13.矛盾

 それからというもの、ブランカの避け方は徹底していた。二人きりで話せる機会がほとんど無くなったのだ。

 包帯の交換などのヴォルフの身の回りはすっかりゼルマの仕事になってしまったし、ブランカがキッチンや洗面所で家事をしている最中は、大抵ヤーツェクが一緒にいてヴォルフはのけ者扱いされていた。食事の際は顔を付き合わせるが込み入った話をするわけにもいかず、寝る前などにようやくブランカを捕まえて二人きりになっても、相変わらず彼女は人形のようでまともに会話をしようとしない。それが無性に腹立たしくて、ヴォルフは尚も余計な一言を彼女に浴びせてしまっていた。

 同じ家にいるのに既に五日もそんな状況が続いている。お陰でヴォルフは終始苛々しっぱなしだった。



「兄さん、ずっとそんな怖い顔しとると、ほんまにそういう顔になるで。モテやんくなるよ?」

 アロイスの仕事部屋で保険関係の書類整理を手伝っていると、アロイスがニヤニヤした様子でデスクから顔を上げた。

 ヴォルフはふんと鼻を鳴らした。

「うるせえ、ほっとけ」

「でもほら、実際にブランカちゃんに避けられとるわけやし。その反面、ヤーツェクはべったりやな。やっぱあれくらい優しぃしたる方が、好感度高いで」

「何が好感度だ、馬鹿馬鹿しい。何も知らないからあんな風に接していられるんだ」

「やからこそ、色々よく知る兄さんの方が、ブランカちゃんのことを深く理解してあげらると思うんやけどな」

 アロイスは一層笑みを深くした。

 瞬間、ヴォルフの手が止まる。

――俺が理解してやれる? あいつを?

 ヴォルフはハッと鼻で笑った。

「お前は何を言っているんだ、ありえない。あいつは、」

「クラウディア・ダールベルク、やろ? 元総統の愛孫の」

「……そうだ。ゼルマに聞いているかもしれないが、俺も戦中アジェンダ狩りで狩られた一人だ。任務がなければ、今頃何発殴ってるか分からない」

 募り募った苛立ちを織り交ぜて吐き捨てれば、今度はアロイスが声を出して笑った。

 ヴォルフはキッとアロイスを睨み付ける。

「おい、何がおかしい」

「何がって、めっちゃおかしいやん自分! そんなん任務とか言っとらんで今からでも思う存分殴ったればいいやんか!」

 ヴォルフの手が、再び止まった。知らず息を飲む。

 そんな様子を面白そうに眺めながら、アロイスは更に続けた。

「それともブラッドロー側は無傷であの子を連れてくるよう言っとるん? もしそうやったとしても、あの爆発事故で既にボロボロやったわけやし、多少乱暴にしたところで分からんで」

「それ……は、そうだが……」

「やったら今日帰ってきたときにでも思いっきりぶちかましたりぃや。もしくは寝込みを襲うとか。なんぼでもチャンスはある。何も躊躇う必要ないやろ――ほんまに兄さんが心の底からあの子を殴りたいと思っとるんやったらな」

 遂にヴォルフは言葉を失った。咄嗟に何か言い返そうとしても、頭に浮かぶ言葉はどれも違う。

 というかそもそも反論する必要もない。アロイスの言うとおりだ。任務なんか気にせず殴るなり何なりして積年の恨みをぶつけてやれば良かったのだ。列車からここに辿り着くまで逃げることに必死で全くそんなことを考える余裕などなかったが、ならば今からそうすればいい。元より復讐したくて堪らない仇、今更いちいち取り繕う必要などどこにもない。

 それなのに――。

――何故俺は抵抗を感じている?

 かつてはその瞬間を何度も頭に思い描いていた。まともに外を歩けないほどの屈辱を与えてやろうと、一体どれほど考えただろうか。

 それなのに今の自分は、ブランカを殴らないための理由を、必死に探している。

 はっきりと自分の中の矛盾を感じてしまった。

「ま、兄さんにそんなん出来やんやろうな。絶対無理」

「……何でそう言い切れるんだよ」

「さぁ。何でやろうね」

 アロイスは片眉を上げわざとらしく肩を竦めた。仄かに光る彼の青灰色の瞳が全てを見透かしているようで、いちいち癪に障る。

「というか、何でそこまであの子を憎みたがるのか分からん。健気で普通に良い子やん。ちょっと大人し過ぎるけど」

「俺には、何でそんなことを聞いてくるのか分からない。お前だってさっき言ってたじゃないか。あいつは、」

「マクシミリアン・ダールベルクの孫、やろ?」

「……それだけで理由は十分だろ」

 止めていた手を動かしながら、ヴォルフは吐き捨てた。そもそもアロイスはそんなこと分かっていたはずだ。それなのにいちいち聞いてくるあたりが、本当にヴォルフの苛立ちを煽り立てる。正直こんな会話も続けていたくない。

 しかし、アロイスはしつこく聞いてきた。

「分からんな。ただ孫なだけやろ? そんなん理由になる?」

「なるだろ。ていうか何が言いたい」

「だって要はそれ、自分らがアジェンダ差別されてんのと変わらんやんか」

「何……?」

 思わずヴォルフはアロイスを睨み付けた。

 この男は一体何を言っている?

 アジェンダ差別と、何が同じだと?

「まぁ祖父さんがあれやから分からんでもないけど、あくまで孫なだけや。本人がどう思っとるか知らんけど、親以上に祖父母は選べやん。本人は何も悪さしとらんのに生まれで忌み嫌うのは、そういうことちゃうの?」

 違う。全く違う。

 ヴォルフたちは手酷い屈辱を与えられてきた。戦中は太陽の下を堂々と歩くことさえ許されなかった。戦後は多少緩和されたものの、アジェンダ人というだけで理不尽な思いをすることは多い。

 そんな自分たちを、何故あの娘と同じ次元で考えられなければならない? かつて率先して粛正しようとした元凶の愛孫などに。

 全く不本意すぎるアロイスの発言に、怒りが胸の中で渦巻く。

 しかし、何故だか否定の言葉が咄嗟に出てこなかった。

 ヴォルフはその視線から逃れるように手元の書類へ視線を落とした。

「……それ以外にも、あの作文だってあるだろ」

「わたしのおじいちゃんはヘルデンズ帝国の一番えらい人で、ってやつ? ラジオがしつこく流すせいで最初の文章覚えてもうたわ。でも、あれかてただの作文や。しかも書いたのは八歳の子ども」

「だから何書いても許されるのか? 違うだろう。ましてやあんなにひどい内容聞かされて、憎むなと言う方が無理な相談だ」

 実際にあの作文通り、多くのアジェンダ人がこの世から消えた。死と隣り合わせの過酷を存分に味わわされた。もちろんアジェンダに限った話ではないが、あんなことを書いた彼女を許せるはずもない。

「確かにな。そらそうやわ。やけど兄さん」

「何だ。しつこいな」

「ヘルデンズのことは嫌いちゃうんやろ? 特別な国やってこの前言うてたもんな」

「だから何だ。何でその話がここで出てくる」

「やったらヘルデンズ人に対してはどう思っとるん?」

「はあ?」

 ヴォルフは思いっきり眉間に皺を寄せてアロイスを見た。こんなことを聞いて、一体何のつもりなのか全く分からない。

 だがアロイスは、先程までのからかうような様子ではなく、やけに真剣な鋭い目をヴォルフに向けていた。適当に流そうとしても、この男は追及してくるだろう。

「……人によりけりだ」

「ってことは、恨みの対象ちゃうんや?」

「相応以上の制裁を受けただろう? 今更責める気はない」

「なるほど。でも兄さん。兄さんがそんな風に思えるヘルデンズ人のほとんどは、あの作文みたいなことを当たり前に思ってたで」

 ぴくりとヴォルフの眉間が震える。

 またこの話の流れだ。

 何か反論したいのに、何も言葉が出てこない。

「ラジオや新聞がいちいち過剰に取り上げるから余計に悪ぅ見えるけど、大人も子どもも当時はあんなん普通やった。やけど兄さんはそういうヘルデンズ人は許せてあの子は違うんや? ダールベルクを選んだのも一般のヘルデンズ人で、ダールの思うままにアジェンダ人を迫害したのも何でもないヘルデンズ人やのに?」

「それは……」

「よっぽどあの子よりそこいらのヘルデンズ人の方がえげつないで?」

 ヴォルフはぐっと奥歯を噛んだ。

 言われて頭に浮かぶのは、先日街で見た帽子屋の店主。戦中は強制収容所の看守として卑劣な行いをしていたあの男は、当たり前のようにヘルネーの街に溶け込み、それどころか元国家保安長官の娘を罵り嘲笑っていた。

 あの男だけではないだろう。かつてヘルデンズ軍として、いや、ヘルデンズ人として傲り高ぶり悪逆を尽くした人間は、当たり前にそこら中にいるのだろう。自身の過去の所業を棚に上げる者も。

 考えてみれば虫唾の走ることであるが、だがアロイスに言ったとおり、彼らはそれなりの代償を支払わされているはずで――。

『私、どうして生きているんだろう』

 突然、あの言葉が頭に響いてきた。森で逃げている最中に見た白いおかっぱ頭の、あの虚ろな瞳が、鮮明に脳裏に思い出される。

 大戦犯の孫だからと父親に殺されかけた彼女。右半身には消えない火傷の痕がくっきり残り、そういえばそのせいで児童施設ではいじめられていた。母親を亡くし、頼れる者のいない状況で国家権力に狙われ、世界からはその血筋故に悪者扱い。

 たった十六歳の少女が、それら全てを背負って生きてきた。

――いや、惑わされるな。あいつはあのとき親父を……。

 いつの間にか完全に手が止まり呆然と立っているヴォルフに、アロイスはやれやれと肩を竦めた。

「まぁ、もっと別の理由が兄さんにはあるのかもしれやんし、こんなん理屈で言うたところでどうしようもないけどな」

「……ふん。ていうか何でお前があいつを庇おうとするのかが分からない。俺たちとはやっぱり感覚が違うからか?」

 当たり前にヤーツェクやゼルマたちと馴染んでいるせいで忘れかけていたが、アロイスは非アジェンダのヘルデンズ人。戦中はヘルデンズ軍で軍医をしていたとのことだ。当然ヴォルフ達とは価値観が違うのだろう。

 散々言い負かされた感じがして面白くなかったヴォルフは、少し嫌味っぽく言ってやった。するとアロイスは、それまで楽しそうに細めていた瞳を丸くし、そして自嘲気味に笑った。

「そうやね、確実にちゃうわな。それで言うと、今は反オプシルナーヤの活動なんかしとるけど、正直僕も自分の潔白を証明できやんと思うわ」

「どういうことだ?」

 やけに意味ありげな物言いに疑問を感じないはずがない。

 しかしアロイスはわざとらしく肩を竦めるだけだった。

「ま、そういう奴らがごろごろおんのにブランカちゃんばっかり責め立てられるのは、なんかちゃう気がするもんで。本人知ると余計にな」

 アロイスは再びニッと笑みを浮かべた。だがそれは、いつもの高慢で愉快そうなものではなく、どこか感慨深いものが滲み出ている。

 ヴォルフはふんと荒く息を吐いた。

「人には散々聞いといて」

「兄さんは割と律儀やんな。感心感心」

「そりゃどうも」

「やからこそ、最初に言うた通り、兄さんはあの子に寄り添えると思うんやけどな。あれこれ理由付けても何だかんだで心配してしまっとるわけやし」

「だからそれは――……っ」

 咄嗟に言い返そうとしてヴォルフは途中で言葉を詰まらせた。勢いよく口から出掛けた言葉に、はっきりと違和感を覚えた。

 口の中で舌打ちする。

「そっちこそ、そんな風に言うならいい加減あいつを外で働かせるのはやめろ。っていうかこういう書類整理こそあいつにやらせろよ」

 そう、ブランカがヴォルフを避けるようになってからも、相変わらずアロイスは彼女を外に働かせていた。工場、編集社、仕立屋、農協や役場など、アロイスの知り合いが働いている職場に送り込んでは雑務をさせているらしい。しかも午前と午後で別のところに向かわせているとか。

 ヴォルフは何度もアロイスとブランカを説得して止めようとしたが叶えられず今に至るわけだが、彼女が無事に帰ってくるのか気が気じゃない。などと口にしようものならまたアロイスにからかわれてしまうのだろうが。

 案の定、アロイスはくすりと笑った。

「それとこれとは話が別や。むしろブランカちゃんにとっては必要やと思うで。これでも全然足らんけどな」

「何だそれ、わけが分からない。というかそれ以前に例の件・・・から手を引け」

「それもまた無理な相談や。兄さんも街で見たんやろ、この国の現状。まぁ自分が見たのは東ヘルデンズのごく一部でしかないけど」

 指を差してニッと笑みを浮かべるアロイスから目を逸らしながら、ヴォルフは数日前の記憶を頭に呼び起こした。

 一人の少女を大人たちが寄って集って嬲り、見ている人もそれを煽る光景はヴォルフの中でかなり不愉快すぎるものだったが、もう一つ印象深かったもの。それは蛮行を働くオプシルナーヤ人に対してあまりに無気力なヘルデンズ人の姿だった。

 交通事故ですらあんな有様だったのだから、新聞で報じられているような企業の買収なども、彼らはすんなりと受け入れてきたのだろう。この先東ヘルデンズがオプシルナーヤに吸収されたらどうなるのか目に見えているというのに、今のままでは、彼らは否を唱えることすらしないだろう。

「兄さんも知ってるとおり、アレ・・は脅威や。確かに僕らレジスタンスグループが持つには余りすぎる代物しろもんやけど、使い方によっては――……」

 言いかけてアロイスははたと止まった。それまで堂々と話していた彼の表情が、妙に翳っていく。

それどころか、アロイスは口元に手を当て眉根を寄せ、考えるようにヴォルフをじっと見た。

「なぁ、兄さん。あの子、アレ・・の存在知ってんの?」

「そんなの――」

 知っているはずだ、と言おうとしてヴォルフは最大の失態に気が付いた。

 考えてみればヴォルフの任務の件について、ブランカに詳しく説明したことは一度もない。そもそも彼らが求めているのは彼女が握っている情報で、ならば彼女の身柄を捕獲すればいいと思って動いてきたが、もしそれが記憶として彼女の中にあるのならば、それに対して何らかの反応があっても良さそうなものだ。しかし彼女は自身がブラッドローやオプシルナーヤから追われている理由をいまいち理解していなそうだった。

 あれが演技でないのならば、もしかして彼女は本当にアレ・・を知らないのだろうか。それとも別の形で彼女が手にしているのか。

 いずれにせよ、一度その存在を確認しなければ、今までのこともここでの会話も全て水の泡だ。

 急速に湧き上がってきた懸念に、ヴォルフが息を飲んだその時だった。

「ただいまー。帰ったぜー」

 のんびりしたヤーツェクの声が、玄関から聞こえてきた。

 ヴォルフとアロイスは互いの顔を見合わせると、足早に廊下に出た。

 しかし目的の少女の姿が、ヤーツェクの隣になかった。

「ヤーツェク、ブランカちゃんは?」

 アロイスがやや厳しい口調で問い詰めると、ヤーツェクは何が何やらと言った様子で目を丸くする。

「あれ、帰ってないのか? 職場に迎えに行ったら先に帰ったって言ってたんだけど」

「何だと!? おい、アロイス! 今日は十番街の印刷会社だったよな?」

「そやけど、って兄さん、ちょい待ちや!」

 だがアロイスの制止の声は、ヴォルフにはもはや聞こえていなかった。

 ヴォルフはなりふり構わず外に飛び出した。

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