10.運河の対岸
ひととおり街を走りきると、ゼルマご所望の南の運河へ辿り着く。
そこは他の悲惨な光景とは打って変わり、美しく整備されている。
歴史を感じさせる石畳の道路と、橋や道の至るところに施されたモダンな細工は絶妙なバランスで溶け合い、洗練された雰囲気を醸し出している。もともと観光スポットであるここは、戦後に新たに建て直されたらしい。
運河沿いには色とりどりの露店が並び、市内の他の地域よりも活気づいているように見えるが、それまでの景色とのギャップにヴォルフは付いていけなかった。
話半分で考え事をしていると、突然至近距離にゼルマの顔が現れる。
「ぅおいっ! びっくりした。いきなり驚かせんなよ」
「びっくりした、じゃないわよぉ! ずぅっと考え事してるんだからぁ」
「わ……悪い」
「まったく、さっきのことが気になっているのかもしれないけど、そういうの良くないわよぉ」
全くの図星でゼルマの言うとおり、先程の理不尽な一件が衝撃過ぎて、ずっと後を引いている。そのため、ここに来るまでゼルマとどんな会話をしていたのか、全く覚えていない。
流石にこれはゼルマには申し訳ないことこの上ない。
「しかし、来たはいいが、俺今一文無しだから大したこと出来ないぞ」
「ほらぁ、全く聞いてなかったじゃなぁい! 今日は見て回るだけってあたしさっき言ったわよぉ?」
ヴォルフは口噤んだ。失言に次ぐ失言で、今日の自分は全く面目ない。
「ヴォルフってば夕べ起きたばかりだっていうのにずぅっと難しい顔をして。早死にするわよ?」
「そうかもしれないな」
冗談めかして返すが、自分の職業を考えれば、あながちその未来はあり得なくない。
ヴォルフの真意は伝わってはいないだろうが、ゼルマは「もぉ」と分かりやすく頬を膨らませた。
「とにかく、あなたは今はリフレッシュしなくちゃいけないんだから、難しいことは今日はもう無し! あ、ほら見てぇ。この帽子お洒落じゃなぁい?」
ゼルマはちょうど前を通りかかった露店の棚からベージュ色の小振りなハットを手に取り、それを被ってヴォルフを見上げてくる。こちらに向けられた形良い微笑みは、ヴォルフの感想を求めているのだろう。
「いいんじゃないか?」
「ちょっとぉ、もうちょっと気持ちを込めて言ってよねぇ。あ、ヴォルフはこれ似合うんじゃないかしら?」
ゼルマは手近にあった帽子をヴォルフの頭に載せると、嬉々として喜んだ。そうして別の帽子を取っては頭に被せて鏡の前でポーズを取り、楽しそうに遊んでいる。その姿にやれやれと肩を竦めるが、同時に彼女の明るさに、少しだけ気持ちが和む。
「ねぇ、覚えてる? あたしたち昔、こういう帽子使って大道芸ごっこしたわよねぇ」
「そんなこともあったな。確か全く儲からなかったんじゃなかったっけ?」
「それはヴォルフのダンスが下手だったからよぉ」
「お前のダンスも悲惨だっただろう」
「だけどこの十数年で成長したのよぉ?」
ゼルマはヴォルフから一歩距離を取ると、スカートの裾を持ち上げステップを踏む。南フィンベリー特有の民族ダンスだ。複雑で難しいことで有名なそれを、ゼルマは華麗な足取りで踊りきる。
得意げな顔で最後にポーズを決めると、周りから拍手が湧き、ゼルマは楽しそうに会釈した。そう言う姿を見ながら、ヴォルフは知らず笑っている自分に気が付いた。
確かにこういう時間も悪くない。というより不快なことが続いていたからこそ、こういう穏やかなひとときには救われる。そう思えるのも、古くから親しんだゼルマが相手だからなのかもしれない。
いきなり迫られたときには困惑してしまったが――。
その瞬間、別の顔が脳裏に浮かび上がる。
まっすぐにこちらに向けられた瞳は、ちょうど目の前の網に掛かった翡翠のペンダントのようで――。
「――ねぇ、待って! お願いだから話を聞いて!」
突然、泣きそうな声が、少し離れたところから聞こえてきた。ヴォルフとゼルマは気になってそちらを観察する。
運河沿いの反対側で、女が男に、泣いて縋っていた。
「ねぇお願い! 心からあなたのこと愛してるの! あなた無しでは生きられない! だからお願い、別れるなんて言わないで!」
「君には心底がっかりだよ。もう見たくもないけれど、うちに帰るまでは許してあげる。帰ったらすぐに荷物をまとめて出て行ってくれ」
「待って!!」
二十代にも満たないほど若いその女は何度も男を引き止めようとするが、二十代半ばと思しきその男は、取り繕う島なく冷たく突き放す。こんな往来での痴話喧嘩は、格好の見せ物だ。周りにいる人たちは薄ら笑いを浮かべ、ゼルマは「みっともないわねぇ」と呆れ返っている。ヴォルフもゼルマに同感で、その二人を意識から逸らそうとした。
しかし、彼らの続きの会話に、とんでもない爆弾が落とされた。
「あなただって、さっきは私を愛してるって言ってくれたわ! ねぇ、そうでしょう!?」
「ああ、言ったさ愛していたさ、さっきまではね! 僕は君が身寄りのない可哀想な子どもだったから面倒を見ていたのに、まさかそれがダール時代の国家保安長官の娘!? 市民を痛めつけていた極悪人じゃないか!」
聞こえてきた単語に、ヴォルフは再びその男女へ視線を向けた。呆れ返っていた周りの人たちの表情も、一瞬にして変わっている。
そんな視線にも構わず、女は泣きわめいた。
「確かに私はそう言ったわ! 父がどんなことをしていたのか、知っている。だけど私は無関係よ、父の所業に何も関与していない! あなたも知ってるでしょう、私子どもだったんだから、何も出来るはずがないわ!」
「そんな理屈が通るものか! どうせ君は僕たちがダールに酷使されているときも、高見の見物をしていたんだろう? それで父親が死んだら難民のフリか、なんてことだ。そんな穢らわしい女をまんまと囲っていたなんて、あぁ自分にも腹が立つ。みなさん! ここに僕らを苦しめた悪党の娘がいますよ!」
「待って! 話を聞い――っきゃああ!!」
どこからか飛んできた石が、彼女の頭に直撃する。周りで見ていた一人が投げたようだ。その人が続けて石を投げると、他の人たちも次第に一緒になってその女に物を投げ始める。
男はその隙に彼女の前を去っていく。女は「私は何もしていない!」と声を上げ男を追い掛けようとするが、物を投げていた一人に殴られその場に崩れ落ち、やがて取り囲む人々の壁で見えなくなっていった。
どこかで見たような光景に、ヴォルフは絶句する。
「今日に限って嫌なものばっかり見るわねぇ。だけど、同情は出来ないわねぇ。国家保安長官ってアジェンダ狩り進めた人でしょう? そんな人の娘が正体を隠してぬくぬく生きてきたなんて、虫がいいわよねぇ」
ゼルマは言葉に刺を含ませ言った。
彼女の言うとおり、ダール体制時代の国家保安長官と言えば、ヘルデンズとその支配国でアジェンダ人や反乱分子などの取り締まりを推し進めていた人物だ。当然ヴォルフ達アジェンダ人の敵であり、長引く戦争のため過酷な労働や出征を強いられることになっていたヘルデンズ人にとっても、邪悪な存在でしかない。当人が戦犯として死刑された後でもその怒りが簡単に消えるはずもなく、むしろオプシルナーヤによる支配によって圧力を掛けられているため、そのはけ口が娘に向くのも無理はない。
しかし、ヴォルフは何故か、いい気味などと思えなかった。
何より、交通事故の時には怒りすらも表さず、皆諦めたように無気力だったというのに、あの娘を取り囲んでいる人たちは、思い出したかのように怒り狂っている。そのギャップが、ヴォルフにはあまりに異様に思えた。
また、女の言っていた言葉に、数日前に聞いたロマンの言葉が蘇る。
『僕の目の前にいたのは、体中焼き焦げて今にも死にそうになっている、たった十一歳の小さな女の子――』
「――あの子も馬鹿だよなぁ。どうせこうなること分かっていたんだから、正体隠すなら隠し通せばよかったものを」
ちょうどヴォルフ達が見ていた帽子屋の店主が、ゼルマの愚痴に乗り、話し掛けてきた。ゼルマが「それもそうよねぇ」と応じて振り返るので、ヴォルフもつられてそちらを見た。
瞬間、ヴォルフは凍り付く。
ヴォルフよりもやや年上そうな帽子屋のその店主を、彼は知っている。
「ま、幹部の娘で贅沢暮らしをしていたツケが回ってきたことなんだろうけどな!」
この男はヴォルフに気が付く様子もなく、運河の向こうでリンチに遭っている女を見ながら、嘲笑気味に言った。ゼルマや周りにいた人たちはこの男に同意するが、ヴォルフは不愉快でならない。
「おい、行くぞ」
「え、ちょっとヴォルフ?」
無理矢理ゼルマの腕を掴んでヴォルフはその場を離れる。後ろから帽子屋の店主が「またいらしてください」などと暢気な声を掛けてくるが、それはヴォルフを更に苛立たせるばかりだった。
何故ならその帽子屋の店主はヴォルフがかつて入れられていた強制収容所の看守だった男で、中でも悪質な虐待を日常的に行っていた一人だった。彼が収容所仲間を殺していたところも、何度か見たことがある。
――贅沢暮らしのツケが回ってきただと?
一体どの口が言っているのだろうか。そもそもこんなところでぬくぬくと当たり前のように生活していることが信じられない。
「ねぇ、ヴォルフ? 怒ってるの?」
「悪い。流石に今のは俺も気分が悪かった」
「そう……あなたも色々あったものねぇ」
ゼルマは「軽率だったわ」と謝ってくるが、おそらく彼女はヴォルフの怒りの理由を正しく理解していないだろう。
ヴォルフは運河の対岸を見た。
ようやく到着した警察が、娘を取り囲んでいた人たちを抑え、同時に駆けつけた救急隊員が娘をその場から運び出す。
娘の無実の真偽はともかく、果たして取り囲んでいた人たちの中に、戦中の無実を本当に主張できる人は、どれほどいるだろう? あの帽子屋のフリをした元看守のような人物が混ざっているのだと考えると、虫唾が走る。そうでないとしても、大の大人が寄って集って一人の娘を嬲る光景は、ただ異様で不快でしかなかった。
オプシルナーヤの横暴もひどいが、ヘルデンズ人にもまだ問題があるのだと、改めてヴォルフが認識した瞬間だった。
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