20.腕の中

「そういえばアロイスさんって何者なんだろう」

 それからしばらくヴォルフと色々と話をしていたのだが、ふとブランカは自身の疑問を口に出した。

 ブランカの正体を知っているのに、怒りを露わにするどころから投げやりなブランカを諫めた彼。突き放すようでいて面倒見が良く、協力的でありながら試練を与えたり、いまいち掴めない人だ。

 危険な雰囲気は感じないが、しかし――。

「お前……まさかそれも知らずにあいつに言われるまま働いていたのか?」

 頭の上から深々とため息を吐かれた。それだけで彼が何を思っているかすぐに分かり、ブランカはシーツをたぐり寄せて縮こまる。

「……事情があったんです」

「事情? 何だそれは」

「それは……」

 ブランカは更に縮こまった。ヴォルフが肩を揺すって催促するが、これは言えない。とりあえずアロイスの指示する会社で働けば、ヴォルフを西へ逃がすために彼がブランカに突きつけた条件のヒントが得られるかも知れない、などと考えていたなんて知ったら、ヴォルフはきっと怒るだろう。しかも結局その話は白紙にされたのだから、敢えて蒸し返すこともない。

 頑なにブランカが口を閉じていると、ヴォルフが更に呆れたようにため息を吐いた

「まぁいい。今は、聞かないでおいてやる」

 『今は』をやたらと強調する辺り、いずれ無理矢理吐かされるのだろうか。安心すればいいのか萎縮すればいいのか、ブランカは曖昧に胸を撫で下ろした。

「むしろお前はあいつらについてどこまで知ってるんだ?」

「『あいつら』……が、どこまで指しているのか分からないけれど、反オプシルナーヤ感情が強いことは……」

「それだけか? 他には?」

 ブランカは言い淀んだ。

 アロイスが反オプシルナーヤ活動をしていて、その仲間が少なくとも二人はいることを、いくらヴォルフ相手でも易々と教えていいのか少し悩む――実際はヴォルフの方が知っているわけだが。

「なるほどな、じゃあアロイスがあの列車の爆発を起こした一人だってことも知らないんだな」

「それは……えっ! そうなの!?」

 さらりと告げられた内容に、ブランカは弾けるようにしてシーツから顔を出し、ヴォルフを見上げた。こぼれ落ちそうなくらいに目を大きく見開くブランカをまっすぐ見ながら、ヴォルフは首を縦に振る。

「実はここに辿り着けたのはかなり上出来で、アルテハウスタット近くでトラックに乗り込んだのは、アロイスのところに来るためだったんだ。起きたときにまさか本当に辿り着いているとは思わなかったが」

「そう……だったの。込み入っているのは知っていたけれど、まさかあの爆発が……」

 ヴォルフは再度礼を言ってくれるが、ブランカとしては正直かなり複雑だ。何せブランカたちはあの爆発で命を落としかけて、尚かつその最中にヴォルフは重傷を負ったのだから。しかも、それならば彼は、本当に最初から全てを知っていて、ブランカを試していたのだろうか。

 ブランカの中でのアロイスが、なんだかとても意地悪な人のように思えてきた。とは言え、ヴォルフが元々目指していたというくらいだし、爆発まで引き起こすほどの活動家ならば、オプシルナーヤから隠れるという点では確かに適しているのだろう。

 アロイスのこれまでの言動をもやもやしながら振り返る。

 するとブランカははたと気が付いた。

「ねぇ、あの爆発の目的って、あの人……なのよね……?」

 恐る恐るヴォルフを見上げれば、彼は薄鳶色の瞳を細めるだけで何も言わなかった。ブランカは自身の服の胸元を掴みながら先を続ける。

「それでアロイスさんは、私の正体を知っていて、私があの人の……娘だってことも知っているのよね……?」

「……多分な。俺がアロイスのところへ来ることになったのは、列車でオプシルナーヤ兵に扮したあいつの仲間に言われたからなんだが、列車の中でお前はマクシミリアン・ダールベルクの孫ではなく、ギュンター・アメルハウザーの娘で通っていたから、その情報は行っていると思う。あとでまた確認するが」

「じゃあ、何で彼は私を生かしているんだろう。爆発とか起こすような人なら、目的の娘は人質にするか殺すかしてもおかしくない……。でも、何となくそんな雰囲気を一切感じないんだけれど、どうして……?」

 むしろブランカの行動はかなり自由な方だし、殺意どころかむしろ、命すら粗末に仕様としたブランカを叱るような人だ。ヴォルフの口ぶりからしてみても、彼はやはり、どれだけ振り返っても協力的に見える。とは言え、無条件に人に手を貸すような人には思えないのだが――。

――あ……。もしかしてあの条件……。

「まず……あいつはお前のことを、マクシミリアン・ダールベルクやギュンター・アメルハウザーとは切り離して気に入ってるから、殺すなんてのはほぼあり得ない。まぁ人質に関しては無くはないし、いずれにせよある程度の警戒はしておいた方がいいが、それよりもあいつはお前に別の目的が――……」

 ヴォルフは悩ましげに言葉を切った。見上げると、彼は僅かに眉間に皺を寄せて、深く考え込むような顔をしている。

 やっぱりヴォルフは何か知っているのだろうか。そしてそれは、あの条件――アロイスが必要としていてブランカに用意できるものに関わることなのだろうか。つまりそれは、東ヘルデンズからのオプシルナーヤ軍撤退を有利に運ぶ何かということになるのだが。

 ブランカは身を乗り出してそれを聞こうとするが、ヴォルフは目を瞑って首を横に振った。

「この話は明日にしよう。どのみち俺もそれに関することをお前に聞かなきゃならないんだが、今日は流石に遅すぎる。いい加減寝た方がいい」

「え……そう言われると逆に気になるのだけれど……。私に関わることなんでしょう?」

「別に隠し立てしようとかそういうわけじゃない。ただ寝る前に話すには込み入り過ぎてるんだ。明日必ず話すから、今日はもう大人しく寝ろ」

 ヴォルフはベッドから腰を浮かせると、ブランカをシーツの中に押し込み、ベッドサイドの椅子へと戻った。彼はブランカの片手を握ったまま、ブランカを寝かしつけるように、シーツの上から開いた片手をとんとんと上下する。

 確かにだいぶ夜も更けてきたし、ヴォルフもそろそろ寝たいのだろう。

 ブランカはシーツから顔を半分出して、薄鳶色の瞳と目を合わせる。

「あの、じゃあ今日はもう寝るから、ヴォルフももう寝て下さい。というか、沢山付き合わせてしまったみたいで、ごめんなさい」

「いや、別にそれは構わないんだが」

 ブランカは首を横に振った。

「ヴォルフ、怪我人なのに気を遣わせてしまいました」

「いや、だからそういうつもりもないし、それを言うならお前だって今日は怪我人だろ? 俺が倒れていたときに寝ずに看ててくれてたのと同じだ」

「……それとこれとはまた話が別です。それにこんなの大したことないですし」

 言いながらブランカはようやく腫れの引いてきた頬を隠すようにシーツに潜り込むが、全て言い切ってから、しまったと自分の発言を後悔した。案の定、射抜くような視線が突き刺さる。

 ヴォルフは眉間に皺を寄せて若干苛立ちを顕わにするが、それを吐き出すように、呆れ混じりのため息を吐いた。

「じゃあ俺の怪我も大したことないから、お前が気にする必要ないってことだ」

「そういうことじゃなくて……ごめんなさい」

「全くだな」

 ヴォルフはぴしゃりと切り捨てた。

 ブランカにしてみれば頬の腫れは本当に自業自得だし、実際痛みも引いてきているので心配されるようなことではないのだが、ヴォルフが本気でこの腫れやこうなった経緯を気にしているのが分かるからこそ、さっきの発言は迂闊だった。

 ブランカの眉が下がっていくのを見て、ヴォルフがやれやれと肩を竦める。

「まぁ、お前が寝るのを邪魔しちゃ悪いしな。俺は大人しく退散するとするか」

 ヴォルフはブランカの頭を撫でると、椅子から腰を浮かし、今度こそブランカから手を離そうとした。

 が、その手は離れなかった。

 繋いだままのブランカの手に、力が込められていた。

 ブランカはハッとして手を離し、シーツで顔を隠す。

「ごめんなさい。何でもないの……」

「お前、これさっきと同じだぞ。何でもなくないだろ? 何か怖いのか?」

「そうじゃなくて……」

――一人にしないでほしい。

 そばにいてほしい――。

 ブランカはキュッとシーツの中で縮こまった。

 怖い、というのはあながち間違っていない。

 ヴォルフが真正面からブランカを許し受け止めてくれただけでも本当に感謝しきれないほどに嬉しくて夢のようなのに、更に彼はブランカと向き合おうとしてくれる。その上、言葉も手つきも何もかもが優しいから、本当にこれは夢なのではないかと不安になるのだ。

 起きたら全て、元通りになっているのではないかと――。

 だからヴォルフの存在をそばで感じていたいというのが一番の本音だが、とは言えこれはブランカの事情だ。こんなわがままでヴォルフを困らせるわけにはいかない。

 ブランカは、シーツの中で首を横に振った。

「本当に、何でもないんです……。どうか寝て下さい」

「はぁ……本当にこういうときは頑なだな。それこそ俺も気になって寝れないんだが……」

 ヴォルフは椅子に座り直し、ため息を吐いた。なんだか余計に彼を困らせていることに、ブランカはおずおずとシーツを下げてヴォルフを見上げた。困ったように細めた薄鳶色の瞳と目が合う。

 これは素直に胸の内を打ち明けるべきなのだろうか。しかし、そばにいてほしいと思う一方で、ヴォルフにはちゃんと寝て欲しい。だとしたら後者を優先させるのが当然なのだが、きっと彼はブランカが知らず引き止めてしまう理由に気が付いているから、ここを離れようとしないのだろう。

 困ってしまった。この場合、一体どうすればいいのだろう。

 そう考えた矢先、ブランカはあっと思いついた。シーツの中でもそもそとベッドの端へ移動する。

「じゃあここ開けるので、狭いですがヴォルフはここで寝て下さい」

「…………は?」

「あの、そうしたら私も安心して寝られますし、お互い良いかと――ヴォルフ?」

 自分がいた場所を簡単に手で整え遠ざかったヴォルフへ目を向けると、彼は膝に肘を突き額に手を置いて項垂れていた。はぁーと、それまでよりも一層深く長いため息が聞こえてきた。

「じゃあ――で、何でそうなるんだ……」

「え、ごめんなさい。流石にそれは嫌ですよね。考え無しでした」

「いや、確かに考え無しだがお前、そういうことじゃ…………はあ。きっと分かってないんだろうが、色々疑いたくなるな……」

 ヴォルフはぶつぶつと独りごちるが、ほとんど聞き取れない上に、聞き取れたものについてもブランカには全く意味が分からない。むしろ、やっぱり彼は嫌がっているのかもしれない、という不安がブランカの中で大きくなり始める。いくらヴォルフが優しいからといって、流石にこれはおこがましすぎた。

「あの、別に無理にって言っているわけではなくて、ヴォルフが部屋でちゃんと寝てくれるのならむしろそっちの方が良いですし」

 というかブランカの提案は、ヴォルフをこの部屋に止めるためのわがままだ。しかも結局それを彼に伝えていないので、彼からしてみたら、あまりに図々しく馴れ馴れしいものに聞こえたかもしれない。

 一方的に提案しておいて気まずくなったブランカは、ヴォルフから遠いベッドの端で小さくなりながら、恐る恐るヴォルフを眺めた。

 何度目になるか分からないヴォルフのため息が聞こえてくる。

「……お前はそれで寝れるのか?」

「え?」

「俺がここに寝れば、お前は安心して寝れるのか?」

 ヴォルフはそっと顔を上げ、真っ直ぐにブランカを見てきた。

 僅かに眉間に皺を寄せ薄鳶色の瞳を細めた彼の顔は、心なしか赤くなっている。

 なんだかブランカは恥ずかしくなってきた。

「……あの、嫌なら別に」

「――分かった」

「え――」

 言うが否や、ヴォルフはシーツの中に入り込んでくる。ブランカから言い出したことなのに、急に自分がとんでもないことをしているような気がしてきて、ブランカはベッドの中で後退る。

 しかし、太い腕に抑えられた。

「落ちるぞ」

「……すみません」

「いや、謝ることじゃないが……まぁ、こんな状況で言うのもアレだが、お前はやっぱり警戒心なさ過ぎる」

「大丈夫。落ちないもの」

「お前な……。いっそ落としてやろうか」

「あ、寝にくかったら遠慮無くそうして下さ――」

「――するかよ」

 ヴォルフはブランカの額を弾いた。あまりの痛さにブランカが額を押さえて身悶えていると、ふわっとヴォルフの方へ抱き寄せられた。

 そのとき、近くなった彼の左胸から、心臓の音が聞こえてきた。若干大きく聞こえるのは気のせいか。

 それを聞きながら、ブランカはそういえばちゃんと礼を言っていないことを思いだした。

「あの……夕方は、ありがとうございました」

「え? ああ。つーかお前は本当に無茶な行動をするなよ」

「……反省します」

 言いながら、ヴォルフはブランカの背中を軽く叩き、もう片方の手で髪を梳く。彼の鼓動も相まって、ブランカは不思議な感覚に包まれる。

――なんだろう……ものすごく落ち着く……。

 夜はいつも不安で堪らなかった。

 正体を知られるかもしれない恐怖。ずっと付きまとう罪悪感。五年前の悪夢。それらだけでも胸が詰まりそうになるのに、そこにビョーキビョーキと施設の同室の女の子に言われながら寝るのは、とても息苦しくて苦痛だった。寝付けたとしても、恐ろしい夢を見て中途半端に目覚めることも少なくなかった。

 だけどヴォルフの腕の中は不思議だ。

 ずっとあった恐怖や罪悪感が、ゆっくりと霧散していく。もちろん無くなったわけではないが、今だけは、そのことを忘れさせてくれる。

 何年も強張っていた心が、解れていくのを感じた。全身が安らぎに満ちていく。

 徐々に意識が離れていくのを感じながら、ブランカは口を動かした。

「おやすみなさい」

 するとヴォルフは苦笑混じりに返してくれた。

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