11.身の程知らず
同じ頃、ブランカは金属をひたすらL字に曲げていた。
プレス機のL字仕様の隙間に金属板を設置し、レバーを下げて曲げる。難しいことを考える必要のない非常に単純な作業だ。
そういう単純作業をしているときこそ、余計なことを考えてしまうものだ。
ブランカの頭の中では、ずっと今朝の光景が再生されていた。
ベッドの上で抱き合いながら熱く口づけをしていたヴォルフとゼルマ――。
――何をショックに受けているの……。
考えてみればおかしいことではない。恋人同士であればキスやハグなんて当たり前にする。当然ヴォルフにだってそういう相手がいても不思議ではない。普通にあり得ることだったのだ。
少し考えれば分かること。しかしブランカはあまりにそういうことと無縁に生きてきたため、その光景に頭を鈍器で殴られたかのような衝撃が走った。喉の奥が苦しくなって、そして泣きたくなったのだ。
――ああいう光景をこれからも見るのかしら……。
十年ぶりに再会したというヴォルフとゼルマ。ゼルマは彼のことを初恋の相手だと言っていたが、もしかすると元から二人はそういう関係だったのかもしれない。そうでなくともあんなに魅力的な女性なら、ヴォルフだって惹かれるだろう。
想像するだけで、心が引き裂かれそうになる。
――だけど私がとやかく言うことではない……。
分かり切ったことだ。
何故なら自分は――。
「お、早いねー! 頼んだ分、ほとんど出来てんじゃない?」
突然話し掛けられ、ブランカは思わず身体を揺らした。
振り返ると、近くで作業をしていた男性が、ブランカの足元にある数個の木箱をにこやかに覗いている。その一つにはブランカが今曲げていたL字金具が入っているが、その隣にはV字、その隣には穴あきと、今朝からブランカがプレス機を用いて作った金具の箱が数種類並んでいる。
「結構作ったねぇ! いやぁ、アロイスに頼まれたときはおじさん驚いちゃったけど、よく働いてくれて助かるな、なぁヤーツェク!」
「あぁ、うちでもよくやってくれてるけど、あんまり無理するから逆にヒヤヒヤするぜ」
機嫌良く手を叩く男性の後ろから、休憩に入ったヤーツェクが呆れ口調で近づいてきた。
同じ作業場には金属を打ち付ける音や甲高い溶接音が鳴り響いている。要するにここは金属加工工場だ。主に自動車や重機、電気製品などに用いる部品を作っている。
従業員のほとんどはアロイスの家の近所に住んでいる人たちばかり。そのうちの一人が今日ちょうど病欠のため、その代わりにブランカを寄越したという話になっているらしい。
もっともこれには別の理由もあるのだが。
「なぁ、そういえば、あんたの彼氏、大丈夫だったのか?」
ふと、別の男性が尋ねてきた。
耳慣れない言葉に、ブランカは頭に疑問符を浮かべる。
「彼氏?」
「おいおい、何だよーとぼけてんのかあ?」
「いやぁー反応が初々しいねぇ!」
ブランカの反応に、男性たちは陽気に笑って盛り上がる。
全く話についていけない。
『彼氏』だなんて人、当然ブランカにいるはずもない。
すると。
「――あいつ、今ゼルマと街に遊びに行くくらいぴんぴんしてんぜ」
ヤーツェクが男たちの会話に割り込んだ。やけに言葉に刺が含まれているのは気のせいだろうか。
しかし、ブランカはようやくそれで察した。
そういえばこの人たちは二日前の夜にヴォルフをアロイスのところへ運んでくれたが、まさかそういう認識で通ってしまっていたのかも知れない。
早く訂正しなければとブランカが急いで言葉を探していると、男性二人はヤーツェクの発言を受けてハッとブランカを気にするように口を塞いだ。
「そ、そうだったんだな。野暮なことを聞いちまって悪かったな」
「相手が悪かったな……嬢ちゃん、他にいい奴見つけろよ」
男性二人はあたかもブランカが失恋したかのような物言いをして励ましてくるが、それすらも誤解であるとどう言えばいいのだろうか。いや、あながち間違ってもいないが、そもそもブランカはその土俵にすら立てていない。
分かり切っていたことなのに、改めてそれを認識すると、心の痛みが増してくる。
「はぁ、お前ら好き勝手言い過ぎだろ。ブランカの気持ちも考えろよなぁ」
「いやだってゼルマが相手じゃあなぁ。あんな爆乳近寄ってこられたら、冷静でいられる自信ねえ」
「おいおい、それ奥さんに言いつけるぞ」
おじさん二人が陽気に笑い合っている横で、ヤーツェクが呆れたようにため息を吐いて、ブランカの方へ向き直った。
「ったく。ゼルマはともかく、あんたも言いたいことあるんなら、溜め込んでないでちゃんとあいつにぶつけろよ。言われっぱなしはむかつくだろ?」
「そんなことは……彼の言うことももっともだと思いますし……」
確かにもやもやするが、逆にブランカがヴォルフに何を言えるだろうか。
彼に対して不満を抱くことなど、お門違いに思える。
「はぁ、どんだけ良い子なんだよ、あんたは。そうやって遠慮してたって、あいつは振り向いちゃくれないぞ」
「振り向く……」
ヤーツェクの言葉がすっと入ってこない。
果たして自分はヴォルフを振り向かせたいのだろうか。
ブランカは咄嗟に心の内で否定した。
そんな身の程知らずなこと、思うはずがない。望めるはずもない。
そもそもブランカは彼に憎まれているし、そうでなくとも誰かに恋心を抱くことすら、おこがましい――。
『――わたしのおじいちゃんはヘルデンズ帝国の一番えらい人で、世界を今よりももっとよくするために、毎日一生けんめいはたらいています』
突然、スピーカーからそんなフレーズが流れてきた。
タイミングを見計らったかのように聞こえてきたそれに、ブランカはハッと凍り付く。
それまでBGMでしかなかったラジオ番組が、たちまちはっきりとした音となって、雑談していた人たちを一瞬にして黙らせた。
『おじいちゃんがいつも言っていることがあります。それは、わたしたちヘルデンズ人が、世界で一番とうとい民族だということです。めずらしい発明品を作るのも――』
間違いない。これはブランカが八歳の時に書いた作文だ。
一ヶ月前、フラウジュペイ語に翻訳されて聞いたそれを、今度はヘルデンズ語で読み上げられる――ブランカが昔書いたままの言葉だ。
あまりに生々しく、ブランカは耳を塞ぎたくなった。
「おい、局替えろよ。こんなの聞きたくもねえ」
ヤーツェクがラジオの近くにいた男性に向かって言った。あからさまに不快さを滲ませている。
ラジオのチャンネルはすぐに替えられるが、重苦しくなった空気は、すぐには変わらなかった。ヤーツェクも、さっきまで陽気に盛り上がっていた男性二人も、険しい表情をしている。
「何だってあんなの何回も流すんだか。ジジイ崇拝の孫の作文聞かされて誰が喜ぶんだよ」
「そうやってちょっとでもオプシルナーヤへの反感を逸らす魂胆だろ? 奴らの思惑通りなのは悔しいが、確かに胸くそ悪いよな、今の作文は」
「あんなガキのために……っ」
各々が、さっきの作文に――それを書いたマクシミリアン・ダールベルクの孫に、怒りを示す。中には何も言わずに作業を再開する人もいるが、その背中から深い悲しみが溢れているのが分かる。
ブランカは逃げ出したい気持ちを抑え込みながら、静かに自分の作業を再開する。
しかし、彼らの会話は容赦なく耳に飛び込んでくる。
「にしても、あの子も憐れだよ。誰よりもダールの洗脳を受けていたんだろ。あんな子どもにあんなこと書かせるなんて、まるで操り人形だよなぁ」
「プロパガンダに使える良い道具なら、孫も関係ないんだろ」
嘲笑混じりに話す二人の会話に、ブランカは思わずプレス機を操る手を止めてしまった。
――プロパガンダに使える、良い道具……。
その言葉に、ひどく違和感を覚えた。
手の震えが大きくなり、目の前がぼやけ出す。
「おい、いい加減そんな話やめろよ。ダールベルク関連の話なんざ聞きたくねえ」
ヤーツェクが鋭く二人の会話を一刀両断した。ドスすらも利かせたそれに、男性二人は「悪かった」とすぐに口を噤み、作業に戻っていく。
「――で、ごめん。何の話してたっけ?」
ヤーツェクは自身を宥めるように深呼吸をしてから、ブランカに向き直った。さっきの会話はまだ続いていたようだ。
しかし、今のラジオと男性たちの会話を聞いた後で、すぐに平常通り振る舞えそうになかった。
「あの、これ、倉庫に運んできます」
「え? あ、手伝うよ」
「構わないです! 重くないので!」
ブランカは足元にあった木箱を近くの台車に載せ、ヤーツェクの申し出を振り切ってその場から逃げた。後ろで「振られたな」などと男たちがヤーツェクに声を掛けるが、ブランカの耳には届いていなかった。
考えないようにしていたが、当然だ。
ここで働いている人のほとんどはメルジェーク人とアジェンダ人。一方は祖国を破壊され、一方は民族ごと虐殺された。さっきの人たちも確実に大切なものを失っている――あんな作文を書いたクラウディア・ダールベルクのために。
そのクラウディア・ダールベルクが同じ作業場にいるなんて、一体誰が考えるだろうか。本当のことを知ったら彼らがどうなるのか、一目瞭然だった。
分かっていて彼らに紛れ込んでいる自分自身が嫌になる。抑え込んでいた罪悪感が、せり上がってきた。
それなのに、彼らの言葉に、ブランカは反感を覚えてしまった。
――操り人形だなんて……。
ブランカは倉庫の中に入ると、作業服の内ポケットに入れていたブローチを取り出した。
輝きの失ったゴールド色は、唯一手元に残った祖父との繋がり。
これをもらったときのことは、今でも鮮明に思い出せる。あのやつれた笑顔も、切実な懇願も、父に没収されてしまった薄萌葱色の手紙も――ひどい内容だったけれど、それらを通じてクラウディアに向けられた祖父の想いは、おおよそ孫を道具として操るためのものとは思えなかった。
クラウディアだってそうだ。
確かに偏った教育を受けていたし、祖父の所業もきちんと理解していなかったからこそあんな作文を残してしまったが、洗脳なんかされていなかった。少しでも祖父の心労が和らぐようにと、八歳のクラウディア自身が心から願って書いたものだった。
愚かな内容で正当化するつもりは一切ないけれど、一人の孫として祖父を慕う気持ちは、本物だった。
それを操り人形などと、プロパガンダの良い道具などと、揶揄され否定されるなんて。
――それで、いいじゃない。
ブランカはゴールドのブローチを握りしめた。
この期に及んであんな言葉に腹を立てるなど、どうかしている。
あんな人の孫に生まれたばかりに、ブランカは愚かな作文を書いて、消えない罪を残してしまった。罪悪感に塗れた真っ暗闇で、誰もを裏切るしかない苦痛を強いられた。
当たり前に誰かを信じ、幸せを望むことすら許されない。
こんな世界に突き落としたのは、他ならぬ祖父だというのに――。
「はあ、何でだよ!? 何でそんなことになってるんだよ!」
事務室から、激しい怒声が響いてきた。
大きな物音も聞こえてきたので、ブランカは気になって覗きに行った。
事務室の奥の一番良いデスクの前で、作業服姿のアジェンダ人男性が、椅子に座っている男性――おそらく工場長へと掴みかかっていた。
「あそこはうちの大事なお得意様だろ!? あそことの契約無くしたら、うちがどれだけ厳しくなるのか、分かってんのかよ!?」
「分かってる……分かっているとも……。しかし相手はオプシルナーヤ系列の会社で、先方にもこちらにも圧力を掛けられて……どうすることも出来なかった……」
「何だよそれ! それで仕方ないで済ますつもりかよ!? 一体これで何件目だと思ってんだよ!!」
アジェンダ人男性は、工場長を椅子から投げ飛ばした。
異変を察知した他の作業員が駆けつけるが、アジェンダ人男性は構わず続けた。
「あんたらヘルデンズ人は昔からそうだ! 昔はダール、今はオプシルナーヤ。いっつも上の言いなりじゃねえか! 自分の工場くらいまともに守れねえのかよ!!」
「オプシルナーヤの……軍部に絡まれては、私たちに為す術はないんだよ……」
「それは
「おい、やめろよ!」
仲裁に入った人たちが工場長からアジェンダ人男性を遠ざけるが、彼の悲痛な叫びに、工場長はひたすら申し訳なさそうに顔を伏せていた。
ブランカは事務室の前から一歩下がった。
この会話を、長く聞いていたくなかった。
オプシルナーヤ軍部が絡んだ企業契約の破棄。嫌な予感がした。直接関わっていなくとも、そういう政策にあの人は関与しているはずだ。
のしかかる罪悪感が、一層重くなる。堪らなくなって、ブランカは少しずつその場から遠ざかる。
そのとき、工場長の震えた声が、耳に飛び込んできた。
「確かに情けなくて、すまないが……昔も今も、こうなったのは全てマクシミリアン・ダールベルクと――さっきの孫のせいなんだよ……。我々は従うしか無かったんだ……」
瞬間、ブランカは作業服の内ポケットを押さえた。
息が詰まりそうになる。
――全て、私たちのせい……。
その通りだ。
ヘルデンズ人にしても、メルジェーク人やアジェンダ人にしても、それ以外の人たちにしても、マクシミリアン・ダールベルクは極悪非道な大悪党でしかない。その祖父を敬い誇り、未だに忘れられずに庇い立てしようとする自分は、なんと愚かで罪深いことだろうか。
おまけにブランカにはもう一つ、邪悪な繋がりがある。
ヘルネーで暮らす人たちを、東ヘルデンズに住む人たちを苦しめるオプシルナーヤ軍の高官ギュンター・アメルハウザー。
――私は、ここにいてはいけない……。
「あれ? 外にいるの、ゼルマじゃないか? 隣のアジェンダは、あんたの連れか?」
ふと近くにいた男性が、窓の外を見ながらブランカに声を掛けてきた。
彼が指差す方向に目を向けると、工場の裏の駐車場にスクーターを停めるヴォルフとゼルマの姿があった。そこから入り口の方へ二人は向かうが、ヴォルフが僅かに笑っているように思えた。
彼のそんな顔を見るのは、いつぶりだろう。
ゼルマもとても綺麗で、二人とも、とてもお似合いだ。
きゅっと胸が締め付けられる。
「あいつら何しに来たんだよ。おい、あんたも何とか言ってやれよな」
いつの間にか近くにいたヤーツェクがブランカに耳打ちしてくるが、ブランカは無表情に首を横に振った。
「倉庫で作業をしています」
それだけ言うとブランカは倉庫に閉じ籠もった。
入り口の方からヴォルフとゼルマ、そしてヤーツェクの声が聞こえてきたが、ブランカはそれを聞かないフリをした。
ブランカは再び作業服の内ポケットからブローチを取り出した。
「私が一体、何を望めるの……」
クラウディア・ダールベルクである自分が、ヴォルフに一体何を言えるものか。
存在しているだけでも罪深いのに、あんな作文を書いて、彼の父を死なせ、重傷を負わせてしまった。それでいて、未だにこのブローチ一つ捨てられずにいる。
そんな自分が、二人並んだ姿に胸を痛めるなど、なんと身の程知らずだろう。
――早く……アロイスさんの条件を叶えないと……。
自分はこの町に居続けるわけにはいかない。
仮に父の脅威を逃れられても、自分の存在は必ずこの町の人を脅かし、ヴォルフを危険に晒す。
一刻も早くヘルネーから立ち去らねばならない。
ブランカは改めてそう決意した。
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