16.苛立ち、揺らぎ、そして

「あら、おかえりぃ。大丈夫だったぁ?」

 『女神の泉ファインテ・デ・ラ・ディオーサ』の裏手にスクーターを停め店内に入ると、ゼルマがいち早くカウンターの中から手を振ってきた。

 ヴォルフは店の奥へ足を進めると、一旦気持ちを落ち着けてから、カウンターの上にスクーターのキーを置いた。

「あぁ。ありがとう、助かった」

「いーえ。力になれたならなにより。それにしてもヴォルフ、もしかして怒ってるのぉ? 顔がこんな風になってるわよぉ?」

 ヴォルフの顔を覗き込みながら、ゼルマが自分の両目の目尻を人差し指で吊り上げた。表には出さないつもりでいたのに、胸の内に湧き起こる苛立ちは全く隠せていないようだ。

 ヴォルフはもう一度気持ちを落ち着けるように、自身の眉間を揉み込んだ。

「だいぶご機嫌ナナメなようねえ。ちょっと上でイイコトでもする?」

 ゼルマがカウンターで頬杖をついて顔を寄せてくる。広く開いた襟元から、ゼルマ自慢の巨乳の谷間が見えているが――というか見せているのだろうが、全くそそられない。どころか、先程のことを思い起こさせて、余計に苛立ちが湧いてくる。

「……何でも良いから一杯頼む。出来れば強めの」

「んもぉ、相変わらずつれないんだからぁ。でもダメ。まだ糸も取れてないんだから、アルコールはダメよぉ。ハーブティ淹れてあげるわぁ。少しは落ち着けると思うわよぉ?」

 ゼルマはカウンターの奥に準備しに行った。正直ヴォルフとしては強い酒で色々と流したい気持ちだったのだが、確かにゼルマの言うとおりだ。順調に傷口が塞がりつつあるというのに、ここでヤケを起こすのは何にもプラスにならない。

 それにしても――。

――あいつは馬鹿か! 自分の立場を微塵も理解してねえじゃねーか!

 そもそも自分たちは追われている身で、特にオプシルナーヤ軍の狙いのブランカこそ、余計な行動は慎むべきなのだ。それこそ外に働きに行くことすら安全とは言い難いのに、勝手に一人でどこかに消えるなど、どうかしている。仮に彼女がクラウディア・ダールベルクでなかったとしても、とても治安の良いとは言えない東ヘルデンズの夜道を女一人で歩くのがどんなに危険なのか、少し考えれば分かることだ。

 それなのに、寄りにも寄ってあんなオプシルナーヤ人地区に近いところなんかに行って、案の定オプシルナーヤ兵に襲われて、なのに何故――。

――本当に、馬鹿だろ……。

 ヴォルフはカウンターに項垂れ、深く息を吐いた。

 彼女が一体何のつもりであんなところに向かっていたのか知らないが、見つけ出したら盛大に怒鳴りつけてやろうと、スクーターを走らせながらヴォルフは思っていた。いくら日頃理不尽でも、この場合は許されるはずだと。

 だが、道で彼女のキャスケットを拾い現場に駆けつけたとき、そんな気持ちの余裕が一切なくなった。

 当然それには彼女を取り囲んでいたあの兵士たちへの怒りのせいでもある。むしろあの光景を見た瞬間、殺意すら湧いた。

 しかし、何より、全てを諦めたかのように抵抗もしていなかったブランカに、この上ない怒りを感じた。

 あんなにも腫れ上がるくらいに強い力で殴られ、ボロボロになっているというのに。身体だって震えていた。それなのに、ヴォルフが駆けつけたときの、全てが終わるのを待つかのように固く目を閉じた姿が、とても腹立たしく、とても恐ろしく寒気がした。

――俺はそんなにもあいつを追い詰めていたのか……?

 心当たりがありすぎるだけに、苦い気持ちが広がる。ただでさえこの逼迫した状況はあんな少女には耐え難いものなはずなのに、ヴォルフは何度も抉るような言葉を浴びせた。あの人形のような顔の裏で、一体どれほど彼女は傷ついていたのだろう。

――馬鹿な。あいつはクラウディア・ダールベルクだぞ? 気にする必要などあるものか。

 何度も何度も頭で唱えてきた言葉を必死にたぐり寄せるが、自分の中で膨れあがっているいくつもの感情は、もはやそんなものでは消えてくれない。

 憎くて憎くて仕方がないのに、とても心配になる。

 手酷い屈辱を味わわせたいはずなのに、傷つけたくない。

 任務さえ遂行出来ればどうなったって構わないのに、守りたいと思ってしまう――。

 アロイスの言うとおりだった。ヴォルフにブランカは殴れない。彼女のあのひどい有様を見た瞬間、痛感した。

 本当に、心臓が止まるかと思った。もっと早く駆けつけられればと、自分自身に苛立ちを感じた。少しでも遅かったらどうなっていたのか、考えるだけでも震える。

 どうかしている。こんな風に思う自分が、ますます分からない。それなのにそういう気持ちばかりが膨らんでいく。

 その中でも一際大きくなろうとしているものを感じたくなくて、ヴォルフは必死に堰き止めていた。

「もぉ、本当に難しい顔をしているわねえ。そんなに酷いことでもあったのぉ?」

 ハーブティをヴォルフの前に差し出しながら、ゼルマが再び顔を覗き込んできた。ヴォルフは目を閉じゆっくり息を吐き出しながら、首を横に振った。

「いや、そういうわけではないが……少し考え事だ」

「ふぅん?」

 再びカウンターに頬杖をついてゼルマは曖昧に小首を傾げた。

 するとそのとき、店に新たな客がやって来た。この界隈に住む中年男性たちだ。

「あ、兄ちゃん、帰ってたか! ブランカちゃん見つかったのか?」

 彼らの一人がヴォルフの姿を見つけ、心配そうに話し掛けてきた。曰く、ヤーツェクから事情を聞いた彼らも一通りブランカ探しに尽力していたらしい。無事見つかったことを伝えると、彼らは分かりやすく安堵した。

 彼らは怒り顔でヴォルフに詰め寄ってくる。

「それでブランカちゃんは大丈夫だったんだろうな? 怪我はしてないんだろうな?」

「あの子に何かあったらただじゃ済まさないぞ」

「っていうかあんた、ここにいていいのか?」

「アロイスが付いているんだろ? むしろその方が良いって。家出したのだって、どうせこいつのせいなんだし」

「あぁ、ヤーツェクから聞いてるぜ。怒鳴ってばかりいるって。ったく、あんな一回りも年下いじめるなんざ、最悪だな」

「もぉ、みんな言いたい放題やめなさいよぉ。ヴォルフにはヴォルフの事情があるんだから」

 好き勝手言う彼らをゼルマが窘めた。

 実際ヤーツェクがヴォルフのことをどう言っているのか知らないが、すっかり彼らの中で自分は悪者だ。あながち嘘ではないから、何とも言えない気持ちになる。

 しかし、それにしてもブランカは随分彼らに気に入られている。

 おそらくブランカが働きに行った工場や会社で知り合った人たちなのだろうが、そもそも自分たちがこの町に来てからそんなに日は経っていない。それなのに、たった数日間でここまで心配されるほどに、彼女は彼らに馴染んでいるのだろうか。確かに彼女のあの真面目によく働く姿は悪印象を与えないが、何年もいたダムブルクで浮いているところを見ていたからこそ、ヴォルフには驚きだった。

――一体この中の何人が、彼女の正体に怒り狂い、撥ね付けるのだろう?

 その衝撃はあまりに大きく、とても冷静なんかでいられない。確実にブランカは彼らの憎悪を向けられるだろう。今ある信頼だって一瞬にして失う。

 その時彼女がどんな表情をするのか、どんな気持ちでいるのか、想像するとやるせなくなる。いい気味とはとても思えそうにない――憎くて堪らない仇なのに。

 何も言わずに出された茶を飲んで気を落ち着けていると、ヴォルフを悪者扱いしてきた男の一人が、カウンターに肘を突いて棘のある視線を向けてきた。

「なぁ、あんたさあ。いい加減、ゼルマと浮気するのやめろよ」

「……は?」

「もう見てらんねーぜ」

 知った風な男の発言に、思考が停止する。

 なんだか謂われのない誤解をされている気がするのだが。

「ちょっとぉ、酷い言い様ねぇ。ヴォルフは浮気なんかじゃなくて、ちゃんと正式にあたしと付き合ってんのぉ」

「ゼルマ、頼むから余計に話をこじらせないでくれ」

「まったくよぉ、そりゃあゼルマの方が美人だしスタイルもいいし抱き心地もいいんだろうけどよ」

「おい、だから何でそうなる」

「あーあ。こんなんじゃあ、あんなに必死にあんたを助けようとしてたブランカちゃんが救われねえよ」

 男は深々とため息を吐いた。

 ヴォルフは今の言葉に目を見開く。

――助けようとした? もしかして俺が倒れていたときのことか?

 そういえばヴォルフは自分がアロイスのところに運ばれるようになった経緯をよく知らない。乗っていたトラックがゼルマの家のものであったことは聞いてはいたが、考えてみれば、そんなことが簡単に分かるものでもない。

 詳しく聞かせて欲しいと身体の向きを変えたとき、店の奥からゼルマの父ティモが呆れた様子でやって来た。

「おぉい、ゼルマ。いい加減二人の邪魔をするのはやめてやれよ。バツニなお前とは違うんだからさ」

 更に落とされたとんでもない発言に、またもヴォルフの思考が停止する。

 ゼルマの方へ視線を向けると、彼女は顔を真っ赤にして狼狽える。

「ちょっとぉもぉパーパ! いちいちヴォルフの前でそういうことを言わないでよねぇ! 娘の恋路くらい応援してくれたっていいじゃないのぉ!」

「何が恋路だ、困らせるようなことばっかりしおって」

 全力で父親を叩くゼルマを見ながら、なるほどとヴォルフはため息を吐いた。

 どうりで男癖が悪そうなわけだ。

「ヴォルフ君、娘が迷惑かけてすまんな」

「ああ、いえ別に」

「だけどこいつらの言うように、君はあの子をもっと大事にしてやった方が良い」

 真っ直ぐにヴォルフに目を向けてティモがそう言うと、それを聞いていた男たちの間に呆れたような笑いが広がった。

「おいおい、一体どの口がそんなことを言うんだよ」

「酒瓶一本開けられたくらいでコソ泥扱いしてた奴がよく言うぜ」

「挙げ句の果てに蹴飛ばしてたしな。大概お前も最悪だよな」

 次々飛んでくる発言に息を飲む。

 もしかしなくてもこれは、相当酷いことが起きていたのだろうか。

 すると、ティモが渋い顔で咳払いをする。

「とにかくだ。ヴォルフ君はあの子にちゃんと感謝した方が良い。何せ、君を助けるためなら、オプシルナーヤ軍に身体を売っても構わないなんて言い出す子だからな」

 瞬間、ヴォルフは固まった。

 今、ティモはなんと言った?

 ブランカが、なんと言っただと?

「あの発言聞いた瞬間は耳を疑ったけど、正直感動したよ。少し危うすぎるけど――っておいヴォルフ君!?」

「ヴォルフ! どこ行くの!?」

 ティモとゼルマの声が聞こえてくるが、構わずヴォルフは店を飛び出した。

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