21.新たな決意

――安心しきった顔で寝やがって……。

 さっきまであんなに渋っていた割に、ブランカの寝息は案外すぐに聞こえてきた。ヴォルフはそっと腕を引き抜き、ベッドに肘を突いてその寝顔を観察する。

 こちらの気も知らずに規則正しく肩を上下させ落ち着いた顔で寝入る彼女には、後日改めて色々言ってやりたくて仕方がない。まったく、ここまで純真すぎるのはある意味恐ろしい。

「本当に、意外なところで大胆だよな……」

 ヴォルフはフッと息を吐きながら、黒いおかっぱ頭を撫でる。それが心地いいのか、ブランカはヴォルフの手を追い掛けるように少しだけ頭を動かしつつ、ぎゅっと彼にしがみついてきた。相変わらずの無防備さに、思わずため息が出る。

 しかし、それは同時にブランカがヴォルフには心を開き信頼しているということでもあるので、素直にこの状況を喜ばしく思う。こんな風に思えるようになった自分の変化には正直驚きだが、今はもう、戸惑いなどは感じなかった。

 愚かなほどに健気で、愚かなほどに純粋な彼女――。共にする時間が長くなるほどそれを感じていたはずなのに、どうしてもそれを認めたくなかった自分が確かにいた。

 ヴォルフにとってクラウディア・ダールベルクは邪悪な存在でしかなかった。無知で苦労も知らず、あの独裁者に守られているだけの、高慢で酷く歪んだお姫サマに違いないと。仮にどこかで生き延びているとすれば、その高慢さにふさわしく下々の人間を踏み台にして生きているに決まっているとさえ、ヴォルフは思っていた。

 それがまさか、痩せた身体に白髪で半身を火傷で覆われているという、まさに不幸を絵に描いたような姿の少女だったなど、微塵も想像していなかった。

 その容姿故に疎まれつつも懸命に働く彼女の正体を知った瞬間は、何かの間違いだと思ったし、怒りで頭がおかしくなりそうだった。今まで見てきたのは全て演技だったのか? 憎い仇があんな姿であんな虚ろな目をしているなど信じたくなくて、何度もそう疑おうとした。

 戸惑うはずだと、今にして思う。

 彼女が人形のような表情かおで酷く心を閉ざしていたのも、必要以上に人と距離を取ろうとするのも、それでいて自身をも犠牲にしてしまえる危ういほどの健気さも、すべては無知だった昔の過ちとその存在を酷く悔やんでいるが故だったのだ。昔の彼女は知らないが、ヴォルフが頭に描いていたような残虐さは一切無く、純粋に人を思いやれる心があるからこそ、それらを受け止め苦しんできたのだろう。

 正直なところ、何も知らなかったのだからと彼女の全てを許せるわけではない。

 だが、たった十一歳だった少女が、誰にも心を打ち明けることも出来ず、自分を憎む人たちに囲まれながら、そんな重苦しいものを抱えて五年間も生きてきたのだ。もうそれで十分だ。これ以上彼女を責めようという気にはなれない。もっとも、彼女を守らねばと思うようになってしまった自分には、責められるはずもないが。

「きっとお前はこれからも苦しむんだろうな……」

 今は腕の中で安らかに眠る彼女が、再び人形のような顔で人々の憎悪を受け止めるのだろうと思うと、心苦しくなる。クラウディア・ダールベルクを憎む気持ちを誰よりも理解しているからこそ、下手な庇い立てはおそらくヴォルフには出来ない。自分が心の拠り所になってくれればいいと思うものの、結局のところヴォルフは彼女を守りきれないのだ。

 しかし、ならばブランカを全面的に擁護すればいいのかというと、それも違う気がする。これ以上罪を背負う必要はないと仮にヴォルフが言ったところで、彼女の心に深く刻まれた罪悪感は簡単には消えないだろう。自分の過ちどころか、マクシミリアン・ダールベルクの罪すらも抱え込んでしまっているのだから。

 脳裏に浮かんだ独裁者の顔に、ヴォルフは瞳を鋭く細めた。

 つくづくマクシミリアン・ダールベルクを忌々しく思う。

 フィンベリー大陸中を蹂躙し、自由も家族も国も何もかもを奪い取ったあの男は、それらの責任を全て孫に押し付け一人あの世へと逃げた。言われてみれば確かに本来はブランカが背負う必要のないものだ。だが、「愛する我が孫のため」と奴が何度も唱えた言葉が、世界中の怒りを彼女に向けさせる。大陸のあちこちに深く残された傷跡は、確実にこの少女を蝕んできたに違いない。それでいながら孫が自分への情を捨てられないことも、あの男には分かっていたのではないだろうか。

 どこまでも罪深く、どこまでも残酷で愚かな男だ。そんな奴を今も慕うしかないブランカも、やはりヴォルフには愚かに思えるし、本当に痛々しい。

「一体どうすればお前は解放される?」

 自分の罪からも、そしてそれ以上に重すぎるあの独裁者の罪からも。

 いや、彼女の場合は更にもう一つあった。

 ヴォルフはそっとブランカの右頬に触れる。微かに熱の引いてきた腫れの下にあるのは、五年前の火傷の痕――。

 自分を殺そうとした父親にすら、ブランカは情を残している。森で語った本音が、それを端的に現していた。

 日に日に東ヘルデンズで悪名を轟かせつつあるギュンター・アメルハウザーに、彼女は何を思っているのだろうか。もしかすると父親の行いにも後ろめたさを感じているのかも知れない。ブランカの性格を考えると十分にあり得る話だが、だとすると彼女の闇はあまりに暗すぎる。

 一生そんな暗闇の中を彼女は生きていかなければならないのか。

「いや、必ず方法はあるはずなんだ」

 彼女を完全に救い出せる道が。

 今はまだその答えを出せないが、必ずそれを見つけ出し、そして――。

――ブランカを全ての苦しみから解放してやりたい。

 心から彼女が笑えるようにしてやりたい。

 胸に湧いたその願いが、自身の中に深く根を張っていくのを感じた。

「そのためにもまずは東ヘルデンズここを脱出しないとな」

 新たな決意を確かめるように、ヴォルフはぐっとブランカの身体を抱き寄せた。



***



 時計の針がそろそろ三時を指そうとしていた。

 アロイスは大きくあくびをしながら、カウンターの二人を呆れた様子で眺めていた。

「やっぱり納得いかねえな! 絶対あいつに騙されてるんだよ!」

「だから何度も言ってるじゃなぁい、ヴォルフは悪い人じゃないのよぉ! あぁでも分からないわぁ。あんな貧相で地味で冴えない子、どこがいいのかしらぁ。しかもあんな子供! きっとヴォルフは見る目ないのねぇ」

「いや、それはお前が派手過ぎんだよ。下品なんだよ! 少しはあの清廉さを見習え。男癖悪いのどうにかしろ」

「うるさいわねえ! あたしは自分に素直なのぉ! それにあんたたちはセンスがなさ過ぎるのよぉ。大体あんたはいつも汚らしいし。あぁ、それで言うとヴォルフは何着ても素敵なのに、本当に何であの子なのかしらぁ。絶対あたしの方が釣り合うのにぃ」

 ぎゃーぎゃーうるさいヤーツェクとゼルマに、アロイスは再びあくびをした。

 果たしてこの会話は何巡目なのだろうか。最初はもう少し言葉を選んでいた二人だが、だいぶ酒が進んだせいで本音がだだ漏れである。

 そしていい加減このやりとりに飽きてきた。

「いっそこいつら付き合っちまえばいいのに」

 アロイスと同じく遠巻きに二人のやりとりを見ていた別の男性がうんざりした様子で呟くが、ほんまにな、とアロイスはため息を吐いた。

 ちなみに店内に残っているのはこの四人だけだ。アロイスとヤーツェクが『女神の泉ファインテ・デ・ラ・ディオーサ』に来たときにはまだ人が結構いたのだが、流石に時間も時間であるし、二人が面倒臭いせいでみんな帰ってしまった。ゼルマの父のティモですら、呆れた様子で寝に行ってしまった始末。

 いい歳した二人がこれとは、本当に情けない。

「はあぁぁ。いや、別に俺もさ、本気であの子とどうにかなりたいとか思ってたわけじゃないんだけど、あんなに一生懸命で良い子が邪険に扱われるのは我慢ならねぇっつーかさぁ」

 この台詞を聞くのも一体何回目だろうか。ヤーツェクはグラスを握りしめながらカウンターに項垂れるが、心配しなくてもヤーツェクが考えるようなことにはもうならない。

 そもそもヴォルフは最初からブランカを心配して止まない様子だったのだ。そこにあんな風にボロボロに泣きながらの本音を聞かされれば、彼も素直にならざるを得ない。今頃二人で色んな話をしていることだろう――いや、流石にこの時間は寝ているか。いずれにせよ、すれ違っていた二人がようやく向き合えるようになったのは、めでたいことだ。

――こいつも兄さんみたいに変わってくれたらいいんやけどな。

 未だゼルマとうるさい言い合いをしているヤーツェクに視線を寄越しながら、アロイスは手元の酒を煽る。彼はブランカの良さについて熱く語っているが、確実にヤーツェクは彼女の正体を知ったら怒り狂うだろう。

 いや、それはヤーツェクに限った話ではない。この界隈に住んでいる人たちの誰もがそうだろう。それぞれがマクシミリアン・ダールベルクに苦い思いをさせられてきた。その孫を歓迎するような人間を探す方が難しい。

――ヤーツェクちゃうけど、あんなに真面目で良い子やのにな。

 それも驚くほど。

 正直ヤーツェクがそこまで肩入れするほどに気に入るとは思わなかったが、確かに彼女の純朴さは、日々オプシルナーヤに虐げられ怒りを募らせる東ヘルデンズの――その中でもアロイスがよく知るこの界隈の人間にとっては、思わず応援してやりたくなるような好感を抱かせる。特にヤーツェクについては、つい先日仲間を失ったばかりだ。彼女の正体があれで尚かつあの列車爆発の重要人物であったことは皮肉な話だが、確実に彼女はヤーツェクにとって大きな癒やしになっていることだろう。

 本当に、一体どうしたらあの狂った元総統からあんな孫が出来るのか。加えて彼女はギュンター・アメルハウザーの娘とも聞くが、尚更不思議でならない。アロイスにしてみても、クラウディア・ダールベルクをもう少し高飛車な娘に思っていたのだが、親族のイメージからは人の性格は推し量れないとつくづく思う。

 だからこそ、偏見など無しにありのままに見えているブランカの今の姿を、ヤーツェクやこの界隈の人間たちにしっかりと焼き付けておいてやりたい。

 遠くない未来、彼女は表舞台に引きずり出されるに違いないのだから――。

――なんてな。それをするのは僕かもしれやんのに。

 少なからずアロイスもあのおかっぱ頭の少女に好感を抱いているが、とは言え彼女の存在はアロイスたちにとっては大きなだ。情に流されるわけにはいかない。どんなに彼女を酷く打ちのめすことになってしまっても、例のアレ・・も彼女自身も、大いに有効活用させてもらわねばならない。

 それはあのブラッドローの軍人にも言えることだが。

「ああそうだ、アロイス。お前に伝えなきゃならないことがあったんだった」

 隣で飲んでいた男性が神妙な表情でアロイスに顔を寄せてきた。

 アロイスは目線だけで先を促す。

「今日の夕方、メルジェーク支部に西ヘルデンズの人間から電話が来たらしい。ヤーツェクに面会を求めているとか」

「ヤーツェクに? どういう繋がりや?」

「さぁ、詳しくは話さなかったそうだが、ヤーツェクの古い友人だとか」

――ヤーツェクの古い友人?

 かつて彼に名前だけ聞いたことのある人物が頭に思い浮かぶ。しかしその人物は確か、ヤーツェクがこちらに引き込もうとして失敗していたはずだ。

 そんな人物がこのタイミングで、そして西側・・から。

「ちょっともぉ! こんなカウンターの真ん中で寝ないでよねぇ! 邪魔くさい」

 カウンターに突っ伏したまま起き上がらないヤーツェクの肩をゼルマがバンバンと叩くが、流石に寝落ちてしまった様子だ。古い友人についても奴が起きてからでないと聞けない。

――やけどまぁ、これはまた妙なことになりそうや。

 アロイスはグラスの下で、うっすらと笑みを浮かべた。

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