第5章 反オプシルナーヤと託されたもの

1.雨降りの朝

 激しい雨が、窓を打ち付ける。

 思えばヘルデンズに来てからはずっと晴れの日が続いていたから、こんな雨降りは久々だ。未だ厚い靄のかかったまどろみの中でブランカは思った。

 そういえばあのときもこんな雨降りだった。

 祖父と最後に会った五年前の誕生日。

――クラウディア、何があってもお前だけは私の味方であってくれるね?

 日付が変わる直前、濡らしたコートを脱ぐよりも先に部屋に訪れた祖父は、祝いの言葉の後にそう言って、受け取ったばかりのプレゼントを抱えるクラウディアの手を両手で握りしめた。

 その時の祖父の手がやけに冷たく、そして僅かに震えていた。

 それはきっと雨に濡れたせいだと幼いブランカは思い込んでしまっていたけれど、おそらく本当は――。

「大丈夫、だよ……」

「――何がだよ」

 夢うつつに伸ばした右手を横からぱしっと掴まれた。ぼんやりと定まってきた視界に、ヴォルフの顔が映り込む。

 不思議そうに覗き込む薄鳶色の瞳を見上げること数秒間。

 ブランカはハッと覚醒した。

「ごっごめんなさい! 私寝過ごしてしまい――……っ」

 慌ててベッドから飛び降りようとするが、上体を起こしたところで頭がふらついた。サイドに座っていたヴォルフが横から彼女の額に手を伸ばす。

「まだ少し熱っぽいな」

「え、熱?」

 言われてみれば頭が熱い気がするが。視線を動かすと、手元に濡れたタオルが落ちていた。ヴォルフはそれを拾うと、ブランカの身体をベッドに寝かしつけ彼女の額にタオルを乗せた。

「色々あったからな、身体が疲れているんだろう。休んでおけ」

「え……でもお仕事行かなきゃ」

「アロイスには言っておいた。昨日のこともあるし、問題ないとさ。つーか、それなら最初からわざわざあちこち働きに行くことなかったわけだが」

 言いながら、ヴォルフはブランカの頬へそっと手を伸ばした。気遣わしげに伺う彼の瞳が、柔らかく細められる。

「顔の腫れ、流石に引いたな。良かった」

 ため息まじりに全身で安堵を現すヴォルフに、どきりと胸が跳ねる。別の熱が急速に身体中に伝わって、ブランカは思わず赤くなった顔を伏せた。

「あ、えっと……そう、食事の支度をしなくちゃ……」

「あぁそうだった。食欲はありそうか? ありそうなら持ってくるから少し待ってろ」

「え……?」

 大きな手に髪をわしゃわしゃ撫でられながら、ブランカは目を丸くする。ヴォルフは至って当たり前の様子だが、ブランカが言おうとしたのはそういうことではない。

「いえ……ええと、ほら、アロイスさんたちの分は?」

「問題ない。アロイスは朝方帰ってきてまだ寝てるし、ヤーツェクはゼルマのところから直接職場に向かったとか。とにかくお前は寝てろ。頭、ふらつくんだろ?」

「平気です……!」

 ブランカは反射的に上体を起こした。単に熱があるだけで何もせずに寝ているのは気が引けてならないのだ。ましてや重傷人のヴォルフに自分の役目を任せるわけにはいかない。

 そう思ってベッドから出ようとするが、どこか覚束ないブランカの身体をヴォルフが強引に押し戻す。

「前から度々言ってるが、こういうときの好意は素直に受け取れ。大体お前は普段から動きすぎなんだよ。休める内に休んでおくんだ」

「……でも」

「いいな?」

 鋭く射抜くような薄鳶色の瞳が、じっとブランカに向けられる。こんなに強く言われてしまえば、ブランカは大人しくベッドに寝るしかない。気後れを感じながら、しずしずとシーツに潜り込む。

 同時に、そういえば彼はこんな人だったと思い出す。

 誠実で優しいのに、時々強引に話をすり替え――ブランカを甘やかす。それを素直に受け取れないブランカの心境を彼は察していそうなものだが、当たり前のようにまるっきり無視するから困りものだ。

 だけどそれをどこか心地良く感じるから、本当にヴォルフは不思議だ。

「ヴォルフ」

 ブランカは寝たままの状態でヴォルフに手を伸ばす。

 彼はその手を握り返しながら、丸くした目を向けてきた。

「何だ?」

「いつもありがとうございます」

 沢山優しさを分けてくれて。真っ直ぐに向き合ってくれて。当たり前のように触れてくれて、いっぱい気遣ってくれて何度も助けてくれて、そばにいてくれて――。

 言いたいことは沢山あるのに、それしか言葉が出てこないのが歯がゆくてならない。だけどヴォルフは一瞬だけばつが悪そうに目を泳がしながらも、ふっと笑って「どういたしまして」とブランカの頭へぽんと手を乗せた。

「じゃあ用意してくる」

 満足そうな笑みを残してヴォルフは部屋から出て行った。

 ブランカはゆっくり息を吐く。

――本当に夢じゃなかった……。

 夕べのこと。 

 もうこれが現実だということは理解しているけれど、やはりどこか信じられなくて何度も確かめたくなってしまう。だけど返ってくる答えは一つしかなく、それを噛み締めては身体中を震わせた。

 嬉しいなどと――幸せなどと心の底から思えるのは何年ぶりだろう。

 ずっと押し殺していた感情を一気に引き上げられてそれをどう処理したらいいのか正直困ってしまうけれど、そんな戸惑いすらも今は素直に幸せだと思える。

 本当にヴォルフには何と言ったらいいものか。感謝の気持ちが溢れて止まないのに、月並みな言葉しか返せないのがもどかしい。

 いつも助けてくれるあの人へ、もっと何か返せるものがあったらいいのに――。

 ブランカはごろんと寝返りを打った。

 すると太ももに強い痛みを感じて、ポケットのものを取り出した。

 十一歳の誕生日にもらったゴールドのブローチ。ブランカと祖父を――クラウディアとマクシミリアン・ダールベルクを結ぶ唯一のもの。

 幸せな気持ちに水を差されたような気がして、ブランカは乱暴にブローチを握りしめた。手に伝わる感触がやけに冷たく、途端に外の雨音がうるさく聞こえてくる。

 あのときの、最後に会ったときの祖父の顔が、脳裏に浮かび上がる。

 ブランカは慌ててそれを掻き消した。

――本当のところ、ヴォルフはどう思ったんだろう。

 このブローチを持ち続けていることを。

 夕べ、彼はブランカのことを許してくれたけれど、祖父のことは当然別だ。大陸中を蹂躙し、あちこちに癒えない傷を残し、ヴォルフからも何もかもを奪い尽くして、地獄の死の淵まで見せたのだ。憎まないでいられるはずがないし、ブランカも庇うつもりはない。

 しかし、そんな人との繋がりを未だに切れないでいることを、ヴォルフはどう思ったのだろう。夕べは静かに聞いてくれていたけれど、本当はひどく呆れていたのかもしれない。

――私に、ヴォルフへ返せるものなんてあるのかな……。

 舞い上がっていた気持ちが、どんどん沈んでいく。

 昨日はヴォルフのお陰で生まれ変われたような気持ちになれたけれど、それでも自分が戦犯の孫であることは変わらない。むしろ、こんな形見一つ捨てられずにいる自分は、ヴォルフに負の記憶を敢えて思い出させてしまっているのではないだろうか。もしそうだとしても彼はきっとそれを口にしないだろう。そう思うと申し訳なくて、こんな自分に嫌気が差す。

 それでいて、ブランカは追われている。こうしている間も捜索が続いていて、いつどこから父やオプシルナーヤ軍の脅威が襲ってくるか分からない。ヴォルフにしてみれば任務の一環だとしても、ブランカを連れることに危険なことは変わりない。

 いや、それ以前に父のことがなくても、万が一ブランカの正体が知られてしまった場合、ヴォルフはどうなるのだろう。彼にも人々の憎悪が向けられてしまうのだろうか。

――ダメよ、絶対……!

 ブランカは大きく首を振ってぎゅっと身を縮こまらせる。

 もしそうなった際にはヴォルフには任務を理由に言い逃れしてもらうしかないが、だとすると結局ブランカに何か出来ることなんてあるのだろうか。

 ヴォルフの任務の遂行に協力することは勿論のことだが――。

 そこでブランカははたと首を傾げた。

 ヴォルフの『任務』とは一体何だろうか。

 クラウディア・ダールベルクをブラッドローへ連れて行くことがそれらしいが、死んだと思われていた自分をわざわざ探して追い求める本当の目的は一体何なのだろう。

 いや、ブラッドローだけではない。オプシルナーヤにしたって同じだ。父自身には個人的な理由もあるのだろうが、ブラッドローと同じ目的でオプシルナーヤもブランカを追っていると、いつかヴォルフが言っていた。それは単に自分がマクシミリアン・ダールベルクの孫であるからだとブランカは深く考えないようにしてきたけれど、何か別の、確固たる重要な目的があるように思えてきた。

 ブラッドローとオプシルナーヤ。

 フィンベリー大陸の覇権を狙い合う東西の強国が求める何かを――あるいは双方に不都合な何か・・を、ブランカが握っているとでも言うのだろうか。

――それも確実に……。

 そのとき、ふとアロイスとかわした条件が頭に浮かんだ。

 東ヘルデンズからのオプシルナーヤ軍撤退を有利に運ぶ何か・・

 ブランカが確実に用意できるらしい何か・・――。

 漠然と、三方向からの矢印が、一つの点に結びつく。

 しかしブランカはその正体を知らない。

 思わず身震いした。

 瞬間、外の雨音が大きく鳴り始めて、手の中のブローチが冷たさを主張してきた。

 先程掻き消したはずの祖父の顔が再び脳裏に蘇る。

 こんなときに思い出したくないのに。だけど――。

 何故だか急に、あのときの悲哀に満ちた祖父の顔が疑問に思えてきた。不安に怯えるようなあの手の震えは、一体何を意味していたのだろう。

「――悪い、待たせたな。ブランカ? 寝てるのか?」

 突然聞こえてきたヴォルフの声に、ブランカはハッとシーツを払いのける。あまりに不自然すぎるそれにヴォルフが目を丸くするが、ブランカは「何でもないです」と力なく笑ってブローチをポケットに戻した。その瞬間もヴォルフはしっかり見ていたが、何も言わず、ブランカにスープを差し出した。

「やっぱり顔色が悪い。本当に今日はゆっくり休めよ」

「でも……こんなときだし」

「こんなときだからだろ。何事にも備えて万全の状態を作っておくんだ」

 相変わらず強く言い聞かせるヴォルフに、ブランカは大人しく頷きスープを口に運ぶ。ちょうどよく温められたそれは、強張ったブランカの身体をほぐしてくれるようで、全身の震えがゆっくりと消えていく。

 ブランカは出来る限りの笑顔をヴォルフに向けた。

「ヴォルフは料理も出来るのね。スープ、美味しいです」

「別にこんなの普通だろ。大したことない」

「ううん、何でもこなせて器用だと思います。あ、でもフラウジュペイ語は下手でした」

「言うようになりやがって」

 ヴォルフがハッと口角を上げて笑うので、ブランカもつられてくすくす笑う。こんな風に声を上げて笑うのも久々だ。

 しかしブランカを見るヴォルフの目はどこか探るようでいて、あまり楽しそうには見えない。内心の不安を誤魔化そうとするブランカを、きっと彼は見透かしている。

 ブランカは一つゆっくり息を吐いて、真っ直ぐヴォルフを見据えた。

「あの、夕べの続き、話してくれませんか?」

「夕べの続き?」

 ヴォルフは僅かに片眉を上げるが、すぐに思い当たったかのように「あぁ」と呟いた。

「アロイスのことか? 確かにちゃんと話すって言ったが、具合悪いときに聞かせるものでは――」

「お願いします」

 ブランカはヴォルフの手に自分の手を重ねて先を続けた。

「私に関わる重要なことなんでしょう? そしてそれは、オプシルナーヤもブラッドローも――ヴォルフの任務とも関わることなんでしょう?」

 珍しくはっきりした口調で頼み込むブランカに、ヴォルフは大きく目を瞠り息を飲む。話すか否か、僅かに揺れる彼の瞳がその迷いを物語っていた。

 だけどブランカは知りたい。

 自分がどうして追われているのか。一体自分が何を握っているのか。

 ヴォルフが躊躇するほどに事情が込み入っていて、もしかするとそれはとても恐ろしいことなのかもしれないけれど、得体の知れない何かに怯えるのは更に不安で堪らない。

 じっと見つめていると、ヴォルフは観念したように目を瞑って息を吐いた。そして佇まいを直し、真剣な表情を作ってブランカに向き直った。

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