にはあまりお酒の匂いがしないが、ならばどうしてこういう話になったのか。それにそんなことをブランカに言って一体どうしろというのだ。

 しかしそういう意味で言うと、気迫こそ凄いものの、間近で見るとやはりゼルマは綺麗だ。外見は元より、一人の女性としての強さがあり、そういう自分に自信を持っている。とても魅力的だ。

 仮にブランカに彼女のような強さがあれば、ホフマンの爆弾の件に真っ向から向き合って、きちんと自分の答えを出せているのだろう。それこそブローチに縋ることもなく手放す覚悟をした上で、最善の道を選び抜いているのかもしれない。少なくとも今のブランカみたいに、右にも左にも行けないような状態には絶対なっていなそうだ。

 じっとゼルマを見つめるブランカに対し、今度はゼルマが不思議そうに眉を顰めた。

「何なのぉ、じっと見てきてぇ……」

「あぁ、いえ……ごめんなさい。その、どうしたらゼルマさんみたいになれるかなと思って……」

 言ってからブランカはハッと口を閉じる。思ったことをつい言葉に出してしまった。

 そっとゼルマの方を伺うと、彼女は驚いたように目を丸くしている。

「え……? 何よあんた。あたしのようになりたいのぉ?」

「いえ……そういうことではなくて……」

「じゃあ何?」

 ゼルマはまたもやムッと唇を尖らせた。ブランカは慌てて言葉を探す。

「その……どうにもならないとき、ゼルマさんならどうするかなって思ったんです……」

 言いながら尻窄みになった。いきなりこんなことを聞いて果たしてゼルマが答えてくれるだろうか。ましてやたった今、もの凄くダメ出しを食らった後なのにだ。

 しかしゼルマは少しの間の後、聞き返してきた。

「どうにもならないときって例えばぁ?」

「たっ例えば……えっと……二者択一出来ないときとか、です」

 彼女の気迫に圧されて流れるまま答えてしまい、ブランカはハッと後悔した。ホフマンの爆弾のことを考えるあまり、何とも微妙な質問になってしまった。単なる質問としてはあまりに内容が漠然としているし、そもそもホフマンの爆弾のことについてはブランカが自分で答えを出さなくてはいけない。

 いずれにせよ、この場で聞くのは色んな意味で不適切だ。

「あの、ごめんなさい。今のは忘れてください……」

「はあ? 何なのあんたぁ」

 全くもって意味不明な行動をとるブランカに、ゼルマは思いっきり顔を歪める。

 それもそうだ。ブランカ自身、どうしてあんなことを聞こうと思ったのか分からない。ただでさえゼルマには良く思われていないのにだ。

 じっとこちらを眺めるゼルマの視線を受け流しながら、ブランカは壁と彼女の間から抜け出し、洗ったグラスを黙々とトレイに並べる。あまりに居たたまれないが、自分で蒔いた種だ。きちんとこの場は収めなくてはならない。

「あの、ゼルマさん。一方的に聞いておいてなんですが、本当にどうか今のは気にしないで頂けると――」

「あたしならどっちも選ばないわぁ」

「え……?」

 完全にこの場を切り上げるつもりでいたため、ゼルマが言ったことの意味を、ブランカはすぐには理解できなかった。

「そもそも質問が意味不明なんだけどぉ、要するに自分が納得いかない選択肢ばっかり並んでるわけでしょお? だったら選ばなきゃいいだけじゃなぁい」

 わざわざ聞くことかしらぁと、ゼルマは肩を竦めて首を左右に振っている。まるで簡単なことのように彼女は言ってのけた。

 だけどブランカには分からない。

 確かにさっきの聞き方だったらそう言う答えもあり得るが、大抵の場合は条件が付く。そんな単純なものではないのだ。

「……選ばなくて結局どうするんですか? どれかを選ばないとどうにもならない場合だってあります」

「ぇえ? 何それぇ、質問したくせにわがままねぇ。だったら別の選択肢を作るわねぇ」

「別の、選択肢……?」

 どうしてそういう回答が出てくるのか、本当にゼルマの考えていることが分からない。そんなブランカを、ゼルマも不可解そうに眺めながら、深々とため息を吐いた。

「まぁ、状況にもよるけどぉ? けど、あんたの話を聞く限りだと、どれも選べなくてどうにもならないわけでしょお? だったら自分が一番納得いく選択肢を作ってそれを突き進めばいいじゃなぁい」

「でも……でも、そんなことが許されない場合だって――」

「何でよぉ」

 知らず感情的に追及するブランカを、ゼルマは強引に遮った。

「そんなことが許されないんだったら、そもそも何で選べる前提なのよぉ。おかしくなぁい?」

「それは――……」

 言いかけて、ブランカは言い淀む。半ば責めるようにゼルマを追及したにも関わらず、ゼルマへの反論の言葉が浮かばなかった。

 それどころか、彼女の言うことにはやや強引ではあるが、一理あるように思えてしまったのだ。

 ホフマンの爆弾のことでブランカが渋るのは、ブローチを放しがたい気持ちがかなり多きのもあるが――ブラッドローに渡すのもアロイスたちに暗号を明かすのも妥当だと思えないからだ。いずれも不安要素がありすぎる。そもそも爆弾のことについてブランカに何らかの権限があるとは思っていなかったが、確かにブローチが彼女の手にある限り、どちらも選ばないという手をブランカは選べる。

――だけど待って……。

「別の選択肢なんて、どうやって……」

「はああ。あんた本当に頭かったいわねぇ。言ったでしょお? 自分で作るんだから、自分で考えなさいよぉ。あんたが望む選択肢を!」

「私が望む選択肢……」

 ホフマンの爆弾のことでブランカが望むこと――。

 そんなの沢山ある。

 ブローチを取り上げないで欲しい。

 祖父が残したって言うその爆弾の存在を確かめたくない。

 だけどそんなことで駄々をこねられるのには限りがある。

 だったら本当にブランカが望むこととは何なのか。

「そんなこと……いいのかしら……」

 考えたこともなかったので、まだ答えは出ない。

 しかし、答えが出たところで、ブランカはそれを選べるのか。

――だって私は……。

 自分は――……。

「何で駄目だと思うのか、あたしにはさぁっぱり分からないけれどねぇ?」

 ゼルマはつまらなそうに言った。それはゼルマがブランカの正体を知らないからだ。

 だけどゼルマの言ったことを考えながら、同時にアロイスの言葉を思い出す。

――私がこの立場だからこそ思うこと……。

 ブランカはぎゅっとブローチを握りしめた。

「おおい、ゼルマぁ。いきなり消えたかと思ったら、こんなところでブランカちゃんいじめてんなよ」

 カウンターの方で仕事をしていたはずのティモが、二人の間に割って入る。完全に言いがかりを付けられたゼルマは、「うるさいわねぇ」と嫌そうに顔を歪めた。

「あ、ごめんなさい。グラス、持っていきますね」

 自分の仕事を思い出したブランカが急いでホールに戻ろうとすると、ティモは彼女の前で人差し指を立てて、それを横に振った。

 そういえばティモはなんだか嬉しそうな様子だ。

「ブランカちゃん、明日はゆっくり羽を伸ばしてきなさい」

「え……?」

 一体何の話だ。

 目を丸くして疑問符を浮かべるブランカを余所に、ティモはブランカの肩を掴み、ゼルマの方へ向けた。

「――というわけだ、ゼルマ。明日、ブランカちゃんにお洒落してやって」

「はぁあ? 何であたしが――」

 盛大に文句を言いかけたゼルマだが、再びブランカをじっと眺めて、そしてティモの方へ視線をやった。

 ティモと無言のやりとりをかわした彼女は、やれやれと嫌そうにため息を吐いた。

「わーかったわよぉ。あたしもこんなのに負けたなんて思いたくないしねぇ」

 ゼルマは片手でブランカの顎を掴み、上から横から彼女の首を動かす。本当にどうしてこんな話になっているのか分からないブランカに構わず、ティモは「頼んだぞ」とご機嫌に去っていく。

「あの……ゼルマさん……? よく分からないですけれど、ティモさんの言うことは別に――」

 気にしなくて良いと思うんです。

 そう言いかけたブランカを、今日何度目になるのか、ゼルマは尚も遮った。

「なるほどねぇ。いじり甲斐はありそう」

「え……?」

 ゼルマはニッと形の良い唇を持ち上げた。

「いいわぁ。あたしに任せなさい」

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