5.迫る刻限
「泣いていましたね、彼女」
出されたコーヒーに角砂糖を入れながら、丁寧なヘルデンズ語でフィルマンが言った。この列車の中で一番豪華に誂えられた部屋のソファに足を組んで座る様は、ある意味部屋の主よりどこか尊大だ。
その向かいでギュンターがつまらなそうに鼻で笑った。
「幼くして一人ぼっちになっていたのだ。昔のことがあろうとも、実の父親からの情には敵わないだろう」
「おや、流石の自信でいらっしゃる。まぁ確かにあなたの言うとおり、彼女は親の愛情に飢えている様子でした。私のところに彼女が来たのも、ジルヴィアがきっかけでしたしね」
「ジルヴィア、か」
ギュンターはソファの肘掛けに頬杖をつきながら、ゆっくりと葉巻を吸った。
微かに細めた眼の周りにはいくつもの皺と黒いクマが出来ていて、それ相応に苦労を重ねてきたことが伺える。これがフィルマンと四つしか歳が離れていないとは、見た目だけからは分からないだろう。
口に含んだ煙を少しずつ吐き出しながら、ギュンターはふっと口角を持ち上げた。
「ふん、いい気味だ。私に逆らったから、むざむざあんな死に方をすることになったのだ。今頃地獄で父親に抱かれているんじゃないか?」
「随分な言いようですね。曲がりなりにもかつてはご夫婦だったんでしょう?」
「君がそれを言うのか、フィルマン」
鋭く咎めるような口ぶりに、フィルマンは大袈裟に肩を竦めた。表面上では失言でしたと言わんばかりに取り繕っているが、実際のところギュンターが怒っているわけではないことをフィルマンは知っている。
むしろ彼は愉快なのだろう。僅かに弧を描いた深緑色の瞳が、それを表している。
「それで? あの子はどうするんです? 彼女もあなたに逆らっていたわけでしょう? その手紙を大事に持っていたところを見ると、未だにお義父上に対して並々ならぬ想いを抱いているように感じましたけれどね」
「義父上などと言うな、忌々しい。あぁまったくもって腹立たしいことだ。母子共々あの男を選ぶとは、あのまま死んでおけば良かったものを……!」
ギュンターは手に持っていた薄萌葱色の手紙を、皺が寄りそうなほどに強く握った。中に書かれた内容も、彼の怒りを煽っているのだろう。
それを愉快げにフィルマンが眺めていると、「だが」とギュンターが言葉を続けた。
「クラウディアはまだ幼い。それにあんなに簡単に決壊するほどだからな。何にでも染められるだろう。それこそ、私の良い道具としてな」
瞬間、ギュンターの瞳の中に仄暗い光が宿る。僅かに白い歯を覗かせたその笑みには、紛れもなく狂気が宿っている。
フィルマンは一層愉しげに片眉を上げた。
「しかしあんなにみすぼらしい姿になっているとは思わなんだ。見た目だけはジルヴィアのいい部分を受け継いでいたというのに、何だあの姿は」
「おや、私は可愛らしいと思いますけどね。あんなに綺麗な真っ白色、清廉潔白で特別な感じがして良いではないですか」
「髪のことはまだいい。私が言っているのは火傷の方だ。まるで化け物ではないか」
「ふふ……実の父親に、しかも付けた本人にこんなことを言われるとは、なんともお可哀想に。でも考えてみて下さい。あの火傷を所有の証だと思えば、愛おしく感じませんか?」
飄々と言ってのけるフィルマンへ、ギュンターが一瞥を寄越した。
「そんな風に言うのなら、今回の報酬代わりにクラウディアを君へくれてもいいんだぞ。勿論うちに来てもらうことになるが」
「それは光栄ですが、これも急な出張ですのでね。ひとまずはきちんと金で頂きますよ。あぁ、ブラッドロー軍の捕虜の分も合わせてお願いします」
ギュンターは引き出しから小切手帳を取り出し数字を記入していく。
すると、ギュンターの部下が慌ただしく部屋に入ってきた。
「<アメルハウザー大佐、報告です。ヴァルツハーゲンの鉄道沿線において、不審な動きをするメルジェーク人の集団を捕らえたと、無線で通達が来ました。ヴァルツハーゲン駐屯基地にて拘束中だそうです>」
オプシルナーヤ語で早口で伝えられた用件に、ギュンターは不愉快そうに顔をしかめ、盛大にため息を吐いた。
「<またメルジェークか。一体何を企んでいるのかは知らないが、ヘルデンズ中東局長に伝えておけ。一人残らず始末するようにしておけとな>」
「<分かりました>」
部下が頭を下げて退室するのを眺めながら、フィルマンはくすくすと笑った。
「全ては理解できませんでしたが、何やら不穏な様子で」
「メルジェークの雑魚共がまた悪戯をしているそうだ。全く鬱陶しい。これがノイマールであったなら、見せしめにしていただろう」
「冷徹なお人だ。全くもって容赦ない」
「だが不穏分子は早々に取り除いておくものだ。そうだろう?」
フィルマンは大げさにおどけて見せた。
「それなら仮に、万が一あの子がそういうグループに関わった場合はどうなさるおつもりで?」
興味本位でフィルマンは尋ねた。
ギュンターは葉巻を吸いながらフィルマンに白い目を向けた。
「悪趣味な質問だな」
「ええ、でも気になったので」
フィルマンが「さあ」と促すと、ギュンターは口角を持ち上げて答えた。
「そうだな。そうなったら今度こそ殺してやるさ」
***
ヴォルフは車両の連結部分に隠れながら、腕時計を確認した。
列車の爆発まであと三十五分。少しずつ猶予は削られている。
――さて、どうしたものか……。
車内の様子を視界に入れつつ、ジャケットの内ポケットに手を入れた。
取り出したのは列車内の簡略地図。謎の男が気絶させたオプシルナーヤ兵から頂いたものだ。それ以外にヴォルフが今着ている軍服や拳銃など、どれもオプシルナーヤ兵が身に付けていたもの――要するにオプシルナーヤ兵の格好をしている。
そもそも見た目にアジェンダ的特徴が顕著に出ているヴォルフだ。こんなことをしたところでただの気休めでしかない。
そう思っていたものの、余程初めての末端の兵士まで連れてきているせいか、もしくは単に軍帽を目深に被っているせいか、今のところ兵士とすれ違っても不審がられることはなかった。もっともほとんどが部屋で控えていたため、すれ違った兵士は数えるほどしかいなかったが。
そうしてヴォルフは自分が押し入れられていた最後尾の車両から下級兵士の部屋のあるところまですんなり来られたわけだが、ここからが鬼門だった。
簡略図によればこの列車は十二両編成で、ヴォルフが今いるのが九両目だ。ここから先には将校クラス用の車両が数台と、それらに挟まれるようにして三台の特別車両が連結している。あの謎のヘルデンズ人の情報によれば、どうやらブランカはここから五両先、特別車両のうち一番向こう側にある車両に入れられているらしい。
場所が分かったところでその手前にあるギュンター・アメルハウザー達の車両をどう突破するかが問題だ。
――まぁ、その前にまずここを突破しなければな……。
連結部分から見える将校クラス用の車両は、下級兵士達の車両と同じように右側に通路、左側にそれぞれの個室が並んでいる。流石に将校達の目を欺くことは難しいだろうが、今のところ通路には誰もいない。
ヴォルフは軍帽のつばを更に前方に下げて、先へ進んだ。
足音を立てないよう慎重に足を出しながら、左手に並ぶ個室へちらりと視線をやる。
先程ヴォルフを逃したヘルデンズ人は、声や会話の様子からして上級兵士に違いないのだろうが、そうなるとこの車両にいる可能性もある。あの男の顔だけでも見てみたいものだが、そんな状況でもない。
ヴォルフは再び視線を前方に戻して、将校クラス用の車両を一つ突破した。
二つめの将校クラス用の車両へ足を踏み入れたとき、個室の一つから扉が開く気配がした。ヴォルフは手近にあった化粧室に身を潜ませた。
外から男二人の話し声が聞こえてきた。
「<あーまだあと四時間もあるのか。長ぇな。早く帰って彼女に会いたいぜ>」
「<また恋人の話か。懲りないな。ずっと同じ相手は飽きないのか?>」
「<お前こそ、いい加減一人に絞ったらどうだ>」
声の感じからしてヴォルフより少し年上くらいか。こんな暢気な若者の未来も三十分後には潰えてしまうのだと思うと、何とも言えない気持ちになってくる。
――俺も危ういんだがな。
すると、二人の声と足音が、化粧室に近づいてきた。苦肉の策と感じつつも、ヴォルフは更に用具入れに隠れた。
案の定、男二人が化粧室に入ってきた。
「<女と言えばお前、大佐の娘見たか?>」
軟派な方が思い出したかのように話題を振った。
――大佐の娘?
指しているのはギュンター・アメルハウザーのことで間違いないだろう。実にどうでもいい話だ。こっちはそれどころではないのに、こんなことで足止めさせられることに、苛立ちが募り始める。
「<列車に乗るときに少しだけ。それがどうした?>」
「<俺見損ねたんだよ。どうだった?>」
「<そんなに気になることか?>」
「<あぁ、だってあの大佐の娘だぜ? なぁどんなんだった?>」
ため息を吐いて呆れるもう片方の男に、ヴォルフも内心同意する。
彼らの会話から察するに、この列車にはギュンター・アメルハウザーの娘とやらも乗っているそうだが、ますますヴォルフには関係のない話だ。内心の焦りを湧き起こらせながらも、彼らが去るまでの間、ブランカの元へたどり着く経路を考えることにする。
しかし、そう思った矢先に聞こえてきた会話は、ヴォルフの思考を停止させた。
「<暗かったしちゃんと見えなかったが、髪の毛は真っ白だった>」
「<真っ白?>」
軟派な方と同じタイミングで、ヴォルフも疑問を頭に浮かべた。
そこから連想される人物にまさかと首を横に振るが、続いて聞こえてきた内容に懸念が更に深まった。
「<あぁ、白かった。それくらいかな。大佐の客人に抱えられながら眠っていたよ。あぁ、あと顔が片側
――どういうことだ?
真っ白な髪に、半分だけ爛れた顔。そんな女、そうそういるはずもない。間違いなくブランカ――クラウディア・ダールベルクのことだ。
その彼女はギュンター・アメルハウザーに焼き殺されたとして軍部の間では有名だ。しかし、今の会話が本当だとすれば、クラウディア・ダールベルクはギュンター・アメルハウザーの娘ということになる。
――まさか……。
五年前に彼女の身に起こったことを想像して、ヴォルフは再び頭を横に振った。
考え出すと色々と矛盾が生じてくる。
第一、オプシルナーヤ軍人として名を馳せるギュンター・アメルハウザーが、クラウディア・ダールベルクの父親であることすらおかしい。
それにこの男二人の口ぶりからすると、将校クラスと言えどもオプシルナーヤ兵のほとんどにはフラウジュペイに向かった本当の目的を知らされていないのだろう。『娘』というのもそれを隠すための方便なのかもしれない。
――とにかく考えるのは後だ。
時計の長針は六を僅かに過ぎている。もう爆発まで三十分もないのだ。
男二人が用を足して化粧室からようやく出たとき、突然通路が騒がしくなった。
「<緊急事態だ。車内に爆弾が仕掛けられている! お前達は後方を調べろ!>」
別の上官らしき男の声が聞こえたかと思うと、あちらこちらから兵達が行き来する音が聞こえる。早くも計画がばれてしまっているではないかとヴォルフはあの謎のヘルデンズ人を内心で詰るが、これは案外好機なのかもしれない。
ヴォルフは慎重に化粧室から出ると、慌ただしく通路を行き交う兵士達に紛れて、特別車両へ急いだ。
しかし、一つめの特別車両をあと少しで抜けようというところで、前から来た人物に止められた。
「<おい君。見たことない顔だな。名前を言え>」
呼び止めたのは、狡猾そうなキツネ面をした男だった。
明らかに不審の目つきを向ける男に対し、ヴォルフは頭を下げてなるべく顔を見せないようにして答えた。
「<第三小隊、ルドルフ・グラツキーです>」
拝借してきたオプシルナーヤ軍服の持ち主の名前を、慎重に口にした。
男は舐めるようにヴォルフを眺めた。
「<俺の知るグラツキーは、そんな下賤な野郎ではなかったと思うが>」
――くそっ!
男の手が腰に伸びるのを見て、ヴォルフはすかさず自分の拳銃を男の手に向けて撃った。痛みに狼狽える男の顔面と腹に拳を入れる。
すると前後から異変を察知したオプシルナーヤ兵が駆けつけてきた。数発飛んできた銃弾を肩に掠めながら、ヴォルフは咄嗟に近くにあった個室に逃げ込んだ。
広い客室には幸い中には誰もいなかったが、まずい状況になった。扉は鍵とチェーンをかけたが、外から兵士が何発も弾を撃ち込んできている現状だ。扉そのものを打ち破られるのも時間の問題だろう。
成功するか分からないが、一応爆発の時間も迫っている。
ヴォルフは窓の方へ駆け寄った。
逃げた場所が、車両丸ごと一部屋の客室であったことは幸運だったかもしれない。一番端の窓の外には、車体に取り付けられた梯子が見えた。
ドアの鍵を回される音を聞きながら、ヴォルフは梯子に手を伸ばした。
兵士が部屋へ押し入り、ヴォルフが列車の上に辿り着いたとき、残り時間は十五分を切ろうとしていた。
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