「ありがた屋さん」3/3

 ハッとして顔を上げると、友也たちがいる袋小路の前に、いつの間にか、トガカリさんの姿があった。

 友也を探して、ひとしきりその辺を調べ回ってから、ここへ戻って来たのだろう。やっぱ、いちど標的を見失ったからといって、あきらめるような人ではなかった。


 友也は、ごくりと唾を飲む。

 今や、ここに身を隠せるような障害物はない。少し前まで茂っていた地図の木は、さっき、トガカリさんの鎖によって一つ残らず弾け飛び、小さな地図の林は丸裸になっていた。もちろん、そこに開いている穴に、今さらまた飛び込むわけにもいかない。


(だ……大丈夫。俺には、このお守りがあるんだから……!)

 友也は、お守りを、そっとズボンのポケットに入れた。

 逃げよう。逃げられるはずだ。がんばれ自分。頼むぞお守り。


 トガカリさんが、右半身を後ろに引いて、鎖の生えた手を構えた。

 同時に、友也も腰を落として、いつでも走り出せる構えを取る。

 トガカリさんが鎖を投げた瞬間に、その一撃をどうにか避けて、ダッシュでトガカリさんの横をすり抜けて逃げる! というのが友也の算段だった。袋小路を立ち塞がれているわけだから、そこしか逃げ道はないのだ。

 果たして上手くいくだろうか。

 ばくばくばく、と鼓動を高鳴らせつつ、それでもできるだけ呼吸を整えて、友也はトガカリさんの動きを見逃すまいと、目を凝らす。

 一瞬後。

 トガカリさんの手元が、動いた。


(今だ!)

 友也は、バネを押し縮めるように力を溜めていた足を、地面から離した。

 ところが、その瞬間。


 ビュゴオオオッ。


 と、突風が吹いた。

 唸りを上げて吹き抜けたその風は、トガカリさんが投げた鎖の軌道を変えた。鎖の先は、風に押し戻されて、あさっての方向へ進路を曲げた。

 一方、友也のほうも、予想外の突風に驚いて、踏み出しかけた足を思わず止めた。

「ぷわっ……」

 服も髪も、背後からの激しい風にあおられる。友也は目をつぶって首をすくめた。

 とっさに頭の横にかざした手の中から、ずるり、と何かが抜け落ちる感触がした。あっ。と、友也は小さく声を上げる。さっきありがた屋さんからもらった、ひと巻きの包帯。それを手放してしまった。薄目を開けて包帯の行方を追うと、風にさらわれた包帯は、トガカリさんのほうへと飛んでいったようだった。


 トガカリさんの投げた鎖が、何か近くのものにぶつかったらしく、ガツリ、と音を立てるのが聞こえた。

 鎖の現在位置を確かめておきたくて、友也は音のしたほうを振り向く。袋小路を囲むブロック塀の、その向こう。そこには、枝を伸ばした立派な庭木があった。鎖は、あの木の枝にでも当たって落ちたらしい。今は、木のそばのブロック塀の上に乗り上げて、塀から垂れ下がった部分が、風の中で暴れるように揺れていた。


 やがて、風が収まってから。

 友也は、顔に貼り付いた髪の毛を払い、トガカリさんのほうを見た。

 トガカリさんの顔には、やはり大量の髪の毛が貼り付いていた。トガカリさんは髪が長いから、その顔面の覆われっぷりは友也の比ではない。まあ、もともと顔の上半分、いつも前髪に隠れているような人だけど。

 しかしながら、トガカリさんの顔面を覆うものは、自らの髪の毛だけではなかった。

 友也がうっかり手放した包帯も、どうやらトガカリさんの顔めがけて飛んでいき、髪の毛の上から、トガカリさんの顔にぺったりと貼り付いていたようだ。


 トガカリさんは、鎖を生やしていない左手で、顔に覆いかぶさる髪の毛を、ゆっくりと左右に掻き分けていく。

 どうしよう……。今のうちに、逃げといたほうがいいだろうか。

 トガカリさんは、今、髪の毛と包帯で前が見えてないかもしれない。でも、いつも前髪の陰からしっかりこっちを見ている人だし、どうだろう。ここでうかつに動くのは、かえって危険じゃないだろうか。

 タイミングを逃し、思い惑う友也。

 その視線の先で、長い髪の毛に絡んだ包帯を剥がし取る、トガカリさん。

 包帯が取れると、トガカリさんは少しうつむいて、前髪に隠れた目を、手の中に掴んだ包帯へと、たぶん落とした。


 その途端。

 トガカリさんは、包帯を、無言で地面に投げ捨てた。

「……!?」

 それが、あまりにも余裕のないというか、反射的な動作に見えて、友也は目を見張った。

 不可解な思いで、友也はトガカリさんを見つめる。

 トガカリさんは、地面に落ちた包帯を拾うでもなく、それどころか、一歩、二歩、包帯から後ずさった。

 トガカリさんの口元には、今、どんなに薄い笑みさえも、浮かんではいない。

「…………」

 トガカリさんは、無言のまま、動かない。

 友也も、その場から動くことなく、ただ、息を詰めてトガカリさんの挙動を見守った。


 そんな状態が、しばらく続いたあと。

 トガカリさんは、何やらあきらめたように首を起こし。

 おもむろに、その口を開いて、一言。


「――本日の規則違反者については、すべて、これを免罪とする」


 いつもと変わらぬ、抑揚にとぼしい口調で、そう告げた。

 トガカリさんは、ロングコートの裾をひるがえし、友也に背を向けた。そして、出しっぱなしの鎖を、ずる、ずる、と引きずりながら、去っていった。

 その後ろ姿を、呆気に取られつつ、友也は眺める。

 何がなんだか、さっぱりわからなかった。




「……いったい、何が起こったんだ……」

 トガカリさんの姿が見えなくなってから、友也は、まだぽかんとしたまま呟いた。

 それに応えて、ありがた屋さんが言った。

「なんじゃ、知らなかったのか。トガカリさん殿はな、自ら定めた規則を自分で破ってしまうと、その日いちにち、同じ規則を破った者を裁くことはできぬのじゃ。そうして罪を免れた者は、次の日、トガカリさん殿に蹴られることもない。……ただ、トガカリさん殿が自ら規則を破る場合であっても、それが罪人の逮捕に必要な行為となれば、話は別じゃがな」

「そ、そうだったのか……」


 つまり、いったん手に取った包帯を道に投げ捨てたことで、トガカリさん自身も「ポイ捨て禁止」という本日の規則を破ってしまったことになるわけだ。

(それで、もうポイ捨ての罪で俺を逮捕できなくなったから、仕方なく引き上げていった――ってことか)

 トガカリさんの「逮捕」から逃れる方法として、そんな裏技があったとは。

 いや、待てよ。それにしたって。


「どうして、トガカリさんは、落とした包帯を拾わなかったんですかね。俺のときは、なんか、すぐに拾えばセーフ、みたいなこと言ってた気が……」

 友也の疑問に、ありがた屋さんは、ふふ、と笑って答えた。

「トガカリさん殿はな、真っ白い色をした物が、大の苦手なのじゃ。触るのも嫌なくらいにの」

 それを聞いて、なるほど、と友也はうなずいた。


 トガカリさんが白い物を苦手だったこと。自分がたまたま白い物を持っていたこと。あのとき風が吹いたこと。その風がトガカリさんのほうへ向いていたこと。うっかり包帯を手放してしまったこと……。

 いくつもの偶然が重なって、トガカリさんの裁きを、免れることができたのだ。

 本当に、まったくもって、「有り難い」ことだった。


「いやあ、助かりましたよ、ありがた屋さん」

「なあに、こちらもこれが仕事じゃ」

「どうも、あり……っ。あ、いや。えっと……あの」

 また、ついついお礼を言ってしまいそうになった友也は、すんでのところでその言葉を呑み込んだ。

 それから、ちょっと考えて。

「その言葉」でなくとも、なんとか感謝の気持ちを示したい、と思い。

 友也は鞄の中から、今朝、宮ノ宮さんにもらったミートパイを取り出して、それをありがた屋さんに差し出した。

「あのー。これ、もらい物なんですけど。よかったら、半分――」

「あっ! いや、よせっ!」

 友也が皆まで言わないうちに、ありがた屋さんは、ひどく焦った、鋭い声を上げた。


 次の瞬間。


 ビュゴオオオッ。


 と、またしても風が吹いて。頭上で、ミシミシ、バキッ、と、何かが軋んで折れる音がした。

 その直後、風に飛ばされた、大きな折れた木の枝が、ありがた屋さんの頭の上に落ちてきた。

 ドコッ、とかなんとかそんな感じの、けっこうすごい音が響いた。

 ありがた屋さんは、地面に倒れた。

 そのまま、ピクリとも動く気配がない。


「えっ……。ちょっ……あのっ……」

 突然のことに、友也の頭は真っ白になった。

 どうしてよいやらわからず、ただただうろたえる友也。

 しかし、さいわいなことに、ありがた屋さんは、間もなくして目を覚まし、自力でむくりと起き上がった。


「つうっ……。ううう……」

「だ、大丈夫ですか? ありがた屋さん」

「ああ、なんとか……。こいつは、半分潰れてしもうたが……」

 潰れた、というのが、ありがた屋さんの頭のことだったらどうしよう、とか友也は一瞬思ったが、それはどうやら、友也が渡そうとした箱のことを指しているようだった。

 ありがた屋さんが倒れた拍子に落としてしまった、ミートパイの箱。それは、ありがた屋さんの頭に思いっきり潰されたらしく、箱の半分が、見事にぺちゃんこになってしまっていた。


「いや、別に、パイはいいんですけど……。潰れても、俺、食いますし。それより……」

 友也は、ありがた屋さんの横に転がっている、太い木の枝に、ちらりと目を落とした。

「これ……さっき、トガカリさんの鎖が当たった枝ですかね? あの一撃のせいで、風で折れるくらい脆くなってたんですね……。けど、よりによって、これが頭に直撃するなんて。ありがた屋さんって、けっこう運が悪い……」

「いや、それはじゃの」

 ありがた屋さんは、打った頭をさすりながら、痛みに顔をしかめて言った。


「先ほど、わしから買い物をする客は、わしに向かって『あの言葉』を口にしてはならぬと言うたが……。それだけではなく、このわし自身も、人に向かって『その言葉』を口にすることができぬのじゃ。というかの。誰かが、わしに対して『その言葉』を口にしたくなるような行いをしようとをすれば、必ずや今しがたのように、その行いが台無しになって、わしの身に不幸が降りかかってしまうのじゃ」

「…………」

 それは、また。もう、なんて言っていいか。

 っていうか、もしかして、この人が体中に包帯を巻いているのは、それが原因なのか。

「……た、大変ですね」

「うむ。なにせ、わしは『ありがた屋さん』じゃからな」

 いったい何が「なにせ」なのか。まったくわからないが、とにかく、そういうことらしい。

 ありがた屋さん、というのが、えらく因果な商売だということだけは、よくわかった。


「――ところで、ありがた屋さん」

 友也は、ふと思い出して、話を切り替えた。

 そういえば、ありがた屋さんから買っておかねばならないものが、まだあったのだ。

「あの。俺、今、かコよヶ駅につながる地下道を探してるんですけど。俺が、このあとすぐに地下道を見つける、って出来事、売ってもらえますか?」

「うむ。お安いご用じゃ。……ええと、それだと、三百円じゃな」

「えっ。そ……そんなに、安くなるんですか?」

「ああ。そのくらいのものであれば、それが相場じゃな。先ほど売ったものが高値であったのは――『トガカリさんの裁きを免れる』というのが、それだけ『有り難い』出来事だったということじゃよ」

 納得した。つまり、より「有り難い」出来事ほど、高価になるってわけか。


「えっと、それじゃあ……」

 と、友也はもう一つ、尋ねてみる。

「俺が、切符を持たずに、もとの自分の家に帰る――って出来事なら、いくらになりますか?」

 その問いに、ありがた屋さんは、

「あいにく、その出来事は、わしの扱う商品ではないな」

 と、首を横に振った。


「わしが売ることのできるのは、『有り難い出来事』だけじゃ。『ありえない出来事』は、売ることができぬ」


 それを聞いて。

「聞かなきゃよかった」と、心の底から友也は思った。

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