14.路地裏

――ヤーツェクさん、アロイスさん、会社のみなさん、ごめんなさい。

 ブランカは街角をひっそり歩きながら、小さく手を合わせて謝罪した。

 今頃彼らは自分を探しているかもしれない。嘘を吐いて会社を出て来たことに、少なからず、罪悪感を覚える。

 だがブランカも後には引けなかった。

――アロイスさんが求めるもの……。

 それを用意できなければ、ブランカはヴォルフを彼に託してヘルネーを立ち去ることは出来ない。なのにそれが何なのか分からなくて、ブランカはアロイスの条件を叶えられずにいた。彼はブランカに用意できるような口ぶりだったが、考えても考えても全く見当が付かないし、誰かに尋ねるわけにもいかない。

 そうして無為に時間ばかりが過ぎていた。それどころか、ブランカの焦りを煽るように、何回もあの作文がラジオで流される。一刻も早く何とかしなくてはいけないのに、何も進まないのがひどくもどかしい。

 そんなとき、業務が終わりヤーツェクが迎えに来るまでの間会社の掃除をしていると、表通りを歩く二人のオプシルナーヤ将校が会社の窓から見えた。

 ふとブランカは思った。

 アロイスが求めるものは、東ヘルデンズからのオプシルナーヤ軍撤退を有利に運ぶものだ。だとすると、彼らの会話こそにその手がかりが転がっているなんてことはないだろうか。

 もちろん躊躇いはあった。そもそもブランカとヴォルフはオプシルナーヤ軍から逃れているのだ。いくら見た目を誤魔化していようと、自分から敵地に向かうのはあまりに危険すぎるし、それで正体がばれてしまっては本末転倒だ。

 しかし、他に方法が見つからない。

――少し、確かめるだけ。

 小さく決意を固めると、ブランカは会社の人に嘘の伝言をお願いし、こっそりオプシルナーヤ将校の後を追い掛けた。

 相手が相手なだけに薄暗い路地などに向かいそうならば引き返すつもりでいたが、彼らが向かった先は十番街から徒歩十分ほど先にある飲み屋街だった。まだ夕方五時過ぎで人通りも多いため、人混みに紛れ込んで尾行するにはちょうどよかった。

 そうして最終的に彼らが向かった先は、飲み屋街の中でも奥の方にあるオプシルナーヤ人限定のパブ。ブランカは少し離れたところから、大きくため息を吐いた。どうやらここまでのようだ。忍び込もうにも、鋭く光る入り口のガードマンの目をかいくぐるのは難しいだろう。

 すると、その店へ向かう別のオプシルナーヤ兵の二人組がブランカの前を通りかかり、彼らの会話が聞こえてきた。

「<しっかし、ここでの生活に慣れると本国に戻れなくなるよなぁ。向こうの俺んちより色々揃ってるし>」

「<元々インフラがしっかりしてたからな。反面、オプシルナーヤはまだ電気の通ってないところ結構あるし。俺ももう少ししたら家族をこっちに呼ぼうか迷ってる>」

「<あ、いいなそれ>」

 ブランカはアロイスに与えられていたキャスケットのつばを下げながら、落胆のため息を漏らした。

 考えてみれば、軍部の命運を左右するような重大情報を下っ端の兵士が握っているとも思えないし、逆に知っていそうな将校クラスの人たちにしても、歩きながらの会話で簡単に出てくるものではないだろう。それこそ数時間彼らの会話に耳を傾けていたら可能性はなくはないが、パブに入れない以上叶わない。それ以前に危険すぎる。

――諦めよう……。

 ブランカはくるりと身体の向きを変えてなるべく速く歩き始めた。

 ここまで震えそうになる身体を何とか抑えて慎重に彼らを追ってきたわけだが、目的が果たせないのならば、こんなところ長く居たくない。日もだいぶ落ちて空も暗くなってきているし、誰かに絡まれないうちに急いで帰った方が良いだろう。

――帰ったって怒られるだけだけど……。

 オプシルナーヤへの恐怖のため半ば駆け足気味になっているが、アロイスの家に帰るのはひどく憂鬱だ。ブランカはきゅっと唇を引き結んだ。

 連日ヴォルフが恐ろしい形相で叱りつけてくるのだが、正直ブランカには彼が怒る理由が全く分からない。

 きっとブランカのことなんか見るのも嫌だろうとなるべく視界に入れないよう努めていたら、何故か向こうから近付いてくる。だからと言って好んでブランカと会話をしたいわけでもないだろうからと手短に済ませようとすれば、怒鳴りつけてくる。一体どうすればヴォルフの気を害せずに済むのか、まるで分からない。もしかして彼は、憎い仇が同じ空間で生活していること自体に、我慢の限界を感じているのかも知れない。

 その一方で、ブランカはヴォルフとゼルマが寄り添っているのを見るのが、とても苦しい。

 彼もゼルマに色々とやってもらった方が快いだろうと思い、ヴォルフと距離を取るためにも、ブランカは彼女にヴォルフの身の回りの世話をお願いした。だけど、実際にその光景を見ると、胸がズキズキ痛んで息苦しくなる。自分から仕向けたことだというのに、そもそもブランカにはそんなことを思う資格などないのに、何と身勝手なことなのだろう。

 更にそこへ流れてくる昔の作文。

 ラジオが読み上げる度にリビングや職場の空気が張り詰め、それを聞いた人たちが必ず怒りを露わにした。この数日間でヤーツェクとゼルマの歪んだ顔を何度見ただろうか。罪悪感と緊迫感が、ブランカを苛んだ。

――いっそのこと、このままどこかへ消えてしまおうかしら……。

 憂鬱な気持ちのまま、ブランカは呆然とそんなことを考えた。

 むしろその方がいいのかもしれない。アロイスの条件は叶えられず仕舞いだが、よくよく考えてみればヴォルフにはゼルマがいるし、結局ブランカが何かしようとしても全て無駄足に感じる。このまま居座ったところで彼らを危険に晒すだけだし、何より、ブランカがいない方が、ヴォルフとしても不愉快な思いをしないで済むはずだ。

 だけど、本当にそんなことをしてしまった場合、アロイスは先日の宣言通り、ヴォルフを追い出してしまうのだろうか。

 そんなとりとめもないことを考えていたら、いつの間にかブランカの視界には地面ばかりが映っていた。すっかり前方への注意が散漫になっていた彼女は、前から歩いてきた人と肩をぶつけてしまった。

「あ……すみません……」

 ブランカは後ろへ過ぎ去った人へ小さく頭を下げて再び歩き始めた。俯きがちだった上にキャスケットを深く被っているせいで相手をよく見ていなかったのが、また良くなかった。

 ぶつかったところから数歩進んだとき、ブランカは強い力で肩を掴まれた。

「<いてぇんだよ、このくそヘルデンズ!!>」

「えっ――」

 聞こえてきた言語にハッとした瞬間、勢いよく右頬を殴られる。その凄まじい反動に圧されて、ブランカは地面に倒れ込んだ。

 長靴の独特の音を鳴らしてその人はブランカに近づき、起き上がろうとする彼女の身体を踏みつけた。

「<おいおい、お前。いくら何でもいきなり殴ることはないんじゃないか?>」

 どうやらその場にはもう一人、オプシルナーヤ兵がいたらしい。呆れたような声が近くから降ってきた。

「<うるせえ。ぶつかったくせに素通りしやがる愚民には、きちんと己の立場を分からせてやるべきだ。おい小僧てめぇ、何か言うべき台詞があるんじゃないか?>」

 ぶつかった方の男は、荒々しくつばを吐いて言った。

 実は今のブランカは防犯の都合上、キャスケットに加えてアロイスの服を借りて男装しているため、こんな暗がりでは確実に少年にしか見えないのだ。こんなヘルデンズの田舎の少年がオプシルナーヤ語を理解できるわけでもないのに、男は鼻息荒く靴のかかとでブランカを押しつぶす。

 胸が圧迫されると同時に一気に全身を襲った恐怖のせいで、声が上手く紡げなかった。

「<おい、てめえ! 何とか言ったらどうなんだ!>」

 男はブランカの胸ぐらを片手で掴み上げた。瞬間、被っていたキャスケットが頭から外れる。

 露わになったブランカの顔を見て、男は目を見開いた。

 後ろで様子を見ていたもう一人が、驚いたように肩を竦めた。

「<おい、女の子だぜ>」

「<ああ、どうやらそのようだ>」

 言いながら、目の前のオプシルナーヤ兵は、ゆっくりと口角を持ち上げた。ブランカを映す歪んだ瞳に、嫌な予感が押し寄せた。

「<――なら尚更知らしめてやらないとな>」

 言うが早いか、彼らは近くの路地裏へとブランカを引き摺り込んだ。

 勢いよく地面に倒されると、一瞬だけ男たちの拘束が外れる。その隙を狙ってブランカ逃げようとしたが、敢えなく片方の男に両手を頭の上で抑え込まれた。

「いやっ! やめて!!」

 全身から湧き起こる恐怖と気持ち悪さに、ブランカは身体を捻り足をばたつかせて必死に暴れた。しかしそんな抵抗空しく先程ブランカとぶつかった方の男に馬乗りされ、再び頬を強い力で殴られた。

 男はブランカの頭を片手で地面に押さえ付ける。

「<おら、屈辱だろ? もっと泣き喚けよ!>」

「やめてっ! やめっいや! いやあ!!」

 男の手が胸元に掛かったのを見て一層ブランカは暴れたが、男は構わずブランカの着ていた服を上着ごと引き裂いた。

 辛うじて下着は残ったが、その上から容赦ない乱暴な手が這わされる。

「<おいおい、貧相な身体だなあ!>」

「い……っ! <お願いですから、許してくださ――カハッ!!>」

 もはやどちらのものなのか、首に掛けられた手に力が込められる。

 気道を圧迫され不自由な呼吸に喘ぐ中、男たちの獰猛な瞳が視界に映る。

「<何だ、オプシルナーヤ語話せるならもっと早く謝れば良かったのに>」

「<どのみち手遅れだがなあ! 恨むなら身の程知らずな自分を恨むんだな!>」

 ブランカは絶望的な気持ちになった。

 両手を塞がれ全身を押さえ込まれあられもない姿を晒されて、暴れたくても息苦しくて敵わない。

――誰か、助け――……!!

 必死に心の中で叫ぼうとして、ブランカはハッとした。

 一体誰が自分を助けてくれる?

 そもそもこうなったの自業自得だ。会社の人に嘘を吐いてオプシルナーヤ兵などを追い掛けたりしなければ、こんなことにはならなかった。危険だと分かっていてここまで来てしまった愚かな自分が、どうして誰かの助けを求められる?

――それに、こんな身体、今更守ったって仕方がない。

「<お? いきなり大人しくなったな。諦めたのか?>」

「<いいから早くやっちまおうぜ>」

「<ああ、ちゃんと抑えてろよ>」

 馬乗りになっていた男は、薄く笑ってブランカの履いているズボンへと手を伸ばす。ブランカは目を閉じて、流れに身を任せる――。

 しかし次の瞬間。

 激しい物音と小さな呻き声が、ブランカの耳に聞こえてきた。同時に身体中を抑えていた力が離れていく。

 何が起こっているのか恐る恐る目を開けたとき、勢いよく身体を抱き上げられた。

 間近に映る鳶色の髪と薄鳶色の瞳を、ブランカはまじまじと見つめる。

「ヴォ……ルフ……。どうして……」

 酸素が一気に肺に入り込んできたせいでまともな声が出なかったが、ブランカの困惑と疑問は伝わったはずだ。

 だけどヴォルフは何も答えず、射抜くような鋭い視線を、ブランカに向けただけだった。彼の不機嫌な瞳はこれまで何度か見てきたが、今までの比でないほどに怒りをそこに湛えていた。

 心当たりがありすぎるだけに、ブランカはばつが悪くなってヴォルフから視線を逸らす。

 すると、自分を襲っていたオプシルナーヤ兵二人が地面に倒れているのが、彼の肩越しに見えた。どんなに暴れても全く歯が立たなかったのが、まるで嘘かのようだ。

 そうしてヴォルフはブランカを横抱きにしたまま路地裏から表通りに出ると、近くに停めていたスクーターのサドルにブランカを座らせた。黙々と自身が着ていた上着を彼女に着させ、おそらくこの付近で拾ったのであろうキャスケットを頭に被らせる。

 彼は全く何も言わずにただひたすら眉間に皺を寄せ怒りを露わにしているけれども、その手つきは、まるで壊れ物を触るように慎重で、とても優しい。

 不意に、彼はその手をブランカの頬に添え、彼女の顔を持ち上げた。右と左、二回殴られたそこが、熱を持って腫れてきているのが自分でも分かる。ヴォルフはそれらをまじまじと見ると、一層眉間の皺を濃くした。

 そこから首元へと視線を下げると、ぎゅっと目を閉じ、深く息を吐いた。そして無言のまま、ブランカの後ろに乗り、スクーターを走らせる。

 彼の様子にどうしたらいいか分からず大人しく乗っていると、しばらくしてようやくヴォルフが口を開いた。

「散々きついこと言って罵った俺が言うのもなんだが――」

 後ろから聞こえてきた声は、無理矢理感情を抑え付けたかのように低く、僅かに震えていた。

一度それを飲み込んでから、ヴォルフは続ける。

「頼むから、自分を粗末にするな。急に……居なくなったりしないでくれ」

 もう一度紡がれた声は、さっきよりも震えていて、切実な響きがあった。

 ヴォルフは自身を落ち着けるかのように深呼吸をすると、ぽつりと言った。

「本当に……心臓が止まるかと思った」

 そのとき、頭に当たる彼の左胸が大きく脈打っているのが分かった。

 瞬間、全身が震え出し、次から次へと涙が溢れだしてきた。

 どうなっても構わないと思ったけれど、だけど本当は恐ろしかった。そしてどうなっても良いなんて考えていた自分が、ひどく恥ずかしく思えてきた。

 胸がきゅっと締め付けられ、全身が熱くなる。

「ごめんなさい……」

 嗚咽を堪えてそう言うと、ヴォルフは何も言わずにブランカの頭に手を乗せ、数回それをバウンドさせていた。

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