第14話 ~9番目に出会った住民は、人の怪我に取り憑くお婆さんだった。~
「瘤黒さん」1/5
緊急事態だ。
昨日、川で釣った魚が。金バケツがいっぱいになるまで捕った、あの大量の魚が。もう、全部なくなってしまった。
いや。それ自体は、別にたいした問題ではない。魚は、また川に行って釣ればいいのだから。人魚屋さんから買った、人魚の青い鱗。あれがあれば、魚はいくらでも簡単に釣れる。
そうではなくて。
問題なのは。大量の魚が、昨日の今日ですべて消え失せてしまった、その原因だった。
魚は、食われてしまったのだ。
今朝になって新たに出会った、この町の住民に。
その住民との出会いは、友也の予想の範疇を超えたものだった。というのも、その住民の現れた場所というのが、まったくもって、とんでもない所であって。そのせいで、友也は今、大問題を抱え、緊急事態に直面しているというわけなのだ。
あろうことか。
その住民は、今朝になって突然、友也の皮膚の上に出現したのである。
そもそも、その箇所がなんだったかというと。それは先日、トガカリさんに蹴り飛ばされたときにできた、打ち身の
そして、昨日の夜。打ち身をしたその箇所が、なんだかやけにジクジク痛むなあ、と思って確認したところ、そこには大きな痣ができていた。
かすかに熱を持って腫れた、青黒い、内出血の痕。
そこそこ、ひどい怪我だった。
道屋さんとか人魚屋さんとかがいる、それなりにファンタジーなこの町で、こんな生々しい怪我を負うはめになるとは。ガラスの小瓶に入った「道」や、食べると不老不死になる人魚の肉、なんてものが、売られているような町なのだから。なんというか、もうちょっと、そのへんを考慮して。こういう怪我一つにも、何かしらファンタジー要素というものを、効かせてくれたっていいじゃあないか。
と。そんな思いを抱きながら、昨晩の友也は、眠りに就いたのだった。
で。今朝になって、見てみたら――。
二の腕の大痣は、人の顔になっていた。黒い、おばあさんの顔に。
見知らぬその顔は、友也の皮膚の上でカパッと口を開き、ケケケケケ、と笑い声を立てた。
あまりのことに声も出せないでいる友也を、「顔」は、笑い顔のまま、ぎょろりと睨みつけて。それでもって、そのヒキガエルのような声で、一方的に喋りかけた。
「嫌だねえ。人の顔見て、そんなふうに驚くもんじゃないよ、友屋さん。……なあに、怖がるこたあない。あたしゃあ、この町の住民の、
黒い顔曰く、そういうことらしかった。
心の底から手の平を返そう。こんなファンタジー要素は本気で要らない。
――しかし。それにしても、だ。
いくらなんでも、まさか、と訝しみ。友也は、即座に住民名簿の紙を開いて確かめたのだ。でも、その黒い顔、瘤黒さんの言ったことは、本当だった。住民名簿の「9」の番号の横には、確かに、それまでなかったはずの「瘤黒さん」という名前が、新たに記されていたのである。
ありなのか。この町って、こういうのも、住民としてありなのか。
驚愕すると共に、友也は、一つ悟る。
思い返してみれば、この町では、「住人」ではなく「住民」という言い方が、一貫して使われていた。その理由は、きっと、こういうところにあるに違いない。つまり。この町には、この瘤黒さんみたいなのも、住民として暮らしているわけだから。こういう――「人」と呼ぶには、あまりにもな――。
いや、まあ、今までだって。そこらへんが微妙な住民というのも、いたにはいたのだけれど。影の中にしかいることができず、影がなくなると体が消えてしまう住民とか。指が鎖になったり、手首から先が檻になったりする住民とか。そのくらいのレベルなら。
けど。この瘤黒さんに至っては、なんかもう、完全にボーダーラインを超えている。
だって、これ。あれじゃないか。いわゆる。
「……
震える声で、友也は、思わずそう呟いたのだった。
瘤黒さんは、友也の言葉を否定するでもなく、ケケケ、とまた笑った。
そして、今度はこんなことを言った。
「ああ、それにしても、腹が減ったねえ……。ちょっと、友屋さん。なんでもいいから、食い物を持ってきて、食わせておくれよ」
「え……えっと……」
「ほら、ほら、早くしとくれ。でないと、代わりにあんたの体の養分を、カラカラに干からびるまで吸い取っちまうよ! ケケケケケ」
怖すぎる。
友也はいよいよ青ざめて、慌てて冷蔵庫へと走った。
昨日釣った、バケツいっぱいの魚。その日の夕食に何匹かは食べたけど、残りは生のまま、とりあえずぜんぶ冷蔵庫に保存していた。
それを長期保存するための方法を、これから考えるつもりでいたのだが……。
友也は、せがまれるままに、瘤黒さんの口元へ、丸ごとの生魚を持っていった。すると、瘤黒さんは、にたぁ、とうれしそうに笑って、生のままの魚を、骨ごと、鱗ごと、バリバリむしゃむしゃと貪った。そうやって、もう一つ、あと一つ、と次々に平らげて。とうとう、バケツいっぱいぶんもあった魚を、すべて残らず食い尽くしてしまったのだ。
と、まあ、そんなことがあって。魚はなくなり、友也のもとには、「二の腕に人面疽が取り憑いている」という、大問題な緊急事態が残されたのであった。
「あの……つかぬことをお聞きしますが、瘤黒さん」
大量の魚で腹 (どこにあるのか)を満たして、満足げな様子のその黒い人面疽に、友也は、おずおずとそう声をかけた。
「なんだい、友屋さん。……ああ、食後の飲み物ならね。あたしゃ、お茶よりコーヒーが飲みたいねえ。こう見えて、けっこうコーヒー党なんだよ。ケケケケ」
「いや、そんなことじゃなくってですね。……あの。瘤黒さんは、いつまでその……。そうやって、そこにいるつもりなのかなあ、って」
「は? いつまで、いるつもり、だって?」
聞き返して、瘤黒さんは、ケタケタケタと、ひときわ大きな笑い声を立てた。
それから、一転して声を落として、こう言った。
「友屋さん。あんたは、あたしが気が向いたとき人に取り憑いて、飽きたら勝手にいなくなる、そんなものだとでも思ってるようだねえ」
「……え?」
友也は、ぎくりと顔をこわばらせた。
「ち……違うんですか?」
「ケケケ、まあね。あたしがいったん誰かに取り憑いたら、そこからまたよそへ行くためには、一つ、条件があるんだよ」
「条件。そ、それは?」
ごくりと唾を飲んで、友也は食い入るように、二の腕の瘤黒さんを見つめた。あんまり焦点を合わせて見たくもない対象だが。でも、ここはとにかく真剣に、この人面疽のお祓い……いや、瘤黒さんに去っていってもらう方法を、聞かなくては。
「条件っていうのは、俺にも、どうにかできることなんですか?」
「ああ、心配いらない。別に、それほど難しいことじゃないからね」
その答えを聞いて、友也は、とりあえずホッとする。
けれども、続けて、瘤黒さんが口にした言葉は。
「あたしにいなくなってほしけりゃ、ほかの誰かをぶん殴って、そいつの体に瘤なり痣なりをこしらえることだね。そうしてもらわないことにゃ、あたしゃ、あんたの肌の上から動けないんだよ。――なあに。殴る相手を間違えさえしなけりゃ、そんなに難しいことじゃあないさ」
その「条件」に、友也は絶句し、固まった。
――殴る? 自分が、人を殴って、怪我をさせる? それも、瘤や痣ができるくらいの、そこそこひどい怪我を――?
「そ……そんなの、無理ですよ。何もしてない相手を、こっちの一方的な都合で殴るなんて、そんなこと……!」
「ケケ、でもねえ。友屋さんの手でそれをやらなきゃ、あたしゃ、ここからよそへは移れないんだよ。よそってのは、つまり、これから友屋さんが殴る『誰か』ってことなのさ」
「そ……そうやって、瘤黒さんは、次から次に、この町の人の体に乗り移ってるわけですか?」
「まあ、そういうことだね。だからさ。あたしゃ、三日前まで、トガカリさんの肌の上にいたんだよ。けど、そのトガカリさんに蹴られて、友屋さんが腕に痣をこしらえたから、その痣に、こうして乗り移ってきたというわけでね」
「な……なるほど」
おのれ、トガカリさんめ。成人男が吹っ飛ぶほどのめちゃくちゃいい蹴りのみならず、こんなとんでもないもんまで押し付けやがって。
うつむいて歯噛みする友也に、瘤黒さんは言う。
「何もしてない相手を殴るのが嫌だってんならさ、友屋さん。トガカリさんに、拳なり蹴りなり、一発お返したらどうだい?」
「……俺に死ねと?」
思わず、友也はそう問い返した。
いや。実際に、命を失う事態にまでなるかどうかは、わからないが。どうだろう。トガカリさんの怒りのツボとか、堪忍袋の容量とか、そういうのって、どうなんだろう。あの人、「規則」や「刑」に関しては、容赦のない人だとは思うんだけど。でも、あの人が、はたして私情でどのくらい、どういう方向に動くのかは、見当もつかない。
ただ。どのみち、あの人が相手では。
「……トガカリさんは、いくらなんでも、無茶ですよ。相手が悪すぎる。たとえ闇討ちしたって、俺、あの人の体に、かすり傷一つ付けられる気がしない……」
「まあ、そうだろうねえ」
瘤黒さんは、皮膚の上で器用にうなずいた。ぶに、と肉のうごめく感覚が二の腕に走って、鳥肌が立つ。
「ところでさ、友屋さん。あんた、人を殴るのと蹴るのとじゃ、どっちが得意だい? 相手の体に瘤か痣が作れりゃ、それはどっちでもいいんだけどさ。どうせなら、攻撃力の高い方法を使ったほうが、成功しやすいからね。攻撃手段は今から決めておいて、しっかりイメージトレーニングしておきな」
「え……。そ、そう言われても。ないですよ、そんな、どっちが得意とかは。俺、殴る蹴るのケンカなんて、まともにやったことないし。せいぜい、小学生のときに、子ども同士でちょっと取っ組み合いのケンカしたくらいで……」
「おやおや、頼りないねえ」
「んなこと言ったって、しょうがないでしょ。人を殴る機会とか理由とか、今まで特に持ち合わせてこなかったんですから……。ほんと、俺、わかんないですよ。自分の攻撃力とか、そんなもん。仮に俺が誰かをぶん殴ったとして、それで、痣ができるほどの怪我を負わせられるかどうかも……。自分の腕力の程度が、ほんとにわからん……」
友也は、困惑に頭を抱える。
いや。でも、待て。問題は、そこじゃあないだろう。
ハッとして顔を上げ、友也は、二の腕の瘤黒さんを睨みつけた。
「そもそも、俺、瘤黒さんを押し付けるために、人を殴ったりなんかしませんからね! そんな自己中心的な理由で、罪もない相手に暴力を振るうなんて――」
「ああ、そうそう。言い忘れてたけどさ」
友屋の言葉を遮って、瘤黒さんは、にたりと笑った。
「チャンスは、今日の日没までだよ。日が沈んじまったら、時間切れだ。そうなったら、あたしはもう二度と、友屋さんの肌の上から離れられなくなっちまう」
「――な」
一声漏らして、友也は喉を詰まらせた。
肌の上で、瘤黒さんが、込み上げる笑いに身を震わせる。
「まあ、一生あたしを肌に貼りつけて生きていこうってんなら、それでもいいさ。そのときは、友屋さんが死ぬまで、長い付き合いになるだろうねえ。よろしく頼むよ。ケケケケケ」
「――……!」
顔面を引きつらせ、友也は、声を失い涙目になる。
おぞましい人面疽から身を遠ざけようとするも、それは自分の左腕の一部。逃げようがない。せめて、顔と二の腕をなるべく引き離そうとしたって、開く距離などごくわずか。右側に反らした首の筋が痛くなるだけだ。
絶望に打ちひしがれている友也に、瘤黒さんは、わざとらしく優しい口調で語りかけた。
「まあ、まあ、友屋さん。そんなに深刻がるこたあないよ。さっき教えたようにして、日が暮れる前に、ほかの住民の肌の上に、あたしを乗り移らせりゃいい。たったそれだけの話さ」
「……う……」
「大丈夫、大丈夫。トガカリさんにやり返すのは、無理としてもさ。この町にゃ、友屋さんより弱い住民だって、何人もいるんだから。――どれ。それじゃ、この町の住民たちの戦闘力ってもんを、あたしが知ってるだけ、友屋さんに教えてやろうかね」
――その、悪魔の囁きに。
友也は、ついつい、ピクリ、と反応してしまった。
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