17.秘めた想い

 気が付いたら勝手に身体が動いていた。

 いち早く彼女の元へ向かわねばと、いつもよりも足が急ぐ。

 微妙に遠く感じる距離が、無性にもどかしく感じた。

――本当にあいつは馬鹿だろ……!

 オプシルナーヤ軍に身を売っても構わない? ふざけているのか。

 行ったら最後、どんな扱いを受けるか分かっているだろうに。

 言葉通りの意味だとしても、ありえない。馬鹿げている。

 それなのに何故そんなことを言えてしまうのか。

 クラウディア・ダールベルクのくせに。

 あんなに憎悪と怒りぶつけてきた相手だというのに。

 それを『罪滅ぼし』なんて心ない一言で片付けた自分が、酷く腹立たしい。

 そんなヴォルフのために簡単に身を粗末にしようとした彼女に、怒りが湧いてくる。

 色んな想いが次々に浮かんでは、全てがない交ぜになってわけが分からなくなる。そのわけの分からない渦の奥から、とてつもなく熱いものが急速に膨らんでくる。

 それが何なのかを考える余裕もなく、ヴォルフはアロイスの家に駆け込んだ。

 すると、キッチンから話し声が聞こえた。

 『女神の泉ファインテ・デ・ラ・ディオーサ』から帰ってきた勢いで飛び出しそうになる自分を、ギリギリで抑える。別に隠れる必要も無いだろうにヴォルフは思わず廊下の陰に隠れながら、中の様子を伺った。

「なぁ、あんたもう休んだ方がいいぜ? 今日はその、色々あったんだろ?」

 歯切れ悪く言うのはヤーツェクの声だ。

 流石に今日はいつものように堂々とは出来ないのだろう。

「でも、なんだか落ち着かなくて……すみません、今日は本当に迷惑を掛けました」

 カチャカチャと物音すら控えめにしながら、どこか沈んだ声で彼女が返す。

 ヤーツェクが小さく息を吐くのが聞こえてきた。

「あんたが謝ることじゃねーよ。むしろ俺の方こそごめん、一人にさせて」

「いえ、だからその、それも私のせいですし……」

「こんなに腫らして。こういうときくらい年上に甘えた方が良いぞ」

「それは……」

 やけに優しく話すヤーツェクと、困惑した様子のブランカ。

 中の様子を見ているわけではないので実際は分からないが、まるで彼女の頬に触れているかのような会話の流れに、胸がざわつく。当たり前のように紡がれるヤーツェクの台詞に、別の苛立ちを感じた。

 微妙な沈黙が数秒流れた後、ヤーツェクが言いづらそうにまた話し掛ける。

「なぁブランカ、何でそこまでするんだ?」

「そこまで……とは?」

「あいつのことだよ。あんたの連れ」

 言われてヴォルフとブランカは、同じタイミングで息を飲む。

 ヴォルフはますます息を潜めた。

「あいつのためにアロイスやティモたちに必死に頭下げてさ、あんただって全身ボロボロだったって言うのに夜もろくに寝ずに付きっきりで看病したりして」

 ヴォルフの倒れていた二日間。彼の幼馴染みが近所に住んでいるとは言え、ヘルネーに来たばかりで周りは知らない人たちばかり。

 その中で倒れた人間を見守らなければならない状況は、どれほど不安だっただろうか。

「あんたがそんなに必死になるから、どれだけいい奴なのか俺少し期待してたんだけどさ、同い年みたいだし。だけど起きてみれば、すんげえ嫌な奴じゃん。自分は散々助けられたって言うのに十も年下の子に怒鳴ってばかりで何もしないし、ゼルマには鼻の下伸ばすしさ」

――伸ばしてねえよ。

 咄嗟にヴォルフは心の中で否定するが、その他のことについては何も反論できない。事情が事情とはいえ、ヴォルフはあまりにブランカにきつすぎたし、実際にそれで彼女を追い詰めてしまったのだろう。

「はっは……。兄さん完全に悪者わるもんやな」

 二人の会話を聞いていたのか、アロイスが小声でリビングの影から現れ、ニヤニヤしながら廊下の壁にもたれ掛かる。

 ヴォルフはアロイスに一瞥を寄越しながら、引き続き二人の会話を盗み聞く。

「今日だって先に帰るなんて言ってどこか行ったの、本当はあいつのためなんだろ?」

――なに?

 思わず視線をアロイスに向ければ、彼は肯定するかのようにニッと笑みを深めた。

 中から明らかに狼狽えるブランカの声が聞こえてくる。

「何で……そう思うんですか?」

「何となく。だってあんたの行動理由にあいつが関係しないことってないだろ」

「そんなことは、ないと思うんですが……」

 ブランカは困ったように言い淀む。

 流石にそれは言い過ぎだろと内心突っ込むヴォルフの向かいで、アロイスが口元に手を当てて笑いを堪えている。

「ヤーツェクにしては勘が鋭いな」

 もしかしてアロイスは、ブランカが一人で勝手にどこかに行っていたことの理由を知っているのだろうか。だとしたら後で確実に聞き出してやろう。

「とにかく、それであんたはあいつのためにどこかに行って、こんな酷い目に遭ったんだろ?」

「いえ、これはその、自業自得なので……それに私が勝手にしたことですし」

「それでもあいつのためだったんだろ? 流石にあいつ、さっきは怒鳴りはしなかったけどさ。だけど何でそこまでするんだよ。あんたがそこまでしてやる義理もないだろ?」

 全くもってその通りだ。彼女にそこまでしてもらう必要などない。

 ヴォルフがブランカを連れるのは任務のためであるが、あくまでヴォルフ側の事情だ。彼女にしてみれば、そんなの付き合う必要など一切ない。

 なのにブランカは何も言わずに大人しくヴォルフに付いてきて、彼が倒れても置いて逃げることなどせず、むしろ自分を犠牲にするような言葉で彼のために頭を下げて、ヴォルフをここへと運んでくれた。

 そんなことを考えもせず、ヴォルフは何度も苛立ちを彼女にぶつけた。酷い言葉で彼女を傷つけた。彼女が何者であれ、自分にそこまで必死に何かをしてもらう義理なんて、どこにもないはずだ。

 どこか重い沈黙の中で、苛立ちと苦い気持ちが胸の中で広がりかけたときだった。

「ヴォルフは……嫌な人なんかではないです」

 ぽつりと言ったブランカの言葉に、ヴォルフは目を見開く。

 思わず息を飲んだ。

 言葉の意味を理解しようとすると、彼女は更に言う。

「むしろ、彼はとても優しいです」

「は……? え、どこがだよ。冷たいの間違いじゃないのか? いつも怒鳴ってばっかりじゃねえか」

 ヤーツェクと全く同じ疑問をヴォルフは思った。

 我ながら情けないと思うが、自分の言動に「優しい」なんて表現は、全くふさわしくない。

 しかし彼女は続けた。

「確かに……ヴォルフは時々厳しいし、ここに来てからはずっと怒ってばかりですが、それは私が彼を怒らせるようなことをしているせいで……」

「あーあ。ガミガミ言うのは全部自分のせいやって。可哀想に」

 ブランカが少し言い淀んだとき、アロイスが小声で冷やかしを挟み込む。

 ヴォルフはアロイスを睨み付けるが、彼は非常に楽しげだった。

 すると、「でも」とさっきよりも張り上げた声で、ブランカは先の言葉を紡いだ。

「でも、彼は本当はすごく優しいんです。私は、何度も助けられました。大事な物をなくしそうになったときも、怖い……人たちに追われていたときも何も聞かずに助けてくれましたし……。さっきだってそう、あの怪我だって……っ」

 話しながら、ブランカの声は徐々に震え始める。

 しゃくり上げる音を僅かに立てながら、一度言葉を飲み込んで、彼女は更に続けた。

「それに、見た目で疎まれていた私を、彼は受け入れてくれて……今はもう叶わないけれど、でもそんな人ヴォルフが初めてで……。なのに私、なんて罰当たりなことを……!」

「お、おいブランカ?」

「だけど、どんなに怒っていても、嫌っていても……っ絶対に彼は邪険に扱ったりしないんです。むしろ十分過ぎるくらいに本当に優しくて……だから……っ」

「ああもう分かった! 分かったってば! だから泣くなって!!」

 鼻を啜りながら静かに泣き始めたブランカを、ヤーツェクが狼狽えながら宥める。それでも尚彼女は必死に言葉を続けようとしていた。

 ヴォルフは壁にもたれ掛かりながら、彼女の言葉を反芻していた。

 不思議な感覚だった。

 彼女に言いたいことは山ほどある。簡単に自分を差し出してしまえる粗末さには、未だに腹立たしさだって感じている。

 しかし、さっきまで渦巻いていた怒りが全く湧いてこない。

 むしろそれらは、胸の奥底から溢れ出してきた熱い想いに完全に押し出されてしまっている。

 もはや彼女がクラウディア・ダールベルクであるとか、憎い仇であるとか、そんな言葉では抑えきれないほどに、その気持ちはヴォルフの中で大きくなっていた。

「――優しい、ね。どっちがって言いたいところやな」

「……そうだな。俺もそう思う」

 たった数回、しかもそのうちのほとんどは任務のために助けただけに過ぎないのに、そんなヴォルフを助けるのに必死になって。

 たった二日間過ごしただけのダムブルクでの、ほんの一言二言のためだけに、自分を犠牲にするようなことをして。しかもそんなことを無かったことにするくらいの酷い言葉を沢山ぶつけたというのに。

 むしろヴォルフは責められても構わないほどのことをしているのに、彼女はヴォルフを悪く言うことすらせず、あの人形のような仮面の下で、ヴォルフをそんな風に思ってくれていた。

 なんて馬鹿真面目で、律儀で健気で、なんて純粋なんだろう――。

「『ブランカ』ってフィンベリーの古代語でどういう意味か、兄さん知っとる?」

 アロイスはニヤリと笑みを濃くして尋ねてきた。

 ヴォルフは顔の下半分を手で隠しながら、目線だけをアロイスに向ける。

「白、だろ」

「そうや。どういう意図で付けたか知らんけど、まんま良い子やと思わん?」

――そうだな。本当にそうかもしれない。

 ヴォルフこそ、十分過ぎるほど彼女の純粋さに助けられていた。

 そんな彼女をもう二度と傷つけたくないと思う。

 無茶なことはさせたくない。

 この手で守らなければと、強く思った。

 何よりも大切にしなければならないと――。

「……そろそろ、行ってくる」

 あと一つ掴みかけた気持ちをそのままにして、ヴォルフは廊下の影から姿を出した。

 その後ろ姿を見ながら、アロイスがやれやれと肩を竦めた。

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