18.本当の自分

 どうしてこんなことになっているのか、ブランカは自分でもわけが分からなかった。

 ただ自分のせいでヴォルフが悪く言われるのは耐えられなくて、彼の良いところをもっと知ってもらおうと思っていただけだった。

 それなのに、これまで彼にしてもらったことを口にするたび、心に浮かべるたび、次から次へと彼への想いが溢れ出してきて、気が付いたら涙が止まらなくなっていた。

 ダムブルク児童施設の人に疎まれ卑屈になっていたブランカに、ヴォルフは初対面の時から当たり前に接してくれた。誰もが気持ち悪がって近寄ろうともしなかった右半身の火傷も元の白い髪も、彼は『生きてきた証』だなんて言って褒めてくれた。

 何度も捨てようとしたゴールドのブローチを、ヴォルフは何も言わずに取り戻してくれた。あのときは事情を知らなかったとは言え、本当はブランカがブローチを捨てられないのを、彼は気が付いていたんだと思う。

 どこまでも真っ直ぐで、誠実で。無条件にブランカと向き合おうとしてくれるたび、どれほど自分の立場を恨んだか分からない。どれほど昔の過ちを呪ったことか。

 だけど、その正体が憎い仇であると知っても彼は、ブランカのことを突き放さなかった。肩に銃弾を受けながらもブランカを守り、あの列車の爆発からブランカを救い出してくれた。さっきだってブランカの自業自得だったのに、彼は来てくれた。

 一体どれほど彼の強さと優しさにブランカは助けられてきただろう。例えそれが『任務』のためであっても、どれほど憎まれていると分かっていても、惹かれずにはいられない。

――それなのに、なんて馬鹿なことを私は……っ!

 こんなにも助けてもらっておきながら、どうなっても構わないなど、どこかで野垂れ死んでも構わないなどと少しでも思った自分が恥ずかしい。例えブランカが何者であったとしても、そんなこと思うべきではなかった。ヴォルフ本人にそう言われていたのに、アロイスにも叱られたというのに、今になって身に染みた。

「だから……っ! 本当にヴォルフは、嫌な人なんかじゃなくて……っ」

「分―かった! 分かったから、あんたの前ではもう悪く言わないからっ」

「私、以外の前でも……っ言って、欲しく……っ」

「ああもう――」

「――ヤーツェク」

 あまりに必死になるブランカにいよいよヤーツェクがお手上げしそうになったとき、キッチンの入り口にヴォルフが現れた。

 ブランカはハッと両手で口を塞いだ。

 ヴォルフは細めた瞳をブランカに向けながら、落ち着いた口調でヤーツェクに言う。

「悪いが、ここは俺に譲ってくれないか?」

「な……っ」

 ヤーツェクは大きく息を飲んだ。鋭い視線をヴォルフに送る。

 その隣でブランカは内心焦っていた。というか出来ればヤーツェクに行ってもらいたくない。今この状況でヴォルフと二人きりにされるのは非常に困る。

 しかし、そんなブランカにどこからか現れたアロイスが追い打ちを掛ける。

「ヤーツェク、邪魔者じゃまもんは飲みに行こや」

 アロイスはニッと悪戯っぽく笑い、家の外に向かって親指を立てた。

 ヤーツェクはヴォルフとブランカ、そしてアロイスに順に目を向け、はぁと盛大にため息を吐きながら頭を掻いた。

「分―かったよ! ったく、とことん俺を邪魔扱いしやがって。いい加減拗ねるぜ」

「あの……そういうわけじゃ……っじゃなくて、」

「男の拗ねはみっともないからやめぃや。代わりに今日は奢ったるから」

「言ったな。飲み明かしてやる」

 引き止めようとするブランカを余所に、ヤーツェクは文句を垂れながらアロイスの方へ向かっていく。

 そしてキッチンを出ようというとき、彼は入り口に立ったままのヴォルフに目を向け、

「もう悲しませんなよ」

と、彼の右肩――銃創がない方の肩へと軽く拳を入れていった。

 その間もずっとヴォルフはブランカを見つめていた。

 間もなくアロイスたちが出掛けていき、その場は二人きりになる。

 あまりに気まずすぎて、思わずブランカはヴォルフへ背中を向ける。

「あの! もし今の……聞いていたのなら、あの、どうか聞かなかったことに」

「――出来ない。したくない」

 すぐ後ろから降ってきた返事に、ブランカは息を飲む。

 だってあんなの聞いたって、彼には不愉快なだけではないのか。

 そう思うのに、彼は穏やかな口調で続けて言った。

「あんな風に思ってくれていると思わなくて、驚いた――正直、嬉しかった。本当に悪いことしたな」

 ヴォルフはブランカの隣に立つと、そっと彼女の頭に触れてきた。

 聞こえてきた言葉とその口調と、やけに柔らかく感じる彼の雰囲気に恐る恐る顔を上げると、どこか切実に細められた薄鳶色の瞳と目が合った。

 不思議とそこに温度を感じた。

 夢を見ているのだろうか。予想と真逆の反応につんと鼻の奥が痛くなる。

 ぎゅっと唇を引き結んで首を横に振ると、ヴォルフはもどかしそうに少し眉間に皺を寄せた。

「今の話もそうだが、俺が倒れていたときのことを色々聞いた。俺のために一人で必死に頑張ってくれたお前に、俺は怒鳴って傷つけるばかりで、礼の一つも言おうとしなかった。本当に、済まなかった」

 言いながら、ヴォルフは頭を撫でていた手で、未だブランカの目に溜まった涙を拭う。だけど余計に瞼の裏が熱くなるのを感じて、ブランカは更に首を横に振った。

「そんなこと……私が勝手にしたことで……」

「いや、改めてちゃんと礼を言わせて欲しい。本当にありがとう。お前のお陰で助けられた」

 そう言ってブランカに注いだ眼差しは、口調と同じくとても穏やかで温かく、とても優しかった。ヴォルフは力なく口元を綻ばす。

 一度収まっていた涙が再び噴き出すのに、時間は掛からなかった。

 こんなの反則だ。

 こんなことをヴォルフに言われて、堰き止めていた気持ちを抑えられるはずがない――ただでさえ、抑えが効かなくなっていたのに。

「私は、本当に……何も、してないです。何も、出来てない……っ」

「そんなことないだろ? お前が色々してくれたから、俺は今こうしていられるんだ。少し考えれば分かったのに、沢山酷いことを言ったな。相当追い詰めた」

「違うの……っそんなこと! だって撃たれたのだって、私のせい……っ」

「撃たれたのって……はぁ。俺はお前にそんなことまで気に病ませていたのか」

 いつの間にか移動してきたリビングのソファに座らされながら、ブランカはヴォルフに肩を抱かれ、揺すられる。正直どうして彼がこんなに優しくしてくれるのか分からないのに、その優しさに触れるたびに、奥から奥から涙が溢れて止まらない。

「確かに俺はお前を散々責めたりしたが、正直お前は、よくやってくれてると思う」

「そんなことない。そんなこと、そんな風に言わないで……。こんなの全然っ足りないし、それに、だって私は……クラウ……っディア……」

「ブランカ。少し落ち着け」

「だから……っあなたにそんな風に言われる資格すらっないの……っ!!」

 こんなこと言うべきではないのに、込み上げてくる感情を止められない。それでいて言っていることとは裏腹に、気が付いたらブランカは図々しく彼の腕にしがみついて、嗚咽を堪えていた。だけどヴォルフはむしろその腕に力を込めながら、ゆっくりとブランカの頭を上から下へと撫でてくれる。

「……こんなときに聞くのも酷かもしれないが、一つ聞かせて欲しい。六年前……終戦から一年前の、冬の終わりのあの日。お前は何を思って俺の親父を指差したんだ?」

「それ……は……っ」

「怒らないから、というか何か誤解しているような気がしてならない」

「でも……今はもう、言い訳でしか……」

「言い訳でもいい。正直に話してくれないか」

 ヴォルフは少し腕の力を弱め、そっとブランカの顔を持ち上げた。その薄鳶色の瞳は射抜くように真っ直ぐだけれども、やっぱりそこに憎悪や怒りはなく、じっと穏やかにブランカの言葉を待っていた。

 ブランカはぎゅっとヴォルフの肩に顔を伏せて一度呼吸を整えてから、あのときのことを一つ一つ話し始めた。

 たった一度だけ見に行った『人種の美化活動』があのときだったこと。あの日まで『人種の美化活動』について何も理解していなかった自分は、目の前で次々と人が殺されていくのを見ていられなくて、傲慢にもその悲痛さを祖父に訴えようとしていたこと。そのとき適当に指を差した人がヴォルフの父親で、そのせいで死なせてしまったこと――。

 六年前の冬の終わりの、全てが灰色に満ちたあの日。

 本当に衝撃的すぎて、とても悲しかった。

 嗚咽混じりのしどろもどろな話を、ヴォルフはブランカの背中を撫でながら、最後までずっと黙って聞いてくれていた。

「そうか、そうだったんだな。俺はずっと思い込みでお前を憎んでいたんだな」

「でも、私が殺したことには変わりない……。あのとき私が指差したりしなかったら……あんな、ことには……っ」

「もういい。ちゃんと本当のことを聞けて、良かった」

 しかしブランカは腕の中で思いっきり首を横に振る。

「良くない、良くないわ……。それだけも許されないのに、作文とか、他にも……っ私は本当に酷いことをした……」

「でもあの日までお前は知らなかったんだろ。あの作文は、それよりも前だ」

「知らなかったからで許されることじゃないわ……! 子供だからって、許されることじゃないの……」

 ブランカは鼻を啜りながら少し身体を起こし、ヴォルフの左肩にそっと触れた。服で隠れたそこは、包帯の感触が返ってくる。

 切なさが一気に込み上げる。

「罪滅ぼしのつもりは、きっとあった……。きっと怒らせるだろうって分かっていたけれど、でも、本当にヴォルフには沢山助けられて……本当に沢山、もらったから……。だけど私は何一つ返せず、酷いことばかりして、勝手な行動であなたを怒らせてばかり……」

「もう十分だ。俺もお前から沢山もらってる」

 尚も泣きながら首を振るブランカを、ヴォルフは再び自分の腕に抱き寄せて、優しく背中をとんとんと叩く。

「正直俺はずっと、お前がクラウディア・ダールベルクであることがいまいち信じられずにいた。俺の中ではもっと、苦労も何も知らずに高見の見物をしていた、ものすごく最悪に歪んだ奴だと思ってた」

「……実際そうだったもの」

「違うだろ」

 ヴォルフは髪を梳きながら、続けて言った。

「確かにお前は何も知らずに色々とやってしまったんだろうけど、そういうことも含めてこの五年間、あまりに重い責任を抱えて生きてきたんだな。ようやく本当のお前と向き合えた気がする」

 その言葉が、ブランカの心の一番深いところに突き刺さる。とてつもなく熱く、とてつもなく温かいものがそこから急速に広がり、全身が震えた。

――ずっと求めて止まなかった。

 誰からも憎まれて、時代に翻弄されて、絶望と罪悪感の中で生きてきたこの五年間。

 純粋に人を信じることも出来ず、誰もを裏切り続けて、暗闇ばかりの苦痛な日々ばかり。けれど自分は罪を犯していて、決して許されることなんてないと諦めていた。

 それをヴォルフはその強さと優しさで、ブランカを受け止め、包み込んでくれた。

 彼だってあまりに大きな苦しみを抱えているのに、ブランカに向き合ってくれて、光を与えてくれる。

 涙がもう止まらなかった。

「本当に、ごめんなさい……。本当にありがとう……」

「俺も悪かった。色々ありがとな。だがもう無茶はすんなよ」

 苦笑混じりで言うヴォルフの腕の中で、ブランカは泣きながら頷いた。

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