4.見えない味方
同じ頃、ヴォルフは見張りのオプシルナーヤ兵に殴られていた。
「<無様だなぁ! ブラッドローかぶれのアジェンダがよお!>」
「ぐ……っ!」
腹に強い蹴りが入り、身を捩る間もなく頭を強く踏みつけられた。
ヴォルフは歯を食いしばり密かに拳を握った。
一体これで何人目だろうか。
両手両足を縛られどこかの床に転がされて、代わる代わる兵士に殴られて、ヴォルフはオプシルナーヤ兵のいい玩具だった。しかも頭に麻袋を被せられているため、自分を殴った兵士の顔を見ることも出来ない。
屈辱ばかりが募っていく。
――無能野郎どもめ。
ヴォルフは内心で悪態ついた。
幸いというべきか、これだけ暴行されていながら、ヴォルフは未だ何も尋問も取り調べもされていなかった。端からブラッドローの情報を漏らすつもりなどさらさら無いが、余計な会話で情報を引き出されることを考えたら、まだマシなのかもしれない。
要するにこれは拷問ではなくただの虐待だ。行う兵士達の小物具合を、ヴォルフは内心で見下した。
口の中に流れた血を苛立ちのままに吐き飛ばす。袋の中とはいえなるべく目立たないようにしたつもりだったが、オプシルナーヤ兵は見逃さなかった。胸を強く蹴り飛ばされる。
「<あー胸くそ悪ぃぜ。なんたってこんなアジェンダ野郎の監視なんかやらされるんだ>」
ぶつぶつ呟きながら、オプシルナーヤ兵はヴォルフに唾を吐きかけた。そうして足音が徐々に遠ざかり、離れた位置からマッチを擦る音が聞こえてきた。匂いからしてタバコを吸っているのだろう。どうやら捕虜虐めに飽きたようだ。
――本当に、無様だな。
小さく息を吐きながら、ヴォルフは自嘲した。
二度も失態を侵してこの様だ。こんな小物に嬲られても文句の言えない自分の無能さに、心底うんざりする。せめてもの救いは、最悪の状況にも関わらず部下達を帰せたことだろうか。彼らが無事ブラウン少佐の元へ戻っていることを祈るばかりだ。
――俺はこれからどうなるのだろうか?
考えたところで行き着く答えは一つしかない。笑うしかなかった。
列車に揺られて地獄へ連れて行かれる。こんな状況は二度目だ。ぼんやりとそう考えているうちに、昔の忌々しい記憶が真っ暗な視界に蘇る。
六年前、ちょうどフィンベリー大陸戦争の終わりから一年前の冬の終わり。ヴォルフと彼の家族はアジェンダ狩りで捕まった。隠れ家にしていた父の友人の会社に突如としてヘルデンズ兵が現れ、その場で母と引き離され、ヴォルフと父は窓のない貨物列車に押し込まれた。
蒼白な顔で何度も謝り続ける父を宥めながら、そのときもヴォルフはこう思った。「これからどうなるのだろうか?」と。
視界に飛び込んでくるのは、父と同じく真っ青な顔で震える人たち。いやいやと泣き叫ぶ者もいれば、呆然とその状況を受け入れようとする者。飢えや酸欠で既に息絶えている者もいた。そんなのが同じ空間に無数に押し込められていて、この世の終わりだった。
自分の問いかけは愚問でしかなかった。否を唱える間もなく殺される。悔しくてたまらなかったが、捕まってしまえば逃げ場もない。
本気で諦めを感じていたのだ――列車を出るまでは。
ヴォルフは麻袋の中でハッと目を開いた。
――こんなところで終わらせてたまるか……!
あのときに、目の前にマクシミリアン・ダールベルクとその孫が現れたあのとき、父を殺されたあの瞬間に、心に強く誓ったではないか。必ずや収容所を出て、あの男と孫に復讐してやると。生憎、片方は叶わぬ望みとなってしまったが、もう片方はまだ手の届くところにいる。
――そもそも、こんな状況に遭っているのも元はと言えばあいつの――……。
怒り任せに頭に浮かべた白いおかっぱ頭に、ふと新たな疑問が湧き起こる。
彼女は今、どうしているのだろうか。
オプシルナーヤがクラウディア・ダールベルクを求める理由がブラッドローと同じだとすれば、しばらくは殺されることもない。だが、その命がどこまで保つかも分からない。
それ以前に、こんなに気性の荒いオプシルナーヤ兵がごろごろいるところだ。既にヴォルフは捕虜というだけでこの様だ。マクシミリアン・ダールベルクの孫である彼女が、丁重に扱われているとは思いにくい。
第一、あんな年頃の娘など、オプシルナーヤ兵の格好の餌食ではないか。
そこまで考えたところで、ヴォルフはギリッと奥歯を噛みしめた。
――俺の知ったことか。
考えなくてはならないのは、任務の遂行と自身の復讐だ。そのためには自分はこんなところで死ぬわけにはいかないし、彼女を大人しくオプシルナーヤに渡すわけにもいかない。
とりあえずこの列車がノイマールに向かっていることは分かっている。ヴォルフがオプシルナーヤ語を理解できないと思い込んだ愚かな兵士達がそう話していた。ノイマールに着いてしまえばヴォルフも彼女も終わりだろう。
一刻も早くここから脱出しなければ。
――とは言え、この状態からどうすればいいものか……。
離れた位置でタバコを吹かしている兵士の気配をヴォルフが伺ったときだった。
外から別の足音が近づき、間もなく扉を開ける音が聞こえてきた。
「<お疲れ様です。もう交代の時間ですか?>」
サボっていた兵士が、慌てた様子で立ち上がった。それまでの横暴な態度からの変わり様は、これが自分の部下でなくて良かったと思うほどだ。
新たな人物が部屋に入ってくる。足音の数からして一人だろうか。ゆっくりと地面を踏み締めながら、その人物は部下の男の質問に答えた。
「<あぁ少々早いが、ここは僕が預かろう。君は休憩に入るといい>」
聞こえてきた声は、堂々とした渋みのある中低音。声の雰囲気と会話の様子から察するに、ヴォルフの一回り年上くらいの年齢だろうか。鳴り響く靴音が、それまでの兵士と明らかに違っていた。
つまらない役から解放されたことに安堵の息を漏らした無能兵士は、更に一発と言わんばかりにヴォルフに近づいてきた。
しかしその瞬間、予期せぬ事が起こった。
「<ぅぐ!? 何を……!?>」
不審な物音がしたと思ったら突然兵士が呻き声を上げ――そしてその場で兵士が崩れ落ちた。少し離れた位置に引き摺られていくのが、床越しに伝わってくる。
――一体何が起きている?
ヴォルフは更に感覚を研ぎ澄ませた。
微かな物音が数秒間続いた後、謎の上官らしき男がヴォルフの方へ寄ってきた。頭のすぐそば立ち止まった男は、ブラッドロー語に切り替えてヴォルフに尋ねてきた。
「――さて、君はここから逃げたいか?」
思考が一瞬停止した。
全くもって状況が飲み込めない。
「そんなことを聞いてどうするつもりだ?」
「そうだな。返答次第では君を逃がしてやってもいい」
「何?」
意味が分からない。まさか本気で言っているわけではないだろう。
しかしこの男はオプシルナーヤの一兵士を気絶させた。それはヴォルフを踊らせるための罠なのか、それとも何か別の目的があるのか。
そもそもこの男は何者だ。
男が発した言葉を頭の中で反芻しながら、慎重に会話を続けた。
「一体何を企んでいるのか知らないが、そんなことをよく堂々とこんなところで話せるものだな」
すると男がフッと笑った。
「心配はいらない。ブラッドロー語を理解できる兵士はほとんどいないからな。少なくともこの者は問題ない――まぁ、仮に理解出来ていたとしても、この男はどうせ助からないだろうが」
「……どういうことだ?」
男はトーンを下げて答えた。
「この列車は一時間後に爆発する――内と外、両方からな」
「何だと!?」
流石にそこまでの予想はしていなかった。
まさか、本当にそんなことが起こるのか。
「信じる信じないは君の自由だ。その上で尋ねよう。君はここから逃げたいか?」
男はもう一度尋ねた。
ヴォルフは喉の奥で唸った。
全くもって信憑性は薄いが、仮にこの話が嘘だとすると、わざわざこの男が部下を気絶させてまでヴォルフを陥れる罠があるとは考えにくい。それともオプシルナーヤではそんな悪趣味な遊びが流行っているのだろうか。
しかし、それは違うだろう。ヴォルフはここまでの会話で一つの確信を得ていた。
この男の話すブラッドロー語には、違和感があった。ヴォルフも馴染みのある違和感だ。
――こいつはオプシルナーヤ人ではない。ヘルデンズ人だ。
今やヘルデンズの東半分はオプシルナーヤに吸収されつつあるため、ヘルデンズ軍の一部がオプシルナーヤ軍に紛れ込むなどありえることだろう。だが、この男の言い分からすると、彼はオプシルナーヤ兵ともヘルデンズ兵とも違うように思える。
そんな謎のヘルデンズ人が、どうしてヴォルフにそんな情報と打診を持ち掛けてくるのか。
――いや、それ以前に……。
この男は中と外側から列車を爆破すると言った。一体どれほど用意周到な計画なのか分からないが、もしこの話が本当だとすれば――。
「爆破するほどの人物が、ここに乗っているのか?」
そう察するのが妥当だろう。
ヴォルフが神妙に尋ねれば、男は即答した。
「ああ、ギュンター・アメルハウザーだ」
「ギュンター・アメルハウザーだと?」
出て来た人名に驚きながらも、ヴォルフはなるほどと思う。
オプシルナーヤ軍の高官であるその人物は、何より五年前にクラウディア・ダールベルクを焼き殺したことで軍部の間では有名だ。だが、生憎彼女は生きていた。その尻拭いも含めて彼がクラウディア・ダールベルクを探し出す任務に就いていたのだとすれば、納得もいく。
また、ギュンター・アメルハウザーと言えば、近頃はヘルデンズのオプシルナーヤ領域で勢力を伸ばしていることも有名だ。そのやり方は卑劣で、異を唱える者には容赦ないと聞く。
――なるほど、そういうことか。
この男の正体が薄々と見えてきた。
「それで? 俺を逃そうとするお前の目的は何だ。無条件というわけではないのだろう?」
「もちろん条件はある。あくまで君が無事にここから出られたらの話だが」
「時間がないんだろう? 早く言え」
募る苛立ちのままにヴォルフが先を促すと、男はやれやれと言った調子でため息を吐いた。
「君たちが探し続けていた
「宝物?」
それが何を指し示しているのか、確認せずとも分かる。
男の意図を予想しながら、ヴォルフは無意識に拳を握っていた。
「あんなもの手にしてどうする」
「君たちが必要としている理由と同じだ。いやむしろ、アレはもともとこちらのもの。我々の手にあるべきものだ」
「それで? 再び喧嘩を始めるつもりか、昔のように」
「もしそうなったとしても、ブラッドローや西フィンベリーには手は出さない。むしろ手を貸して欲しいとすら思うくらいだが、それも難しい。ただ奴のやり方には我々はもう限界なんだ――例え敗戦国と言えどもな」
男はあくまで落ち着いた口調で話すが、言葉の端々に切実さが垣間見える。その物言いには、同時に別のニュアンスが含まれているように感じた。
――君なら分かるだろう?
流石にそれは考え過ぎなのかもしれない。
だが、男の求めるものが、はっきり分かってきた。そこに潜む背景に少なからず気持ちが引き寄せられるのを感じながら、ヴォルフは鼻で笑った。
「要するに、列車が爆発する前にここからあいつを連れ出して、お前に……いや、我々と言うからには、お前の仲間のところに向かわなくてはならないのか」
「そういうことだ」
「無茶な賭けだな。まず脱出できるかすら分からないのに、仮にここから出られたとして、俺がそんな約束を果たすとも限らない」
「君の言うとおり、これは危険な賭けだ。我々も必死なんだ。例え君が約束を守らなくとも、せめてブラッドローに恩を売れさえすればと思うくらいに」
話しているうちに、男の言葉には苦いものが混じり始めていた。未だ信用できる要素はないが、とにかくこの男は本気なのだろう。ヴォルフは直感的に思った。
僅かな逡巡の後、ヴォルフは尋ねた。
「ここから出たら何処に向かえばいい?」
男は微かに息だけで笑うと、ヴォルフの足元に周り、両足を縛る縄をいじり始めた。
「まっすぐ北に向かえ」
「北? その前に待て。列車は今どこを走っている」
「十五分前にアルテハウスタットを越えたところだ。その先にあるヴァルツハーゲン――ノイマールから南西側に向かって三つめの街で列車は爆破する」
地名さえ分かれば流石にヴォルフも分かる。アルテハウスタットとはヘルデンズの中央に位置する大都市で、オプシルナーヤが吸収した最西端の場所だ。
要するに列車は既にオプシルナーヤ圏内に入っているということだ。
「ヴァルツハーゲンから北に抜けたら――」
足の縄を解くと、男はヴォルフの背後に回り両手の縄を解きながら、一際小さな声でヴォルフの行動を示した。
ヴォルフは麻袋の中でニヤリと笑みを浮かべた。
「あんまり信用しすぎると寿命を縮めるぞ、オッサン」
「そうだろうな。僕もそう思う。だが、最初に言ったとおり、信じる信じないも君の自由だ――まぁ君はそこへ向かわざるを得なくなるだろうがな」
男は自嘲気味に言った。
そうしているうちに両手の縄が緩くなった。
もう少しで解けるというところで、男は縄をいじる手を止める。
「あとは自分で出来るだろう。僕は五分ほど退室しているから、出て行くならその間に。あぁ、ここの兵士はほとんど君の顔を覚えていないから、そこは心配しなくていい」
言いながら男はヴォルフの元から離れて行った。
せめて男の顔だけでも見てやろうと、急いで縄を揺さぶり落とし頭の麻袋を取るが、視界が開けたときには、既に男は部屋から消えていた。
ヴォルフは部屋の中へ視線を巡らした。
倉庫のような簡素な部屋の隅に、先程ヴォルフを痛めつけていたオプシルナーヤ兵が倒れていた。そしてその前には、捕まったときに横領されていたヴォルフの私物品が、丁寧に置かれてある。
――あまりに都合が良すぎる気もするが……。
信じる信じないもヴォルフの自由。
出された条件を飲むかどうかすら、ヴォルフは選べる立場にある。
しかし、いずれにせよヴォルフは自由に動き回れるようになった。
この状況を大いに利用する他ないだろう。
――時間もないからな。
素早く装備を調えてから、ヴォルフは部屋を出た。
時刻は午前四時十分。
列車の爆発まで、あと四十五分を切ったところだった。
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