「人魚屋さん」3/3
それは、一つの小瓶だった。
コルクで栓をされた、ちっちゃなガラスの小瓶。
その中には、透き通った花びらみたいなものが、二つ入っていた。
一瞬身を引いた友也だったが、小瓶の中身には、特にグロテスクな要素とかはなさそうである。それをしっかり確認してから、友也はおそるおそる、その小瓶に顔を近づけた。
「……なんですか? これ」
「見てわかんねえか? 鱗だよ。人魚の鱗」
人魚屋さんの答えに、ああ、と友也はうなずいた。
なるほど。花びらのような二つの薄片は、言われてみれば、魚の鱗にも似た形状をしている。人魚の鱗かどうかというのは、自分じゃ見てもわからないけど。
二つの鱗は、色違いのものだった。
青い鱗と、赤い鱗。
どちらの色のものも、濃い色と薄い色とが溶けきらずに混じり合って、丸い小さな鱗の上に、おぼろげに重なる年輪のような模様を描いている。
「きれいな鱗ですね……」
瓶の中をうっとり見つめて、友也は思わずそう漏らした。
「でも、なんで、これを俺に?」
瓶から顔を上げて、友也は小さく首をかしげる。
美しい鱗は、眺めているだけで楽しいし、アクセサリーとかにもなりそうだけど。しかし、それだけでは。
「悪いんですけど、俺今、こういう、眺めて楽しむためのものとか買ってる余裕、ないですよ?」
いくら美しくたって、鱗じゃ腹は膨れない。
そんな思いを抱きながら、友也は顔をしかめてみせた。
すると、人魚屋さんは。
「もちろん、わかってるともさ」
そう言って、にやりと笑いながら、鱗の入った小瓶を爪の先で弾いた。
「人魚の鱗は、ただきれいなだけのものじゃない。何を隠そう、こいつはな、とびきり上等な釣りの餌になるんだよ。虫や練り餌なんて目じゃあねえ。こいつを餌にすりゃ、どんな素人でも、川ん中にちょっと糸を垂らすだけで、阿呆のようにどんどん魚が釣れる」
人魚屋さんのその言葉に、友也は目を見開いた。
ごくり、と喉を鳴らして。
瓶の中の鱗を、食い入るように見つめたまま、友也は人魚屋さんに尋ねる。
「……おいくらですか?」
「青い鱗と赤い鱗。二枚セットで二百円だ」
買った! と、即座に友也は叫んだ。
それで本当に魚がどんどん釣れるなら、安い安い。
友也はさっそく鞄から財布を取り出して、人魚屋さんに、百円玉二枚を手渡した。
「はい、まいどあり。……これ一つで、いいのかい?」
「え? ええ。まあ、他には別に」
「人魚の鱗だけでも、予備用に、まとめて二、三セット買っておくことをお勧めするがね。鱗は繰り返し使えるが、それでも、失くしたり割れたりすることもあるからねえ」
「う、うーん。……でも、とりあえず、俺はこの二枚があれば――」
「二枚、じゃあないんだなあ」
「……はあ?」
眉をひそめ、思わず聞き返した友也に、人魚屋さんが言うことには。
「実を言うと、魚釣りに使えるのは、青い鱗のほうだけなんだ。赤い鱗じゃ、魚は釣れない。だから、そのセットに入っている魚釣り用の鱗は、一枚だけ。予備は入ってないんだよ」
そんなの、できれば、お金払う前に教えて欲しかったが。軽く詐欺じゃあないか。
「……青い鱗を二枚セットでは、売ってもらえないんですか?」
「悪いねえ。青いのと赤いのとを別売りすると、赤い鱗はほとんど売れなくて。それで、しょうがないから、青い鱗と赤い鱗、二枚セットの抱き合わせで売ってるわけさ」
その説明を聞いて、友也は「むう」と唸った。
客側からしたら、ちょっと損な話ではある。……が、まあ。人魚屋さんの言葉が本当で、青い鱗一枚でどんどん魚が釣れるというなら、そっちだけ二百円出して買ってもいいくらいの品物だ。それに、魚釣りに使えない赤い鱗のほうも、こんなにきれいなのだから、どっかそこらへんに飾っとくだけでも見て楽しめるし。
手の中の小瓶に目を落としながら、友也はそう考えた。
しかし、それでも、なるべく無駄な出費は控えたいので。
「……やっぱり、とりあえずは、この一セットだけでいいです。青い鱗、失くしたり壊したりしたら、そのときに、また買い直しに来ますんで」
「そうかい。ま、オレはどっちでもいいがね」
頓着のない口調で返して、人魚屋さんはすんなり引き下がった。
それから、ふと思い出した様子で、
「ああ、そうだ、友屋さん。見たところ、バケツも持たずに釣りしてたようだが……貸してやろうか?」
人魚屋さんはそう言って、荷台から、大きめの金(かな)バケツを引っぱり出してくれた。
友也は、それをありがたく借りることにする。――しかし言われてみれば、バケツも持たずに釣りに来て、もし魚がある程度釣れていたら、自分はそのあといったいどうするつもりだったのだろう。差し当たって思いつく手段といえば、鞄に魚を詰めて帰るか、もしくは上着に魚を包んで帰るかだ。人魚屋さんが気を利かせてくれて、本当によかった。
そんなことを踏まえ、人魚屋さんにお礼を述べて。
友也は、人魚の鱗が入った小瓶と、借り物の金バケツを手に、再び土手の下の河原に下りたのだった。
青い人魚の鱗を釣り針に付けて、釣りを再開してから、ものの十分。
友也の傍らのバケツは、すでにもう、釣り上げた魚でほぼ満杯になっていた。
針をぽちゃんと川の中に投げ込むやいなや、食いつくわ食いつくわ。もはやこんなの釣りじゃない、針に掛かった魚をはずしてバケツに入れるだけのただの作業だ、ってレベルで釣れる。釣り好きの人だったら逆にガッカリしそうだが、友也にしてみれば、食料としての魚の確保が目的なのでひたすらうれしい。鱗が二百円。釣竿と合わせて五百円。どちらもこれから繰り返し使えることを思えば、まったく良い買い物をしたものだ。
友也は、感謝を込めた眼差しで、まだ土手の上の道にいる人魚屋さんを見上げた。
荷車の横で煙草をふかしながら休憩中の人魚屋さんは、友也の視線に気づいて、軽くこっちに手を振った。
笑顔で手を振り返して。それから、友也は再び川へと向き直る。
「……さて。あと二、三匹捕ったら、そろそろ帰るかな」
バケツの容量的にも、魚を持って帰れるのはそのくらいが限界だし。それに、いいかげんお腹も減った。家に帰ったら、少し遅いお昼ご飯は、おにぎりと卵焼きとウインナーのケチャップ炒めとブロッコリーの塩茹でと焼き魚だ。
頭の中に浮かべたそのメニューに、よだれを垂らしそうになりつつ。
ぽちゃん、と、また川に針を投げ入れる。
三つも数えない間に、くいっと糸が引っぱられて、友也は竿を引き上げた。糸の先でぴちぴちと暴れる魚。それを掴んで、針をはずそうとしたところ――。
「……あれっ?」
魚の口元に指を伸ばした友也だったが、そこに釣り針の姿はなかった。ただ糸だけが、魚の口の奥深くまで伸びていた。
今まで釣った魚だと、上唇や上顎のところに針が刺さっていたのだけど。
どうやら、この魚は、釣り針を思いっきり呑み込んでしまったらしい。
「ど……どーしよう、これ。困ったな……」
釣りを嗜む人であれば、こんなときの対処法も知っているのだろうが。ど素人の友也は、初めて直面する事態にすっかり焦ってしまった。
なんとかして針を回収しようと。とりあえず、糸を切らないよう気をつけながら引っぱってみたり。細い棒切れを魚の口の奥に突っ込んでみたり。「よく振ってお飲みください」系のジュースのごとく魚を振ってみたり。
とにかくいろいろ試しているうちに、どうにかこうにか何かの拍子で、不意に、魚の中に引っ掛かっていた針の外れる手応えがした。
ホッと息をついて、友也は、そこから慎重に糸を引く。
するすると抵抗なく、魚の口から針が引き出された。――が。
「……あれっ」
と、友也は再び声を漏らした。
魚の口から出てきたのは、釣り針だけだった。針に付けていたはずの、青い人魚の鱗が、どこにもない。
いや、どこにもないというか、たぶん、鱗はこの魚の腹の中だろう。針は無事に外れたものの、同時に鱗が針から抜け落ちてしまったようだ。
「…………」
餌のなくなった釣り針を、じっと見つめて、友也は当惑する。
どうしたもんか。魚をさばきさえすれば、腹の中に呑まれた鱗は取り出せるだろうが……包丁も何もない今この場では、それもちょっと難しそうだ。
まあ、魚はすでに充分釣れたし。
今日はもうここまでにして、切り上げても構わないのだけど。
「でも……。そうだな。どうせなら、その前に……」
呟いて。友也は、人魚の鱗が入っている小瓶を手に取った。
今は、一枚の赤い鱗だけが入っている小瓶。そのコルクの栓を、きゅぽんと抜き取る。
人魚の赤い鱗。
青い鱗と違って、こっちでは魚が釣れないと、人魚屋さんは言ったけど。
でも、どうせなら、一応一回だけ、試してみたい。
青い鱗に、これだけの効果があるのだから。もしかしたら、「魚」は釣れなくても、何かその他の水棲生物が、赤い鱗に寄ってきたりするかもしれないではないか。
(エビとかカニとか釣れたら、それも食えるかも……)
薄っすら期待しつつ。友也は、瓶から取り出した赤い鱗を釣り針に付けて、ぽちゃん、と針を川に投げ入れた。
水の中に針が沈む。川の流れに押されて、糸が川下へなびく。
ほどなくして。
引きがきた。今までにない、強い引きが。
「おっ……」
友也は、釣竿を両手で強く握った。
やっぱり、赤いほうの鱗でも、何かしらは釣れるのか。
けど、なんだろう、この引きは。確かに魚じゃなさそうだ。魚なんかよりも、もっと……やけに重くて、大きい。
一気に引き上げるのは、無理そうだった。
友也は釣竿を引いて、掛かった獲物を、とりあえず岸に引き寄せる。
ゆっくり、ゆっくり。少しずつ。
そうして、ぎりぎりまで岸辺に寄せてから、思い切って、竿を上に引いてみた。
――その瞬間。
水の中から現れたのは、指、だった。
釣り糸を両手で握る、白い指。それは、どう見ても、人間の。
友也は息を呑んだ。
声もなく、ただ、その不可解な光景に釘付けになる。
ぐい、と。
ひときわ強い力で、糸が引かれて。
それと同時に、糸を掴む手の、すぐ後ろに、ぷかりと黒い塊が浮かび上がった。人の頭だ。黒髪が、揺らめきながら水面(みなも)に広がる。
「うっ…………わあああぁぁぁぁ!」
悲鳴を上げ、友也は思わず釣竿を手放した。
そして、転がるようにその場を離れ、足をもつれさせながら、土手の坂を駆け上がった。
土手の上では、人魚屋さんが、まだ煙草をふかして休んでいた。
「にっ……人魚屋さんっ……」
引きつる声でその名を呼んで、息を荒げつつ、友也は川を指差す。
人魚屋さんは、ふうーっと煙草の煙を吐いてから、おもむろに友也を振り向いた。
「だから言ったのに」
と。人魚屋さんは、何もかもわかっているような顔で、にやりと笑った。
「言ったろう、友屋さん。赤い鱗じゃ、魚は釣れないって」
「そ……それは……。で、でも……。じゃあ、あれは。あれは、いったい、なんなんですか?」
「何って。見てのとおり、人じゃねえか」
「ひ……人……?」
要領を得ないその回答に、友也はますます混乱する。確かに、あれは、人間に見えたけど。でも、それだけじゃ、何がなんだかぜんぜんわからない。
震える手で、ただただ川を指差し続ける友也に。
人魚屋さんは、再びたっぷりと紫煙を吐き出してから、こう言った。
「青い鱗と赤い鱗は、『人魚』の鱗。青い鱗は『魚』が釣れる。だったら、もう片方の赤い鱗は『人』が釣れる。それが道理ってもんだろう」
その答えが、さも当たり前のような口調すぎて。
友也は、それ以上何をどう聞いていいかわからず、口をつぐんだ。
それから、少し考えて。
一つだけ、友也は尋ねる。
「川の中にいる、あの人は……いったい、誰なんですか?」
その問いに、人魚屋さんは、いかにもおかしそうに目を細めた。
「誰、ってことはない。人は人さ。この川には、魚もいれば、人もいる。それだけのことだ」
言いながら、人魚屋さんは、曲がった人差し指を川へと向けた。
指し示されたその先を、友也は振り返る。
光の角度の加減か、この土手の上からは、水面(みなも)が光を反射せず、川の中が底まで透けて見通せた。
あちらこちらに、大小の群れを作って泳ぐ、無数の魚影。
それに混じって、いくつもの人影が、水底を這いずりながら、川の流れの中に揺らめいていた。
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