5.人形のような彼女、再び

――その晩。

 すっかり上がった雨はヘルネーの街を静寂で包み込んでいたが、ここだけは相も変わらず騒がしい。

女神の泉ファインテ・デ・ラ・ディオーサ

 今日も今日とてそれなりに人が出入りして忙しいはずなのだが、ゼルマはあくびを噛み締めながら接客していた。

「おーい、ゼルマぁ。ちゃんと接客しろよぉ」

「ティモ、従業員のしつけがなってないぞー」

 げらげら野次を飛ばす近所の男たちに、ゼルマの父ティモは苦笑いを浮かべて小声で娘を窘めるが、当のゼルマは、

「うっさいわねぇ。二日酔いなんだから仕方ないじゃなぁい」

と、すっかり開き直ってしまっている。

 心底つまらなそうに酒を作る看板娘・・・の姿に、こいつはもう終わったなと、ティモ含め誰もがある種の諦めを感じた時だった。

 新たな客の入店に、店の中がざわめいた。

「ありゃ。珍しい客も来たもんだ」

 カウンターから首を伸ばして様子を伺ったティモは目を丸くする。そして隣でやる気のない娘と見比べて、「こいつはしめた」と、人の悪い笑みを浮かべた。



「――大丈夫、大丈夫。大抵の客は何とか何とかいう洒落たカクテルなんか飲まないからさ。ウイスキー、水で薄めて出してくれれば、それで十分だ」

「え……でもお料理はどうすれば……?」

「ああ、そんなのはその辺にあるピクルスとクラッカー出しておけば大丈夫。心配ないさ」

「多少失敗してもブランカちゃんなら誰も文句言わないから安心しなよ――ゼルマと違って」

「いちいちうっさいわねぇ。あたしだってたまには休んだっていいじゃなぁい」

「あぁそういえば今日ブランカちゃん寝込んでたんだっけ? それなのにこんなところに連れてこられて可哀想に」

 カウンターの内側に入り酒の作り方を教わるブランカを一同は嬉しそうに見守るが、一部の男たちはカウンターの席に座るヴォルフへ冷ややかな視線を送った。

――結局俺は悪者かよ。

 ヴォルフは鬱陶しそうにため息を吐いた。

 昼間の話の後、ヴォルフはブランカが落ち着くまでずっと傍にいたのだが、夕方になり辺りが暗くなり出してからというもの、ブランカは急に思い出したかのように家事をし出した。休め休めとヴォルフがいくら言い聞かせても彼女は一向に聞かず、あの人形のような顔で黙々といらぬところの掃除まで始めてしまったのだった。

 昼間にあんな話を聞かされた後のなのだから無理はないが、まるでムキになっているようで、あまりにも居たたまれない。しかしブランカのその行為は気を紛らわすにはちょうどよかったのだろう。すっかり家中を掃除し尽くしたブランカは、リビングのソファの端っこに座って新聞を読み始めたかと思うと、どこか虚空を見つめたまま次第に表情は悲痛さを増していき、また今にも潰れそうな状態へと戻っていってしまった。

 きっと無理矢理寝かせても同じことだろう。そう思ったヴォルフは見ていられなくなって、無理矢理『女神の泉ここ』へブランカを連れてきたというわけだ。

 ここなら人も多いしブランカに構う奴も多く、それなりに気が紛れるだろうと思ったヴォルフの狙い通り、早速ブランカはティモの手伝いをすることになった。だがその一方で、事情の知らない奴の視線が鋭くヴォルフに突き刺さる。

 ことヤーツェクの視線はその中でも一番鬱陶しい。

「なぁ、あんたまだブランカに冷たく当たってんじゃないだろうな?」

――うるせえな、違えよ。

 相手にするのも面倒臭くてヴォルフは心の中で悪態吐いた。

 ちなみにヤーツェクは夕べから帰ってきていないので、今のヴォルフとブランカの様子を全く知らない。別に踏み込んだ話をしていたのでヤーツェクがいない方が好都合だったが、何も知らない癖に突っかかってこられるのは少々不愉快だ。

 とは言え、昨日の今日。ヴォルフがブランカに冷たく当たっていたのは事実だし、そのイメージが簡単に払拭されるものでもない。

 当分はこの状況を甘んじて受け入れるしかないのだろう。

――しかし、果たしてこれで良かったのだろうか。

 ヴォルフは自分に飛ばされる野次を受け流しながら、他のテーブルのオーダーを取りに行くブランカを眺めた。人と接する分、家にいるときよりは随分人間らしい表情に戻ったが、それでも心ここにあらずという様子がちらちら垣間見えた。

 本当は、彼女が抱えている不安を全部ヴォルフが聞いてあげればいいのだろうが――。

「ヴォルフったら本当にあの子のことばっかり。そんなに気になるのぉ?」

 いつの間にかヴォルフの隣に座ったゼルマが、だるそうに聞いてきた。二日酔いらしい彼女はすっかり仕事をブランカに任せきっている。そのくせ化粧と洋服だけはしっかり決めているのだから、つくづく大したものだ。

「まぁ……そりゃあ心配にもなるさ」

 突然指摘された気恥ずかしさも相まってヴォルフはやや言葉を濁して返すが、

「なら何でブランカがまたあんな投げやりな感じになってるのか教えてもらいたいもんだよな」

と、ゼルマと反対側に座るヤーツェクが飽きもせずヴォルフに突っかかる。言外に今のブランカの様子がヴォルフのせいだと言いたいのだろう。

――うるせえ、分かってるよ……。

 ヴォルフにもう少し甲斐性があれば、ブランカを今のような不安に陥れずに済んだのかも知れない。彼女に突き付けられた問題は、大の大人でも処理しきれないものだ。当然十六歳の少女が抱えきれるわけがない。今この敵地にある中で、安易にホフマンの爆弾のことを彼女に打ち明けるべきではなかったのだ。

 しかし今更そんなことを言っても仕方がない。考えるべきは、これからのことだ。

――本当に、どうするべきなんだろうか……。

 自分の立場を考えれば、とにかくブランカと彼女のブローチをブラッドローに持ち帰るのが先決だ。いや、どのみち現状はそうした方が確実に彼女の安全は守られるし、そう言う厄介なことを全部国のお偉い方に任せてしまえる。ホフマンの爆弾と完全に無関係ではいられないだろうが、今よりは確実にマシになるはずだ。

 だが、果たしてそれで彼女は解放されるか。

 ただでさえマクシミリアン・ダールベルクの所業に並々ならぬ罪悪感を抱いてしまう彼女だ。昼間のアロイスの言葉も相まって、ホフマンの爆弾の件に対して余計に責任を感じてしまったに違いない。このまま西へ逃れたところで、彼女はずっとホフマンの爆弾の命運に囚われるだろう。

――だったらどうしろっていうんだ。

 ホフマンの爆弾を実際にどう扱うのが正しいかなんて、そんなのヴォルフにも分からない。しかしその存在を確かめられていない今、あれこれ議論することよりもまず、ブランカの抱える不安を少しでも軽くしてあげることが、ヴォルフが彼女にしてやれることなのではなかろうか。

――……のはずなんだよな……。

 ヴォルフは出された茶を飲みながら、店内を駆け回っているブランカを眺める。忙しなく酒を作り運ぶ彼女は、時折自分のポケットを確認しては虚ろな表情を浮かべ、時には泣きそうな顔を無理矢理押し込めている瞬間もあった。茶を飲んで眺めている場合ではないのだ。

 しかしヴォルフにももう少し時間が欲しい。彼女の不安を受け止めるには、その場しのぎの言葉以外、今の彼には何の良い言葉も持ち合わせていない。

 それにおそらくヴォルフが予想するに、彼女のあの人形のような顔の裏には、マクシミリアン・ダールベルクに対する複雑な気持ちも少なからずあるはずだ。ブランカの全てを受け止めてあげたいと思う反面、彼女が語るマクシミリアン・ダールベルクの話を、怒りも憎しみも押し込めた状態で聞いてあげられる自信が全くない。

 それこそ昨日の今日なのだ。ヴォルフ自身ももう少し整理する時間がないと、流石にきつい。

「けっ。だんまりかよ。クールぶってんのか何なのか知らねーけど、俺ぁやっぱりあんたのこといけ好かねーぜ。ブランカも何だってこんなやつ庇うんだか」

――うるせぇよ。

 そんなことは自分でも思っている。

 ヴォルフは隣で呟くヤーツェクに心の中で返事した。

 何が彼女を守らねば、だ。結局肝心なときに自分は何もしてやれない。つくづく自分の不甲斐なさに情けなくなる。

「えらい兄さんも難しい顔してんなぁ。若いうちはよう悩む方がええけど、道は踏み外さんでくれよ・・・・・・・・・・・

 いつの間にかヤーツェクの隣に座ったアロイスが、言葉尻にたっぷり含みを持たせて割り込んできた。ヴォルフ達がここに来る前は出掛ける素振りのなかった彼だが、今の言葉と言い、にこやかでいて全く笑っていない青灰色の瞳といい、まるでヴォルフに釘を刺しに来たかのようだ。

 例えばヴォルフがアロイスの目を盗んで西へブランカを連れて逃げないようにと――。

「なんだヴォルフ君。結局ブランカちゃんと上手く和解できていないのか?」

 今度はティモが話に混ざってきた。するとすっかりこの話題に飽きたゼルマが、「もうやってらんなぁい」と言って別のところへ行ってしまった。

 娘の気ままさにため息を漏らしながらも、ティモはカウンターのレジの下を漁りだした。

「俺が思うに、君らはもっと会話が必要だと思うんだよ」ティモは言いながらヴォルフの前に二枚の紙切れを差し出した。

「この前客にもらったんだ。ここに来て君らも忙しなさそうだからな。たまにはゆっくり遊んできたら良いんじゃないか?」

「遊んできたらって……」

そんな場合ではないんだが――。

 ヴォルフはキッチンの奥で作業をしているブランカとその紙切れを見比べる。そして今し方脳裏をよぎった選択肢を、改めて考えた。

「行ってきたらええんちゃう?」

 アロイスは再び意味ありげに言った。

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