4.アロイスとヤーツェク
「そこのベッドに寝かしたって。僕は器材用意してくるから、手の空いとるやつ、その兄さんの身体綺麗にしたって」
「アロイス、何か必要なものがあったら言ってくれ」
「じゃあ着替え頼めるか? 僕のじゃ絶対入らんし、ヤーツェクの数少ない服奪って逆にこいつ風邪引かすわけにいかん」
『
その中で自分が黙って見ているわけにはいかない。
「あの、私は何をすればいいですか?」
ブランカは別室に器材を用意しに行こうとするアロイスを捕まえて尋ねた。
すると彼は、ブランカよりも少し高いところある青灰色の目を大きく見開き、彼女の身体を頭から足元まで眺めてきた。瞬間ブランカはまずいと思った。
自分たちは今ヘルデンズにいる。当然そこにいるのはヘルデンズ人。どの国の人よりもクラウディア・ダールベルクについて認知しているはずだ。いくら昔と容姿が変わり果てたとは言え、流石に彼らの目を誤魔化すのは難しいのではないか?
そんな不安がよぎったものの、どうやらここでは杞憂だった。
「君はまずシャワー浴びて来や」
アロイスはニッと口角を持ち上げて言った。
予想外の返答にブランカは目を丸くする。
「自分、めっちゃ酷い格好やんか。この兄さんの世話したいんやったら、まずは清潔にしやんと。ヤーツェク、この子を浴室に案内したって」
するとアロイスよりも頭一つ分背の高い男性が、ブランカの前に寄ってきた。よれたシャツに無造作に伸ばされた黒髪は野性的なのに、こちらに向けられたヘーゼルグリーン色の瞳はどこか理知的だ。彼こそ三週間前にダムブルクに現れたロマンの友人ヤーツェク・ルトワフスキであるが、当然ブランカはそんなことは知らない。
「それは構わないが、この子の着替えもどうする? ゼルマに頼んでくるか?」
「ああ、それなら俺が行ってくるよ。娘かゼルマのを借りてくる」
別の男性が二人の会話に割り込んでそう言った。
とにかく誰も彼もブランカ自身のことを気にする様子はないようだ。自分の素性一つにもヴォルフの命運が掛かっているので、この状況に内心でほっとする。
「よし、じゃあこっちは諸々の説明だな。嬢ちゃんこっちだ」
アロイスの指示通り、ヤーツェクがブランカを促した。
するとそのとき。
「<貴様ら! こんな時間に何を騒いでいる!>」
表の通りから、大きな恫喝が聞こえてきた。
聞こえてきた言語はオプシルナーヤ語。ブランカは恐る恐る窓の外へ視線を向けた。
夜の闇に紛れるようにして現れた紺色は、先ほどまでヴォルフが着ていた服と同じもの――オプシルナーヤ兵だ。
――嘘……もう見つかってしまうの?
「<俺らの目を忍んで集会か!? バカ共めが! 一体何を企んでいる!>」
兵士は着替えを取りに行った男達に銃を向けて荒々しく脅かしている。彼らは「
「やっぱり来てもうたか、見回り兵。まぁ、ティモがあれだけ騒いどったからなぁ」
アロイスがブランカを隠すようにして窓と彼女の間に立った。見れば彼もヤーツェクも部屋に残っていた他の男性も、みな張り詰めた表情で表のやりとりを眺めている。
兵士はひたすら頭を下げる男達の様子にふんっと鼻で笑うと、そのうちの一人の腹を蹴り飛ばした。
「<メルジェークとアジェンダのゴミが、調子に乗りやがって。一体誰のお陰で生きていられると思っているんだ。もっとヘルデンズ人みたく大人しくしていることだな。おおっと、人殺しのヘルデンズ人にデカイ面が出来るわけもなかったなあ!>」
兵士は倒れた男性の腹にもう一つ勢いよく蹴りを入れると、高らかに笑いながらその場を去っていった。
「くそっ何なんだよ、あいつら! 調子に乗ってんのはどっちだよ!!」
ヤーツェクが苛立ちを顕わに歯を軋らせた。他の男性たちも悔しげに顔を歪めている。ブランカにしてみればひとまず難を逃れられたわけだが、今の兵士の言葉が頭に引っかかっていた。
――メルジェークとアジェンダとヘルデンズ人……?
そのアジェンダ人というのはおそらくヴォルフのことではないだろう。というのも、彼を運んでくれた男達の中に、ヴォルフのような赤みがかった茶色の髪と瞳、彫りの深い顔立ちの人が数人混ざっていた。先ほどのゼルマやティモもそうだ。ここに来るまで意識してもいなかったが、さっきの兵士は彼らのことを指していたのだろう。
それではメルジェーク人とは――。
「これでは下手にここに出入りするわけにはいかなくなったな。まだ他にも見回りがいるかもしれない。重体の人間がいると知ったら、奴ら嬉々として殴り込みに来るぞ」
同室にいた男性が悩ましげにため息を吐いた。彼の言葉に他の者も同意の色を示している。
「こればかりはしゃーない。この場は解散や。外の奴らにも言うといて」
「ああ分かった。兄ちゃん、助かるといいな」
部屋に残っていた他の男性たちはブランカに一言そう残すと、外の様子を窺いながら瞬く間に出て行った。外にいた男性達もアロイスの伝言を聞くと、すぐさま夜の闇へと紛れていった。
「さ、僕はこっちの兄さんやるから、ヤーツェクはその子よろしく」
「ああ、嬢ちゃん、こっちだ」
「え――は、はい」
場の空気を入れ換えるかのようにアロイスがパンと手を叩くと、部屋に残ったままのヤーツェクがブランカを促した。
ブランカは曖昧な返事を返しながら、ヤーツェクに付いていった。
「あれ? まだそんなの被ってんのか?」
シャワーを浴びて出ると、リビングからヤーツェクが不思議そうに顔を覗かせてきた。助けてもらっているとは言え、白い髪を晒すのにはやはり抵抗がある。ブランカは未だにオプシルナーヤ帽を被ったままだった。
「まぁいい。こっち来な。あんたも手当てが必要だろ?」
「え、でも……」
リビングへ誘導するヤーツェクに、ブランカは躊躇した。
ブランカは奥の部屋へと目を向けた。そこで今アロイスがヴォルフの治療に取りかかっているらしいが、固く扉が閉ざされているため、廊下からは中の様子が分からない。きっと大変な手術中であることには間違いないし、ブランカが下手に様子を見るより彼に任せた方が良いのだろうが、不安は不安だ。
「アロイスなら大丈夫だよ」
思っていることが表情に出ていたのか、ヤーツェクが安心させるように言ってきた。
「あいつ、あんな見た目だけど実は割と歳食っててさ、それなりに実戦経験も豊富らしいし、たまにああして怪我人の治療してるところ見たことあるけど、あいつの腕は保証するよ」
ニッと笑みを浮かべてアロイスのことを語る様は、どこか誇らしげだ。それほどヤーツェクが彼のことを買っていると言うことなのだろう。
いや、ヤーツェクだけではない。さっきまでここにいた他の男性たちも、ゼルマやティモたちも、みんなアロイスに一目置いているように見えた。
過去に軍医をしていたらしいアロイス。ブランカよりも少し高いだけの身長とどこか幼く見える童顔。しかし、見た目よりも大人びた青灰色の瞳とあの落ち着きが彼にはあった。
果たして彼は一体何者なのだろう?
そして他の人たちは、目の前にいるヤーツェクは一体何者なのだろう。
これまでの様子を見るに、彼らはオプシルナーヤ兵を警戒しているようではあるが――。
「みなさんは、メルジェーク人なんですか?」
リビングで救急箱を準備するヤーツェクに、ブランカは思い切って尋ねてみた。
するとヤーツェクはきょとんと目を丸くした。
「何で? メルジェーク人は嫌いか?」
「いえ……そういうわけではなく、さっきの人がそう言っていたので……」
「ああ、あのオプシルナーヤな。そうだ。俺はメルジェーク人だし、さっきここにいた奴らもそう。だが全員ってわけじゃないぞ。アロイスなんかは生粋のヘルデンズ人だし、さっきのゼルマやティモもそうだ。まぁ、あいつらはアジェンダ人でもあるんだが、とにかく色々混ざってるんだ」
「そう……なんですね」
ヤーツェクの説明に曖昧に相鎚を返しながら、ブランカは内心で驚いていた。
――メルジェーク人とアジェンダ人とヘルデンズ人。
確かにさっきのオプシルナーヤ兵は三つの固有名詞を口にしていたが、まさかその人たちが混在しているとは思いもしなかった。
そもそもアジェンダ人もメルジェーク人も、かつてはヘルデンズに虐げられていた人たちだ。全ての元凶は祖父マクシミリアン・ダールベルクであるとはいえ、実行したのはヘルデンズ人。その恨みがこの五年で消えているはずもない。フラウジュペイのダール狩りがその一例だ。
それなのに彼らはヘルデンズ人と普通に親しくしている。しかもそのうちのアロイスは、過去に軍にいたという。
これがここでは当たり前なのだろうか――?
「――にしても本当にむかつくよな、あいつら。何様だってんだよ」
考え込んでいると、ヤーツェクがそれまでの穏やかな様子と一転して、先程のように苛立ちを顕わに吐き捨てた。ブランカの腕に巻かれている途中の包帯に力が込められる。
さっきのオプシルナーヤ兵のことだろう。あの人の発言は、正直ブランカにも堪えた。メルジェーク人やアジェンダ人に対しては恩着せがましく、ヘルデンズ人にはまるで弱みにつけ込むかのようなあの物言い。聞いているだけでも心が抉られる感覚がした。
「ああいうのは、よくあることなんですか?」
「よくあるっつーか、日常茶飯事だろ? あんたのところではないのか?」
「え……っ」
ブランカは思わず身体を揺らしてしまった。
確かに迂闊だった。オプシルナーヤに支配されている国がどんな扱いを受けているのかなど、少し考えてみれば分かることだ。
明らかに不審なブランカの様子に、ヤーツェクは包帯を巻く手を止めて、じっとブランカを観察してきた。理知的なヘーゼルグリーン色の視線が、みるみる鋭いものへと変わっていく。
「つーか今更だけどあんた、一体どこから来たんだ?」
「それは――……」
「こんな帽子を被って、あんな怪我人連れてアルテハウスタットからやって来てさ。一般人なら今の質問はありえない。あんたは何者だ?」
ヤーツェクは仄暗い光を瞳に宿しながら、ブランカの頭に被ったままのオプシルナーヤ軍帽を指先で弾いた。瞬間ブランカはぶるりと身体を震わす。
ブランカたちのことを知られるのは時間の問題かもしれないが、ヴォルフの命が掛かっているのだ。今ここで本当のことを言うわけにはいかない。とはいえ、下手な誤魔化しは利かないだろう。こちらに向けられた視線がそれを物語っていた。
「なあ、一体何を企んでいる?」
「何も企んでなんか――……」
じわじわと詰め寄るヤーツェクに、ブランカはソファの上で後退る。しかし、それは彼女の身体の両側に置かれたヤーツェクの手によって封じられてしまった。
自分の回答次第ではヴォルフを危険に晒してしまうかもしれないのに、何も答えられずにブランカはぎゅっと目を瞑る。
すると――。
「はいはい。そこまでそこまで」
その場の空気にはそぐわない高い声が、二人の間に割り込んだ。
見ればリビングの入り口にアロイスが寄りかかっていた。
「ヤーツェク、いきなり若い子いじめるのは感心しやんな」
「いじめてねえよ! 見るからに怪しいのをあんたが引き込むから、代わりに尋問してやってんだろ?」
「はいはい、頼んでないけどありがとありがと。しかし、よく見てみぃ。その子、泣きそうやんか。そういうのは紳士らしいとは言われやんな」
アロイスが呆れるようなからかうような口調で窘めれば、ヤーツェクはばつの悪そうな表情を浮かべて小さく息を吐いた。
「悪かったな」
そう言って軽くブランカの肩を叩くと、ヤーツェクは拗ねたような様子でリビングから出て行った。
ブランカは状況の急変に頭が追いつかず、驚いた目をアロイスに向けた。アロイスは呆れたように肩を竦めた。
「あの、すみません……」
「かまわんかまわん。あいつには僕からも言うておくわ。それよりも――」
アロイスは親指を立ててそれを自分の後ろへと向けた。
それが意味することを反射的に察すると、ブランカはすぐさまリビングを飛び出した。
長くない廊下を走り、奥の扉を開け放つ――。
消毒液の匂いが微かに香る部屋のベッドに、ヴォルフはきつく目を閉じて寝ていた。
傍に駆け寄れば、未だ額が汗ばんでいるのが目に飛び込んできた。呼吸もまだ安定はしていない。眉間の皺もブランカがこの部屋を離れたときと変わらない。
だが、彼の左肩に白い包帯が綺麗に巻かれてあるのが、シャツ越しに分かった。止めどなく流れていた血も、もう滲んではいない。
「とりあえず銃弾除いて、傷口縫合した。朝になったら点滴もらってきたるけど、今僕に出来るのはここまでや。しばらくはまだ兄さんもうなされるやろけど、最終的にこの人の体力次第。ま、見た感じ大丈夫そうや」
アロイスは洗面器に浸した布を絞り、それをブランカに差し出す。きょとんとした目で見上げると、アロイスはニッと笑みを浮かべた。
目頭が熱くなるのを感じながら、ブランカは勢いよく頭を下げた。
「本当にありがとうございます! ヴォルフ、あと少しだからね。頑張って!」
ヴォルフの傍に跪くと、彼の右手をぎゅっと握りしめた。未だ彼は辛そうに顔を顰めているが、トラックの中にいたときとは違う。
ブランカは汗ばんだ彼の額や首筋を拭っていく。
「看病するのも良いけど、自分も顔色ひどいからな。隣の部屋用意しといたから、ほどほどに寝ぇや」
残っていた器材を片付けながら言うアロイスに、ブランカは再びきょとんと目を丸くした。
「すみません、何から何まで……」
「ええよ。その兄さんがゼルマの幼馴染みで助かったな――それから」
アロイスは自分のポケットから取り出した物をブランカに放り投げた。
咄嗟に受け取ったそれは、ヴォルフが着けていたはずの腕時計と、ブラッドロー軍の紋章が刻まれた茶色の軍手帳――。
ブランカはハッとアロイスを見上げる。
「そういうの、あんまり見られやん方がいいんやろ。兄さん起きるまでちゃんと隠し持っとき」
アロイスは先程と変わらぬ笑みのまま言った。だが、それはどこか含みがあるように感じられる。
ブランカが大きく息を飲むと、「ああそれから」と彼は付け足した。
「さっき言うの忘れてたけど、シャワールームの棚に黒染めがある。
それだけ言い残すと、アロイスは器材を持って部屋を退室していった。
ブランカは未だオプシルナーヤ軍帽を被ったままの自身の頭へ片手を伸ばし、もう片方の手にあるヴォルフの軍手帳へ目を落とした。
――アロイスはこちらの事情に気が付いている?
少なくともヴォルフの素性は知られてしまった。本当の事情まで知り得なくとも、大体の状況は把握したかもしれない。
それでも、彼はブランカたちを匿ってくれるような素振りだった。
――彼は――彼らは一体何者?
昔ヘルデンズ軍にいたらしいアロイス。
彼を慕うメルジェーク人のヤーツェク。
そしてそんな二人と親しげな三つの民族。
助けてもらったことに感謝しつつも、ブランカは彼らを不思議に思わずにはいられなかった。
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