15.お説教

 それからヴォルフは終始無言のまま、スクーターを走らせていた。

 気持ちが落ち着いてくると、だんだん気まずさが増してくる。というか、どうしたらいいのか全く分からない。

 ヘルネーに来て彼が目を覚ましてからというもの、ブランカはまともに彼と会話してこなかったし、ヴォルフだってずっと怒ってばかりだった。そもそも彼はブランカのこと全てが不愉快で堪らないのではなかったか。なのにこうしてヴォルフの腕に収まる形でスクーターに乗っていることが不思議で仕方がないし、とにかく落ち着かない。

――これも『任務』だから……?

 それ以外にヴォルフがブランカのことで動く理由がない。もしかして彼はブランカがどこかへ消えたと思って駆けつけ、そして再び逃げ出さないようにこうしてブランカを閉じこめているのだろうか。そう考えるのが妥当だ。密かにヘルネーから立ち去るというブランカの計画も、彼は既に察しているのかも知れない。

 しかし、単に『任務』というだけにしては、彼から伝わってくるものに妙に温度を感じるのは気のせいか。

『心臓が止まるかと思った』

 深々と紡がれた言葉に、同じタイミングで聞こえてきた大きな鼓動。スクーターを発車させる前にそっとブランカに触れた指先は、冷たいのに何故か熱を感じた。

 あのときの怒りの込められた瞳は、実際は何を思っていたのだろうか。十中八九ブランカに対する苛立ちや恨みなどに違いないが、だけど分からない。背中から伝わってくる空気に、冷たいものを感じないのだ。

 むしろ、触れた背中がとても熱い――。

 わけが分からなさすぎて、ブランカはきゅっと身を縮こませる。すると僅かに出来た隙間を埋めるように、ヴォルフがやや前に身体を詰めてきた。

 そうしてアロイスの家に到着すると、もう歩けるというのにヴォルフはブランカを横抱きにし、リビングのソファにゆっくり下ろした。彼は相変わらず何も喋らないままキッチンへと消えていく。

 するとそこへアロイスとヤーツェクが帰ってきた。どうやら二人もブランカを探しに出ていたらしい。

「あの、すみません。嘘吐いて、ご迷惑お掛けしてしまって……」

「そんなことよりあんた! その顔どうしたんだ!?」

「えらい強い力で殴られたみたいやな。それに……」

 ヤーツェクが間近でブランカを覗き込んでくる後ろで、アロイスが彼女の姿をまじまじと観察する。少しだぼっとしたヴォルフの上着をしっかり前を閉じて着ている様子から、何かを察しだのだろう。アロイスは青灰色の瞳を細めて、ブランカから視線を逸らした。

「とにかくブランカちゃんの頬冷やしたらな。ヤーツェク、氷を――」

 アロイスがそう言いかけたとき、ヴォルフがリビングに戻ってきた。手には器が抱えられている。

 ヴォルフはブランカの傍らに膝をつき氷を包んだ布を二つ用意すると、まるでブランカの頬を包み込むように、両手でそれらをそっと押し当てた。射抜くような真っ直ぐな薄鳶色の瞳が、ブランカを捉える。逸らしたくても何故か逸らせなかった。どうしたらいいのか分からなくて、自分を挟んでいる氷へと両手を伸ばす。

 触れた指先が、やっぱり熱く感じた。

 しかし、そうしていたのも十秒に満たさないくらいの短い間。ヴォルフはブランカの手にしっかり氷を持たせると、「後は頼んだ」とヤーツェクに短く言ってブランカの前から離れていった。

「お、おい! あんたはどこに行くんだよ?」

 呆然とヴォルフの背中を眺めていると、ヤーツェクが少し困惑気味にヴォルフに声を掛けた。

「……スクーターを返してくる」

 ヴォルフは低い声で答えながらリビングを出て行った。

 彼が消えた先を見ながら、アロイスがやれやれと肩を竦めた。

「ヤーツェク。車のガソリン減ってきたから入れてきて」

「はあ? 何で今なんだよ」

「ブランカちゃん一人にさした罰や」

「え……っそれはヤーツェクさんのせいではなくて、私が――」

「はいはい、分かりましたよ、行きゃあいいんだろ?」

「頼んだで。あ、くれぐれも事故は起こさんようにな」

「これだもんよ。とりあえず行ってくる」

 おそらくアロイスが唐突に使い走らせようとする本当の目的を、彼は理解しているのだろう。ヤーツェクはぶつぶつ文句を垂れながらも、言われたとおり家を飛び出し車を走らせていった。いくら口実とはいえ、濡れ衣を被せてしまったようで、ブランカは申し訳なくなる。

 小さく肩を落としていると、アロイスがふぅと壁にもたれ掛かりながら、ブランカに顔を向けた。

「それで、先に帰るなんて嘘吐いてどっか行ってたのは兄さんのためか?」

 ブランカは小さく頷いた。

「アロイスさんが言っていたものが何なのか分からなくて……勝手な行動をしてしまいました」

「それって兄さんを西へ逃がしてやってくれってやつの話やんな? 自分は消えるから後頼みたいって言う」

「そうです」

「はぁ……」

 アロイスは額に手を当てため息を吐いた。眉間に皺を寄せ、苦悩しているような表情を浮かべる。普段は陽気な彼をこんな顔にさせてしまうほど、自分の行動はひどく愚かで呆れ返るようなものだったのだろう。実際に会社の人に嘘を吐いてまでオプシルナーヤ兵を追ったのは、全くの無意味な行為だったのだ。その罰があの強姦だったのなら、自分は文句を言えない。

 自然と視線が足元に向き、ブランカは項垂れる。

 二人の間にやや沈黙が流れるが、ほどなくしてアロイスが話し始めた。

「言いたいことは色々あるんやけど、まず兄さんを西へ逃すってあの話、あれもう無しな」

「えっ……!」

 ブランカは弾けるようにアロイスを見た。

 彼は構わず続けた。

「まぁ僕も中途半端な言い方したからあかんだんやけど、どうやら自分はほんまに知らんようやし、そのためにまたこういうことになってもあかんから、あれは無し無し」

「そんな……」

 手を払う仕草まで見せるアロイスに、ブランカは一気に青ざめる。

 なんてことだろう。確かにブランカはアロイスに迷惑を掛けるようなことをしてしまったし、それで彼が気分を損ねてしまうのは当然のことだ。だけどあの話まで無かったことにされるなんて、そうしたら自分はどうすればいいのだろうか。ヴォルフは一体どうなる? この町の人たちは?

 必死に食い下がる文句を探していると、再びアロイスのため息が聞こえてきた。

「というか、そんなに焦って出て行こうとしやんでもいいんとちゃう? 兄さんやって順調に回復してきてるんやし」

「ですが、私がここにいるのは、」

「別に迷惑ちゃうよ。むしろ助かっとるし。それに前にも言うたけど、君みたいな子ども一人のためにえらい目に遭うなんてならんし、僕らのことは気にしやんでもいい」

「でも……」

「それ以外にも居心地の悪さとか不安とかあるんやろうけどね。けど路頭に迷うくらいなら、使えるもんはとことん利用する方をオススメするで――状況が状況なだけにな」

 アロイスは何でもないようにさらりと言ってのけた。ブランカは息を飲む。

 実は未だにブランカはアロイスが彼女の正体を知っているということに確信を持てていないのだが、今の物言いはブランカの素性以上のことを把握しているように聞こえた。だとすると何か思惑があってこう言っているのかも知れない。

 いずれにせよ、彼の好意を受け止めるのは躊躇われた。

 確かにヘルネーにいるオプシルナーヤ兵にクラウディア・ダールベルクを捜索している様子はなく目立った動きも見られない。だがその状況がいつまで保つのかも分からない。

 いつどこから襲ってくるのか分からない父の脅威。じわじわとブランカを追い詰めるかのようなあのラジオの作文。いくらアロイスが大丈夫と言ったって、その先の未来を想像すると恐ろしくて堪らない。

 それに、ヘルネーの人たちに親切にされるのが、ブランカには辛かった。何気ない生活の中で理不尽を強いられ苦しむ彼らの顔を見るたび、自分はここにいてはいけないと思ってしまう。

そういう恐怖と罪悪感で、ブランカはいっぱいだった。

 震える身体に力を入れて、返す言葉を探す。そんな様子を眺めながら、アロイスは更に問いかけてきた。

「仮にここを出たとして、自分はどうするつもりなん?」

「それは……」

「兄さん置いていくわけやから、西ヘルデンズに向かうわけでもないんやろ――まぁ、行こうとしても現状無理やけど。かと言って他に行くアテもないし、自分が出て行こうとする理由を察するに、どこに行っても結果は同じや。まさか転々と何やらから隠れる生活でも送るつもり?」

 アロイスはやけに断定的に言ってきたが、やはりこちらの事情を彼は知っているのだろう。どれもこれも、彼の言うとおりで、ブランカは何も言葉を返せなかった。

 ブランカに行くところなんてどこにもない。どこに行ったって追われ続け、周りを危険に晒す。誰かと関わらずに生きるにしても、そもそもこんな無意味な人生を守り続ける必要があるのだろうか。

 今までだってただ流れるだけに生きてきたに過ぎないのに――。

「もしかして、どっかで野垂れ死んでも構わんとか思っとらんやろな?」

 考えが顔に出ていたのだろうか。思わず眉がぴくりと動く。

 すると、何度目になるのか分からない呆れ混じりのため息が聞こえてきた。

「はぁ、あのな、自分。前から思っとったけど、もう少し自分のこと大事にしぃや。見てたらハラハラするわ」

「……すみません」

「謝らんでいい。けどそれにな、自分は周りのことに気を配っとるつもりかもしらんけど、全く見えとらん。確かに状況的に無理もないけど、誰もそんなこと望んどらん」

「でも……それは」

 ブランカの正体を知らないから、知っていたとしても何らかの思惑があるからに過ぎないのではないか。

 あくまで心の内で思っただけなのに、アロイスは見透かしたかのように首を横に振った。

「やから見えてないねん。大概自分も立場に囚われ過ぎとる。まぁ、どっかの誰かさんがガミガミうるさいから余計なんかもやけど」

 もはやアロイスは取り繕うこともせず、一際大きなため息を吐いて言葉を続けた。

「やけどさっきの兄さんは、例えば『任務』とかそういうもんのために動いとるようにブランカちゃんには映ったん?」

「それは……」

 分からない。ヴォルフが『任務』以外でブランカを気に掛けることなどないと思っていたから、彼のあの様子に未だに困惑している。

 優しい手つきに深い安堵を得たような温もり。真っ直ぐに向けられた薄鳶色の瞳が何を考えているのか全く分からなかったけれど、あのとき聞いた鼓動の音とぽつりと言った彼の言葉が、純粋にブランカを心配していたかのように感じられた。だから尚更信じられないでいる。

「まぁそういうことや。例え自分がどんな立場の人間であっても、周りは自分のことどうでもよくないし、何度も言うようやけど、たかが自分のためにどうにかなるつもりはさらさらない。むしろ必要なだけおってくれて構わんと思っとるくらいやで。胡散臭いかも知れやんけど、それでもどうしても出て行きたいって言うなら、もう少し考え改めるべきやな。その阿呆な考えもな」

 アロイスはぱんと自分の腿を叩き、ひとまずこの話を無理矢理終わらせた。黙り込んだまま俯くブランカを余所に、ほとんど氷の溶けた容器をキッチンへ下げようとする。

 しかし、去り際に彼は「あ」と思い出したかのようにもう一つブランカに言い残した。

「これは僕自身の下心の混じった願いでもあるんやけど、もし自分のその投げやり感とか僕らに迷惑掛けたくないってやつが罪悪感とか負い目とかから来とるんやとしたら、僕はそれを別の形に変えて欲しいと思うわ」

「別の形……?」

「そうや。自分のその立場・・やからこそ、思うことがあるんちゃうかなと期待しとる」

 ニッと普段よく見る悪戯げな笑みを残して、アロイスは今度こそキッチンへと消えていった。

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