6.父への幻想

 ギュンター達が部屋を去ってから、ブランカはずっとベッドに腰掛けたまま、窓の外を眺めていた。

 流れゆく真っ暗な景色を視界に入れながら、頭に浮かべるのは父に言われた言葉。

――もう一度、親子としてやり直させて欲しい。

 ブランカはキュッとシーツを握りしめた。

 分かっている。あんなのはただの演技。あたかも自責の念に駆られている風を装っていたが、ここに連れてこられた経緯を考えれば、全部嘘に違いない。あの人があんなことを本心で思うはずがないのだ。

 そう思うのに、父の言葉を振り払えないでいる。あの言葉に潜む全てが偽りではないと、そう願ってしまう自分が何処かにいるのだ。

 ブランカは手元のブローチに目を落とした。手紙は取られてしまったが、こちらは没収されずに済んでいた。

 輝きを失ったゴールドの中に映るのは、幼い日の記憶。そこには食事の準備をする母とそれを手伝う自分がいて、その横で父と祖父が難しい政治の議論を繰り広げていた。

 みんな楽しそうに笑っていた。

 今にして思えば、誰かの犠牲の上に成り立っていただけの、薄っぺらい日常。外で何が起こっているかなんて全く知ろうともしなかった。

 しかし、それはブランカの――幼いクラウディアの全てだった。誰に遠慮することもなく、自分は素直にそこに幸せを感じていた。

 五年前に失われたクラウディアの世界――。

「おや。お休み中ではなかったのですね」

 突然聞こえてきたカミーユの声に、ブランカはハッとする。思考に耽っていたせいか、声をかけられるまで人の気配に気が付かなかった。

「何の用ですか」

 ブランカは鋭い眼光をカミーユに向ければ、彼の後ろには見知らぬオプシルナーヤ将校が控えていた。カミーユやフィルマンくらいの歳の人だろう。いずれにせよ父の部下には違いない。

 ブランカが二人を睨み付けながらベッドで後ずされば、カミーユが大げさに肩を竦めた。

「いつまでもそう意地を張っていられる状況ではなくなりましたよ。緊急事態なのですから」

「緊急事態……? どういうことですか?」

「列車に爆弾が仕掛けられているそうです」

 さらりと告げられた内容を、ブランカは咄嗟に理解できなかった。

――爆弾?

 目を丸くして言葉の意味を考えていると、カミーユの後ろにいた将校がブランカの前にやって来た。着ている軍服や付けている紋章の数から、それなりに地位のある人なのだろう。

 片膝を付いてブランカと目線の高さを合わせると、あまり大きくないオリーブ色の瞳をまっすぐにブランカに向けて、カミーユの説明を引き継いだ。

「現在、第二号車で一つ、第九号車から後方車両で三つの爆弾が確認されています。いずれも処理に当たっていますが、他の車両にも仕掛けられている可能性があり、直ちに列車から脱出しなくてはなりません」

 渋みのある落ち着いた中低音で、その人は丁寧なフラウジュペイ語を喋った。

 あまり間を開けずに、先を続ける。

「間もなく列車が停車します。今のところ、アメルハウザー大佐の車両には爆弾が仕掛けられていないことがはっきりと分かっていますので、あなたには大佐の車両に移動していただき、大佐と共にそこから脱出していただきます」

「えっと……」

 淡々と告げられた内容に、ブランカはまるで頭が追いついていかなかった。並べられた単語はどれも突拍子もないものばかりで、咄嗟に信じられるわけがない。

 ブランカは瞠目したままカミーユの方へ視線を送った。彼はいつになく真剣な表情を作って頷いた。

 そうしているうちに、廊下からオプシルナーヤ兵士達の叫び声が聞こえてきた。また見つかった、大佐を守れ、早く列車を止めろ。そんな言葉ばかりが飛び交っている。

 まさか本当に爆発が起こるのだろうか。

 じわじわと頭に降りてきた事実に、ブランカは大きく息を吸った。

「さぁ、行きましょう。アメルハウザー氏が心配しています」

「心配……」

 カミーユに腕を引かれながら、ブランカは彼の言葉を繰り返した。

『もう一度、親子としてやり直させて欲しい』

 父に先ほど言われた言葉が頭に蘇る。

 同時に幼い日の記憶が、瞼の裏にちらついた。

――あの言葉を信じていいの……?

 明らかに躊躇するブランカに、カミーユはいつになく穏やかな笑顔を浮かべて言った。

「お父上はあなたに再会できて本当に喜んでおられますよ。真剣にあなたのことを考えていらっしゃいます」

 カミーユの言葉に、大好きだった父の優しい笑顔が目に浮かんだ。先ほど父が見せた苦渋の表情に、昔のそれがひどく重なる。

 心が強く締め付けられた。

 ブランカは小さく頷いて床に足を下ろした。

 しかしその時――。

 凄まじい爆音が、突然鳴り響く。

 列車が大きく振動し、ブランカは思わず床に突っ伏してしまった。

 通路から兵士達の焦る声が聞こえてきた。

「<後ろがやられた! 早く分断しろ!>」

「<運転手は何をしている! 列車を止めるんだ!!>」

 ちらりと窓の外を見れば、後ろの方が明るくなっているのがすぐに分かった。灰色の煙が、すぐ近くまで風に流されてきていた。

 はっきりと間近に迫った危機に、思わず身体が震え出した。無理矢理立ち上がろうとしても、手足に力が入らない。

 すると、傍にいた将校がすかさず彼女を横抱きにした。

「彼女は私が預かりましょう。マルシャン氏は先にどうぞ」

「ありがとうございます。猶予はありませんね。急ぎましょう」

 先に部屋を出たカミーユに続いて、将校も退室する。

 通路に出れば、緊迫した表情の兵士達が右往左往しては、沢山飛び交う指示に皆混乱していた。後方車両に続く連結部分からは、灰色の煙がじわじわと近づいてきている。焦げ臭い匂いも徐々に辺りに充満し始めていた。

 どうやら爆発はブランカのいるところよりだいぶ後ろの車両で起きたらしいが、凄まじい威力で燃え上がる炎は、未だ走り続ける列車の旋風に駆られて前の方へと移動してきている。カミーユによれば、父のいる車両はここから一つ後ろらしいが、そちらへ向かうのは危険なのではないだろうか。

 先導するカミーユの背中へブランカが視線を送った時だった。

「――間もなく二号車が爆発する。ここから二つ前の車両だ。そうしたら君は今いた部屋の窓から外に出なさい」

 彼女にだけ聞こえる小さな音量のヘルデンズ語が、耳元で囁かれた。

 ブランカは息を飲んで将校を振り返った。彼は目線をカミーユの背中に送ったまま、先程までと変わらぬ表情で先を続けた。

「その五分後には後ろの車両が三台吹っ飛び、それでも走り続けるようならその先のカーブ地点で先頭車両が起爆剤を踏む。そこまで行くと流石に列車は終わりだ。君はその前にここから逃げるんだ」

「逃げるって……!」

 なんて無茶なことをこの人は言うのだろう。突然の爆破予告にもそうだが、あまりに突拍子もない指示に、困惑するばかりだ。

 そもそもこんな内容を、どうしてこの人は知っている? どうしてそれをブランカに教えるのか。

 瞠目した瞳をその将校に向けていると、彼は目線だけをブランカに移した。

「大佐は君を道具としてしか見ていない。いずれ大佐に君は殺されるだろう。それでも大佐についていくのか?」

「それは――……」

 ブランカは視線を泳がせた。

 鋭く突きつけられた現実。分かっている。この人が何者かは分からないけれど、彼の言うことの方がきっと正しい。父の言葉もカミーユの後押しも全て偽りだと分かっている。分かってはいるけれど、昔の記憶がブランカを揺さぶりかけるのだ。

 ブランカは将校とカミーユを交互に見比べた。

 父がいるであろう特別車両に続く連結部分の扉を開けて、カミーユがブランカ達に先に行くよう促している。将校は素知らぬふりをしたまま、足を進めた。

 父へと繋がる扉へと――。

 その瞬間、けたたましい爆発音が上がった。

 激しい揺れと共に、ブランカは床へはじき飛ばされた。三号車を一気に突き抜けた爆風が、連結部分をいとも簡単に突き破り、車体の破片を飛ばしてくる。側にいた将校が、すかさずブランカの身体を自身の下へと引き入れた。

「いいか、今のうちに行け。君はここで死んではならない人物だ」

「でも……っ」

 ごうごうと燃え上がる前方車両から、いくつもの悲鳴が聞こえてくる。勢いよく這い寄る煙と共に、何人もの兵士がこちらに向かって走ってきた。皆全身を焦がしながら、絶望を露わにしていた。

 後ろに行けば父に殺され、前に行けば炎の地獄。そもそもこの爆発を知っていた彼の言葉に従うべきなのか――。

――一体どうすれば……!

 そのとき、壁際に転がっていたゴールド色に、ブランカの視線が捕らえられた。

 十一歳の誕生日に祖父からもらった、ゴールドのブローチ。クラウディアからブランカになった後もずっと守り続けてきたそれ。今の衝撃で落としてしまったのだろう。

 輝きを失ったゴールドの中に、今度こそはっきりと求めていた答えが返ってきた。

――愛するケラ私のミン天使インゲル。どうか、お前には長生きして欲しい。

 ブランカはブローチに手を伸ばすと、弾けるようにして来た道を逆行した。

「クラウディア!? 待ちなさい! そちらは危険です!」

 後ろからカミーユの声が聞こえたが、ブランカは構わず足を動かした。

 ただでさえ痛みがひどくて走ることすらままならないし、前方から押し寄せる兵士達に呑まれて思うようにも進めない。

 第一、逃げたところでこんな自分に未来なんかない。

 それでもブランカは必死に足を動かし、煙に紛れてさっきの部屋へと滑り込んだ。

 たった数分間離れていただけとは思えないくらいに、部屋の中は姿を変えていた。綺麗な調度品は倒れていて、テーブルに置いてあった小物なども散在している。そもそも前方の壁は大きく内側にえぐれていて、破れた壁からは先ほどの爆風で飛んできたであろう車体の破片が突き刺さっていた。

 ブランカは息を呑んで、窓をまっすぐに見据えた。

――窓から、逃げる。

 あの将校に言われたことを反芻しながら、ブランカは心を決めて窓へと向かい、それを思いっきり開け放った――。

「おわっ! おい! いきなり開けるなよ!!」

「え……?」

 突然聞こえてきたブラッドロー語に、ブランカの思考が停止する。

――この声……。

 ここにいるはずのない、聞き馴染んだ声。

 ブランカは恐る恐る窓から身を乗り出し、声のした方を見上げた。

 窓のすぐ傍に備えついてある梯子に、ひとりの男性が掴まっていた。オプシルナーヤ軍服に身を包み、目深に帽子を被ったその人。暗がりだったら確実に判別できなかったが、赤く燃え上がる炎が、その人の顔を、こちらに向ける薄鳶色の瞳をはっきりと照らしていた。

「ヴォルフ……? え……どうして……?」

 自分は夢でも見ているのだろうか。だってヴォルフがここにいるはずがない。

 しかし、いくら目を凝らしてみても、そこにいるのはオプシルナーヤ軍服を着たヴォルフでしかなかった。

 呆気にとられて目を丸くしているブランカに対し、ヴォルフは不機嫌そうにため息を吐いた。

「説明は後だ。いいから来い!」

 ヴォルフはブランカに向かって手を伸ばした。

 差し出されたそれをブランカはまじまじと見つめる。そして再びヴォルフへと視線を戻した。

 こちらに向けられている薄鳶色の瞳は、ただひたすらに真剣で、揺るぎない強さを秘めていた。

「<クラウディアが逆走しました! 早く探してください!>」

 部屋の外で叫ぶカミーユの声を聞きながら、ブランカはまっすぐにヴォルフの手を握った。

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