2.倒れたヴォルフ

 ブランカの頭の中は真っ白になっていた。

「ヴォルフ、ねえ、ヴォルフ」

 腕の中にぐったりともたれかかってきた長躯を揺らすが、ヴォルフからの返事は返ってこない。肩に掛かる荒い呼吸に、ブランカの焦りは更に増した。

――なんて熱さなの!

 まさかと思って首元に触れるが、案の定、ヴォルフの身体は恐ろしいほどに熱くなっていた。同時にべっとりと汗ばんでいる。ひとまず彼の身体を起こして荷台の壁にもたれさせると、ヴォルフはぐっと肩に力を入れ低い唸り声を上げた。肩が激しく肩を上下し、息をするのも苦しそうだ。

――もしかして、怪我が膿んでいるの?

 焦る気持ちのままにブランカは彼の服の前を開き、左肩に巻き付けてある布を緩めた。

 痛々しく穴の空いたそこは、案の定、昼間見たときよりも黒ずんでいるのが暗がりでも分かった。その周りが小さく腫れてきている。きっと腫れはこれからどんどん膨らんでくるだろう。

 考えてみれば、こうなってもおかしくない状況だった。銃で撃たれて地面を転がって森の中を彷徨って、止血だってとても十分とは言えない。むしろそれで今まで動いていられた方が奇跡なのだ。

――だけどどうすればいいの?

 この場には水も薬もない。それどころか、このトラックがあと何時間走り続けて、果たしてその先に医者がいるのかどうかも分からない。そもそも勝手に乗り込んだこのトラックの運転手に見つかれば、医者どころではなくなるだろう。

 そうなったらヴォルフは――……。

 頭に過ぎった最悪の状況を、ブランカは無理矢理掻き消した。

「ダメ……ダメよ! そんなの絶対にダメ!」

 ブランカは外した布を一旦元に戻すと、まず既に短くなっているスカートの裾を更に引き裂いて、その新たな布きれでヴォルフの汗を拭っていく。軽く押し当てているだけなのに、触れる度にヴォルフはきつく顔を顰めた。荷台の壁に伝わる車の振動も相まって、彼の傷の痛みはかなり辛そうだ。

 一通り汗を拭い、はだけさせた服を元に戻すと、ヴォルフの身体がびくりと揺れた。幌の隙間から入ってきた冷気が、彼の身体を震わせている。呼吸もさっきより小刻みになっている。熱がどんどん上がってきているのだろう。

 ブランカは彼の身体を床に寝かせると、今度は荷台の中へと視線を巡らした。

 荷台の奥には、壁の片側に寄せるようにして沢山の木箱が積まれている。果たしてその中に何が入っているのかまでは分からないが、いずれにせよ、こういうトラックには大抵緩衝用の毛布が積まれているはずだ。暗さに順応してきた瞳は、荷物が積まれていない方の壁際に重ねられたそれを容易に見つけることが出来た。

 ブランカはまっすぐにそれを取りに行った。

 すると、突然左向きの力が掛かり、ブランカは思わずふらついて毛布に突っ伏してしまった。カーブに差し掛かっているのか、トラックは右へ左へと車体を揺らす。

 なんとか体勢を整えていると、ブランカは荷台の前方が窓になっていることに気が付いた。身を潜ませながらそちらへ近づくと、座席の話し声が微かに聞こえてきた。

「うっぷ。おいティモ、もう少し丁寧に運転してくれよ」

「娘が待っとるんだ、我慢せい。ったく、道が混んでなければこんなに急ぐこともなかったんだが」

 ちょうど窓の位置が運転席と助手席の間にあるため、ブランカの位置からは座席に座る人たちの姿はよく見えなかった。だが声の雰囲気から、この二人が中年の男性だと言うことは分かった。

 当たり前に聞こえてくるヘルデンズ語に、本当に生まれ育った国にいるのだという実感を覚えつつ、ブランカはもう少し会話を盗み聞いてみた。

「しかし日付が変わるまででいいんだろう? 全然余裕だぜ? つーか、あいつら今日は一晩中飲むつもりだろうし、そんなに急ぐことないじゃんかよ。ずっとこんな運転が続くとなると、俺が吐きそうだぜ」

「ええい、うるさい。吐きそうになったら飲み込め。ただし汚したら許さん」

 運転席の男が無慈悲にもそう言えば、助手席の男が「うわ、鬼め」と辛そうな声で返した。

 ブランカはそっとその場から離れ、毛布を数枚持ってヴォルフの方へ戻り、寝ている彼の身体をそれで包み込む。身体の熱が、先ほどよりも高くなっているように感じた。

――日付が変わるまで……。

 トラックの運転手達との会話を思い出しながら、ブランカはヴォルフの手首から腕時計を引き抜き、再び座席側の方まで行って、それを薄明かりに照らした。

 短針はまだ八を指している。助手席の人は日付が変わるまでには目的地に着くと言っていたが、少なくとも三時間以上はまだ走り続けるということだろうか。

 ブランカはヴォルフの方を見た。彼はずっと苦しそうに唸っている。

 一刻も早く彼を医者に診てもらわなければならないが、ここで運転手に声を掛けるのも躊躇われる。勝手に乗り込んでいるのだから、何もないところで引きずり下ろされたっておかしくないのだ。逆にブランカのお願いを聞いてくれたとしても、こんな風にトラックで長距離移動をするような人たちが、この辺りの病院を知っていると思えない。そうなると返って余計に時間を食ってしまうだろう。

――だけどこのままではヴォルフは……。

 ブランカがぐっと奥歯を噛みしめたとき、再び右向きに大きな力が掛かった。咄嗟に荷物の山に手を付き身体を支える。

 するとその瞬間、瓶のぶつかる音が微かに聞こえてきた。

 ハッとして音のした方を見上げれば、積まれた木箱の中から、同じような音が車の揺れに合わせて鳴っていた。ブランカは思いのままに手頃な高さにある木箱の蓋を開けた。

「やっぱり……」

 箱の中には酒瓶が詰められていた。

 ブランカはその中の一つを取り出すと、もう一度座席側まで行って薄明かりに照らしてみた。

「ウイスキー……」

 ぽつりと呟きながら、かつてレオナの母に聞いたことを思い出す。

 フィンベリー大陸戦争が終わって間もない頃、ダムブルクは怪我人で溢れていた。手当てするにも人手不足だったのでブランカも何回か立ち会ったが、レオナの母が不足していた消毒液の代わりにお酒を傷口に吹きかけていたことがあった。アルコール度数の高いお酒なら殺菌効果があると、その時彼女は言っていた。

 ブランカは僅かに逡巡すると、ヴォルフのところへ戻り彼の服を再びはだけさせ、左肩に巻き付けてある布を取った。冷気に晒されて、ヴォルフがぐっと肩に力を入れる。

 ただでさえ意識を失うほどの傷だ。そんなところに消毒とはいえ強いお酒を掛けるなんてしたら、彼はもっと辛い痛みに喘ぎ苦しむことになるだろう。

 しかし、これで少しでも化膿を抑えられるなら。

「お願い、ヴォルフ。どうか耐えて」

 痛々しく抉れたそこへ、ブランカは持ってきたウイスキーを流しかける。

 瞬間、ヴォルフは一際辛そうに呻いた。

「ぅぐ……っああっ」

「ごめんなさい……」

 全身を強張らせ声にならない声で苦しむヴォルフへ、ブランカは思わず謝罪を口にしていた。

 だが、彼から言葉が返ってくることはない。ヴォルフは固く目を閉じたままぐっと歯を噛みしめ、苦痛に顔を歪めている。一層荒くなった呼吸が、意識をなくしながらも痛みをやり過ごそうとしているように見える。その息も刻一刻と熱さを増していた。

――本当に、ごめんなさい……。

 ウイスキーで濡れたヴォルフの身体を拭い、残りのウイスキーで洗った布を彼の左肩に巻き付けながら、ブランカは心の中で何度も彼に謝った。

 それ以外ブランカに言えることはなかった。

 ヴォルフがこんな風に苦しむことになったのは、他ならぬ、ブランカのせいだ。彼はブランカを庇いながら銃弾を受けた。身を挺してブランカを爆発列車から連れ出してくれた。

 本当に、この人には助けられてばかりだ。

 ダムブルクでは何の躊躇いもなく川に飛び込んでブランカのブローチを取り戻してくれた。昨日もフィルマンたちに追われているところを匿ってくれて、理由も聞かずにブランカに向き合ってくれた。すぐに正体を知られてブランカに対する態度は変わってしまったけれど、結局ブランカは彼に助けられてしまった。

 いくら任務のためとは言え、憎い仇なのだ。そもそも彼にとってはそんな任務も不愉快で不本意極まりなかったはずだ。

 そんなヴォルフへ、ブランカは重傷を負わせてしまった。愚かな発言で彼を怒らせて自暴自棄になっていたせいで、彼の容態の変化に気が付けなかった。

 こんな自分が、一体何を言えたものか。心底自分に嫌気が差す。

――とにかくどこかに到着したら、一刻も早く医者に診てもらおう。

 ヴォルフの服を元に戻し、再び彼の身体に毛布を巻き付けながら、ブランカは心の中で固く決意した。果たしてそれが可能であるか分からないが――いや、何としてでも診てもらうのだ。

 十日前の出来事が、ブランカの頭の中に浮かぶ。ロゼの中心で母を亡くしたあの悲しい事件。伸ばせば手が届くほど近くにいたというのに、ブランカは何も出来ず、ただ見殺しにするしか出来なかった。

 しかし、彼はまだ救える状況にある。同じことを繰り返してはいけない。

 きっとこのトラックの運転手は、二人を見たらひどく怒るだろう。勝手に上がり込んだ上に毛布を汚し、運んでいたウイスキーまで勝手に使ってしまった。警察に突き出されたっておかしくない。

 仮にその場を逃れられたとしても、こんな夜遅くにやっている病院があるのか分からないし、あったとしても、見るからに怪しい格好をした二人組だ。簡単には受け入れてはもらえないだろう。それどころか駆けつけてきたオプシルナーヤ兵に見つかる可能性だって十分にある。

 そんな状況だとしても――。

「あなたのことは絶対に守るから」

 そのためなら何だってしてみせよう。

 ブランカの持つものはとても少ないけれど、ヴォルフを救うためなら、その全てを捨てても構わない。どんな仕打ちだって受けてみせる。

 そして、必ず彼を――彼一人だけでも、必ずオプシルナーヤ領域から逃がすのだ。

 ブラッドローにどういう意図があるのか知らないが、ブランカを連れて行くことが彼の『任務』だと言っていた。しかし、その任務も彼の命が守られてこそだ。ブランカが父の元へ行くことでヴォルフが西ヘルデンズへ逃げる隙が出来るのなら、進んでこの身を差し出そう。

 もしそのことがブラッドローやヴォルフを脅かすならば、この命だって――。

 一度は失った命だ。今だって意味があるものだと思っていない。今朝ブランカがこぼした本音の通り、無価値なもの。本音を表に出したことで、余計にどうでもよくなっていたところだ。今更守ったって仕方がない。

 こんなもので彼の命を救えるのだとしたら、迷うまでもない。

――だからどうかお願い。

「あと少しだから、頑張って耐えて」

 痛みに力のこもったヴォルフの手を両手で握りしめて、ブランカはそう懇願した。

 数枚の毛布に包まれているというのに、彼は熱と寒さに身体を震わせる。

 こんなことをしたと知ったら、きっと彼は激しく憤るだろう。

 だけど少しでも震えが収まるなら。

 少しでもその苦痛が和らぐならば。

 ブランカはヴォルフの身体を毛布越しに包み込んだ。

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