19.この五年間
――やあ、起きた? 気分はどう?
うっすらと目を開けると、空色の瞳を細めて柔らかく微笑む知らない男の人がそこにいて、何故か自分はベッドに横たわっていた。視界がぼやけて状況もよく分からなかったけれど、自分が目を覚ましたことに、その人は心の底から安堵したように肩で息を吐いていた。
――あ、目を覚ましたのね! 良かったわね!
彼の後ろから、ショコラ色の髪の若い女の人が、嬉しそうにその人の肩を叩いた。男の人はその時一瞬だけ痛そうな顔をしたけれど、すぐにまた柔らかく目を細め、泣きそうな顔になりながら、優しく微笑みかけてくれた。
顔を横に向けると、全身を包帯で巻いた子が自分と同じように沢山寝かされていた。見たこともない大人たちが、エプロン姿で慌ただしく部屋中を行き来している。
次第にフラウジュペイ語が当たり前に飛び交っていることに気が付いて、そこでようやく状況を理解した。
わたし、生きてる……。
自分を追い掛けていたヘルデンズの兵隊はどこにもいない。
知らない人に成り果てた父の姿も、どこにもない。
熱くて熱くて苦しい火も、もう自分を取り囲んではいなかった。
だけど――。
優しく包み込んでくれた母はもういない。
大好きだった祖父も、もういない。
わたしはもう、たったひとり――。
――これ、君が持っていた物。安心して、中は読んでないから。
傍にいた男の人は、変わり果てたゴールドのブローチと薄萌葱色の手紙を持ち上げ、毛布の中に差し込んでくれた。
その後ろから、女の人が身を乗り出して聞いてきた。
――ねぇ、あなたなんて言うの? 自分の名前、言える?
――少し落ち着いて。この子は今、起きたばかりなんだから。
――そういうあなたこそ。
明るく優しく笑いかけてくれる二人がとたんに眩しく見えて、その眩しい中にある白色を見ながら、大好きだった人に教えてもらった言葉を思い出した。
――ブラ……ンカ……。
口にした瞬間、涙がぽろぽろと流れて止まらなかった。
***
ふわりとシーツに沈み込む感触に、ブランカは目を覚ます。
見上げると、少し丸くした薄鳶色の瞳と目が合った。
「ごめん、起こしたな」
ヴォルフは申し訳なさそうに目を細めて、ブランカの頭を撫でる。
ぼんやりとしたまま彼の後ろに目をやれば、窓の外はまだ暗い。
――……まだ?
自分がいつ寝たのか思い出せない。
ついさっきまで、リビングで沢山泣いて、それで――。
「ごめんなさい! 私、あのまま寝てしまって――……っ」
ブランカは慌てて上体を起こした。一気に顔から血の気が引いていく。
冷静になって考えてみれば、自分はもの凄く迷惑なことをした。あんなに泣いて喚いてヴォルフに縋り付くなど、彼を困らせるだけではないか。
しかも図々しくそのまま寝てしまうなんて――。
そう思った瞬間、青ざめていた顔が一気に熱くなる。
まさか今までずっと彼の腕の中にいたのだろうか? というかよくよく考えてみれば、その状況は何だ。なんだかもの凄く恥ずかしくなってきた。
一人で赤くなったり青くなったりしているブランカに目を丸くしながら、ヴォルフは喉の奥で笑い始める。
「さっきからそんなに時間は経ってないから心配しなくていい」
「そう……なんですか……?」
いつの間にか下がっていた視線を、恐る恐るヴォルフに向ける。
すると彼はニッと笑みを浮かべて頷いた。
大きな手に頭をわしゃわしゃとかき混ぜられながら、ブランカは「ああ」と改めて実感した。
――夢じゃない。
真正面からブランカに向き合い、受け止めてくれた。
未だ信じられない現実に滲み出そうになる涙をぐっと堪えて誤魔化すが、ヴォルフは優しく笑ってそれを拭う。
「だがお前はもう寝た方が良い。夜も遅いし、今日はだいぶ疲れただろ?」
「え……いえ、大丈夫です」
「無理すんな。あ、流石に明日は仕事休めよ。アロイスにも言っておくから」
ヴォルフはもう一度ブランカの頭を撫でると、少し屈めていた姿勢を元に戻す。頭から離れていこうとする彼の手を、ブランカはすかさず掴んだ。
ヴォルフの薄鳶色の瞳が、大きく見開かれる。
「あ……えっと、ごめんなさい。何でも、ないです……」
どうして彼を止めたのか、ブランカは急に気まずくなって彼から目を逸らした。
おずおずと掴んでいた手を離す。
しかし彼は反対側の手でそれを握り返すと、近くにあった椅子に腰掛けた。
「寝付けるまでここにいる」
「え……でも、ヴォルフももう寝ないと。まだ糸も取れてないんでしょう?」
「俺が、寝付けないからここにいるんだ」
「でも……ゼルマさんにも良くない……」
「……は? 何でここでゼルマが……」
俯いて身を小さくするブランカの横で、ヴォルフは盛大にため息を吐いた。
「言っておくが、俺とゼルマは何もないぞ。ただ幼馴染みなだけだ」
「そう、なの……? え、でも……」
ベッドの上で抱き合いながら熱い口づけをしていたあれは一体――。
思い出しただけで痛む心を誤魔化すように、ブランカは頭に浮かんだ疑問を口にする。
「何でもないのにそういうことをする関係……?」
瞬間ヴォルフは噎せた。
彼は苦悩な表情を浮かべる。
「えっと、ごめん……なさい? あ、でも私、よく知らないけれど、そういうのもあるんだと、」
「違えよ! んなわけあるか」
「……ごめんなさい」
「謝んな。はぁ……どんだけ……。つくづく自分が情けなくなるな……」
ヴォルフは膝に肘を突いて項垂れる。
よく分からないが、あんまり彼が否定しようとするので、あれはなかったことにした方が良いのかとブランカは段々思い始めてきた。正直もやもやはするが。
「とにかく、あいつとは本当にそういう関係でも何でもないから、頼むからお前が見たのは記憶から抹殺してくれ。……あれはマジで死ねる」
「えっそこまで言わなくても……。でもそうじゃなくてもヴォルフも疲れたでしょう? 寝ないと……」
「……そんなこと言って、本当は嫌なのか?」
ヴォルフは眉の下がった顔を、ブランカに向けた。
未だに繋いだままの手がぎゅっと握られる。
ブランカは弱々しく首を横に振った。
「そうじゃなくて……」
「――ならいいな」
「良くない、です。だって……申し訳ないもの……」
半ば消え入りそうな声で、ブランカも項垂れる。
咄嗟にさっきは引き止めてしまったが、これ以上彼に甘えては罰が当たりそうで怖いのだ。今日はもう既にとても大きな幸せを、彼からもらったから――。
そんなことを察してか、ヴォルフは更にため息を漏らしながら、開いた手でブランカの頬にそっと触れた。
「改めて思うけど、お前は本当に遠慮ばっかしてるな。……俺がそうさせていたんだろうが。それに人のことばっかり。もっとわがまま言ったって構わないし、もう少し自分のこと考えたっていいんだぞ」
ヴォルフは目を細めてブランカの頬に視線を這わす。
まだ腫れた頬を映す薄鳶色が申し訳なさそうにするのが切なくて、ブランカはきゅっと目を瞑って首を横に振った。
「考えてます。この五年間、ずっと自分のことばかり」
優しい手に頬を包まれながら、瞼の裏に沢山の光景を浮かべる。
「自分はいるべきではないと分かっているのに、必死に正体をひた隠しにして、当たり前のように施設に紛れて生きてきて」
「でもそれはお前、」
「それなのに沢山勝手な行動をして、沢山迷惑を掛けてきました。何度施設を飛び出したか分からない……。ヴォルフがダムブルクに来たときも、自分で書いたあの作文を聞いていられなくて飛び出して、帰るに帰れないままに母の――」
そこまで話してブランカはハッとした。
思わず顔を伏せる。
「すみません。こんなの聞きたくないですよね……」
ブランカは腕を突っ張ってヴォルフから距離を取ろうとした。
しかしその腕はヴォルフに取られ、ベッドの端に腰掛けた彼に肩を寄せられる。
「いいから話せ。聞くから」
「でも……」
「それでお前は、ロゼにいたんだな。色々繋がった」
僅かに震えるブランカの身体を、ヴォルフは軽く揺すって落ち着かせる。
あのアルトロワ広場の惨劇から、何日が経っただろうか。母が殺されたあの瞬間は、ブランカの脳裏に鮮明に刻まれたまま。思い出すだけで、心が切り裂かれるように痛む。
「本当は悲しむべきではないのだけれど……」
「そんなこと言うな。お前にとっては大事な人だったんだ」
ヴォルフの言葉に、胸が強く締め付けられる。
再び涙がせり上がるのを感じて、ブランカはヴォルフの肩に顔を埋めた。
「あのときまで……私は、大事な人が目の前で殺されることがどういうことか知らなくて……施設の人や他の人がどんなに深い苦しみを背負っているのかも理解しないまま、自分のことばかり、後ろめたさばかり感じていた……」
「本来なら知る必要のない痛みだ。そもそもその後ろめたさも、本当ならお前は感じる必要もなかったんだろうな。苦しかったな」
腕に力を込めながらヴォルフはブランカの頭を撫でるが、ブランカはそのままの体勢で頭を横に振った。
「だって、あの作文以外にも……レオナに言われたとおり、私はヘルデンズ以外滅べばいいって、一度でも思ったことはあったもの……。例え何も知らなくても、子供だったとしても、思うべきではなかった……」
こんなことを言っても彼を困らせるばかりなのに、彼に許してもらえたからと、早くも図々しく彼に甘えている。結局ブランカは自分のことばかりだと、改めて自分のことが嫌になる。
そのままブランカの背中をとんとんと叩きながら数秒間沈黙を挟んだ後、ヴォルフは考えるように言った。
「そういうのは、例えば洗脳とか無理強いさせられていたとか、人によっては無知であることすら逃げ道に使うのに、お前はそういう言い訳を一切せずに自分のことを責めてばかりいる。そもそも、そういう状況になったのも――」
言いながらヴォルフは小さく息を飲み、「ああ」と息を吐いた。
「お前は今も、マクシミリアン・ダールベルクを恨めずにいるんだな。だから必要以上の責任抱えて、後ろめたくなるんだな」
マクシミリアン・ダールベルクの名を言うときヴォルフはやや険を持たせた硬い声になったが、ブランカの背中を撫でる手は至って優しいままだった。余計にブランカは切なさを感じて、身をぎゅっと縮める。
「……どうして、そう思うの?」
「だってお前の口から奴を責める言葉が一言も出てこない。言ってみればお前もマクシミリアン・ダールベルクの犠牲者で、一番近かった分、お前が犯した間違いも全てあいつのせいに出来るのに、お前は一切しない。というより……出来ないのか。それどころかあいつの形見をずっと残して、突き放すことも、出来ないんだな……」
苦い響きの混じった言葉を、ゆっくり吐き出すようにヴォルフは言った。その苦さを飲み込むように唾を飲み、僅かながらに手に力が込められるのが分かった。それだけで彼が何を感じているのか痛いほどに伝わってくる。
「……ごめんなさい」
消え入りそうな声になりながら身体を強ばらせると、ヴォルフは深い呼吸を数回繰り返し、ブランカの身体をほぐすように手を背中で上下させる。
「正直、さっきのジルヴィアの話みたいにお前にとっては――なんて素直に思えないし、むしろあいつに対する憎悪は一生消えないと思うが――」
「当然だわ。憎むなと言う方が無理だもの」
「そうだな。流石にそれは否定出来ない。だがお前は、現実を全て知った今でも……」
ヴォルフはより一層深いため息を吐いた。
刺すような痛みが、胸で訴える。ブランカはぐっとその痛みを飲み込んで、服のポケットに入れていたゴールドのブローチを手の上に出した。
「本当は、ずっと責めてる。あんな人、いなければよかったのにって何度も思ったし、どうしてあんな人の孫に生まれたんだろうって、嫌で嫌で仕方がなかった」
「……森でそんなことを言っていたな」
覚えていたのか。
ブランカにしてみれば、忘れて欲しかったのに。
「過去を捨てようと思ったことも何度もある。全部忘れられたら楽になれるのにって」
「だから初めて会ったとき、
「でも捨てられなかった。ヴォルフの言うとおり、今も突き放せないでいるの。あの人は、私のたったひとりの――」
そこまで話して、再びブランカは言葉を切った。
ぎゅっとブローチを握って、首を横に振る。
「……ごめんなさい。流石に祖父のこんな話は不愉快ですよね……」
そっと腕に力を入れてヴォルフにもたれていた身体を起こそうとする。
しかし彼は更にブランカを抱きしめて、彼女の頭の上で首を横に振った。
「確かに不快でないと言ったら嘘になるが、だが、お前は、そういう気持ちの狭間でも苦しんでいたんだな。そういうのを知れて良かった」
あまりにその言葉が優しすぎて、目の奥が再び熱くなる。
ブランカは身体に力を入れて再び溜まってきた涙を堰き止める。
「ごめんなさい……ありがとう……」
「いや、いい。謝るな。っていうかさっきから謝りすぎだ。むしろそういうのもっと、聞かせて欲しい。話せる範囲でいいし、ゆっくりで構わないから、お前が五年間溜め込んできたのを全部」
「……でも」
「俺のことは気にしなくていいから、ちゃんと吐き出して欲しい」
真っ直ぐで真剣な言葉が、ブランカの中に一つ一つ浸透する。
本当に、どこまでこの人はブランカと向き合ってくれるのだろう。
堪えきれなくなった涙が、頬を伝う。
「ヴォルフは、本当に優しいのね……」
すると彼は驚いたように息を飲み、ハッと笑った。
「どこがだよ。むしろお前にかなり酷く当たったぞ」
「でも優しいもの。こんな風に向き合ってくれた人は初めて」
「だが俺がこうなれたのも、きっとロマンやアロイスのお陰だな。特にアロイスにはかなり色々言われた」
ため息混じりに自嘲するヴォルフに、やっぱりアロイスはブランカの正体に気が付いていたのかと納得する。しみじみと、夕方アロイスに言われたことの意味が、ブランカの中に降りてくる。
「本当に私は自分のことしか見えてなかったのね。アロイスさんのことは未だによく分からないけれど、でもロマンは、いつも気に掛けてくれていたのに、私は全然彼の気持ちを知ろうとしていなかった。レオナも……結局騙してしまったけれど、でも、いつでも力になろうとしてくれたのに、素直になるのがとても怖かった……」
「多分レオナも、時間は掛かるだろうが、五年間近くでお前のことを見ていたからこそ、必ずいつかは理解してくれると思う。お前は人に恵まれているな」
ニッと柔らかく笑うヴォルフを見上げて、ブランカはゆっくり頷いた。
「この五年間、怖くて孤独で沢山苦しかったけれど、同じくらい幸せな時間を過ごしていたんだなって、今ものすごく実感してる……」
「そう思えるようになっただけでも良かったじゃないか」
もっともそれを素直に受け入れられるようになったのは、ヴォルフのお陰なのだが――と更に彼に惹かれている自分を感じて、心が温かくなった。
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