3.酒場の前

 薄暗い路地の一角。

 何の特徴もないアパートや集合住宅が集まるその周辺は、こんな夜更けともなると真っ暗で閑散としている。

 しかし、その店だけは明るい光を放っていた。

 掲げられた看板に書かれてあるのは、『女神の泉ファウンテ・デ・ラ・ディオーサ』。この辺にある数少ない酒場のうちの一つだ。

 中はがやがやと騒がしく、人で賑わっている。中央ではレコードに合わせて踊る人々、その周りでは男共が肩を組み青春の歌を大合唱し、テーブルでしっとりと酒を楽しむ人など、皆それぞれ好き勝手している。

 今夜は特に騒がしかった。

 そんな様子を、一人の男が、カウンター席の端で眺めていた。

「アロイス! あんたこんなところにいたのねえ。分からなかったわ!」

 グラスを片手に寄ってきたのは、ゼルマ。この店のオーナーの娘であるが、肩までのウェーブの掛かった艶やかな赤茶色の髪と同色の魅惑的な瞳、おまけに長身でグラマラスといった一際派手な容貌は、看板娘として相応しいと言えるだろう。ただでさえそんな目立つ外見だというのに、今日はやけに胸の空いたワンピースを着ていて、いつも以上に人目を引いている。

 アロイスは、彼女を見てふんっと鼻で笑った。

「そら自分みたいなんがおったら、僕なんか間違いなく霞むわ」

「あんたは小さいものねえ」

 ゼルマは魅惑的に笑いながら、アロイスの頭をポンポンと叩いた。間延びした喋り方も彼女の特徴だ。

 ゼルマの言うとおり、アロイスは短身だ。目の前のゼルマよりも背が低いし、おそらく店内にいるどの男よりも小さいだろう。この人混みではすぐに人に紛れてしまう。

 とは言え、こんな風にゼルマに子供扱いされるのは、少々居た堪れない。身長と同じく彼の顔は人よりも若く見えるらしいが、アロイスはそれほど幼くない。それどころか彼はゼルマよりもだいぶ歳食っている。後ろで一つ結びにしているアッシュの髪も近頃は白髪が増えてきたほどだというのに、この扱いには情けなさを感じてしまう。

「それにしても今日は一人なのねえ。相棒はどおしたの?」

「あいつか? 疲れて家で寝とるわ。後で来る言うとったけど、起きるか知らん」

「ええ、何よそれえ。せっかくめでたい日だって言うのに、相変わらず気の利かない」

「めでたい日――なぁ……」

 アロイスは店内に飾り付けられた布へ視線を流した。それには『誕生日おめでとうテリーケ・メッド・フォドセルスデイン!』と書かれてある。そう、今夜はバースデーパーティが開かれていた。

 その主役は今目の前にいる女性――ゼルマ・ヨアヒムだ。

「これで自分もまた歳食ったというわけや」

「ちょっと、嫌な言い方はよしてよねえ! これでもまだ二六、まだまだ若いんだから」

もう・・二六、やろ? いい加減ふらふらしとらんで、ちゃんと身を固めぇや」

「うるさいわねえ。そおいうあんたこそ結婚できない売れ残りじゃない」

「僕は別にいいんや。まったく、親父さん心配しとったに。いい歳扱いた娘が独身で、しかも二回も離婚しとるから余計に先が不安やって」

「あたしに見合う男がいないのが悪いのよ」

 ふんと顎をしゃくって平然と言ってのける彼女に、アロイスはやれやれと肩を竦めた。

――これでは親父さんの苦労も絶えやんな。

「しかし遅いなあ、ティモ」

「本当よねえ。アルテハウスタットでいい酒仕入れてくるって言っていたから楽しみにしていたんだけど、日付変わっちゃうわぁ」

「まさかどこかで事故っとらんやろな……」

 ゼルマとアロイスが同じタイミングで時計を確認したそのとき――。

「――ゼルマ!」

 一人の男の声が店内に響いた。

 店内にいた客のほとんどがそちらへ不信の目を向けるが、声の主はそれには構わず、慌ただしくゼルマとアロイスのところへやって来た。ぼさぼさな長めの黒髪にくすんだグレーのジャケットを着た、いかにもみすぼらしい風貌の男だ。

「ちょっとやあだ、ヤーツェク。ここに来るのにそんな汚らしい格好しないでえ」

「仕方ねえだろ、金がないんだからさ。それより、ティモが店先で騒いでいるんだ。ちょっと止めてやってくれよ」

「ええ、パパったら帰ってるの? っていうか騒ぎって一体なあに?」

 眉を潜めて尋ねるゼルマへ、ヤーツェクはヘーゼルグリーン色の瞳を難しげに細めて答えた。

「なんかよく知らねえが、ティモが運転していたトラックに男と女の二人組が勝手に乗り込んでいたらしい。しかも男の方は重傷負っているとか」

――重傷を負った男と女の二人組?

 ヤーツェクの言葉に、アロイスはぴくりと眉を動かした。

「とにかく急いで来てくれ。エミルがマジで困ってるからさ」

「分かったわ、すぐに向かう。もーお、帰って来るなり呆れるわねえ」

 ゼルマは盛大にため息を吐きながら、ヤーツェクに案内されるままに店先へと向かう。

 アロイスも気になったので、様子を見てみることにした。



「勝手に盗んでおいて医者だと!? よくもそんなことを堂々と言えたものだな!!」

 三人が駆け付ければ、明らかに怒りの籠もった男の声が、何人かの野次馬集団の向こう側から聞こえてきた。

 無理矢理通してもらって最前列に向かうと、一台の軽トラックの前に、四人の人物がいた。

 一人は腰に手を当て激高する小太りの禿げた中年の男――ティモ・ヨアヒム。この店のオーナーで、ゼルマの父親だ。

 彼の横にいる黄土色頭のひょろ長いのはエミル。今回ティモと一緒に酒の仕入れに向かっていたらしいが、怒り狂うティモを宥めようとして失敗している。

 そしてその彼らの前には、地面に倒れている男と、その横でティモに向かって深々と頭を下げている女がいた。

 見るからに怪しい二人組だが、特筆すべきは、男がオプシルナーヤ軍服に身を包み、女がオプシルナーヤ軍帽を被っていることだろうか。しかしこの二人のひどい身なりからして、確実に彼らはオプシルナーヤ軍の人間ではないだろう。

 アロイスがじっと観察する横で、ゼルマがティモの元へと向かっていく。

「ちょっとパーパ! 店の真ん前でやめてよねえ! 一体何事?」

「こいつらがトラックに忍び込み荷台と毛布を汚すばかりか、せっかく仕入れた酒を勝手に開けやがったんだ! しかも仕入れた中で一番高い酒だったというのに!」

 今日誕生日を迎えた娘の登場だというのに、ティモは地にひれ伏す二人を指差し、興奮した様子で高々と声を上げた。こんな状態になったティモは、娘のゼルマでも手に負えない。野次馬もそれを煽るから、非常に困ったものだ。

 ティモは「しかも」と、伸ばした指を女の方に向けた。

「この女は医者を呼べって言うんだ! 何て図々しい――」

「お願いします! でないと彼は死んでしまいます!」

 頭を深く下げたまま、女が声を張り上げた。

 みずみずしさに溢れた若い女のそれだった。

 女は丁寧な口調で、先を続けた。

「荷台に乗り込んだことも、毛布を汚したことも、大事なお酒を勝手に使ったことも、すべて私が勝手に行ったことです。決して許されないことだと重々承知しています。罰なら何でも受けます。でも!」

 その瞬間――女が顔を上げた。

 帽子の影に隠れて目元までははっきり見えないが、あちこちにある煤汚れと――右頬に走る赤い痣が、店からこぼれる灯りに浮かび上がった。痣は少なくとも首筋まで伸びている。

 あまりに痛々しい容姿に野次馬集団がざわつく中、彼女はまっすぐにティモを見上げて、はっきりと言った。

「彼を今すぐお医者さまに診てもらわないといけません。先ほども申しましたが、彼は肩に銃弾を受けています。ろくに手当も出来ないまま一日中彷徨い続けていました。怪我は化膿し始め、熱も相当高くなっています。このままでは助かりません。だからどうかお願いです。彼をお医者さまに――いいえ、せめて病院の場所だけでも教えてください。お願いします!」

 女は再び頭を下げた。

 地面に額を擦りつけるかの如く平伏した様はとても切実で、尚かつとても危ういくらいにその身体は小さい。地面に付いた手に、ぎゅっと力が込められる。よくよく見れば、その右手にも赤い痣が走っていた。

 彼女の様子に、エミルはもとより、止めに行ったゼルマも隣にいるヤーツェクも、周りの野次馬達まで明らかに困惑している。彼女の言うことを信じて叶えてあげるべきか、しかし本当に物盗りの可能性もある。

 この時勢、どの国も治安が悪いが、その中でも東ヘルデンズは特に悪い。物乞いする人もいれば、スリなんかはあちこちにいる。こうやって怪我人や病人を装う手口もあるものだから、油断は禁物だ。

――しかしこの子は……。

 彼女の言ったことを反芻していると、未だ怒りに充ち満ちたティモの声がアロイスの思考を妨げた。

「ええい、知ったことか、この薄汚いこそ泥めが! 警察を呼んでやる!」

「お願いです、どうかそれだけは……!」

 女はハッとした様子で顔を上げて、ティモに食い下がった。手を伸ばして彼のズボンにしがみつき、彼女は必死に懇願する。

「警察に突き出すなら私だけにして下さい。でもどうか彼は……っお願いです、彼を病院に連れて行くと約束して下さい! でもそうでないなら、せめて彼を病院に連れて行くだけの猶予を下さい。その後になら警察でも処罰でも、私をどうしてくれても構いません。だからお願いです!」

「しつこい! やかあしいわ!!」

 ティモは勢いづけて足を振り払い、彼女の身体を蹴飛ばした。細く小さな身体が地面に叩きつけられる。無惨に裂けたスカートの裾から、痣と煤だらけの足が覗いた。実際盗人かどうかは置いておいて、相当酷い目に遭った子であるには違いない。

 それにしてもティモは全く容赦ない。相手は見るからに若い女の子であろうに、少しの手加減もなしだ。もともと彼は自分のものを汚されるのを嫌うから、こうなったときは全く手に負えない。

 そろそろ仲裁に入ってやろうかとアロイスが一歩出したとき、ティモが冷たく彼女を見下ろして言った。

「ふんっ医者医者と言うが、じゃあその診療代はどうするってんだ? 人のトラックに乗り込み勝手に酒や毛布を使うような奴が、それだけの金を持っているというのか? それとも医者代までふんだくるつもりか!?」

「それは――……」

 彼女は僅かに言い淀むが、すぐにきゅっと唇を引き結ぶと、表情を引き締め、ティモをまっすぐに見据えて答えた。

「それなら私を警察ではなく――オプシルナーヤ軍にお売り下さいませ。きっと破格の大金がもらえるはずです」

 その瞬間――帽子の影から出てきた真剣な深緑色の瞳と、僅かに帽子からはみ出た白い髪を、アロイスは捉えた。彼の青灰色の瞳が、大きく見開かれる。

――へえ、これは面白い。

 にぃっと彼が口元に笑みを浮かべる一方で、彼女の発言はティモばかりか、それを取り囲んでいた野次馬達をも絶句させていた。隣のヤーツェクが「一体何を……」と動揺していると、一際大きいため息を吐いてゼルマが割り込みに行った。

「あぁあぁもーお、そこまでよ! パーパ、こんな女の子に何てことを言わせてるのよ」

「し……しかし、ゼルマ。俺は……」

「もお、酒のことはいいから。一本くらいで店が赤字になったりしないから大丈夫」

 あまりに突拍子もない女の発言と仲裁に入った娘に、ティモはみるみる狼狽え始めた。

「それからあんた。女の子がそんなことを言うものじゃあないわ。それに自分のことを過信しすぎ。そんな貧相な身体で血気盛んなオプシルナーヤ軍の人間が満足するわけないじゃなあい」

 ゼルマは腰に手を当て諭すように呆れ口調で言うが、自分の豊満な胸を見せつけるかの如く押し出した姿勢は、その女の子を見下しているようでもある。実際優越感に浸ってはいるのだろう。ゼルマの言葉に周りの野次馬から苦笑が漏れるが、一方の女の子は目を大きくぱちくりし、言われたことに動揺している。

「で、なあに? とにかくその人を助ければいいわけぇ? というかこの人は一体――」

 倒れた男の顔を覗き込んで、ゼルマは赤茶色の瞳を大きく見開いた。

「ちょっとぉ! ねえ、もしかしてこの人、ヴォルフ・ノールじゃない?」

「ゼルマ……? 知っているのか?」

 さっきまでとは打って変わって明らかに困惑した様子で、ティモが娘に尋ねた。

「知ってるも何も、パパ覚えてないの? ほら、ノールさんところの一人息子のヴォルフよ! 昔二軒隣に住んでたじゃなあい!」

「ノールさん……? 確かに覚えちゃいるが、もう十年以上も昔の話だぞ? まさか本当に……?」

「そうよ! ねえ、この人、そうでしょう!?」

 ゼルマが興奮した様子で女の子に答えを求めれば、彼女は目を見開いたまま頭を縦に振った。

 そして彼女はすかさずゼルマへ懇願した。

「この人を知っているのなら、尚更です! 彼を助けて下さい!」

「そうねえ、ヴォルフを助けるとなったら話は別よ。ねえ? パーパ?」

「それは……そうだなあ。しかし医者となると……」

 ティモは野次馬集団に目を向けるが、そのうちの一人が頭の上で手を交差した。曰く、酒場に来ていた医者が既に泥酔して寝てしまっているため、使い物にならないらしい。冷やかし体制から協力体制になった野次馬達は、それぞれ懇意の医者を思い当てようとするが、この時間にドアを叩いて起きてくれそうな者が思い当たらない。

 すると、その中の一人が「そういえば」と声を上げた。

「アロイス。お前、昔軍医していたんじゃなかったっけ? 何とかしてやれねーか?」

 言われてアロイスは片眉をつり上げた。

 野次馬達の視線が自分に集中する。

「そおなの? アロイス、ねえお願ぁい」

「僕はもうそういうのはやっとらんのやが――」

 上目遣いで強請ってくるゼルマに対しアロイスは眉を顰めて渋るが、身体に刺さる別の強い視線に彼は気が付いた。

 オプシルナーヤ軍帽の下で、真摯な、それでいて泣きそうな大きな深緑色の瞳が、まっすぐにアロイスを見つめていた。

 彼女はアロイスに向かって深々と頭を下げた。

「どうか、お願いします」

 アロイスはやれやれと肩を竦めた。

「しゃーない。分かった。やれるだけはやったろう」

 瞬間、周りから安堵の息が漏れた。

 野次馬もゼルマたちも、そして激高していたはずのティモまで、心底安心した表情を浮かべている。

「ありがとうございます……!」

 件の女の子が、声を震わせて何度も感謝を述べた。

 アロイスは「いい、いい」と手を振りながら、隣にいるヤーツェクを振り仰いだ。

「ヤーツェク、あの男運んだってくれ。あの図体は僕じゃよう運べやん」

「ああ、構わないが……本当に良いのか?」

 未だ状況について行けていないのか、彼は大きい身体を屈めて小声でアロイスに聞いてきた。

 しかしアロイスはそのままのトーンで、周りの連中に聞こえるように返した。

「大丈夫や。ほら、見てみい。あの兄さん、アジェンダ人や。心配いらん。それより、こんなに騒いでオプシルナーヤの兵に見つかるといかんでな、さっさと行くで」

 彼がそう言えば、周りの野次馬たちは「オプシルナーヤだって! それは良くない!」と更に協力体制になって、ヤーツェクが向かうよりも先に倒れた男を担ぎ上げた。ヤーツェクは半信半疑でありながらも、野次馬たちを先導しに行く。

「ほら、君も行くで」

「あのっ! 本当にありがとうございます!!」

 先ほどまでと一転して変わった様子に驚きつつも、彼女は尚も礼を口にして、アロイスについてきた。

――それはこっちの台詞やけどな。

 アロイスは前を歩きながら、口元に薄く笑みを浮かべた。

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