3.ギュンター・アメルハウザー

 ひどい倦怠感と全身から訴える鈍い痛みに目を覚ます。

 見上げた先にある見慣れぬ天井、僅かに振動を伝えるベッドの感触、規則正しい周期で聞こえる列車の音。

 ブランカはハッと上体を起こした。

「おや? 起きましたか」

 彼女の焦りとは裏腹ののんびりした声に、ブランカは声の主へ視線を向けた。馴染み深くなったそれは、カミーユのものだ。彼はブランカが寝かされていたベッドの脇に座っていた。

 ブランカはベッドの中で後退する。

「これは一体どういうつもりですか? この列車はどこに向かっているのですか?」

 なるべく硬く鋭くしたつもりの声は情けないほどにか細くなってしまったが、怯まずブランカはカミーユを睨み付ける。

 これがただの虚勢だということは彼にはお見通しだろう。

 案の定カミーユは大袈裟におどけて見せた。

「聡明なあなたのことです。私が答えなくともお分かりなのでは?」

 ブランカはぐっと唇を噛んだ。

 彼の言うとおり、ある程度は把握している。かなり絶望的な状況だ。

 自分はこの男に攫われた。せっかく匿ってもらっていたのに、再びこの男とフィルマンの手に落ちてしまった。その目的だって分かっている。あの人の元に連れて行かれ、そこで自分は殺されるのだ。

――それなのにこんな部屋まで与えて、なんて悪趣味なの。

 視界に入ってくる光景に、ブランカは眉を潜める。

 凝った意匠の彫刻が所々に施された木製の壁と天井。備え付けられたインテリアは見るからに高価そうで、ブランカが寝かされていたベッドも上質のもの。要するに上等の個室だ。ブランカがどうなる運命なのかを知っていながらこんな部屋に寝かせるとは、皮肉もいいところだ。

 無駄だと思いつつも、カミーユを見据える視線に力を入れる。カミーユはフッと嘲るような笑みを浮かべた。

「そんな怖い顔をしないで下さい。これからいいことが待ち受けているのですから」

「よくもそんなことを……! 一体これのどこが!」

「すぐに分かります。とりあえずあなたが目覚めたということで、私はさる・・お方をお呼びしに行かなければなりません。すぐに戻りますので、しばしお待ち下さい」

 わざとらしいまでの所作で、カミーユは部屋から出て行った。同時に施錠する音が聞こえてくる。

 怒りで奮い立たせていたブランカの身体が、一気に震え出す。

――まさか既にこの列車に乗っているの……!?

 カミーユの口ぶりからは、そうとしか考えられなかった。恐怖が彼女を襲い始める。

 ブランカは部屋に付いている窓を見た。

 流れゆく真っ暗な夜の景色を流すだけのそれは、片側を横に引くことが出来るタイプのもので、人一人分くらいなら余裕で通れる大きさだった。

――ここで捕まるくらいなら……!

 ブランカはベッドから降りた。

 しかしその途端、彼女の身体は崩れ落ちた。床に下ろした足に激痛が走ったのだ。

 早く立たなければ。そう思うほどに震える腕は何の役にも立たず、また先程よりも強い痛みを訴える足は言うことを聞いてくれない。あの人はもう、すぐそこまで来ているというのに――!

 逸る気持ちで腕に力を入れたとき、鍵を回す大きな音が室内に響いてきた。

 ブランカは弾かれたように扉を見た。全身から一気に血の気が引いていく。

――いやよ、来ないで、会いたくない……!!

 少しでも距離を取ろうと床に尻餅をついたままブランカは窓側の方へと必死に下がるが、部屋の扉は容赦なく押し開かれた。

「どうぞ中へ」

 カミーユに案内されて、その人は、フィルマンと共に部屋に入ってきた。

 寸分の乱れなく後ろに撫で付けられた白髪混じりの金髪。目の周りや額を刻む皺の数は多くなり全体的にだいぶ老け込んだが、平均的な身長をより大きく感じさせるかの如く放たれた気迫と威圧感は、昔と変わらない。着ている高そうなスーツがそれを助長している。

 深緑色の細い瞳をまっすぐにブランカに向けて、その人は彼女の方へと近づいてきた。

「あ……あ……」

 ドクドクと脈打つ心臓に呼吸が苦しくなる。少しでも距離を離したいのに、凍り付いた身体は震えを増すばかりで動くことも叶わない。

 何より強い眼光を放つその瞳は、ブランカを恐怖の淵へと突き落としていた。

 瞼の裏に広がる真っ赤な炎。だらりと腕を投げ出し倒れた母。後ろから迫る何人もの足音。躊躇いなく向けられた銃口。

 必死に蓋をし続けてきた記憶が――五年前の恐怖と絶望が、次から次へと蘇る。

 そしてその恐怖は再びブランカの前に現れた。

――嫌っ! 殺される!

 その人があと一歩のところまで迫ったとき、ブランカはぎゅっと目を瞑った――。

 しかし次の瞬間、ブランカの身体は強い力に抱きしめられていた。

「クラウディア……お前なんだな。本当に、会いたかった……!」

 ヘルデンズ語で紡がれたそれは、喜びを噛みしめるかの如く震えていた。

 まるで心から放たれたかのようなその言葉に、ブランカは耳を疑った。

――どういう……こと?

 この状況に頭がついていかない。

 ブランカがうっすらと瞼を開ければ、その人は彼女の顔を掬い上げた。

「あぁ、こんなに立派に成長して……。私のミン天使インゲル

 切なげに眉根を寄せ覗き込んでくる深緑色の瞳には、うっすらと涙がにじんでいる。

 ブランカは更に困惑した。

 どうしてこんな風に抱きしめるのか。どうしてこんな震えた声で愛おしそうに呼ぶのか。どうしてそんな今にも泣きそうな瞳で優しく微笑んでくるのか。

 考えれば考えるほどに分からない。

――だってこの人は……。

「クラウディア、どうしたんだい? 五年ぶりの再会なんだろう?」

「信じられないのでしょうかね? お互い生き別れていたわけですし」

 フィルマンとカミーユが素知らぬふりして話しかけてくるが、彼らの言うことはブランカの耳には入っていなかった。

 何も言わずに固まったままのブランカを見て、その人は眉を潜めた。

「まさか、父さんを忘れたのか?」

 不安そうに紡がれた一言に、心の奥底で燻っていた怒りが一気に表面へ膨れ上がる。ブランカは思いっきり腕を伸ばしてその人を突っ張った。

「よく言うわ」

 きつく睨み付ければ、その人は更に瞳を細めて悲しそう表情を浮かべる。それがますますブランカの怒りを煽り立てた。

 確かに目の前にいるこの人は、ブランカの血の繋がった実の父親だ。否、父親だった。

 五年前にこの人が全てを裏切ったのだ。

「会いたかっただなんて、嘘ばっかり。今更父親面なんてしないで!」

「待ってくれ、クラウディア。本当にお前に会いたかったんだ。この五年間ずっと探し続けてきた。お前には信じてもらえないだろうが――」

「信じられるわけがないわ! 私を殺そうとした人のことなんか!!」

 忘れるはずがない。忘れたくても忘れられなかった。一夜にして運命を狂わせたあの悪夢は、ずっとブランカの頭に焼き付いて離れない。

 信じていた人に向けられた銃口。首を絞められた母。後ろから何度も聞こえてきた銃声音。耳を塞ぎたくなるようなひどい言葉には心からの殺意が込められていて、躊躇いなく放った火がそれを証明していた。

 そう、目の前にいるこの男こそが、五年前にブランカを焼き殺そうとしたギュンター・アメルハウザーなのだ。

「確かに私は許されないことをした。本当にあのときの私はどうかしていたんだ。突然変わった状況に頭がパニックになって、そのせいでお前に一生消えない傷を与えて……あんなこと、するものではなかった。どれほど後悔したことか……」

 絞り出すような震えた声で、ギュンターはブランカの右頬へと手を伸ばした。赤い火傷の痕に触れるその手つきはまるで宝物を扱うかのように慎重で、余計にブランカの神経を逆撫でする。

 ブランカは首を動かし乱暴に彼の手を振り払った。

「今更もう遅いわ」

「あぁ今更許されるとも思っていないさ。だが――」

 彼はブランカの両手を取り強く握って、先を続けた。

「こうして再び会えたんだ。だからどうか、私にチャンスを与えてくれないか? もう一度、親子としてやり直させて欲しい」

 懇願するような深緑色の瞳を、彼はまっすぐにブランカに向けた。

 この眼差しはよく知っている。幼い頃、何度も向けられた愛情に満ちたそれは、ブランカが大好きだったものだ。

 だが、その愛情も今となっては全て偽りにしか思えない。全てを裏切っておいて今更家族のようになど、虫がいいにも程がある。そもそも今だって誘拐される形でここに連れて来られたのだ。彼の懇願が心からのものだとしても、信じられるはずがない。

 そう思うのに、心がひどく揺さぶられる気がして、ブランカはぎゅっと目を閉じた。

「そのような気持ちがあるのなら、私をこの列車から降ろして下さい。私は自分の住んでいたところに戻ります。そうして二度と、私の前に現れないで下さい」

 震えそうになる声を無理矢理硬くしてブランカは言った。

 不可能だと知りつつも、それはブランカの切実な気持ちだった。

 もう二度と、関わりたくなかった。

 しかし、そんな微かな希望もすげなく却下された。

「済まないが、それは出来ない」

「どうして!?」

「たった二人だけ残った家族だ。生き別れになっていたのが、こうして五年ぶりに再会できた。もう手放せるはずがない」

「たった二人だけって、よくそんなことを……! お母さんのことだって殺そうとしたくせに!」

「だから尚更なんだ!!」

 声高に叫んだギュンターの声が、室内に木霊する。

 彼は一つ小さく息を吐くと、声を落ち着かせてブランカに言い聞かせた。

「ジルヴィアのことはかなりニュースになったし、彼からも聞いている。本当に無念だ。どうしてもっと早く迎えに行かなかったのか……」

 ギュンターは扉の前に立ったままのフィルマンにちらりと横目を流した。フィルマンは悲しそうな表情を浮かべて肩を竦めるが、笑った目元は誤魔化せていない。目の前のこの人だって、真相を知っているのではないか。

 そう詰め寄る前に、彼が言葉を重ねてきた。

「それにお前も素性を知られてしまったんだろう? だからこんな目に遭わされて……。無実な少女まで襲うとは、ダール狩りは本当にひどい」

 彼は握ったままのブランカの両手に目を落として、首を横に振った。

 ブランカの足と腕にはガーゼや包帯が何カ所か当てられている。ヴォルフに手当てしてもらったままのそれを、この人は本当にダール狩りによるものだと思っているのだろうか? 素知らぬふりをするフィルマン達の様子と、本当に悔しそうに歪められたギュンターの顔を見比べる。

 すると、床に座り込んだままのブランカの身体がふわりと持ち上げられ、ベッドへと座らされた。ギュンターはブランカの前に片膝を付き、再び両手を握って真剣な目を彼女に向けた。

「分かってくれ、クラウディア。今のフラウジュペイはお前にはとても危険すぎる。そんなところにお前を残してジルヴィアと同じ目に遭わすくらいなら、私は一生嫌われてでもお前をこのままノイマールに連れて行くよ」

「ノイマール!?」

 ブランカは弾けるように窓の外を見た。

 まさかこの列車が向かう先はノイマールだというのだろうか。一体どれほどの時間をこの列車が走っているのか想像もつかないが、もしかすると、もう既にフラウジュペイを抜けヘルデンズに入っているのかもしれない。

――もう、戻れないの……?

 ダムブルクで出会った優しい人たちの温かい笑顔が、脳裏を駆け巡る。他人行儀とはいえ親切にしてくれた児童施設の人たち。いつもブランカの味方になって励ましてくれたレオナ。正体を知っていたのに一番近くでこの五年間ずっと温かく見守ってくれていたロマン。そしてヴォルフ。

 考えてみれば自分はとても幸せな時間をあの施設で過ごしていた。こんなときになってそれを痛感するなど、なんて愚かなことだろうか。

 しかし、どのみちブランカはもう帰れない。正体を知られてしまった。真相を知ったときのヴォルフとレオナの反応を考えれば、もう今まで通りというわけにはいかない。施設の人たちにも時期に知らされるだろう。もうダムブルクにもフラウジュペイのどこにも、ブランカの居場所はないのだ。

 自業自得とはいえ、その事実がブランカに重くのしかかる。

 必死で堰き止めていた涙も、もう限界だった。

「クラウディア。父さんと一緒に、ノイマールでやり直そう。お前をひどい目に遭わせた分、それからジルヴィアの分も含め、どうかお前に償わせて欲しい。私のすべてをお前に注がせて欲しい」

 ギュンターの方へ顔を戻せば、切実でとても真剣な眼差しと目が合った。頬を拭う彼のかさついた手が、やけに熱く感じる。先程よりも胸が更に締め付けられるのを感じながら、ブランカは必死に自分に言い聞かせた。

――惑わされてはダメよ。

 五年前にこの人がしたことを、忘れてはいけない。母も自分も殺されそうになったのだから。しかも彼の後ろに控えるフィルマンとカミーユは、母を死に追いやったのだ。信じられる要素など、どこにもない。

 何度も何度もそう言い聞かせるが、絶望と悲しみに満ちた娘を揺らがせるには、彼の言葉は十分すぎる程に効力があった。

 ブランカは弱々しく彼の身体を突き放した。

「しばらく……一人にさせて下さい」

 そもそも今日は色んな事がありすぎて、頭が追いつかない。そんなに時間もないだろうし彼女に選択肢は与えられていないだろうが、少しでもいいからゆっくり考える時間が欲しかった。

 すぐ傍でギュンターが小さく息を吐くのが聞こえてきた。

「そうだな。話が急すぎてお前も混乱しているのだろう。疲れも溜まっているだろう。ノイマールまではまだしばらく掛かるから、それまでゆっくり休むといい。軽食もそこに置いておくから、後で食べておきなさい」

 ギュンターはブランカの肩を二、三度軽く叩くと、立ち上がりフィルマン達に退室を促した。

 彼自身も部屋から出て行こうとする寸前、思い出したかのように付け加えた。

「ああそうだ、クラウディア。これは私が預かっておく。いいね?」

 そう言って掲げた彼の手には、焦げた痕の残る薄萌葱色の封筒が挟まっていた。

「それは……っ!!」

――お祖父さんの手紙!

 咄嗟に手を伸ばそうとするが、ブランカは手紙に触れるどころか立ち上がることすら出来なかった。そんなブランカの様子を伺いつつ、ギュンターは忌々しそうにその手紙を眺めた。

「こんなもの、いつまでも持っておくものではない。確かにあのときの私はどうかしていたが、元はと言えばあの男が全ての元凶だったのだから。お前も、この五年間で身に染みて分かっただろう? あの男のことは、お前も忘れなさい」

 ギュンターはそれだけを言い残して、部屋から去っていった。小さく鍵が回される音は、もはやブランカの耳には届かなかった。

 今日一日で何もかもを失って、新たな提案をされて、もう何が何だか分からない。無理矢理押さえ込んでいた気持ちが、もう爆発しそうだった。

――ねぇ、どうすればいいの……?

 次から次へと涙が溢れる瞳を窓の外に向けるが、夜空にかかる月は目映い光を放つばかりで、何も答えを与えてくれそうにはなかった。

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